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日本の漫画家 (1938-1998) ウィキペディアから
石ノ森 章太郎[注釈 1](いしのもり しょうたろう、1938年〈昭和13年〉1月25日[2][3] - 1998年〈平成10年〉1月28日[3])は、日本の漫画家。本名は小野寺 章太郎(おのでら しょうたろう)[3]。1984年までは「石森 章太郎」の表記を使用していたが、この時期には「いしもり しょうたろう」と呼ばれるのが通例だった。
SF漫画、ギャグ漫画から学習漫画まで幅広いジャンルの作品を量産し、“漫画の神様”手塚治虫との対比で「漫画の王様」[4][5]、「漫画の帝王」[6] と評された。
代表作は『サイボーグ009』『佐武と市捕物控』『009ノ1』『さるとびエッちゃん』『人造人間キカイダー』『マンガ日本経済入門』『HOTEL』など[3]。仮面ライダーシリーズやがんばれ!!ロボコンを始め、特撮作品の原作者としても活躍した。
昭和30年代から昭和40年代の高度経済成長のアニメなどテレビ放送網の開始時期に、漫画の世界で新しい手法の開発者として目立った存在の漫画家であった。多様な分野と作風の中でも特にSF漫画で他への影響が手塚と並んで大きく、いわゆる手塚風漫画の中で最もスタイリッシュな作風で、各時点での新鮮な画面コマ表現と少女漫画にも通用する滑らかな線をもち、昭和40年代始めごろには漫画の王様と呼ばれていた。この時期の作風は、SF(S&F)性・詩的叙情・アクションを含むことが多かった。それらの要素は1971年に放送開始された『仮面ライダー』以降、徐々に特撮作品へと移っていき、執筆する漫画の傾向は青年漫画や学習漫画など幅広いものとなっていった。
1989年(平成元年)、漫画には「面白い、おかしい」だけではない多数の表現が可能になったとして、漫画の新しい呼び名「萬画」を提唱し「萬画宣言」を発表した[注釈 2]。以降は自らの職業を「漫画家」ではなく「萬画家」と称した。没後の2007年末には、500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集』(角川書店)が、一人の著者による最も多い漫画の出版の記録としてギネス・ワールド・レコーズに認定されている[注釈 3]。テレビ原作者(アニメ・実写)としてのクレジットは放映期間のべ六十数年分に及び、野村胡堂、長谷川町子らを凌駕して国内最高で、2020年現在も更新し続けている。
妻の小野寺利子は石森グループ会長。息子に俳優の小野寺丈(長男)と石森プロ社長の小野寺章(次男)がいる。脚本家の石森史郎は従兄弟[7]。小説家の今野敏ははとこ[8]。
1938年(昭和13年)1月25日[注釈 4]、宮城県登米郡石森町(中田町石森を経て現・登米市中田町石森[3])[注釈 5]に、父・康太郎、母・カシクの長男として生まれる。姉、弟2人、妹の5人兄弟。下記にもあるように当初は映画監督を志していたが、3歳上の姉である小野寺由恵は生来病弱で外出もままならないため、学校での出来事や外での見聞などを絵に描いて見せていたのが、漫画の原点であったという。
登米市立石森小学校に通っていたころは単行本や雑誌を読むのが好きで、あるとき手塚治虫の『新宝島』に出会い衝撃を受け、以後手塚治虫の大ファンとなる[11]。
1950年(昭和25年)、中学生になり手塚治虫にファンレターを出したところ返事が戻ってきたことでますます漫画に夢中になり、2年生のとき初めて4コマ漫画を「毎日中学生新聞」に投稿したところ入選、以後投稿マニアとなる。近所の子供を集めて研究会をつくり会誌『墨汁一滴』を作成(このときは2号で廃刊)、投稿漫画を募集していた『漫画少年』で批評を担当していた手塚治虫の元に送ったりした[11][12]。
1953年(昭和28年)、宮城県佐沼高等学校[注釈 6]に入学。『漫画少年』への投稿仲間を集めて「東日本漫画研究会」を設立、肉筆回覧誌『墨汁一滴』を制作する[11]。第一期の会員には赤塚不二夫、横田徳男、長谷邦夫、横山孝雄、高井研一郎、徳南晴一郎などがいた[11]。このころ既に漫画業界で「宮城県に天才がいる」と評判になっている。このころのあだ名は「じゃがいも」。高校2年生の春(5月)、手塚治虫より仕事を手伝って欲しいとの電報が届き、『鉄腕アトム』のアシスタントを務める[11][12]。
