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日本の内閣の首長 ウィキペディアから
内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん、英: Prime Minister[1])は、日本の内閣の首長たる国務大臣[2]。文民である国会議員が就任し、その地位及び権限は日本国憲法や内閣法などに規定されている[3]。
明治18年(1885年)に太政大臣・右大臣・左大臣の廃止に伴って内閣制度が始まるとその首班の官職として内閣総理大臣が設置された[4]。初代内閣総理大臣は伊藤博文。当初、その権能は内閣職権によって規定され、プロイセンのハルデンベルク官制を模範とした「大宰相主義」が取られ、内閣総理大臣には各省大臣に対する大きな監督権が付与されている特徴があった[5]。明治22年(1889年)以降は内閣官制によって規定されるようになり、「各大臣ノ首班」と位置付けられ、同輩中の首席とされた[5]。内閣制度は、当初は議会や政党に捕らわれない超然内閣として始まったが、大正時代に本格的な政党内閣が出現した[5]。
戦後は日本国憲法と内閣法によって規定されている。内閣総理大臣は、行政権の属する内閣の首長で(憲法第66条1項)[6]、三権の長の一人であり、その他の国務大臣を任免し(憲法第68条)、内閣を代表して国会に議案を提出し、一般の国務および外交関係を報告し、行政各部を指揮監督する(憲法第72条)[6]。
議院内閣制により、国会議員の中から国会の議決(内閣総理大臣指名選挙/首班指名)により指名され(憲法第67条)、これに基づいて天皇は形式的な国事行為として内閣総理大臣を任命する(憲法第6条)[6]。
さらに、内閣総理大臣は、文民でなければならず(憲法第66条2項)、自衛隊の最高指揮監督権を有する(自衛隊法)。内閣府ほか複数の行政組織の長ないし主任の大臣でもあり、これらの機関は内閣総理大臣が直接所管する[6]。
実際には与党第一党の党首を党内での選挙で選出し、その選挙に勝利して党首となった者が首班指名選挙により指名されて内閣総理大臣に就任する流れになることが多い。例えば自由民主党が与党第一党である場合、自由民主党総裁選挙によって選出された党首(自由民主党総裁)が内閣総理大臣に就任することになる。ただし連立政権時など、必ずしもこの流れにならないこともある。
また、現行の日本国憲法においては、日本の元首について明記された条文は存在せず、日本の元首が誰であるかについては憲法学説上の議論があるが[7]、学説の大多数は、条約の締結権や外交使節の任免権のほか一般に外交関係を処理する権限を有する内閣あるいは行政権の首長として内閣を代表する内閣総理大臣を元首と位置付けている。なお、国際慣行上は天皇が元首として遇される[7][8]。
内閣制度の発足当時から、内閣総理大臣の略称として、一般に「総理大臣」がよく用いられるが、このほかにも、「総理」や「首相」との略称、通称も用いられる[6]。異称として「宰相」が用いられることもある[9]。
公式の英語表記は「Prime Minister」である[1][10]。この英訳は内閣制度の導入前より「太政大臣」の英訳として非公式に用いられていた。もっとも、「内閣総理大臣」の英訳としては当初からこの語であったわけではなく、かつては「Minister President of State」(「国の大臣主席)」の意味)というドイツ風の訳語も用いられた[注釈 2]。
内閣総理大臣も内閣の構成員であるが、日本国憲法では内閣総理大臣を内閣の「首長」と位置付けている。内閣総理大臣は他の国務大臣の上位にあって内閣を統率し、外に対して内閣を代表する。さらに行政各部を指揮監督する権限を有する[12]。
内閣総理大臣は国務大臣の任免権を有し、内閣総理大臣によって組織された内閣が閣議決定を通じて行政権を一手に掌握している。最高裁判所長官の指名権や裁判官の任命権を有し、裁判所の予算は内閣が掌握していることから、内閣総理大臣は裁判所に一定の権限を及ぼしている。また、内閣総理大臣は党首として小選挙区制における公認権を通じて政権与党を掌握している。こうしたことから、内閣総理大臣は閣僚や官僚に対する人事権を通じて行政権を事実上一人で掌握し、人事権と予算編成権によって間接的に裁判所を掌握している。議院内閣制の下ではこうした内閣総理大臣への権力の集中が制度上認められている。他方、米国では大統領に行政権が帰属する独任制をとっているが、徹底した権力分立を採用し、解散のない連邦議会が大統領の政策を監視・抑制するほか、連邦最高裁判所判事の任命に上院の承認が必要とされ、連邦最高裁判所が大統領の政策に対して違憲判断を下すなど、権力相互間の抑制・均衡が働いている[13]。
憲法上、衆議院解散を決定する権限は内閣に属すると解釈されているが、実質的には内閣の首長たる内閣総理大臣が権限を有する[14]。したがって、内閣総理大臣は閣議を開き、「今般、衆議院を解散することに決したので、国務大臣の諸君の賛成を賜りたい」と全閣僚に対して衆議院解散を諮り、内閣の総意を得た上で、衆議院解散を行うための閣議書に、全ての国務大臣の署名を集めなければならない。しかし、憲法68条2項は「内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる」と定めており、内閣総理大臣は時期や理由を問わず何らの制約なく自由な裁量によって国務大臣を罷免することができる[15]。したがって、衆議院解散を行うための閣議書への署名を国務大臣が拒否する場合、内閣総理大臣は当該大臣を罷免して自身が兼任するか他の大臣に兼任させることで閣議決定を行うことができる[注釈 3]。
仮に全閣僚が解散に反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる(一人内閣)。したがって、内閣総理大臣が解散を行うことを決定した場合、これを阻止する手立ては一切存在しない。もっともこれは衆議院解散のみならず、内閣総理大臣の決定事項すべてについて同じことが言える。内閣総理大臣は自身の方針に反対する大臣を罷免して交代させるか、その任を自身が兼務することが可能である。仮に全閣僚が内閣総理大臣の方針に反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも方針を決定することが可能であり、閣内不一致は最終的に兼務という形で解消することが可能である[16]。解散は憲法7条3号に基づく天皇の国事行為として行われているが、憲法4条1項で天皇は国政に関する権能を有しないと規定されているため、解散権は内閣に属しており、事実上、内閣の首長たる内閣総理大臣が解散権を握っている[17]。したがって、七条解散は、内閣総理大臣が国民に信を問う必要があると判断した際に解散するものとされ、内閣には自由裁量に基づく解散決定権があると解釈されている[18]。ほとんどの解散は憲法7条3号を援用して、内閣の発議のもとに行われている。内閣がいつこれを発議するかは、内閣総理大臣の意思次第である[14]。このため、解散権は「内閣総理大臣の専権事項」「首相の伝家の宝刀」とされている[17][18]。
内閣総理大臣は以下の機関を所管し、内閣法にいう主任の大臣を務める。
また、内閣府、復興庁、デジタル庁の「長」でもある(内閣府設置法6条1項、復興庁設置法6条1項、デジタル庁設置法6条1項)。
大日本帝国憲法とは違い、現行の日本国憲法には日本の元首に関する規定がない。このことから日本の元首については学説上の様々な議論が存在する。
元首には内治、外交を通じて国を代表し、行政権を掌握している国家機関、あるいは実質的な国家統治の大権を持たなくても国家におけるヘッドの地位にあるもの等、様々な定義がある。誰が元首の資格を持つかは各国法の定める問題であるが、通常、君主国では君主、共和国では大統領がこれに当たる。旧憲法は明文で天皇を元首としていた。現行憲法下では、誰を元首と見るか学説上争いがあり、天皇とする説、内閣総理大臣とする説、存在しないとする説などがあり、結局は元首の定義いかんに帰する問題と考えられる[19]。
