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イングランドのミュージシャン ウィキペディアから
ジェイムズ・ポール・マッカートニー(Sir James Paul McCartney CH MBE、1942年6月18日 - )は、イギリス出身のシンガーソングライター[12]。ファーストネームはジェイムズであるが、父のファーストネームも同じくジェイムズであることからミドルネームであるポールを用いている[注釈 1]。
1960年代にロックバンド、ビートルズのメンバーとしてジョン・レノンと共に楽曲の作詞作曲を多く手掛けたほか、ボーカルと演奏を担当した(レノン=マッカートニーを参照)。ビートルズ解散後はウイングスを結成し、メンバーとして活動したほか、ソロ・ミュージシャンとしての活動も行い、デビューから半世紀以上が過ぎた現在も第一線で活躍を続けている。これまでに制作した楽曲は2019年時点で500曲以上[13]で、『ギネス世界記録』に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として掲載されている[注釈 2]。
「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」等といったビートルズの楽曲の作詞・作曲を行った。解散後には新たにバンド、ウイングスを結成し、「マイ・ラヴ」「007 死ぬのは奴らだ」「ジェット」「バンド・オン・ザ・ラン」「あの娘におせっかい」「心のラヴ・ソング」「幸せのノック」「夢の旅人」「しあわせの予感」「グッドナイト・トゥナイト」などのヒット曲を発表し話題となった。1980年代に入り、ウイングスは解散、ソロ名義で活動を始めた。『タッグ・オブ・ウォー』『フラワーズ・イン・ザ・ダート』『フレイミング・パイ』といったアルバムを発表し現在に至っている。
ビートルズ時代を含め、基本的にベーシストとしてエレクトリックベースを主に使用するが、録音および公演では度々ピアノを演奏している。ギターの演奏にも定評があり、ビートルズ時代の「タックスマン」、ソロとして発売した「恋することのもどかしさ」などではギターソロを披露している。また、「カミング・アップ」「ワンダフル・クリスマスタイム」などではシンセサイザー、「ジョンとヨーコのバラード」や「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」「ディア・プルーデンス」などではドラムス、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」などではメロトロンを演奏している。その他にも楽曲によりトランペット、フリューゲルホルン、マンドリンやチェロも担当している。それを示すように、1970年に発売されたアルバム『マッカートニー』1980年の『マッカートニーII』2005年の『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』2020年の『マッカートニーIII』では、ほとんどの楽器をマッカートニーが一人で演奏している。
作曲技法はほぼ独学だが、初期はリズム・アンド・ブルースに大きな影響を受けていた。またジョージ・マーティンの影響でクラシック音楽の技法も取り入れるようになった[注釈 3]。ベースの演奏手法ではモータウンのジェームス・ジェマーソン[注釈 4]、ボーカル・スタイルではリトル・リチャードの影響が強い。ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、コーラスの一人多重録音も盛んに行っている。インタビューでは、お気に入りのギタリストはジミ・ヘンドリックス、お気に入りのベーシストはクロスオーバーのスタンリー・クラークと回答している。一方でウッドベースに関しては、演奏例は皆無ではないものの、殆ど使用しない。
信条は環境保護、動物愛護、平和主義、反人種主義である。マッカートニーの差別反対が顕著に出ている例として、いわゆる「ゲット・バック・セッション」における「ゲット・バック」の歌詞を考案した際の逸話がある。マッカートニーはその日の朝刊に、イノック・パウエル議員が「移民は国に帰れ(Get Back)!」と発言したという記事があったことを引き合いに出して、歌詞に「プエルトリコ人はアメリカにいらない」「パキスタン人、仕事を奪ってはいけない」などを即興で加え、仮タイトルを "(Don't Dig) No Pakistanis"[14](「パキスタン人は要らない」)としたという[注釈 5]。
1942年6月18日にマージーサイド州リヴァプールで誕生する。労働者階級出身。父のジェイムズは営業員や作業員として働く一方、セミプロ級の技術を持つアマチュアのジャズ・ミュージシャンであった。父方の曾祖父がアイルランド系で、さらに母方の祖父もアイルランド系だった。
母メアリー(1909年 - 1956年)が乳癌のため1956年に死去した。この年、処女作「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」を作曲する。同曲は後に1991年発売のライブ・アルバム『公式海賊盤』に収録される。ソロアルバム「マッカートニー」に収録されている「スーサイド」、ビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に収録されている「ホエン・アイム・シックスティー・フォー」もこの頃に作曲されたといわれている。
