鵠沼
藤沢市の地区名 ウィキペディアから
藤沢市の地区名 ウィキペディアから
鵠沼(くげぬま)は、神奈川県藤沢市の南部中央にある地域の地区名。1908年(明治41年)、高座郡藤沢大坂町・明治村と合併する前の旧鵠沼村の村域とほぼ重なる。北は旧東海道付近、東は境川、西は引地川に囲まれた地域である。南は相模湾に面しており、人口は5万人を遙かに超す。年間を通して湘南海岸に多くの観光客が訪れる。
鵠(くぐい)とは白鳥の古名で、かつてこの辺りには沼が多くあり、鵠が多く飛来していたといわれている。詳しくは地名の由来を参照。
神奈川県藤沢市南部の海岸中央部にある地区で、東は片瀬地区、西は辻堂地区、北は藤沢地区に隣接する。
鵠沼の範囲はいくつかの見方がある。
鵠沼郷の呼称は平安時代末期に現れるが、境川(当時の呼称は固瀬川)以西、引地川以東で、南辺は海岸線、北辺は江戸時代に整備される旧東海道(国道1号から1963年(昭和38年)藤沢バイパス開通により神奈川県道43号藤沢厚木線に降格)から市道中学通り線、東海道本線一本松踏切を経て藤沢駅南方を迂回し、境川「新川名橋」に至る線までとなるが、それ以前にもすでに重要な街道が鎌倉の大仏坂に通じており、それが安土桃山時代から江戸時代、さらに明治時代へ続く鵠沼村の村域の北の境界線となっていた。
藤沢市は市域を13地区に分けて行政を進めており、鵠沼地区もその一つである。
藤沢市は1999年(平成11年)2月に「藤沢市都市マスタープラン」を発表し、それに沿った都市計画が進められている。このマスタープランにおける鵠沼地区には藤沢地区の南藤沢を含めている。
現在藤沢市が公開している最も新しい統計資料は、2005年(平成17年)10月1日の国勢調査速報値であり、それによれば鵠沼地区の人口は52,318人(13地区で最高)、面積は5.55km2、人口密度は9,427人/km2(13地区で最高)となっている。ただし、この数字は鵠沼神明を除き、藤沢地区の南藤沢と片瀬地区の旧字大源太のうち境川以西の地区を含んだ地域のものである。
鵠沼地区では公民館は1958年(昭和33年)に市内で2番目に開設されたが、市民センターは2003年(平成15年)、市内で11番目に公民館に併設された。鵠沼市民センターの管轄する自治会・町内会の範囲や民生委員・児童委員の分担地域からは鵠沼神明北部は外れており、南藤沢が含まれている。
学制発布の明治5年(1872年)8月2日よりも早く鵠沼学舎(→藤沢市立鵠沼小学校)が開校し、鵠沼村全域を学区とした。南東部の開発による人口増加により、1946年(昭和21年)8月10日、藤沢市立鵠洋国民学校(→藤沢市立鵠洋小学校)が開校し、本鵠沼駅付近から南を学区とした。さらに1970年(昭和45年)4月1日、藤沢市立鵠南小学校が開校し、鵠洋小学校学区から分かれて鵠沼海岸全域を学区とした。この鵠沼・鵠洋・鵠南の3校が鵠沼地区を3分する形だが、鵠沼神明の東半は藤沢市立本町小学校、鵠沼石上の東部と鵠沼東は藤沢市立新林小学校、藤沢駅南口周辺は藤沢市立大道小学校の学区になっている。
1933年(昭和8年)11月14日、鵠沼北端部に藤沢町内の高等科を統合する藤沢高等小学校(→藤高国民学校)が開校し、これが1947年(昭和22年)の新学制により「藤沢市立第一中学校となった。同時に新たに藤沢市立鵠沼中学校が開校し、東海道本線を境に学区を分けた。1956年(昭和31年)4月1日、辻堂東海岸に藤沢市立湘洋中学校が開校し、鵠沼松が岡全域と鵠沼海岸の大部分が鵠沼中学校の学区から分割された。この第一・鵠沼・湘洋の3校が鵠沼地区を3分する形だが、鵠沼石上の東部と鵠沼東は藤沢市立村岡中学校の学区になっている。