高校在学中の1954年(昭和29年)[3][注釈 7]、手塚治虫の仲介で、石ノ森は『漫画少年』でデビューすることになる[15]。デビュー作は、1954年12月発売の『漫画少年』1955年新年号[16]に掲載された『二級天使』[3]。
1956年(昭和31年)、厳格な公務員であった父からは漫画家になることを反対されていたが、喘息持ちの由恵が両親を説得するなど熱心に応援してくれたこともあり、高校卒業と同時に上京、下落合に下宿する。5月からトキワ荘に移り、15日には病気治療も兼ねて由恵も上京する。手塚をはじめ多くの漫画家たちが住んでいたトキワ荘に住み、作家活動を始めた。トキワ荘グループの男性陣の中では最年少ではあったが、最も早く頭角を現し、赤塚不二夫[注釈 8]などは、自分の漫画を描くよりも、石ノ森のアシスタントをする時間の方が多いほどだった。
しかし1958年(昭和33年)4月4日、トキワ荘で石ノ森と同居し、トキワ荘グループのマドンナ的存在となっていた由恵が急逝した[注釈 9]。最大の理解者であった姉を失ったことは、後の石ノ森の作風にも大きな影響をもたらした。
1959年(昭和34年)、手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに、手塚の身代わりとして東映動画(現・東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に派遣された。石ノ森は月岡とともに「このまま東映動画に入ってアニメーションをやりたい」と訴えたが、当時東映動画の若手スタッフだった白川大作(後に東映動画専務)から「(絵が個性的でアニメに向かないから)ちゃんと漫画をやれ。そのかわり漫画が売れたらそれを原作として買いに行く」と説得されて断念した[17][注釈 10]。後にこのときの約束通り東映動画で作品がアニメ化された。さらに東映本体での特撮番組企画へとつながる東映グループとの接点のきっかけとなる。
藤子、赤塚らと共にトキワ荘に長く住み、国民的売れっ子作家に上り詰めた中でも、もっとも遅い時期まで石ノ森はトキワ荘に住み続けた。
1961年(昭和36年)8月24日より70日間の海外旅行に出掛ける[18]。当時は海外旅行が自由化される前で、単なる「観光」では旅行許可が下りなかったため、集英社に依頼しシアトルで開かれるSF大会の取材という名目で臨時に「取材記者」の肩書きを入手している[19]。貯金がなかったため、旅費も各出版社から前借りした[19]。SF大会では、矢野徹の紹介状をSFファンダムで有名なフォレスト・J・アッカーマンに渡し、ロバート・A・ハインライン、ポール・アンダースンらを紹介してもらう[20][注釈 11]。なおこの旅行は、『少女クラブ』などの雑誌の廃刊が続いたことのショックや、姉の死からの逃避行という面も持っていた[22]。
1962年(昭和37年)、トキワ荘を転出する[12]。1963年(昭和38年)5月、鈴木伸一らとアニメーション制作会社「スタジオ・ゼロ」を設立[12]。
1964年、手塚治虫の仲人により結婚[12]。また12月に発足した日本漫画家協会に入会する[12]。
1964年(昭和39年)7月19日より『少年キング』にて代表作となる『サイボーグ009』の連載を開始する。この頃にはすでにスター作家となっており、この時期に描かれた石ノ森のマンガ入門書『マンガ家入門』(1965年)、『続・マンガ家入門』(1966年)は当時から広く読まれた。これは漫画の技術論から、具体的なストーリー構想術までが書かれた画期的な漫画家入門書で、長年の間漫画家志望者のバイブルとなった。また、『サイボーグ009』を連載していた当時、ファンレターの宛先が漫画家の住所となっていたため多数の読者が訪問していた[23]。すがやみつるが『サイボーグ009』の連載終了直後に訪問したときは、サインを貰いにきた別の訪問者に対して、訪問者に見えないところで当時チーフアシスタントであった永井豪が絵だけではなくサインまで書き上げて渡していたという[23]。このような対応を行わないと仕事にならないほど訪問者がきていたことが原因である[23]。