リヴァプール・インスティチュート在学中の1957年7月6日、共通の友人であるアイヴァン・ボーンの紹介でレノンと出会う。10月18日にビートルズの前身となるレノンのバンド、ザ・クオリーメンに加入する。マッカートニーは真面目に学業に取り組んでいたが、高校時代から音楽に没頭したため、成績は下降し[15]、欠席日数も増えた。
西ドイツのハンブルクなどのクラブに多数出演する。スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストの脱退などのメンバー交代を経た後、レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターとの4人で1962年、ビートルズとしてEMIパーロフォンよりシングル『ラヴ・ミー・ドゥ』でデビューし、世界的に大成功を収めた。
ビートルズとして1966年6月に来日し、日本武道館にて公演を行った[16]。公演が実施される前には正力松太郎の「ベートルスとかペートルスとかいう連中」発言や、細川隆元、小汀利得や街宣車などの反対があったが、公演を無事に催行。ビートルズ日本公演以来、日本武道館は「日本音楽界の聖地」とも呼ばれる場合もある。
1970年4月10日、ビートルズを脱退するというマッカートニーの意向がイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』で報じられ[注釈 6]、ビートルズは事実上解散した。その1週間後の4月17日、騒動の最中に初のソロ・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは好調な売れ行きを見せ、アメリカのビルボード誌やキャッシュボックス誌で第1位を獲得した。レノンからは「グループからの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」[注釈 7]として非難され、当時の音楽メディアやロック・ファンからは酷評する声も少なくなかった。
翌1971年2月に発表されたシングル『アナザー・デイ』、5月に妻リンダとの連名で発表されたアルバム『ラム』にも『マッカートニー』の作風は受け継がれ、『ラム』は前作同様にヒットした。イギリスでは第1位、「ビルボード」誌では最高第2位を獲得し、トップ10内に24週間も残留したロング・セラーとなったが、評論家からは手厳しい批評を受けた。アラン・クレインにまつわる訴訟問題などで、険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーの『ラム』への評価もきびしかった。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。
8月、予てよりバンドによる公演活動を目論んでいたマッカートニーは、ウイングスを結成し、12月にファースト・アルバム『ワイルド・ライフ』を発表した。
1979年、当時の国連事務総長クルト・ヴァルトハイムの要請により、12月26日から29日にかけて行われたユニセフ主催のチャリティ公演「カンボジア難民救済コンサート」の最終日に出演。クイーンやザ・クラッシュ、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズなどが参加した豪華な公演のトリを飾った[注釈 8]。しかし、これが、ウイングスにとって最後の公演となってしまった。
1980年1月16日に訪日したマッカートニーは成田空港の税関で大麻取締法違反(不法所持)により現行犯逮捕され、9日間勾留された後に国外退去処分を受けた[18]。予定されていたウイングスの日本公演は全て中止となり、グループとしての活動が休止状態に陥ってしまう[注釈 9]。マッカートニーは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』と先行シングル「カミング・アップ」で成功を収めた。
12月8日、レノンがニューヨークで射殺される事件が発生する。ビートルズの黄金時代を共に築いた仲間の訃報にマッカートニーは大きな衝撃を受け、2か月以上自宅に引き籠って過ごした。翌年、音楽活動を再開させたマッカートニーは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で腕利きのスタジオ・ミュージシャンを起用し、エリック・スチュワートやリンゴ・スターなどの有名ミュージシャンと共演、カール・パーキンスやスティーヴィー・ワンダーなどとはデュエットも行った。1982年、このセッションでレコーディングされたシングル「エボニー・アンド・アイボリー」とアルバム『タッグ・オブ・ウォー』を発表、ともに全米、全英で1位を獲得した。このアルバムにはレノンに対する追悼曲である「ヒア・トゥデイ」が収録されており、現在でもしばしば演奏されている。
同年、マイケル・ジャクソンとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」を発表。マイケルとは1983年発表のアルバム『パイプス・オブ・ピース』でも「セイ・セイ・セイ」でデュエットしており、この曲も全米で1位を獲得した。
1984年には「ひとりぽっちのロンリー・ナイト」を発表し、全英2位、全米6位とヒットした。さらに自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開。ビートルズナンバーも収録されたサントラ盤『ヤァ! ブロード・ストリート』は成功を収めたが、対照的に映画の内容に関しては酷評され、興行的にも失敗に終わった。