全域が海岸平野の湘南砂丘地帯であり、平坦だが、北西部は東北東-西南西方向、中央部は北東-南西方向、南東部は北北東-南南西方向の砂丘列が見られ、南部は弧状の海岸線に沿った西北西-東南東方向の数列の新しい砂丘列が見られる。この砂丘列の方向は、かつては季節風の吹き寄せによるとされてきたが、近年では縄文海進以降の陸化過程での海岸線方向の変化によると考えられている。砂丘列の方向は鉄道や道路の方向、地割りや建築物の方向、耕地の畝の方向などに影響を与える。鵠沼地区の中央に伸びる北東-南西方向の顕著な砂丘は、北部で海抜25mに達し、鵠沼地区の最高地点である。ここは「新田」集落のすぐ南方にあるため、地元では「新田山」と呼び慣わしてきた。この砂丘列の南部では、所有する地主の名を採った「高松山」「斎藤山」、あるいは植生から採った「バラ山」などという呼び方も見られた。風の吹き寄せによって特に高くなった砂丘は「高砂(たかすな)」と呼ばれることがあり、藤沢駅南方の江ノ島電鉄に沿ったものは停留所の名称(現石上駅)にもなった。また、鵠沼藤が谷南部にも昭和初期までは高砂と呼ばれた砂丘があった。江ノ島電鉄柳小路駅 - 鵠沼駅間の南北方向の砂丘は、高値で売れたことから「百両山」と呼ばれた。砂丘間の低地は潟湖が陸化して海砂に覆われているため、水はけが良く乾燥しているように見えるが、地下水位は案外高い。このため、井戸を掘削することは容易で、別荘分譲地開発時代は先ず庭池を掘り、その砂で土盛りをした上に家屋を建てる方法が採られた。鵠沼松が岡の中央部には昭和初期までアシの生えた湿地が残り、そこからの細流は東流して境川に注いでいた。
鵠沼地区の東西を流れる境川、引地川の両河川は、上流から運ぶ土砂を下流に堆積し、沖積平野を形成する。砂丘地帯という浸食しやすい土地であるため、河川は自由蛇行を繰り返し、引地川の場合、1930年代に県による河川改修が行われるまでは、地形図が発行される度に流路が違うほどであった。境川の場合は、高座郡・鎌倉郡の郡境が現在の鵠沼東、鵠沼石上、鵠沼藤が谷付近で複雑に屈曲し、かつてこの河川を郡境に制定した当時の流路を想定できる。ことに鵠沼藤が谷4丁目から鵠沼桜が岡1丁目にかけての小字名を「川袋」というが、関東以北に多い「袋地名」の代表例で、深い蛇行を表している(袋地名の例としては、他に引地川の「地蔵袋」もある)。これらの自由蛇行の繰り返しは、後背湿地や河跡湖(三日月湖)を多く生み出し、「鵠沼」の地名のもととなったと考えられる。川袋の低湿地は明治時代に片瀬の地主の手で埋め立てられて水田化が図られ、さらに昭和初期、片瀬と鵠沼の双方から埋め立てられて宅地化が図られた。これらの埋め残しの部分は「蓮池」と総称されるいくつかの池沼が見られたが、現在は個人宅内のものを除くと2つだけが「桜小路公園」に遺されるのみとなった。両河川の沖積低地は、1960年代初頭まで水田が残っていたが、境川沿いの鵠沼東・鵠沼石上では藤沢市民会館、秩父宮記念体育館、南市民図書館、南消防署、神奈川県合同庁舎、保健所などの公共施設や大型店舗、集合住宅などが立地するようになった。一方、引地川沿いの水田地帯には太陽の家、八部(はっぺ)公園(鵠沼運動公園)、なぎさ荘などの公共施設が立地している。これら施設の周辺にはまとまった空間があるために、鵠沼地区の広域避難場所に指定されている。しかし、鵠沼地区内では最も浸水しやすい場所なのである。
南部ほど顕著な海洋性気候が見られる。気温の変化は冬の冷え込みが弱く、年較差が相対的に小さい。降水量は初秋の秋霖・台風期にピークがあり、梅雨期がこれに次ぐ。風向は年間を通して季節風よりも海陸風の影響が顕著である。海風は時に飛砂や塩害をもたらす。その対策として海岸部にはクロマツやトベラなどの砂防林が設けられ、畑地では麦藁を挿して飛砂を防いだりマサキの垣根を設ける光景が現在も残っている。内陸の旧農村地域では、旧家に屋敷林が見られる。
発祥は奈良時代、(烏森)皇大神宮を中心に高座郡土甘郷が置かれた頃である。平安時代末期には鎌倉景正により拓かれ、伊勢神宮に寄進された荘園大庭御厨(おおばのみくりや)の一部となり、鵠沼郷と呼ばれるようになった。
江戸時代には旗本布施家と大橋家(2代のみ)の領地と幕府領に分かれ、湘南海岸一帯に幕府の相州炮術調練場(鉄炮場)が開かれ、鵠沼村には「角打ち」という近距離射撃の訓練場が置かれた。東海道藤沢宿に隣接するため、助郷村でもあった。
江戸末期までは周辺地区と同様に農漁村であった。農業は畑作を中心とする自給的なもので、若干の水田も見られた。鉄道開通期には、特産品としてハマボウフウやショウロを駅頭で売る光景も見られたという。漁業はもっぱら地引き網で、イワシ漁が中心であった。これは干鰯(ほしか=魚肥)として販売された。このため海浜部の旧地名を「鰯干場(やしば)」と呼んだ。明治末期から大正の最盛期には網元も9軒を算えたが、現在は1統が残るのみである。