1966年(昭和41年)、『ミュータント・サブ』『サイボーグ009』により第7回講談社児童まんが賞を受賞[12]。
1968年(昭和43年)、石森章太郎プロを設立。『ジュン』『佐武と市捕物控』により第13回小学館漫画賞を受賞[12]。
1971年(昭和46年)より、東映特撮作品『仮面ライダー』の原作とその漫画化(仮面ライダー)を担当した[3]。この成功をきっかけに同社における数多くの特撮・変身ヒーロー番組の原作を手がけることになった。もともと映画監督志望だったこともあり、一部の作品(『仮面ライダー』や『イナズマン』)では監督も務めている。
1981年(昭和56年)より日本漫画家協会理事を務める[12]。
1985年(昭和60年)[注釈 12]、画業30年を機に「石森章太郎」から「石ノ森章太郎」に改名した[3]。もともと彼のペンネームは故郷の石森町に由来するもので、「石森」と書いて「いしのもり」と読ませるつもりだったが、誰も「いしのもり」と読んでくれず、「いしもり」としか呼ばれなかったため、初心に戻る意味をこめて改名を行なったという。しかし、山田ゴロが自身のサイトで語るところによると、改名する前は打ち合わせ・旅行・忘年会などの季節行事で関係者一同に頻繁に会っていたのが、改名したころからはそれがなくなり、石森プロに連絡しても会わせて貰えなくなった[25]。ほどなく関係者一同の間で「先生は御病気らしい」という話が広まったという。
1988年(昭和63年)、『HOTEL』などにより第33回小学館漫画賞を、『マンガ日本経済入門』により第17回日本漫画家協会賞大賞を受賞[12]。
1989年(昭和64年/平成元年)、『マンガ日本の歴史』の描き下ろしを始めるにあたり「萬画宣言」を発表[26]。
1992年(平成4年)4月、突然高熱を出し入院する。風邪によく似た症状だったが、検査の結果悪性リンパ腫と診断された。その後も闘病生活の傍ら執筆活動を続けたが、1997年秋に病状が悪化し再入院。1998年(平成10年)1月28日、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院でリンパ腫による心不全のため死去、60歳没[1][3]。還暦を病院で迎えてから僅か3日後のことであった。戒名は「石森院漫徳章現居士」。墓は東京都豊島区池袋三丁目の祥雲寺にある。
1998年(平成10年)、没後、勲四等旭日小綬章、全作品に対して第27回日本漫画家協会賞文部大臣賞、漫画と漫画界への長年の貢献に対して第2回手塚治虫文化賞マンガ特別賞が贈られる。
2000年(平成12年)7月20日、故郷である宮城県登米市中田町に「石ノ森章太郎ふるさと記念館」が設立[27]。
2001年(平成13年)7月、宮城県石巻市に「石ノ森萬画館」設立[28]。
2006年(平成18年)、『石ノ森萬画大全集』刊行開始。
2008年(平成20年)、ギネス・ワールド・レコーズにおいて手塚治虫の「講談社手塚全集」全400巻の記録を「石ノ森萬画大全集」全500冊によって更新、「世界一多作な漫画家」に認定。ギネス世界記録博物館の名誉館長に就任。
この節の加筆が望まれています。 |
トキワ荘時代、病気療養を兼ねて上京し同居していた姉の由恵は美人で有名であり、トキワ荘のマドンナ的存在であった。ある晩、寝床で由恵が石ノ森に好きな人ができたと告げたという。由恵の死後、石ノ森はこのことを相手の名前を伏せた上で公表したが、複数の関係者によると、相手は藤子不二雄Ⓐだという。
アシスタント経験者かつ弟子でもある永井豪は、石ノ森のことを「常人の5倍のスピードで描ける天才」と評している[30]。
