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日本の海軍軍人、言語学者、民族学者 ウィキペディアから
松岡 静雄(まつおか しずお、1878年(明治11年)5月1日 - 1936年(昭和11年)5月23日)は、日本の海軍軍人、言語学者、民族学者[1]。最終階級は海軍大佐。兄は民俗学者の柳田國男[1]。
兵庫県神東郡田原村辻川(現神崎郡福崎町)に儒者・松岡操、たけの七男として生まれる。その際、母親は夕日を見ているところを夢に見ており、夕日のまわりに後光がかかって軍旗のように見えたため「この子はどうも軍人になりそうです」と話した[2]。1897年12月、海軍兵学校(25期)を首席[3]で卒業し、1899年2月、海軍少尉任官。日露戦争には「千代田」航海長として出征し、日本海海戦を戦った[4]。その後、「八幡丸」「千歳」の各航海長、第2艦隊参謀、海兵監事、軍令部参謀などを歴任し、1907年9月、海軍少佐に進級した。
1909年9月、オーストリア=ハンガリー大使館付武官となり、さらに「磐手」「朝日」「筑波」の各副長を務め、第一次世界大戦時の1914年12月、臨時南洋群島防備隊参謀の発令があったが病欠で赴任できず、横須賀鎮守府付の後、海軍省文庫主管を勤める。1916年12月、海軍大佐に昇進。1918年12月、予備役に編入され、1921年5月に退役した。
退役後、神奈川県藤沢市(当時は藤沢町)鵠沼に居を移すが、直後に起こった関東地震では、遭難死した東久邇宮師正王の遺骸を運ぶために軍艦を相模湾に回航させたり、遭難死した住民26体の遺骸を地元青年団が荼毘に付す際の指揮を執ったりしたという逸話が残っている。
震災後は鵠沼西海岸に居を構え、神楽舎(ささらのや)と名付けて言語学、民俗学を研究し、同じ軍人出身の「岡書院」店主岡茂雄の勧めもあり、十数年で多くの著作を残した。また、扇谷正造をはじめ多くの青年たちが訪れて学んだ。
没後、弟子たちによって「松岡静雄先生之庵趾」という石碑が建てられ、現存する。言語学、民俗学における権威者であった[3]。
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