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鹿子木孟郎
1874-1941, 洋画家 ウィキペディアから
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鹿子木 孟郎(かのこぎ たけしろう、1874年(明治7年)11月9日 - 1941年(昭和16年)4月3日)は、岡山県出身の洋画家。肖像画を得意とした。元関西美術院長、レジオン・ドヌール勲章受章。
略歴
要約
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岡山県岡山市東田町に、旧岡山藩(備前池田藩)藩士の宇治長守[3]の三男[4]として生まれる。号は不倒[5]。
初め郷里で松原三五郎の天彩学舎で油絵を学ぶ。1890年(明治23年)、東京に遊学したが脚気に罹り帰郷する。岡山中学予備校図画教員となるが、1892年(明治25年)、再度上京し小山正太郎が主宰する画塾不同舎に入る[6]。1895年(明治28年)、中等教員図画免許状を受け、滋賀県・三重県(三重県尋常中学校、現・三重県立津高等学校)・埼玉県で美術教師として勤務する[3]。なお、三重県尋常中学校での鹿子木の前任は藤島武二、後任は赤松麟作だった。1897年(明治30年)、岡山出身の妹尾春子と結婚[7]。
1900年(明治33年)、渡欧。11月中ボストン着[8]。同行した満谷国四郎、丸山晩霞、河合新蔵と、先発の吉田博、中川八郎で「日本人水彩画家6人展」をボストンアートクラブで開催し、成功を収める。1901年(明治34年)4月にアメリカ発、ロンドン経由で6月にパリに到着。パリのアカデミー・ジュリアンで、フランス最後の歴史画家と称された老巨匠ジャン=ポール・ローランスの薫陶を受ける。1904年(明治37年)、帰国。同年、明治美術会の後進である太平洋美術会 第3回展に出品[9]。京都で画塾を開くかたわら、パリで知遇を得た浅井忠[10]らとともに関西美術院の創立に尽くす。1905年(明治38年)、美術雑誌『平旦』を石井柏亭、小杉放庵らと創刊する。1906年(明治39年)刊行の薄田泣菫の詩集『白羊宮』に、満谷国四郎とともに挿絵を入れる[11]。1906年(明治39年) - 1908年(明治41年)、再び渡欧し、ローランスに師事する。滞仏中、サロン・ド・パリで『少女』が入選[12]、アカデミー・ジユリアン一等賞を受ける[3]。
帰国後、1908年(明治41年)6月に関西美術院長となる。文展、帝展審査員など官展を中心に活躍。関西洋画壇(京都画壇)に重きをなした[13]。
1915年(大正4年)6月、関西美術院長を辞する。1916年(大正5年) - 1918年(大正7年)、3度目の渡仏。ローランスに師事するとともに、エミール=ルネ・メナールにも師事する。
三度の渡仏では住友友純から滞在費の支援を受けた[14]。住友が欧州絵画の名作の購入を求めた際、鹿子木は師のローランスの作品は別にして、日本の後進画家のためには鹿子木自身が行った模写で充分だと申し出たと伝えられている[15]。三度目の渡仏は第一次世界大戦中だったが、周囲の緊迫した空気とは対照的に、鹿子木は日本大使館内に広々とした一室を与えられ制作に励むことができた[16]。
津田青楓、吉田初三郎、斎藤与里、黒田重太郎、安井曾太郎、小林和作、前川千帆、中村研一、佐竹徳、北脇昇、藤本東一良、林重義ら多くの後進を指導した。ヨーロッパのアカデミック美術を紹介し続けた功績により、1932年(昭和7年)、フランスよりレジオン・ドヌール勲章を受けた[17]。1941年(昭和16年)、陸軍美術協会設立に向け発起人として名を連ねる[18]が、同年4月3日、脳溢血のため京都左京区の自宅で静養中、尿毒症を併発し永眠。
第二次世界大戦後、『南京入城』は連合国軍最高司令官総司令部に軍国主義的なものであるとして没収され、他の戦争画とともにアメリカ合衆国に持ち出された。1970年になり、無期限貸与という形で日本に返還され東京国立近代美術館に収蔵されている[19]。
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代表作
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作品
脚注
参考文献
外部リンク
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