藤子不二雄[注釈 13]やのちに石ノ森のアシスタントを務めた永井豪など、石ノ森を知る人間は口を揃えて制作の速さを証言している。藤子の『まんが道』では、藤子が2人で1日に5、6枚描ければよいところを、石ノ森は1人で15-20枚を描いていたという話が出てくる。また石ノ森のエッセイ漫画『サンジェルマン伯爵』(サイボーグ009「海底ピラミッド編」のエピローグに相当)には、「昔(赤塚不二夫と2人で描いていた時代)は月650枚という無茶もやったが、最近では歳だから300枚でフウフウいう」とある。
島本和彦は文庫版『石ノ森章太郎のマンガ家入門』の解説で、「石ノ森章太郎は考えずに、考えたあとの結果を惹きだせる作家ということになる。(中略)その後、石ノ森章太郎本人にたずねたことがあるが、この私の理解は正しかった。描くときは「感覚」で描くのだ。しかも「考えながら描くと良いものが出ない」ということなのだ」と書いている[31]。
ヘビースモーカーで灰皿をすぐ一杯にするため、トキワ荘時代は赤塚不二夫が気を利かせてこまめに交換していたという[32]。
手塚治虫の衣鉢を継ぐSF漫画の第一人者であったが、熱心なSFの読者としても知られ、海外SF小説から作品のヒントを得ていたことも指摘されている[23]し、本人も作中でよく紹介している。
子供のころから熱狂的な映画ファンとして知られ、古今東西の映画に通じており、日本映画からハリウッド映画、フランス映画、イタリア映画、イギリス映画に、『ヴェラクルス』やジョン・フォード『駅馬車』『荒野の決闘』などの西部劇や時代劇に恋愛・サスペンス・アクション・SF・コメディ・B級映画の秀作、007シリーズなど、監督は日本の黒澤明やアメリカのフォードやチャーリー・チャップリン、アルフレッド・ヒッチコック、フランスのルイ・マルやアンリ=ジョルジュ・クルーゾーに俳優は三船敏郎やジャン・ギャバン、ジョン・ウェイン、イングリッド・バーグマン、ジャンヌ・モロー、マリリン・モンロー、オーソン・ウェルズなど。評判の名画は何でも見る語る部類の映画好きであり、同じく大の映画ファンであった手塚や赤塚、藤子らと映画を見て語り映画に狂った青春を過ごし、自身の漫画作品に絶大な影響を受けたことは彼ら自身の発言や作品(特に藤子のまんが道[33])、著書,でも多く見られる[34]。
内田吐夢時代劇に深い影響を受けており、特に原作版仮面ライダーになどに影響を与えた[35]。またライダーにはジョン・ウェイン西部劇の影響も強く受けている[36]。
石ノ森が原作を手掛けた特撮テレビドラマは、既にある漫画の実写映像化ではなく、製作会社である東映の企画に設定とキャラクターデザインを提供し、出来上がったものを元に漫画も執筆するというものであった。
『仮面ライダー』以後、自身が原作を手がける特撮テレビ番組の漫画連載も多く担当したが、これらはパブリシティ展開として義務付けられていたものであり、テレビ作品の雑誌連載はやりたくないというのが本音であったと述べている[2]。特に作中へテレビ用のキャラクターを登場させると物語に無理が生じることにジレンマを抱えており、後発の『秘密戦隊ゴレンジャー』などではテレビ版とは異なる内容で執筆している[2]。小学生時代にこれらの作品を読んでいた東映の白倉伸一郎は、石ノ森のコミカライズは深いテーマを内包しているが、連載期間内では処理しきれないことが多いと評している[37]。
原作者として参加したテレビ作品に対しては技術的な部分以外に不満はないとしているが、自身の既存の作品を映像化する際は身を切られるような想いであったといい、『サイボーグ009』や『好き! すき!! 魔女先生(千の目先生)』などの設定変更には抵抗があったことを語っている[2]。
これらの実写作品では、主役などのレギュラーのキャラクターデザインを石ノ森が手がけるのが通例だったが、『仮面ライダーストロンガー』以降の仮面ライダーシリーズや『アクマイザー3』『秘密戦隊ゴレンジャー』『ジャッカー電撃隊』などの1970年代中期以降の作品では、毎回登場するゲストのキャラクター(敵の怪人)のデザインも数多くおこなっている。ゲストのキャラクターのデザインの多くは簡単な設定込みで石ノ森がラフスケッチを起こすという形で行われ、このラフスケッチをもとに番組スタッフ側でシナリオや着ぐるみがつくられた[38][注釈 14]。ただし、必ずしも石ノ森のラフが尊重されたわけではなく、造形スタッフ側で大幅にアレンジされることもあった[38][注釈 15]。