長野和夫によれば、国民主権下では、国家を代表する資格をもつ国家機関の長で、国内的にも統治権行使の権限をもつ首相が元首であるべきとの意見が学者の間では強い[20]。芦部信喜によれば、元首の要件で特に重要なのは、外国に対して国家を代表する権能であるとしている。しかし天皇は外交関係では、形式的・儀礼的行為しか憲法で認められていない。したがって、日本の元首は条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもち、国家機関として対外代表資格を有する内閣または内閣総理大臣とするのが多数説である[21][22]。さらに、天皇と内閣総理大臣が元首の役割を分担しているとの見解もある[23]。
一方で、元首は対外的に国家を儀礼的に代表する権限をもつだけで十分として、国の象徴の地位にある者は元首的性格をもつとみる学説があり、この場合には天皇が元首とみなされる。国際慣行上は天皇が元首として遇される[7][8]。1973年(昭和48年)4月17日の第71回国会衆議院内閣委員会において外務大臣大平正芳は「内閣総理大臣を日本国の元首としてお迎えするというような国はないと私は思います」と答弁している[24]。
日本国憲法およびその他の法令が規定する内閣総理大臣のおもな権限は次の通りである。
このほか、内閣府およびその外局(金融庁、消費者庁、国家公安委員会など)や内閣に置かれる本部などの主任の大臣として、審議会委員等の任免権や各種許認可権を有する。特に、内閣府の外局のひとつである金融庁に関連する許認可権が多い(銀行法や貸金業法、金融商品取引法など)。
1991年までは、機関委任事務に従わない都道府県知事について、司法手続きを経て罷免する権限を有していた(地方自治法旧第146条)。2001年には、閣議における内閣総理大臣の発議権が法制化(内閣法第4条の改正)され、各省に対する指揮監督権が強化された。
内閣総理大臣は、日本の国会議員の中から国会の議決(内閣総理大臣指名選挙。首班指名とも呼ばれる)でこれを指名する(憲法67条1項)。指名の資格要件は国会議員であることと文民であることである。
指名選挙は衆議院と参議院の両院で行われ、両院の指名が食い違った場合は両院協議会が開催されるが、両院協議会で成案が得られない場合は衆議院による指名が国会議決となる(衆議院の優越)。過去に両院協議会が開かれた例はあるが、成案が得られた例はない。また、実例はないが、衆議院の指名後10日を経ても参議院が指名を行わない場合は衆議院による指名が国会の議決となる(同上)。
従って、事実上は衆議院の多数勢力の意向の通りに、首班指名がなされる仕組みとなっている。
指名の結果は、ただちに衆議院議長が職務執行内閣を経由して天皇に奏上する[29]。先例では別途、衆議院議長が皇居で指名の経過を天皇に直接報告する。天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する(憲法6条1項)。
内閣総理大臣の任命は天皇の国事行為の一つであり、すでに内閣総辞職した内閣が、憲法71条に基づく職務執行内閣として、これに「助言と承認」を与える。
内閣総理大臣任命式(親任式)には天皇、衆参両院議長、現任の総理(職務執行内閣)または国務大臣(職務執行内閣)、総理大臣就任予定者(新総理)が参列する。天皇が口頭で新総理を任命した後に、総理が交代する場合は前総理が新総理に官記を手渡す。総理が再任される場合は職務執行内閣の国務大臣が官記を手渡す[30]。
日本国憲法(昭和憲法)において、内閣総理大臣の任期について直接的に規定した条文はない。
憲法では衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は総辞職をしなければならないとされているため、このことから内閣総理大臣の1回の任期は次の衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集が行われるときまでとなり、最長でも4年を超えないことになる[注釈 7](憲法70条)。公職選挙法第57条が規定する繰延投票が行われた場合であっても憲法の規定による日数制限には影響しないので、これによる影響は想定できない。基本的に繰延投票は、特定の投票所における繰延に対する規定[注釈 8]であるからである。
衆議院議員総選挙で投票が遅れることによって国会の召集の時期が遅れることがあれば、もちろん、この規定は新たに召集された国会において再選されることを禁じるものではなく、制度上は国会議員として首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣を続けることができる。
ただ、通常、内閣総理大臣は与党党首の地位を前提として与党議員からの信任を得ているが、その政党の内規で党首職に再選制限が設けられている場合、その年限が事実上の任期の上限となることがある。
なお、明治憲法下では貴族院議員あるいは帝國陸海軍の元帥大将が首班指名を受けた場合、その任期は原則終身、元帥に進級しない陸海軍大将は65歳が定年であったことから、内閣総理大臣が発展途上国に多くみられる終身指導者のような長期政権を敷くことも、理論上は可能であった。しかし、実際には天皇に建前上すべての権力が集中する明治憲法の根幹たる外見的立憲君主制こそが、大日本帝國に長期独裁を敷く宰相を誕生させないという意味で最後の歯止めとなっていた。
なお日本国憲法下の事例においては、内閣総理大臣を退任すると同時に自党の党首職も辞任するか任期満了を迎え退任する事例がほとんどととなっている[注釈 10]。
内閣総理大臣の職務代行として内閣総理大臣臨時代理が存在する。これは常に置かれる職ではなく、総理大臣に事故あるとき予め指定された5名の国務大臣が、順位通りに就任する。臨時代理就任順位第1位にあるものが内閣官房長官以外の国務大臣であるとき、俗に副総理と呼ばれる。
内閣総辞職に至るまで無期限に臨時代理が置かれた例としては、第2次大平内閣の伊東正義が、首相死去後に事前指名に基づいて臨時代理に就任し、ただちに内閣総辞職した例、また石橋内閣の岸信介と小渕内閣の青木幹雄が、入院中の首相から指名された直後に臨時代理に就任し、内閣総辞職を行った例がある。首相の外遊中に限って臨時代理が職務を代行した例は多くある。
内閣総理大臣の補佐職として内閣総理大臣補佐官がある。組織上は内閣官房に属するが、職務上は内閣官房長官ではなく内閣総理大臣に直属する。この他内閣特別顧問、内閣官房参与、内閣総理大臣秘書官が存在し、内閣総理大臣の職務執行・政権運営を支える。
明治維新以降、当初は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針に則り、旧来通りの太政官制度が行われてきた。しかし、奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任がなく、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。
1880年(明治13年)ごろから参議伊藤博文はこの「太政官制」の改革を提唱し始めたが、保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤博文には重鎮たる岩倉具視に対抗するだけの政治力がなかった。そのため、伊藤博文はいったんこの提案を取り下げて1882年(明治15年)3月から伊東巳代治、西園寺公望らとともに渡欧し、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イギリスなどで憲法を含む立憲体制の調査にあたったが、このときから「文明諸国と同等の政府」の骨格が具体的に構築されていく。そして、岩倉具視の死後に帰国した伊藤博文はドイツで研究した立憲体制に則した政治体制構想の実施を進めようとした。