南東部の旧鉄炮場の広大な砂原は、1887年(明治20年)の鉄道東海道本線開通前後から海水浴場や日本で最初の計画別荘地として開発が始まった。1902年(明治35年)に江ノ電が開通し、沿線は別荘地として急速に発展する。
一方、旧来の農村部では従来の自給的農業から水はけの良い海岸平野の特性を生かした園芸農業への転換が見られた。特産物としてはモモとサツマイモが代表的である。北東部の石上には製糸業の工場も操業したが、養蚕は相模野台地ほどは盛んだったといえない。モモ栽培は花の時期に近郷近在から花見客が訪れるなど「湘南の桃源郷」と呼ばれるほどだったが、太平洋戦争が始まると奢侈品だということで伐採が命じられて姿を消した。現金収入を得たためか、鵠沼の鎮守である皇大神宮の例祭に9つの氏子集落が人形山車を巡行する風習が明治中期から始まり、今日まで続いている。神明宮の風流山車を神奈川県は「かながわの民俗芸能50選」に指定し、藤沢市は有形民俗文化財に指定している。
鵠沼地区南東部の相州炮術調練場(鉄炮場)跡地は、ほとんど不毛の砂原であったが、明治中期に約25万坪といわれる広大な土地を入手したのが大給松平家の府内藩主の末裔、大給近道子爵である。宮内省に勤めていた彼は、この土地を御用邸用地に考えていたとも伝えられる。御用邸用地が葉山に決定すると、大給家の差配人木下兄弟と旅館東屋の創業者伊東将行は、この砂原に1町(約100m)間隔の道路を敷設して土地を区切るとともにクロマツを植栽し、別荘地として売り出した。これだけまとまった計画的別荘分譲地の開発は、日本でも初めての例である。
鵠沼海岸海水浴場開設をきっかけに、海岸部に「鵠沼館」、「對江館」(待潮館ともいい、後に「中屋」となる)、「東屋(東家、あづまやとも)」という3軒の旅館が建った。その中でもとりわけ有名なのが東屋である。東屋は、鵠沼海岸別荘地を開拓した伊東将行が1897年(明治30年)頃開業した旅館で、斎藤緑雨、谷崎潤一郎、志賀直哉、武者小路実篤、徳冨蘆花、与謝野鉄幹・与謝野晶子、岸田劉生、芥川龍之介といった、明治から昭和の文人墨客が寓居・逗留し、執筆活動をした旅館である。彼らは当時の作品中に折々の鵠沼風物を描写し、それが「鵠沼風」と呼ばれて大きな評判を得た。「旅館東屋」は、そうした文化人の社交施設の役割を果たした。
日本画家でわが国初のフレスコ壁画を描いた長谷川路可は、東屋二代目女将たかの一人息子である。
東屋は1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で倒壊し、翌年再建されたが、1939年(昭和14年)に旅館業を廃業した。現在、東屋跡地の一画に佐江衆一の筆になる「文人の逗留した 東屋の跡」という石碑が建てられている。
戦後になって1950年(昭和25年)から1995年(平成7年)末まで、伊東将行の孫で養子の伊東将治が旅館東屋跡から西方、鵠沼ホテル跡地に割烹料亭「東家」を開いていたので、旅館東屋と混同されることが多い。
1907年(明治40年)10月、志賀直哉と武者小路実篤は東屋において文芸誌「白樺」の発刊を相談した。後に武者小路実篤は短期間貸別荘を借りて生活し、同人の小泉鐵は鵠沼に借家して白樺の編集に携わる。すなわち鵠沼は白樺派揺籃の地といえるのである。
フュウザン会解散後、草土社を立ち上げた画家岸田劉生は、1917年(大正6年)鵠沼に借家して、その最盛期を暮らした。彼の代表作として知られる「麗子像」は、そのほとんどが鵠沼時代に描かれたものである。草土社に属する椿貞雄や横堀角次郎ら若手画家たちも劉生を慕って鵠沼での借家生活を始めたし、中川一政のように劉生宅の食客になるものもいた。彼らの多くは1922年に結成された春陽会にも加盟し、草土社消滅後も春陽会で活躍した。
