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宮城県東松島市にある航空自衛隊基地 ウィキペディアから
松島基地(まつしまきち、英: JASDF Matsushima Airbase)は、宮城県東松島市矢本に所在する航空自衛隊の基地(軍用飛行場)。基地司令は第4航空団司令が兼務。
所属する航空部隊はF-2Bの操縦訓練を実施する第21飛行隊(第4航空団隷下)、自衛隊の展示飛行隊である第11飛行隊(ブルーインパルス、第4航空団隷下)、捜索救難を行う松島救難隊(航空救難団隷下)である。
平時は戦闘機部隊が利用することはないが、中国軍およびロシア軍が有する戦闘機の戦闘行動半径外にある地政学的条件を活かして、有事の際は北方からの脅威に襲われる千歳基地や三沢基地を支援する戦略拠点となる。
また、百里基地などの関東地方の各基地と青森県の三沢基地の中間に位置するため、天候不順時に航空機が代替着陸する基地としても使用される。
基地としての歴史は、日本海軍の飛行場、松島海軍航空隊矢本飛行場として始まる。この飛行場の建設は1938年(昭和13年)から始まり、1942年(昭和17年)に竣工した。当時、横須賀海軍建設部の書記官一人が事前連絡なしに当時の鷹来村を訪れ、一方的に飛行場の建設を村の関係者に言い渡したという。完成した飛行場は、幅8メートル延長1550メートルの滑走路3本を持ち、戦闘、補給、管理の諸部隊の兵員約1000名がここに勤務した。基地に配備された機体は、夜間戦闘機「月光」5ないし6機、爆撃機「銀河」50機、一式陸上攻撃機20ないし30機である。また、第二〇一海軍航空隊や第七〇六海軍航空隊などが駐留した。1943年(昭和18年)には、現在の仙石線の前身である宮城電気鉄道の矢本駅から矢本飛行場まで線路が引き込まれ、主に航空燃料の輸送に使用された[1][2][3]。松島海軍航空隊は豊橋海軍航空隊および松山海軍航空隊と共に陸攻隊を編成して沖縄戦を戦い、約200名が戦死した。
矢本飛行場は1945年7月の7月14日、7月15日、7月17日の7月空襲があった。終戦前の昭和20年の8月9日と8月10日の爆撃の合計5回にわたってアメリカ軍の空母艦載機による空襲を受けた。アメリカ軍機の接近を察知できなかった飛行場の日本軍機は一方的に破壊された[4]。
終戦後、矢本飛行場はアメリカ軍に接収されて「松島キャンプ」となり、ここにアメリカ軍第11空挺師団の第188連隊が進駐した。この部隊はエアボーンを行う空挺兵の部隊で、いわゆる落下傘部隊である。進駐後、この部隊は松島キャンプで降下訓練を行っていたが、既存の敷地では手狭と考え、飛行場周囲の土地を追加で接収した[5]。また、朝鮮戦争時には陸軍工兵隊の訓練などに使われた[6]。1954年(昭和29年)6月1日に保安隊の臨時松島派遣隊が船岡駐屯地で編成されて、この部隊は翌日に松島キャンプに入った。同年7月に自衛隊の発足に伴って、臨時松島派遣隊は航空自衛隊の部隊となり、アメリカ軍の指導の下で日本人パイロットの養成が始まった。そして1955年(昭和30年)に松島キャンプはアメリカ軍から日本に返還されて松島基地となる[7]。
2011年(平成23年)3月11日14時46分頃に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生、東松島市では震度6強を観測。14時50分、宮城県に15時00分に高さ6mの津波が到達するとの気象庁発表[15]。地震発生から約1時間10分後の15時54分頃、基地は高さ2m以上の津波に襲われた[16][17]。
本来、震度5以上なら直ちに航空機で上空から被害確認にあたるが、天候による視界不良、津波到来の時刻が当初不明だったこと、揺れで捜索機の前輪がずれたこと、激しい余震が予期される中での救難ヘリコプターの離陸は回転翼が機体をたたく危険性があること、滑走路や誘導路に亀裂や断裂が生じている懸念の対策等から津波に襲われるまでに航空機を飛ばすことができず[18]、駐機場および格納庫に駐機していた航空機28機(F-2B戦闘機×18機、T-4練習機×4機、U-125A救難捜索機×2機、UH-60J救難ヘリコプター×4機)全てが水没し[19][20][21]、冠水のため基地機能も完全に喪失した(その後、水没した18機のF-2のうち修理可能な機体は13機と判明)。
当時基地で勤務していた隊員約900名は建物屋上に避難し全員無事だったが、休暇中の隊員1名が死亡した[22]。
ブルーインパルスは、震災翌日に予定されていた九州新幹線全線開業の祝賀飛行[23]のため3月10日から福岡県芦屋基地に展開していたため、被害を受けたのは基地に残っていた予備機1機のみであった。
翌3月12日の夜明けから隊員の手作業により滑走路の復旧に着手、同日午後には他基地から重機が到着し、復旧作業が本格化する一方で[24]、津波被害を免れた2台のトラックを救助活動に向かわせた。
3月15日に滑走路が復旧し(管制レーダーは使用不能)、翌3月16日5時50分にアメリカ空軍第353特殊作戦群所属のMC-130Pが着陸、人員と機材を下ろし臨時の管制機能を開設[25]、これにより松島基地は救援物資の輸送拠点として使用された[26]。
第21飛行隊は、青森県の三沢基地へ移動して三沢移動訓練隊を編成、他部隊のF-2Bを借り受け飛行教育を行う事とした。
2014年(平成26年)3月3日、被災した旧管制塔に代わって建設された新管制塔の運用を開始した[27][28]。これにより、発災以来、松島基地で活動していた移動管制隊は百里基地に帰還した[28]。また同月、松島救難隊と第11飛行隊(ブルーインパルス)の新格納庫が完成した[28]。
2016年(平成28年)3月に駐機場を4mかさ上げする津波対策工事と新しい格納庫の建設が完了。同月には第21飛行隊が松島基地に帰還した[13]。帰還時は10機(内6機は修理完了機)のF-2Bで部隊を稼働し、残り7機のF-2Bも2017年度中に修理され復帰した。
航空教育集団隷下
航空総隊隷下
航空支援集団隷下
防衛大臣直轄部隊
クラブ活動
毎年8月に開催。2006年(平成18年)から基地内駐車場は原則として廃止したため、JR矢本駅などを利用する、公共交通機関での来場を呼びかけていた。ブルーインパルスの展示飛行が催される。2019年開催の航空祭では5万6千人が来場したとされ、東松島市最大のイベントとされる[29]。
2011年以降は東日本大震災の影響により開催されていなかったが、2016年8月28日、事前公募9,000名と特別招待1,000名の計1万名に限定した「復興感謝イベント」を開催。ブルーインパルスの展示飛行が本拠地にて約6年ぶりに行われた[29]。
2020年および2021年は、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を受けて中止されていたが、2022年は入場を応募制にした上での開催となった[29]。
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