Remove ads
日本の小説家 (1884-1945) ウィキペディアから
田村 俊子 (たむら としこ、1884年(明治17年)4月25日 - 1945年(昭和20年)4月16日)は、日本の小説家。別名、佐藤露英、佐藤俊子、本名、佐藤とし。東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生れ[1]。東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退[1]。代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。没後、田村俊子賞が創設された[1]。
代々続く札差だったという米穀商の家に生まれる。1893年(明治26年)4月、浅草小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学。翌年2月、下谷区下谷金杉上町(現在の台東区下谷、竜泉、入谷辺り)に移住し、下谷区根岸尋常高等小学校(現在の台東区立根岸小学校)に編入学。1895年(明治28年)、浅草区馬道(現在の台東区浅草、花川戸辺り)に転居し浅草小学校に再編入学。1896年(明治29年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校・附属高等学校)に入学するが、僅か1学期で退学。東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鷗高等学校・附属中学校)に転学。作家を志し、幸田露伴の門下に入る。露伴を選んだ理由は、その作品からでなく、尾崎紅葉が「金色夜叉」の上演につききりでやかましく言っているのと反対に、露伴は「ひげ男」の上演に一切無干渉だという新聞記事を読み、人格に惚れたためだった[2]。
1902年に露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣(つゆわけごろも)』を発表するも、露伴から離れ、岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になる。女優としての芸名は花房露子[1]。しかし文学への意欲は失われず、1909年に結婚(事実婚)した田村松魚の勧めで書いた『あきらめ』が、1911年大阪朝日新聞懸賞小説一等になり文壇デビュー(1月1日-3月21日連載。7月刊)、その後「青鞜」、「中央公論」、「新潮」に次々と小説を発表し、人気作家となる。しかしそれも長くは続かず、1918年、朝日新聞記者鈴木悦の後を追い、松魚と別れバンクーバーへ移住。悦とともに現地の邦字紙大陸日報の編集に参画する。
1936年、悦の死去により18年ぶりに帰国。日本で小説家としての活動を再開したが、かつての筆力はなく、また佐多稲子の夫である窪川鶴次郎との情事が発覚、その経験を基に書いた小説『山道』を発表後、日本を離れ上海に渡り、中国語婦人雑誌『女声』を主宰した[3]。1945年4月13日、友人の中国人作家陶晶孫の家から人力車で帰宅途中に昏倒し、搬送された上海の病院で4月16日、脳溢血により客死した[4]。享年62。墓所は鎌倉の東慶寺にある[1]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.