これに対して、岩倉具視と同じく保守派の太政大臣三條實美らは、右大臣に伊藤博文をあてるという人事改革案で応酬した。しかし伊藤博文はこれを丁重に断り、代わって黒田清隆を推したが、今度は酒乱の気がある黒田清隆に保守派が尻込み、結局この「改革合戦」は引き分けに終わった。その後も伊藤博文等はこれに怯まず「内閣」制度を提案し、「君主立憲政体なれば、君位君権は立法の上に居らざる可からずと云の意なり。故に、憲法を立て立法行政の両権を並立せしめ恰も人体にして意想と行為あるが如くならしめざる可からずと云」という伊藤博文の語録にあるように、憲法とセットにして近代的内閣制度を突きつけられては、保守派も反対の名目がなく、伊藤博文の意向が通る形となった。
1885年(明治18年)12月22日に、「太政官達第六十九号」が発せられ、「太政官制」「太政大臣」に代わって「内閣」と「内閣総理大臣」が設置され、ここに内閣制度が始まった。「内閣」の組織には宮内大臣は含まれないことが明記され、「宮中(宮廷)」と「府中(政府)」の別が明定され、行政責任を各省大臣が個別に負う体制の基礎が生まれた。このとき同時に制定された内閣職権においては、「内閣総理大臣」には「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」(二條)と、最初は強力な権限を与えられていた。
1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布されるが、同法においては「内閣」や「内閣総理大臣」について直接の規定は明記されず、同第55条において「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と明記されたのみであった。また、同時に「内閣職権」を改正する形で制定された「内閣官制」において「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(2条)と、その権限は弱められた。
権限としては、「内閣総理大臣」は「同輩中の首席大臣」として天皇を輔弼する存在とされ、「内閣」は各大臣の協議と意思統一のための組織体と位置づけられた。内閣総理大臣は各部総督権を有して大政の方向を指示するために機務奏請権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したものの、いったん閣内に意見の不一致が起こると、内閣総理大臣は各大臣の罷免権がなく大臣を罷免することはできず、説得や辞任を促すことくらいで、これが失敗すれば内閣総辞職するしかなかったのである。事例として第2次近衛内閣は、外務大臣の松岡洋右を更迭するために総辞職という手段を使わざるを得ず(1937年)[32]、また東條内閣の総辞職原因は、国務大臣の岸信介が辞職を拒否したことによるものであった(1944年)[33]。また、明治の一時期と昭和初期から終戦まで規定されていた軍部大臣現役武官制によって、組閣は軍による制約を受けた。特に陸軍は内閣が自らの意向に沿わない場合には、陸軍大臣を辞任させたうえで後任を推薦せず、これによって第2次西園寺内閣・米内内閣が崩壊し、宇垣一成が組閣を阻止された。
地位としては、皇室儀制令においての宮中席次は大勲位についでの地位にあり、枢密院議長よりも格上とされ、儀礼上では府中の最高位と位置づけられていた。
任免については、内閣総理大臣は、各国務大臣同様に天皇により任命され(大命降下)、その選出方法については法令によって規定されなかった。明治初期から昭和初期までは元老による推薦に基づいて任命されていたが、そのうち大正末期から昭和初期にかけては、大正デモクラシーによる政党政治が基本となり、衆議院での第一党の党首が推薦され、任命されていた(憲政の常道)。その後、「最後の元老」西園寺公望の老衰にともない、昭和初期から終戦までは「重臣会議」の奏薦によって任命されている。
1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布され、第66条に「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」と初めて憲法に明記された。これにともない、翌1947年(昭和22年)1月16日に施行された内閣法では、「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」(6条)など、その権限が強化された。
日本国憲法下の内閣総理大臣は、閣内に意見の不一致が起こった場合は、罷免して自らの意見を通すことができる。また何らかの理由で大臣が突然辞職しても、内閣総理大臣はその後任を任意に任命することができる。この顕著な例が衆議院解散権である。憲法上、衆議院の解散は内閣の助言と承認により天皇が行うことになっているが(7条3号)、これはつまり「解散権は内閣に属す」ということで「閣議決定なしには解散はできない」ということであるが、一般に「解散権は内閣総理大臣の専権事項」と解釈されているのは、解散に反対して閣議書への署名を拒否する大臣がいたとしても、内閣総理大臣はその大臣を罷免したうえで、自らが兼務して閣議書へ署名することができるからである[注釈 11]。仮に全閣僚が反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる(一人内閣)。したがって、内閣総理大臣が解散を行うと決めた場合、これを阻止する手立ては法令上はないのである。このように、大臣に対する任意の罷免権の効果はきわめて大きい。
内閣制度移行に際し、誰もの関心は誰が初代総理大臣になるかであった。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保利通の死後、事実上の宰相として明治政府を切り盛りし内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三条は藤原北家閑院流の嫡流で、清華家のひとつである三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方、伊藤といえば貧農の出であり、武士になったのも維新の直前という低い身分の出身で、お手盛りで伯爵になってはいるもののその差は歴然としていた。太政大臣に替わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では誰もが口をつぐむ中で、伊藤の盟友だった井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなく、あっさりこれで決まってしまった。初代総理を決めた最大の要因は伊藤の「英語力」だったのである。
伊藤の内閣総理大臣就任にともない、三条は内大臣として宮中に回り、天皇の側近として明治天皇を「常侍輔弼」することになった。しかしそもそも内大臣は三条処遇のために創られた名誉職で、実際は彼を二階へ上げてはしごを外したようなものだった。これに対して、かつて三条に仕えていたことがある尾崎三良(元老院議官)は三条に対して強く抗議すべきであると進言したが、三条は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、逆に尾崎に対しそうした軽挙を戒めている[34]。しかし明治天皇もさすがにこの処遇を気の毒に思ったのか、1889年(明治22年)10月25日に第2代内閣総理大臣の黒田清隆が条約改正をめぐる政局混乱の責任を取って内閣総辞職した際、天皇は黒田の辞表をのみ受理してほかはすべて却下し、三条に内閣総理大臣を兼任させた。これは「臨時兼任」ではなく、単に「兼任」であり、しかも天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのはそれから2か月も経ってからのことだったため、この期間はひとつの別個の内閣が存在したものとみなしてこれを「三条暫定内閣」と呼んでいる。それでも三条実美は歴代の内閣総理大臣としては数えないことになっている(なお、明治天皇本人にも「西園寺公望の首相就任時に『公家から初めて首相が出た』と喜んでいた」という逸話がある)。
現職の内閣総理大臣が選挙で落選した例はない。ただし、当選できなかった例として、大平正芳は1980年の衆院選で立候補したものの開票前に死去したものがある[注釈 12]。中選挙区制時代、歴代の現職内閣総理大臣は1位当選することがほとんどであったが、唯一中曽根康弘のみ1983年と1986年の2回の衆院選で2位当選になっている(1位は福田赳夫)。