江ノ電が開通した頃、鵠沼駅北方の砂丘一帯を所有し、豪邸を構えた高瀬家の離れに1911年(明治44年)秋から翌春にかけて滞在したのが、東京帝国大学文科大学哲学科在学中の和辻哲郎である。帝大文科大学の後輩で高瀬家の長男である高瀬弥一の薦めにより、鵠沼の静かな環境の中で卒業論文を仕上げるのが目的であった。論文を書き上げた和辻は、高瀬家の長女、照に求婚し、結婚する。1914年(大正3年)、和辻の先輩にあたる阿部次郎が高瀬家の離れに住むようになり、翌年は和辻哲郎夫妻が、さらにその翌年から安倍能成も別の離れに住んだ。彼らの鵠沼暮らしは1918年(大正7年)までであったが、時折「例の会」と称する牛鍋を囲んで談論する催しを、友人で夏目漱石門下の小宮豊隆や森田草平らを招いて開き、ここから「大正教養主義」と呼ばれる思潮が生まれた。
このようにして、文学の白樺派、美術の草土社、思潮の大正教養主義という大正デモクラシーの下での新しい自由な文化が鵠沼から発信された。その担い手はいずれも20代から30代前半の青年の集団であったこと、貸別荘などの貸家に住んだことが特色である。しかし彼らが鵠沼に永住することはなかった。
1923年(大正12年)の関東大震災では相応の被害が出たが、より被害が深刻だった都内から政治家、官僚、企業家、高級将校等が続々と転居してくることにより、鵠沼は別荘地から高級住宅地へと変貌することになる。
震災からの復興は急ピッチで進められた。人力車の時代から自動車の時代への転換は、道路整備を要求するものであったが、この時期は公共投資による道路整備は鵠沼地区の外縁部のみで、中心部では私営の道路建設が行われたに過ぎなかった。そのため、旧別荘地の道路は未だに信号機が一つもなく、歩道もほとんど見られない。私営の道路建設の中で特筆すべきは高瀬弥一による鵠沼新道(橘通り-高瀬通り-熊倉通り)である。これにより鵠沼海岸から自動車で藤沢駅に出られるようになったことは、当時短期間鵠沼海岸に住んだ芥川龍之介の小説「歯車」 の冒頭に描かれている。高瀬弥一は、自宅の井戸水を江の島に送る「江之島水道」を建設した。これは後に県営湘南水道に買収される。
1929年(昭和4年)の小田急江ノ島線開通をきっかけに、別荘地と農村部の中間地帯には、耕地整理の名を借りた宅地開発が行われ、建て売り住宅の建設が進められた。この段階での住宅地は100坪以上の敷地を有し、現在も東京近郊の高級住宅地の一つとして有名である。
1930年代は神奈川県の手で湘南海岸の国際観光地化が図られた。折しも世界恐慌の時代と重なるが、失業対策事業という名目も加わってインフラストラクチャー整備が進められた。
主な事業としては、県営湘南水道、湘南遊歩道(鎌倉郡片瀬町-中郡大磯町 現国道134号)敷設、さらに引地川の河川改修と鵠沼堰の建設などである。鉄道省海の家開設、幻の東京オリンピックを見越した県営鵠沼プール(後に藤沢町に移管)の建設が加わった。
日中戦争が泥沼化し、日本が国際社会から孤立化すると、「国際観光地」としてのもくろみは画餅に帰したが、国内有数の海水浴場として、つかの間の賑わいを見せるようになった。しかし、東屋が廃業した1939年(昭和14年)ころから、次第に軍国主義の陰が覆うようになってくる。
皇紀2600年を国を挙げて祝った1940年(昭和15年)10月1日、藤沢町は市制を敷き、藤沢市となる。それから1年余、太平洋戦争に突入する。戦争が激化すると、疎開先に選ばれた鵠沼の人口は激増した。重爆撃機による空襲はほとんどなかったが、艦載機による機銃掃射は日常的になった。
戦後もしばらくは南東部の旧別荘地には松の翠が色濃く残り、北西部の農村地帯は村落共同体としての伝統が脈々と受け継がれていた。
1960年代の高度経済成長期に入ると、農村部を分断して湘南新道(神奈川県道30号)・鵠沼新道(藤沢市道鵠沼海岸線)が相次いで開通し、畑地の乱開発による宅地化が進められた。鉄道沿線には工場が誘致され、公害問題が起こったりした。旧別荘地では相続税問題などから宅地の細分化が進み、かつて高級住宅地のシンボルだった松が急速に失われた。それに伴い、行き止まり道路が増え、踏切の拡幅も遅れたため、緊急車両が入れないなど災害の危険度は増した。周辺の広い道路に面する部分では、中層の集合住宅が建てられるようになった。鉄道の高速化も進められ、小田急の快速急行やJRの湘南新宿ラインの導入などにより、都心部まで50分台で到達できる通勤圏として、さらにベッドタウン化が進んだ。海岸部では湘南海岸公園の整備が進められた。
