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チェコの写真家、画家、イラストレーター ウィキペディアから
アルフォンス・ミュシャ(フランス語: Alphonse Mucha、チェコ語: Alfons Mucha、本名:アルフォンス・マリア・ムハ(チェコ語: Alfons Maria Mucha)[2]、1860年7月24日 - 1939年7月14日)は、チェコ出身でフランスなどで活躍したグラフィックデザイナー、イラストレーター、画家。「ミュシャ」という表記はフランス語の発音によるものであり、チェコ語での発音は「 ムハ 」である。
アルフォンス・ミュシャ Alphonse Mucha | |
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アルフォンス・ミュシャ | |
生誕 |
アルフォンス・マリア・ミュシャ Alfons Maria Mucha 1860年7月24日 オーストリア帝国、モラヴィア イヴァンチツェ |
死没 |
1939年7月14日(78歳没) ドイツ国 ベーメン・メーレン保護領、プラハ |
国籍 | チェコスロバキア |
教育 | ミュンヘン美術院、アカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシ |
著名な実績 | 絵画、版画、イラストレーション、装飾美術 |
代表作 |
ジスモンダ(1894) 四季(1896) 黄道十二宮(1896) ジョブ(1897) スラヴ叙事詩(1926) |
運動・動向 | アール・ヌーヴォー |
後援者 | ミクロフのカール・クーエン伯爵 |
影響を受けた 芸術家 | 新古典主義、ハンス・マカルト[1] |
アール・ヌーヴォーを代表する画家で、多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花(植物)などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。イラストレーションとデザインの代表作として『ジスモンダ』、『黄道十二宮』、『四芸術』などが、絵画の代表作として20枚から成る連作『スラヴ叙事詩』などが挙げられる。
オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェに生まれた[3]。ブルノ中学校に入り教会の聖歌隊となった。当時は音楽家を志したが、1875年に声が出なくなり志を諦める[1]。コーラス・グループの仲間のひとりにレオシュ・ヤナーチェクがいた[1]。夏休みに合唱隊の聖歌集の表紙を描くなど絵を得意とした。中学校を中退、地方裁判所で働く。19歳でウィーンに行き舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通う。この頃、ハンス・マカルトの作品に触れ、多大な影響を受けた[1]。2年後失業。1883年、ミクロフでクーエン・ブラシ伯爵に会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなる。25歳のときエゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学、卒業し、28歳のときパリにてアカデミー・ジュリアンに通う。
彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した『ジスモンダ』 (en:Gismonda) のポスターである。これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注することにしたが、主だった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いてたミュシャに飛び込みで依頼したものだった。威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾からなるこの作品は、当時のパリにおいて大好評を博し、文字通り一夜にして彼のアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとした。またサラ・ベルナールにとっても、この『ジスモンダ』が、フランス演劇界の女王として君臨するきっかけとなった[4]。その後もミュシャは「椿姫」、「メディア」、「ラ・プリュム」、「トスカ」など、サラ・ベルナールのポスターを制作している。
サラ・ベルナールの他、煙草用巻紙(JOB社)、シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)、自転車(ウェイバリー自転車)などの多くのポスターの制作をおこなっている。これらは女性と様式化された装飾の組み合わせが特徴的である。特に1896年に制作されたJOB社のポスターは大変人気があり、コレクター用に小型判が作られている[5]。
ポスターに並び、装飾パネルも数多く手がけている。2点ないし4点のセットの連作が多く、いずれも女性の姿を用いて様々な寓意を表現している。代表的な作品には以下のようなものがある。
また、挿画本分野の作品も手掛けている。
パリでの初期苦闘時代、ミュシャは雑誌の挿絵によって生計を立てていたが、次第に認められ、パリの大出版社、アルマン・コランの挿画家として活躍するようになる。東洋的な情景をドラマチックに描き、高い評価を得た「白い象の伝説」、33点の木版画が挿入され、挿画家としての名声を高めた「ドイツ歴史の諸場面とエピソード」も、同社から出版された作品である。 代表的な作品には、年代順に以下のようなものがある。
宗教的思想に裏付けられた文学的解釈、それを美へと昇華する芸術力。挿画本分野において、ミュシャは独自の、そして輝かしい業績を残している。
アメリカの富豪チャールズ・クレーンから金銭的な援助を受けることに成功し、財政的な心配のなくなったミュシャは1910年、故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』を制作する[6]。 。この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものである。スメタナの連作交響詩『わが祖国』を聴いたことで、構想を抱いたといわれ、完成までおよそ20年を要している。
また、この時期にはチェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群やプラハ市庁舎のホール装飾等を手がけている。1918年にハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキアが成立すると、新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを行った。財政難の新しい国を慮って、デザインは無報酬で請け負ったという。
1939年3月、ナチス・ドイツによってチェコスロヴァキアは解体された。プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは「絵画がチェコ国民の愛国心を刺激する」という理由で逮捕された。ナチスはミュシャを厳しく尋問したが、78歳の彼には大きな負担となった。間もなく釈放されたものの、4ヶ月後の7月に体調を崩し死去した。遺体はヴィシェフラド民族墓地に埋葬された(現在はヤンとラファエルのクベリーク親子と同じ墓石に埋葬されている)。
戦後に成立した共産党政権は、ミュシャと愛国心の結びつきを警戒し、彼の存在を黙殺した。しかし、民衆の中でミュシャへの敬愛は生き続け、プラハの春翌年の1969年には、ミュシャの絵画がプリントされた記念切手数種が制作されている。また世界的にも、1960年代以降のアール・ヌーヴォー再評価とともに、改めて高い評価を受け、現在はチェコを代表する国民的画家として認知されている。
ミュシャの挿絵やイラストが、明治時代の文学雑誌『明星』などにおいて盛んに模倣された。
ミュシャの有力コレクションの一つは日本にある。堺市が所有し、堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館で一部が展示されている「ドイ・コレクション」である。カメラ店の創業者である土居君雄が、本業の買い付けや商談の為に渡欧する度に買い集めた。また、ミュシャ子息のジリ・ミュシャとも親交を結び、彼の仲介によってコレクションの中核が築かれた。1989年には、土居にチェコ文化交流最高勲章が授与されている。土居が1990年に他界すると遺族は相続放棄し、1993年、土居夫妻が新婚時代に居住したことのある堺市に寄贈された。
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