内閣総理大臣経験者が国政選挙で落選した例として、片山哲(1949年・1963年)と石橋湛山(1963年)と海部俊樹(2009年)の例がある。また、菅直人(2012年・2014年)は小選挙区で落選したが、比例復活当選をしている。細川護熙は、政界引退後、2014年の東京都知事選挙に立候補したが落選した。
内閣総理大臣は国会議員から選出されなければならない。法理論上、衆議院議員の被選挙権を得る25歳から就任することができる。法的には、衆参いずれの議院に属するかを問わず、国会議員であれば誰でも指名される可能性はあるが、政治経験などが重視されることが多く、1年生議員が就任する確率はきわめて稀である(細川護煕が1993年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、就任以前に参議院議員・熊本県知事の経験があった。また吉田茂は1948年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、この就任以前に貴族院議員や外務大臣・首相の経験があった)。
日本の歴代首相の中で最年少記録を保持しているのは、1885年の初代伊藤博文(当時44歳)で現在も破られていない。歴代最年長就任記録は1945年の鈴木貫太郎(当時77歳)で、最年長在任記録は大隈重信(当時78歳)である。戦後最年少としては、2006年の安倍晋三(当時52歳)である。戦後最年長就任記録は幣原喜重郎の73歳だが、新憲法の範囲では石橋湛山の72歳3か月である。戦後最年長在任記録は吉田茂の76歳3か月である。
学歴の規定は特には無い。
初期の内閣総理大臣たちは若いころはそれぞれ、江戸時代(幕末期)の教育法で教育を受け育ったわけだが、近代教育での学歴を持つ最初の内閣総理大臣はフランスのソルボンヌ大学に留学した西園寺公望である。
歴代の総理らの一覧表を単純に分類・集計すると、一応は、旧制だった時代の東京帝国大学「出身者」が多い、ということにはなる。新制となってからの東京大学の出身者は、工学部計数工学科を卒業した鳩山由紀夫のみである。また新制の国公立大学出身の内閣総理大臣としても鳩山が初めてである(なお、学歴で一番重要とされるのは最終学歴であり、鳩山由紀夫の最終学歴はむしろ、スタンフォード大学大学院工学部博士課程修了である)。私立大学で2名以上の首相を輩出しているのは早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学など(特に早稲田大学には早稲田大学雄弁会という「政治家の登竜門のひとつ」とも見なされることのある弁論サークルがあり、1956年~2000年で5人が内閣総理大臣に就任した実績がある)。
田中角栄は(微妙な位置づけだった状態の)専門学校で学んだ経歴の持ち主であり「学制上での最終学歴」は高等小学校卒業であり[注釈 13]、それをあえて自身のアピールポイントにしていたこともある。なお、宇野宗佑は旧制神戸商業大学(現・神戸大学)に進学したが、2か月後に学徒出陣となり、戦後のシベリア抑留を経て復学せずそのまま中退したため、平成で唯一学士の学位を持たない内閣総理大臣となった。
内閣総理大臣を退任した後も、警視庁警備部の判断で元首相本人の警護を行うことが慣例となっている[35]が、基本的に警護を拒否することのできない現職首相とは異なり、元首相本人の意向により警護を辞退することも可能である[36]。
大日本帝国憲法下においては、退任した元首相は元老となったり重臣として重臣会議に参加した場合、内閣総理大臣の選任(天皇への奏薦)に携わることができた。
日本国憲法下において、内閣総理大臣を一度退任した人物がその後国務大臣や政党要職に就任した事例は少ないが、再度内閣総理大臣に就任した吉田茂と安倍晋三のほかにも、宮澤喜一(小渕内閣~森内閣での大蔵大臣→財務大臣)・橋本龍太郎(森内閣での沖縄及び北方対策担当大臣など)・麻生太郎(第2次安倍内閣~菅義偉内閣での財務大臣など)の3名は首相退任後に他の総理大臣の下で閣僚として入閣している。また、海部俊樹(新進党党首)・羽田孜(民主党幹事長)[注釈 14]・野田佳彦(民進党幹事長)の3名は内閣総理大臣退任後に野党第一党の要職を歴任している[注釈 15]。
このほか、表向きに要職へは就かないものの、田中角栄(闇将軍とも言われた)や竹下登、安倍晋三のように大派閥を擁し首相退任後も政界に大きな影響力を残す人物もいる。
内閣総理大臣経験者に対する栄典については、在任期間に応じ、位階は従一位、正二位または従二位(現在は没後叙位が原則)、勲等勲章は大勲位菊花章頸飾、大勲位菊花大綬章または桐花大綬章(旧・勲一等旭日桐花大綬章)のいずれかに叙される(在任1年9か月の小渕恵三は大勲位菊花大綬章に叙されている)。ただし、刑事事件などの不祥事により見送られることや本人の意志による辞退の例もある(例:田中角栄はロッキード事件で有罪となり刑事被告人のまま死去したため、栄典は受けられなかった。宮澤喜一は自身の遺志により遺族が栄典を辞退した)。
内閣総理大臣に就任が有力視された大物政治家でありながら、早世などの理由で就任に至らなかった人物を「幻の総理」と呼ぶことがある。福田和也『総理の値打ち』(文春文庫)や御厨貴編『歴代首相物語』(新書館)など歴代首相総覧の類では定番の項目となっているほか、浅川博忠『自民党・ナンバー2の研究』(講談社文庫)や小林吉弥『総理になれなかった男たち』(経済界)など「幻の総理」を特集した書籍も出版されている。さまざまな人物が名前を挙げられるが、福田・御厨・浅川・小林がすべて挙げている人物として緒方竹虎と河野一郎、戦前も扱った福田・御厨がともに挙げている人物に井上馨・後藤新平・宇垣一成がいる。このほか、「辞退さえしなければ首相になれた」人物、すなわち戦前の徳川家達や戦後の伊東正義のように次期首相として推挙されながら辞退した人物も存在する。
記録の名称 | 記録保持者氏名 | 記録の内容 |
---|---|---|
最長在職期間記録 | 安倍晋三 | 3188日(約8年9か月)
|
最長連続在職期間記録 | 安倍晋三 | 2822日(約7年9か月)
|
最長単一在職期間記録 | 桂太郎 | 1681日(約4年7か月)
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最短在職期間記録 | 東久邇宮稔彦王 | 54日(約2か月)
|
最短単一在職期間記録 | 岸田文雄 | 38日(約1か月)
|
最年長在任記録 | 大隈重信 | 約78歳6か月 (1916年(大正5年)10月9日の退任時) |
最年少就任および在任記録 | 伊藤博文 | 約44歳2か月 (1885年(明治18年)12月22日の就任時) |
最年長就任記録 | 鈴木貫太郎 | 約77歳2か月 (1945年(昭和20年)4月7日の就任時) |
最多回数任命記録 | 吉田茂 | 5回
|
在 職 日 数 順 位 | 氏名 | 在職 日数 | 在職期間 | 組 閣 回 数 | 歴代数 | 死 亡 年 | 元 号 [注釈 16] | 軍歴 | 退陣 理由 [注釈 17] |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
4 | 伊藤博文 | 2720 | 1885年 - 1888年、 1892年 - 1896年、 1898年、 1900年 - 1901年 |
4 | 01,05,07,10 | 1909年 | 明治 | 枢密院議長就任(01) 政局(05)(07) 閣内不一致(10) | |
38 | 黒田清隆 | 544 | 1888年 - 1889年 | 1 | 02 | 1900年 | 明治 | 陸軍中将 | 外国人司法官任用問題 |
11 | 山縣有朋 | 1210 | 1889年 - 1891年、 1898年 - 1900年 |
2 | 03,09 | 1922年 | 明治 | 陸軍中将(第1次) 陸軍大将(第2次) |
政局(03)(09) |
17 | 松方正義 | 943 | 1891年 - 1892年、 1896年 - 1898年 |
2 | 04,06 | 1924年 | 明治 | 選挙干渉(04) 衆議院解散しそのまま辞任(06) | |