1990年代にはいると、津波対策のかさ上げが行われ、公園全体の再開発が行われた。
海岸周辺は年間を通じて多くの観光客・サーファーなどで賑わっており、国道134号沿いはサーフショップやレストランなど観光客目当ての店舗が集中している。現在鵠沼地区で営業するサーフショップは25軒を超え、全国最大の集中地区である。また、鵠沼海岸(現:片瀬西浜海水浴場)は日本におけるサーフィン、ビーチバレー発祥の地であり、スポーツカイト、ビーチアルティメット、ビーチフットボール、ビーチテニスの全国大会も鵠沼から始まった。
首都圏にありながら名勝江の島が至近に望める風光明媚な砂浜を抱き、クロマツの木が各所に生い茂る、総じて起伏の少ない平坦な地形である。
温暖な気候・風土から、海浜レジャー等の観光地として高い人気がある一方、住宅地としても、明治半ばからの別荘地開発に伴うインフラ整備や大正期以降の高級住宅地化によって、鵠沼地区の住環境は早い時期から成熟・安定しており、今日においても概ね高い水準を維持している。小田急江ノ島線と境川に囲まれた一帯には、県条例に基づいた「鵠沼風致地区」が指定され、建蔽率や建造物の高さ、色彩に至るまで厳しい規制が掛けられており、閑静な旧別荘地の風情が特に色濃く残されている。
現在の住民は高度経済成長期以降に、郊外住宅を求めて移住してきた世代とその二世・三世が多くを占めてきているが、多数の住宅地の中から鵠沼を選んだ理由として、この地域の住環境の良さを挙げる例がよく見受けられる。彼ら新住民もマスコミによって創作された湘南という漠然としたイメージより、「鵠沼地区に居住していること」そのものにアイデンティティーを持ち、自らの住環境の保全・美化向上に対する手間を惜しまない。
例えば、日本のサーフィン発祥地として鵠沼海岸が挙げられているが、地元のサーファー(ローカルサーファー)による日常的な海岸清掃活動も、そのような愛着や誇りに裏付けられた行動であるといえる。これは近郊の茅ヶ崎・鎌倉・逗子・葉山の各沿岸地域でも同様の傾向が見られる。
地域の道路は国道134号線・市道鵠沼海岸線(鵠沼新道)等の幹線道を除き、その多くが狭隘で複雑に入り組んでおり、地元住民も迷うほどで自動車の往来に支障を来たすこともしばしばである。ことに夏場の観光シーズンの休日ともなると生活道路にまで海水浴客の車が入り込み、交通マヒ状態になることもあるが、その「迷路」状態が幸いしてか、住宅地域の治安はその人口に比して良好ではある。公共交通機関については、地区をほぼ南北に結ぶ二本の私鉄や、豊富なバス路線網により通勤・通学の利便性は高い。
鵠沼地区の歴史は、小田急線付近を境に北西部の鵠沼神明・本鵠沼は約1100年の伝統を持つが、南西部の開発は東海道線の開通がきっかけで、110年ほどの歴史しかない。この2地域はあらゆる面で対照的な関係にある。
1908年(明治41年)、旧鵠沼村は、藤沢大坂町・明治村と合併して高座郡藤沢町となり「藤沢町鵠沼」と総称された。
鵠沼地区の公的な地名には3つの成立段階がある。
現在でも町内会名などに残る。
鵠沼には湿地が多くあり、鵠(くぐい)とは白鳥の古名で白鳥が飛来したからだといわれている。が、白鳥が降り立った沼があったか確証はない[7]。『新編相模国風土記稿』では久久比奴末と読みが付けられている[8]。
2023年(令和5年)9月1日現在(藤沢市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2015年6月時点)[15]。
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[16]。
大字 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
鵠沼 | 9事業所 | 328人 |
経済センサスによる事業所数の推移。
経済センサスによる従業員数の推移。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.