※五十音順
この欄で紹介する作品は、テレビ番組の企画のブレーンとしての参加であり、テレビの企画が先行し漫画が原作というわけではない(詳細は上記の「経歴」を参照)。また、自らは漫画を描いていない作品も多い。
以下は没後製作されたが、著作権管理を一括する配慮からテロップでは原作者とされている。
「スーパー戦隊シリーズ」の原作は、第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』と第2作『ジャッカー電撃隊』のみ石ノ森(当時は「石森」)が担当し、第3作『バトルフィーバーJ』以降は八手三郎に交代した。ただし、秘密戦隊ゴレンジャーとジャッカー電撃隊も登場する場合や「仮面ライダーシリーズ」とのクロスオーバーでは、石ノ森も連名でクレジットされている。
なお、『仮面ライダーディケイド』第24話・第25話と第33作『侍戦隊シンケンジャー』第20話・第21話(両作品のクロスオーバー)においては、『ディケイド』では石ノ森のみが、『シンケンジャー』では八手のみがそれぞれ原作者としてクレジットされた。第39作『手裏剣戦隊ニンニンジャー』第7話にはアカレンジャーが登場しているが、石ノ森のクレジットはなかった。
一方、石ノ森(石森)が単独原作者とされる東映作品(『宇宙鉄人キョーダイン』『快傑ズバット』『氷河戦士ガイスラッガー』など)において、八手が作詞者としてクレジットされている楽曲が多い。
以下は没後の製作。
以下は没後の製作。
この他、『新・おみやさん』2012年版第1話と『京都地検の女』2012年版第1話では両作品同士のクロスオーバーが行われたが、『京都地検の女』では石ノ森は原作者としてクレジットされていない。
映像作品のコミカライズ、ノベライズは除く。
仮面ライダーシリーズの漫画作品は、仮面ライダーシリーズ#他の作家による漫画作品を参照。
など。
など。
角川グループ創立60周年の記念企画。2006年2月22日第1期発売開始。全12期500冊。770タイトルにもなる。2008年現在全12期発行完了。
ネットでの予約販売のみ(一般書店では購入不可能)、各期ごとのセット販売のみ(1冊ずつの購入は不可能)、限定生産という、入手を難しくする条件が重なったため、復刊ドットコムで販売形式が発表された当初は、掲示板に批判的な意見が多数寄せられた。
2008年1月24日にギネス・ワールド・レコーズから「1人の著者によって出版された最多コミックの記録」として世界記録の認定を受けた[58]。
2014年〜2015年には、同様の企画として電子書籍『石ノ森章太郎 デジタル大全』(石森プロ・講談社)の配信が開始されている。(全15期500冊)[59] こちらは1冊から購入可能になっている。
上のアニメや特撮の原作となった作品のキャラクターは省いている。
原作者という立場ではあるが、いくつかの作品では、石ノ森章太郎本人がテレビ番組や映画作品中に出演している。
出演時期によっては「石森章太郎」名義になっている。
手塚治虫と石ノ森章太郎は単に知名度のみならず、漫画作品の質・量とも随一であり、共通するエピソードも多いため、節を分けて解説する。
山田及びすがやのサイトによると、正確には「石ノ森の作画作業を補助する、本来の意味のアシスタント」(こちらは石森スタジオと呼ばれていた)と、「石森プロ関連作品の漫画化やキャラクター商品などの絵描き」の二種類があり、両者は仕事場も別々で、どちらかしか担当したことがない者も多いという。例として永井は前者、すがやは後者である。石森が亡くなった際、葬儀は密葬にて行われたが、『ライダー』ブームから始まるテレビまんが誌黎明期に活躍していた門下生たちは直訴した結果、石森の家までの集団訪問を許されている。
石ノ森はすがやに対し「アシスタントは多かったが、弟子はすがやだけである」と述べている[64]。
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