14 | 大隈重信 | 1040 | 1898年、 1914年 - 1916年 |
2 | 08,17 | 1922年 | 明治、 大正 |
政局(08)(17) | |
2 | 桂太郎 | 2886 | 1901年 - 1906年、 1908年 - 1911年、 1912年 - 1913年 |
3 | 11,13,15 | 1913年 | 明治、 大正 |
陸軍大将(第1・2次) 退役陸軍大将(第3次) |
日比谷焼打ち事件(11) 政局(13) 政局(大正政変)(15) |
9 | 西園寺公望 | 1400 | 1906年 - 1908年、 1911年 - 1912年 |
2 | 12,14 | 1940年 | 明治、 大正 |
政局(12) 二個師団増設問題(14) | |
37 | 山本権兵衛 | 549 | 1913年 - 1914年、 1923年 - 1924年 |
2 | 16,22 | 1933年 | 大正 | 退役海軍大将 | シーメンス事件(16) 虎の門事件(22) |
26 | 寺内正毅 | 721 | 1916年 - 1918年 | 1 | 18 | 1919年 | 大正 | 元帥陸軍大将 | 1918年米騒動 |
13 | 原敬 | 1133 | 1918年 - 1921年 | 1 | 19 | 1921年 | 大正 | 在任中に暗殺 | |
54 | 高橋是清 | 212 | 1921年 - 1922年 | 1 | 20 | 1936年 | 大正 | 閣内不一致 | |
41 | 加藤友三郎 | 439 | 1922年 - 1923年 | 1 | 21 | 1923年 | 大正 | 海軍大将 | 在任中に病死 |
56 | 清浦奎吾 | 157 | 1924年 | 1 | 23 | 1942年 | 大正 | 衆院選敗北 | |
33 | 加藤高明 | 597 | 1924年 - 1926年 | 1 | 24 | 1926年 | 大正 | 在任中に病死 | |
28 | 若槻禮次郎 | 690 | 1926年 - 1927年、 1931年 |
2 | 25,28 | 1949年 | 大正、 昭和 |
台湾銀行救済緊急勅令案の枢密院による否決(25) 閣内不一致(28) | |
22 | 田中義一 | 805 | 1927年 - 1929年 | 1 | 26 | 1929年 | 昭和 | 退役陸軍大将 | 張作霖爆殺事件 |
29 | 濱口雄幸 | 652 | 1929年 - 1931年 | 1 | 27 | 1931年 | 昭和 | 病気により辞任 | |
57 | 犬養毅 | 156 | 1931年 - 1932年 | 1 | 29 | 1932年 | 昭和 | 在任中に暗殺 | |
23 | 斎藤実 | 774 | 1932年 - 1934年 | 1 | 30 | 1936年 | 昭和 | 退役海軍大将 | 帝人事件 |
32 | 岡田啓介 | 611 | 1934年 - 1936年 | 1 | 31 | 1952年 | 昭和 | 退役海軍大将 | 二・二六事件 |
46 | 広田弘毅 | 331 | 1936年 - 1937年 | 1 | 32 | 1948年 | 昭和 | 腹切り問答による閣内不一致 | |
60 | 林銑十郎 | 123 | 1937年 | 1 | 33 | 1943年 | 昭和 | 予備役陸軍大将 | 衆院選敗北 |
15 | 近衛文麿 | 1035 | 1937年 - 1939年、 1940年 - 1941年 |
3 | 34,38,39 | 1945年 | 昭和 | 陸軍との対立(34) 閣内不一致(38) 日米交渉の不調(39) | |
51 | 平沼騏一郎 | 238 | 1939年 | 1 | 35 | 1952年 | 昭和 | 独ソ不可侵条約による情勢変化 | |
58 | 阿部信行 | 140 | 1939年 - 1940年 | 1 | 36 | 1953年 | 昭和 | 予備役陸軍大将 | 政局 |
55 | 米内光政 | 189 | 1940年 | 1 | 37 | 1948年 | 昭和 | 予備役海軍大将 | 陸軍との対立 |
16 | 東條英機 | 1009 | 1941年 - 1944年 | 1 | 40 | 1948年 | 昭和 | 陸軍大将 | サイパン島陥落 |
50 | 小磯國昭 | 260 | 1944年 - 1945年 | 1 | 41 | 1950年 | 昭和 | 予備役陸軍大将 | 閣内不一致 |
59 | 鈴木貫太郎 | 133 | 1945年 | 1 | 42 | 1948年 | 昭和 | 退役海軍大将 | ポツダム宣言受諾(日本の降伏) |
64 | 東久邇宮稔彦王 | 54 | 1945年 | 1 | 43 | 1990年 | 昭和 | 陸軍大将 | GHQとの対立 |
52 | 幣原喜重郎 | 226 | 1945年 - 1946年 | 1 | 44 | 1951年 | 昭和 | 衆院選敗北(下野) | |
5 | 吉田茂 | 2616 | 1946年 - 1947年、 1948年 - 1954年 |
5 | 45,48,49,50,51 | 1967年 | 昭和 | 衆院選敗北(下野)(45) 造船疑獄(51) | |
47 | 片山哲 | 292 | 1947年 - 1948年 | 1 | 46 | 1978年 | 昭和 | 政局 | |
53 | 芦田均 | 220 | 1948年 | 1 | 47 | 1959年 | 昭和 | 昭和電工事件 | |
25 | 鳩山一郎 | 745 | 1954年 - 1956年 | 3 | 52,53,54 | 1959年 | 昭和 | 日ソ共同宣言批准達成 | |
62 | 石橋湛山 | 65 | 1956年 - 1957年 | 1 | 55 | 1973年 | 昭和 | 病気により退陣 | |
10 | 岸信介 | 1241 | 1957年 - 1960年 | 2 | 56,57 | 1987年 | 昭和 | 日米安全保障条約批准達成(安保闘争) | |
8 | 池田勇人 | 1575 | 1960年 - 1964年 | 3 | 58,59,60 | 1965年 | 昭和 | 病気により退陣 | |
3 | 佐藤栄作 | 2798 | 1964年 - 1972年 | 3 | 61,62,63 | 1975年 | 昭和 | 沖縄返還の達成 | |
19 | 田中角栄 | 886 | 1972年 - 1974年 | 2 | 64,65 | 1993年 | 昭和 | 田中金脈問題 | |
24 | 三木武夫 | 747 | 1974年 - 1976年 | 1 | 66 | 1988年 | 昭和 | 衆院選敗北 | |
27 | 福田赳夫 | 714 | 1976年 - 1978年 | 1 | 67 | 1995年 | 昭和 | 自民党総裁選挙敗北 | |
36 | 大平正芳 | 554 | 1978年 - 1980年 | 2 | 68,69 | 1980年 | 昭和 | 在任中に病死 | |
20 | 鈴木善幸 | 864 | 1980年 - 1982年 | 1 | 70 | 2004年 | 昭和 | 自民党総裁選挙不出馬 | |
7 | 中曽根康弘 | 1806 | 1982年 - 1987年 | 3 | 71,72,73 | 2019年 | 昭和 | 自民党総裁任期満了 | |
34 | 竹下登 | 576 | 1987年 - 1989年 | 1 | 74 | 2000年 | 昭和、 平成 |
リクルート事件 | |
61 | 宇野宗佑 | 69 | 1989年 | 1 | 75 | 1998年 | 平成 | 参院選敗北 | |
21 | 海部俊樹 | 818 | 1989年 - 1991年 | 2 | 76,77 | 2022年 | 平成 | 自民党総裁選挙不出馬(海部おろし) | |
30 | 宮澤喜一 | 644 | 1991年 - 1993年 | 1 | 78 | 2007年 | 平成 | 衆院選敗北(下野) | |
49 | 細川護熙 | 263 | 1993年 - 1994年 | 1 | 79 | 平成 | 政局 | ||
63 | 羽田孜 | 64 | 1994年 | 1 | 80 | 2017年 | 平成 | 政局 | |
35 | 村山富市 | 561 | 1994年 - 1996年 | 1 | 81 | 平成 | 政局 | ||
18 | 橋本龍太郎 | 932 | 1996年 - 1998年 | 2 | 82,83 | 2006年 | 平成 | 参院選敗北 | |
31 | 小渕恵三 | 616 | 1998年 - 2000年 | 1 | 84 | 2000年 | 平成 | 病気により退任 | |
42 | 森喜朗 | 387 | 2000年 - 2001年 | 2 | 85,86 | 平成 | 政局 | ||
6 | 小泉純一郎 | 1980 | 2001年 - 2006年 | 3 | 87,88,89 | 平成 | 自民党総裁任期満了 | ||
1 | 安倍晋三 | 3188 | 2006年 - 2007年、 2012年 - 2020年 |
4 | 90,96,97,98 | 2022年 | 平成、 令和 |
病気により退陣(90,98) | |
44 | 福田康夫 | 365 | 2007年 - 2008年 | 1 | 91 | 平成 | 政局(福田おろし) | ||
45 | 麻生太郎 | 358 | 2008年 - 2009年 | 1 | 92 | 平成 | 衆院選敗北(下野) | ||
48 | 鳩山由紀夫 | 266 | 2009年 - 2010年 | 1 | 93 | 平成 | 政局(鳩山おろし) | ||
40 | 菅直人 | 452 | 2010年 - 2011年 | 1 | 94 | 平成 | 政局(菅おろし) | ||
39 | 野田佳彦 | 482 | 2011年 - 2012年 | 1 | 95 | 平成 | 衆院選敗北(下野) | ||
43 | 菅義偉 | 384 | 2020年 - 2021年 | 1 | 99 | 令和 | 自民党総裁選挙不出馬 | ||
12 | 岸田文雄 | 1136 | 2021年 - 2024年 | 2 | 100,101 | 令和 | 自民党総裁選挙不出馬 | ||
65 | 石破茂 | 43 | 2024年 - 現職 | 2 | 102,103 | 令和 | (現職) |
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
病気により在任中死去した内閣総理大臣 | 加藤友三郎 | 加藤友三郎は大腸癌を患っていた。青山の自邸で死去。 |
加藤高明 | 加藤高明は心臓麻痺による急性心不全。かねてより慢性腎臓炎と心臓疾患があったが、議会で突然病状が悪化し6日後に死去。 | |
大平正芳 | 大平は心筋梗塞による急性心不全。選挙運動中に過労と不整脈で倒れ虎の門病院に入院。12日後心筋梗塞を起こし死去。 | |
病気により執務不能となり退任、ほどなく死去した内閣総理大臣 | 小渕恵三 | 脳梗塞。首相官邸で発症、順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院するが昏睡状態となり退任。意識が戻らないまま約1か月半後に死去。 |
病気により退陣した内閣総理大臣 | 石橋湛山 | 石橋は脳梗塞。ただし当時の公式発表は「風邪をこじらせ肺炎を起こした上、脳梗塞の兆候がある事も判明」だった。「1か月静養が必要」との診断を受けて即日退陣を表明。その後病状は回復し余生を全うした。 |
池田勇人 | 池田は喉頭癌。治療のため国立がんセンターに入院したが、約1か月半後に退陣を表明。9か月後に東京大学医学部附属病院で病部摘出手術を受けたが、術後まもなく肺炎により死去。 | |
安倍晋三 | 安倍(第1次内閣)は胃腸機能の低下による衰弱。元から持病(潰瘍性大腸炎)を抱えていたが、参議院選挙の惨敗や、相次ぐ閣僚の不祥事への批判による重圧、首相としての過労が祟った。辞意表明の後、慶應義塾大学病院に緊急入院したが、首相臨時代理は置かなかった。自民党の後継総裁が選出された後、辞任に至る経緯について会見を行い退陣。後年、2012年自由民主党総裁選挙と第46回衆議院議員総選挙を経て自民党総裁および内閣総理大臣に再就任するも、2020年8月に潰瘍性大腸炎の再発が判明し、退陣を表明した。 |
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
在任中に暗殺された内閣総理大臣 | 原敬 | 原は東京駅の構内で大塚駅職員中岡艮一に胸を刺される。刃渡り五寸の短刀が肺と心臓を貫通し即死(原敬暗殺事件)。 |
濱口雄幸 (死去時は元内閣総理大臣) | 濱口は東京駅のホームで右翼団体に所属する佐郷屋留雄に狙撃される。銃弾1発が骨盤まで達する重傷だったが、4か月後に病躯を押して登院、しかしこれで症状が悪化し、1か月後に内閣総辞職、その4か月後に死去(濱口首相遭難事件)。 | |
犬養毅 | 犬養は首相官邸に乱入した武装青年将校に銃撃される。左頬と右こめかみに銃弾2発を被弾、出血多量で約5時間後に絶命(五・一五事件)。 | |
暗殺された元内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 伊藤は満州ハルビン駅の構内で大韓帝国の民族主義運動家安重根に狙撃される。銃弾3発を被弾し約30分後に絶命。当時伊藤は枢密院議長(伊藤博文暗殺事件)。 |
高橋是清 | 高橋は赤坂の自邸に乱入した武装青年将校により銃撃される。銃弾3発を被弾した上、軍刀で刺し抜かれ即死。当時高橋は大蔵大臣(二・二六事件)。 | |
斎藤実 | 斎藤は四谷の自邸に乱入した武装青年将校により銃撃される。機関銃弾を40数発浴び即死。当時齋藤は内大臣(二・二六事件)。 | |
安倍晋三 | 安倍は奈良市大和西大寺駅前で選挙応援演説中に同市在住の40代男性により背後から銃撃される。犯人の自作銃にて銃弾2発を被弾。直後に心肺停止となり、病院に搬送されたが約6時間後に死亡が確認された。当時安倍は自民党安倍派会長(安倍晋三銃撃事件)。 | |
山本権兵衛は第2次山本内閣の親任式当日に暗殺の噂が流れた。折しも関東大震災の直後で問い合わせもままならず、水戸の新聞の中に号外まで発行したものがあったという[37]。また、岡田啓介は二・二六事件の襲撃対象であったが、首相官邸に乱入した武装青年将校は容貌がよく似ていた義弟で秘書の松尾伝蔵を銃撃し難を逃れた。松尾を岡田と誤認した青年将校が総理死亡を発表したため、存命にもかかわらず新聞に死亡記事が出るなど情報が錯綜した。
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
自殺した 元内閣総理大臣 |
近衛文麿 | 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) よりA級戦犯としての逮捕命令が出たことを受けて、出頭期限日の未明に自邸で青酸カリを服毒し自殺。 |
自殺を図るが未遂におわった 元内閣総理大臣 |
東條英機 | 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) よりA級戦犯としての逮捕命令が出たことを受けて、自邸で拳銃で自らの心臓を撃つが急所を外して失敗。 |
死刑となった 元内閣総理大臣 |
東條英機 | 極東国際軍事裁判で絞首刑判決、処刑。 |
広田弘毅 | ||
終身刑となった 元内閣総理大臣 |
小磯國昭 | 極東国際軍事裁判で終身禁固刑判決、のち獄中で病死。 |
平沼騏一郎 | 極東国際軍事裁判で終身禁固刑判決、のち病気仮釈放直後に病死。 | |
逮捕収監されたことがある 内閣総理大臣 |
岸信介 | 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) よりA級戦犯としての逮捕命令が出て収監されるが、不起訴となり釈放。 |
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
逮捕、起訴された元内閣総理大臣 | 芦田均 | 芦田は昭電疑獄で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。 |
田中角栄 | 田中はロッキード事件で逮捕され起訴された。公判では一審と二審で有罪判決、上告審の審理途中で被告死去により公訴棄却。 | |
公判で有罪判決を受けた元内閣総理大臣 | 田中角栄 | |
かつて逮捕、起訴されたことがある内閣総理大臣 | 田中角栄 | 田中は法務政務次官時代に炭鉱国管疑獄で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。 |
福田赳夫 | 福田は大蔵省主計局長時代に昭電疑獄で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。 | |
かつて逮捕許諾請求が出され起訴されたことがある内閣総理大臣 | 佐藤栄作 | 自由党幹事長時代に造船疑獄で東京地検が逮捕許諾請求を出したが、法相が指揮権を発動して逮捕を見送らせた。その後、在宅起訴されるが、国連加盟恩赦で免訴となった。 |
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
かつて貴族院議長だった内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 1890年(明治23年)10月24日 - 1891年(明治24年)7月21日 |
近衛文麿 | 1933年(昭和8年)6月9日 - 1937年(昭和12年)6月7日 | |
後に貴族院議長になった元内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 1890年(明治23年)10月24日 - 1891年(明治24年)7月21日 一期目の内閣総理大臣を辞した後に貴族院議長となり、その後また内閣総理大臣に任じられている。 |
後に衆議院議長になった元内閣総理大臣 | 幣原喜重郎 | 1949年(昭和24年)2月11日 - 1951年(昭和26年)3月10日 |
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
就任時に国務大臣経験が全くなかった内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 伊藤は勤王の志士であり、兵庫県知事(当時は官選)、工部卿、内務卿などを歴任したのち、 初代内閣総理大臣に任じられた。 |
近衛文麿 | 近衛は公爵であり、貴族院議長を任めたのち、内閣総理大臣に任じられた。 | |
阿部信行 | 阿部は陸軍軍人であり、台湾軍司令官、軍事参議官などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた[注釈 18]。 | |
鈴木貫太郎 | 鈴木は海軍軍人であり、連合艦隊司令長官、軍令部部長などを歴任したのち宮中に入り、長く侍従長として昭和天皇に仕えた。二・二六事件で瀕死の重傷を負うが回復し、その後枢密院議長を経て内閣総理大臣に任じられた。 | |
東久邇宮稔彦王 | 皇族である稔彦王は陸軍軍人であり、第二軍司令官、防衛総司令部総司令官などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。 | |
片山哲 | 片山は弁護士を経て衆議院議員となり、日本社会党書記長、日本社会党委員長などを歴任したのち、日本国憲法の施行を目前に控えた第23回総選挙で社会党が比較第一党となったことを受けて、社会・民主・国民協同3党連立政権の首班に指名され内閣総理大臣に任名された。 | |
細川護熙 | 細川は参議院議員、大蔵政務次官、熊本県知事を経て衆議院議員となり、日本新党代表などを歴任したのち、第40回総選挙で自民党が過半数割れしたのを受けて、非自民・非共産8党派連立政権の首班に指名され内閣総理大臣に任じられた。 | |
村山富市 | 村山は大分県議会議員を経て衆議院議員となり、衆議院物価問題等に関する特別委員長、日本社会党国会対策委員会委員長、日本社会党委員長などを歴任したのち、自民・社会・さきがけ3党連立政権の首班に指名され内閣総理大臣に任じられた。 | |
鳩山由紀夫 | 鳩山は専修大学経営学部助教授を経て衆議院議員となり、内閣官房副長官、民主党幹事長、民主党代表などを歴任したのち、第45回総選挙で民主党が大勝したのを受けて、民主・社民・国民新党3党連立政権の首班に指名され内閣総理大臣に任じられた。 |
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
かつて大審院長だった内閣総理大臣 | 平沼騏一郎 | 1921年(大正10年)10月5日 - 1923年(大正12年)9月6日 |
記録 | 氏名 | 事柄 |
---|---|---|
陸軍の将官の経歴を持つ内閣総理大臣 | 黒田清隆 | 就任時は陸軍中将。 |
山縣有朋 | 第一次内閣で就任時は陸軍中将、 第二次内閣で就任時は陸軍大将。 | |
桂太郎 | 第一次内閣・第二次内閣で就任時は陸軍大将、 第三次内閣で就任時は退役陸軍大将。 | |
寺内正毅 | 就任時は元帥陸軍大将。 | |
田中義一 | 就任時は退役陸軍大将。 | |
林銑十郎 | 就任時は予備役陸軍大将。 | |
阿部信行 | 就任時は予備役陸軍大将。 | |
東條英機 | 就任と同時に陸軍中将から陸軍大将に進級。 | |
小磯國昭 | 就任時は予備役陸軍大将。 | |
東久邇宮稔彦王 | 就任時は陸軍大将。 | |
海軍の将官の経歴を持つ内閣総理大臣 | 山本権兵衛 | 第一次内閣で就任時は海軍大将、 第二次内閣で就任時は退役海軍大将。 |
加藤友三郎 | 就任時は海軍大将、 退任(在任中死去)時に元帥海軍大将(死後追贈)。 | |
斎藤実 | 就任時は退役海軍大将。 | |
岡田啓介 | 就任時は退役海軍大将。 | |
米内光政 | 就任と同時に予備役海軍大将に編入。 | |
鈴木貫太郎 | 就任時は退役海軍大将。 | |
記録 | 氏名 | 事柄 |
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かつて内大臣だった内閣総理大臣 | 桂太郎 | 1912年(大正元年)8月21日 - 同年12月21日 二期目の内閣総理大臣を辞した後に内大臣となり、その後また内閣総理大臣に任じられている。 |
かつて宮内大臣だった内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 1885年(明治18年)12月22日 - 1887年9月16日 「宮中・府中(行政府)」の分離により、宮内省は内閣に属さないことと定められたが、伊藤自身は内閣総理大臣と宮内大臣を兼務した。 |
かつて侍従長だった内閣総理大臣 | 桂太郎 | 1912年(大正元年)8月13日 - 同年12月21日 桂は内大臣と侍従長を兼務していた。 |
鈴木貫太郎 | 1929年(昭和4年)1月22日 - 1936年(昭和11年)11月20日 |
記録 | 氏名 | 事柄 |
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初の学士号を持つ内閣総理大臣 | 加藤高明 | 加藤は東京大学法学部を卒業し法学士号を取得。加藤が卒業した東京大学は、現在の東京大学の前身に当たる大学である。加藤の卒業した(旧)東京大学は、その後、帝国大学、東京帝国大学を経て、現在の(新制)東京大学となった。 なお、学士号を持つ内閣総理大臣は、加藤以外にも多数いる。 |
初の修士号を持つ内閣総理大臣 | 小渕恵三 | 小渕は早稲田大学大学院政治学研究科を修了し政治学修士号を取得。 なお、最終学位が修士号である内閣総理大臣は小渕以外には誰もおらず、現在でも唯一の例である。 |
初の博士号を持つ内閣総理大臣 | 平沼騏一郎 | 平沼は文部大臣より法学博士号を取得。1887年に公布された学位令に基づき、法学博士号は文部大臣から授与されていた。その後、1920年の改正学位令の施行により、法学博士号は大学から授与されることになった。現在では、1991年の改正学校教育法の施行により、法学博士の後継である博士(法学)が大学から授与されている。 なお、博士号を持つ内閣総理大臣は、平沼以外にも、東京帝国大学より法学博士号を取得した芦田均と、スタンフォード大学よりDoctor of Philosophy号を取得した鳩山由紀夫の2名がいる。 |
初の学位を持つ内閣総理大臣 | 加藤高明 | 加藤は東京大学法学部を卒業し法学士の学位を取得。1887年に学位令が公布される前は、法学士も学位の一つとされていた。学位令の施行により、法学士は学位ではなくなったため、それ以降は称号として授与された。1991年の改正学校教育法の施行により、法学士の後継である学士(法学)が学位の一つとなった。 なお、新制大学では卒業イコール学士号取得であるため学位を持つ内閣総理大臣はそれほど珍しくない。 |
初の新制大学を卒業した内閣総理大臣 | 海部俊樹 | 海部の後には旧制大学出身の内閣総理大臣が再び登場している(宮澤喜一)。 |
記録 | 氏名 | 事柄 |
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一度退任した後に別の人物を挟んで再就任した回数が最も多い内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 3回
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一度退任して再就任するまでの空白期間が最も長い内閣総理大臣 | 大隈重信 | 約15年5か月(歴代最長)
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安倍晋三 | 約5年3か月(戦後最長)
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一度退任して再就任するまでの空白期間が最も短い内閣総理大臣 | 桂太郎 | 約1年4か月(479日、歴代最短)
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吉田茂 | 約1年5か月(510日、戦後最短)
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一度退任して再就任するまでの間に挟んだ総理の数が最も多い内閣総理大臣 | 大隈重信 | 5人(8代)
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山本権兵衛 | 5人(5代)
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安倍晋三 | 5人(5代)
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記録 | 氏名 | 事柄 |
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7年連続で内閣総理大臣交代 | 小泉純一郎→安倍晋三(第1次)(2006年) 安倍晋三(第1次)→福田康夫(2007年) 福田康夫→麻生太郎(2008年) 麻生太郎→鳩山由紀夫(2009年) 鳩山由紀夫→菅直人(2010年) 菅直人→野田佳彦(2011年) 野田佳彦→安倍晋三(第2次)(2012年) |
国外では過去には第四共和政時代のフランスで1946年から1959年までの14年連続で首相交代(延べ24人に及ぶ)があった。 |
5年間で8回の内閣総理大臣交代 | 東條英機→小磯國昭(1944年) 小磯國昭→鈴木貫太郎(1945年) 鈴木貫太郎→東久邇宮稔彦王(1945年) 東久邇宮稔彦王→幣原喜重郎(1945年) 幣原喜重郎→吉田茂(第1次)(1946年) 吉田茂(第1次)→片山哲(1947年) 片山哲→芦田均(1948年) 芦田均→吉田茂(第2次)(1948年) |
内閣総理大臣の交代の頻度では上記の記録を上回って最多となる。特に1945年は年間で4人の首相が在任しており(年間で3回の首相交代)、こちらも最多記録となっている。 |
記録 | 氏名 | 事柄 |
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ノーベル賞を受賞した内閣総理大臣経験者 | 佐藤栄作 | 非核三原則の提唱が評価され1974年(昭和49年)のノーベル平和賞を受賞。 |
オリンピックに選手として出場経験のある内閣総理大臣経験者 | 麻生太郎 | モントリオールオリンピック(1976年(昭和51年))にクレー射撃の代表として出場(結果は41位)。 |
日本銀行券の肖像画に用いられた元内閣総理大臣 | 伊藤博文 | 伊藤はC千円券(1963年(昭和38年) - 1984年(昭和59年)発行)の肖像。 |
高橋是清 | 高橋はB五拾円券(1951年(昭和26年) - 1958年(昭和33年)発行)の肖像。高橋は史上唯一の日銀総裁経験者の首相でもある。 | |
外国政府高官を経験した内閣総理大臣経験者 | 岸信介 | 1936年(昭和11年)から1939年(昭和14年)にかけて満洲国で総務庁次長などの要職を歴任(満洲国には国籍法がなく、日本人は日本国籍を持ったまま満洲国の官職に就任できた)。 |
最高齢の内閣総理大臣経験者 | 東久邇宮稔彦王 | 1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日。存命期間102歳48日。 |
現行憲法下で最高齢の内閣総理大臣経験者 | 中曽根康弘 | 1918年(大正7年)5月27日 - 2019年(令和元年)11月29日。存命期間101歳186日。 |
100歳以上の内閣総理大臣経験者 | 東久邇宮稔彦王 | 内閣総理大臣経験者では最高齢。 |
中曽根康弘 | 現行憲法下の内閣総理大臣経験者では最高齢。 | |
村山富市 | 100歳以上における唯一の存命者(2024年(令和6年)11月12日(火)現在)。 |
(内閣総理大臣の氏名の後の年は就任した年)
順位 | 政党 | 人数 | 最初の内閣総理大臣 | 直近の内閣総理大臣 |
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1 | 自由民主党 | 25 | 鳩山一郎・1955年(昭和30年) | 石破茂・2024年(令和6年) |
2 | 立憲政友会 | 6 | 伊藤博文・1900年(明治33年) | 犬養毅・1932年(昭和7年) |
3 | 大政翼賛会 | 4 | 近衛文麿・1940年(昭和15年) | 鈴木貫太郎・1945年(昭和20年) |
4 | 民主党(1998年(平成10年) - 2016年(平成28年)) | 3 | 鳩山由紀夫・2009年(平成21年) | 野田佳彦・2011年(平成23年) |
5 | 日本社会党 | 2 | 片山哲・1947年(昭和22年) | 村山富市・1994年(平成6年) |
立憲民政党 | 濱口雄幸・1929年(昭和4年) | 若槻禮次郎・1931年(昭和6年) | ||
憲政会 | 加藤高明・1924年(大正13年) | 若槻禮次郎・1927年(昭和2年) | ||
8 | 新生党 | 1 | 羽田孜・1994年(平成6年) | |
日本新党 | 細川護熙・1993年(平成5年) | |||
日本民主党 | 鳩山一郎・1955年(昭和30年) | |||
自由党(1950年(昭和25年) - 1955年(昭和30年)) | 吉田茂・1952年(昭和27年) | 吉田茂・1953年(昭和28年) | ||
民主自由党 | 吉田茂・1948年(昭和23年) | 吉田茂・1949年(昭和24年) | ||
民主党(1947年(昭和22年) - 1950年(昭和25年)) | 芦田均・1948年(昭和23年) | |||
日本自由党 | 吉田茂・1947年(昭和22年) | |||
日本進歩党 | 幣原喜重郎・1945年(昭和20年) | |||
立憲同志会 | 大隈重信・1914年(大正3年) | |||
憲政党 | 大隈重信・1898年(明治31年) |
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