1985年、有名なプロデューサーのヒュー・パジャム、フィル・ラモーンの協力を得て制作した、アメリカ映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌『スパイズ・ライク・アス』が全米第7位のヒットになった。同年7月13日にアフリカ難民救済を目的として行われた、20世紀最大のチャリティー・コンサート「ライヴエイド」(LIVE AID)では「ヘイ・ジュード」でイギリス・ステージのトリを飾った。
1986年、ヒュー・パジャムをプロデューサーに起用した『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。続いて発売される予定であったフィル・ラモーンがプロデュースした通称「ザ・ロスト・ペパーランド・アルバム」は完成を目前にしてマッカートニーとラモーンの意見が対立、頓挫してしまう。この頃を境に以前のような全米トップ10に入るような大きなヒット曲には恵まれなくなる[注釈 10]。一方で少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』を制作し、1988年にソ連限定で発表した。
1989年、シングル「マイ・ブレイヴ・フェイス」はエルビス・コステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒット、アルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』は全世界で250万枚以上の売上を記録した。9月、マッカートニー夫妻はアルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的な公演活動を開始する。翌年にかけて行われた、のちに『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーでは、彼が長年演奏を躊躇していたビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占めた。
1990年3月にはビートルズとしての来日以来、24年ぶりの日本公演が実現。ワールド・ツアー終盤には1990年4月21日のブラジル、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料興行の観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライブアルバム『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。
1991年1月、MTVアンプラグドの収録を行い、後に『公式海賊盤』として発表される。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。アメリカ人作曲家カール・デイヴィスとの共作で、ヴォーカリストにキリ・テ・カナワとアメリカのテノール歌手ジェリー・ハドレーを迎えたこの作品は、同名のアルバムも発表された。これ以降、現在に至るまで彼はロックやポップスと並行して数作のクラシック作品を発表している。
1993年、アルバム『オフ・ザ・グラウンド』を発表したマッカートニーは、『アンプラグド』と同じラインナップのバックバンドを率いてコンサート・ツアーを行う。『ニュー・ワールド・ツアー』と題されたこのツアーにおいて、マッカートニーは前回のツアーで訪れることのできなかった地域を中心に公演を行い、その模様をライブ・アルバムとビデオに収めた。なお、当初は日程に組み込まれていなかった日本公演も同年秋に行っている。
1994年、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー映像作品と未発表音源集を発表する『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトが本格的に始動した。とりわけ注目されたのが「25年ぶりの新曲発表」と大々的に報道された、レノンが1970年代後半に録音したデモテープに他の3人のメンバーの演奏を重ねて完成させるという企画である。この企画は、1980年代後半にハリスンを復帰に導いたことでも知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンの協力を経て、最終的に「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」として結実した。
1995年、リンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』として発表する。この作品は全米と全英のチャート両方で高順位を記録しただけでなく、翌年の第40回グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされるなどその内容も賞賛された。
1998年、長年連れ添った妻リンダが乳癌で亡くなると、マッカートニーは自身を支え続けた愛妻の死を悼んで2作のクラシック作品を捧げ、さらに彼女が生前に提案していたロックン・ロールの傑作カヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』を発売した。
2001年、ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』を発表。2枚組のコンピレーション・アルバム『夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー〜』も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。 10月20日にはマッカートニーの提唱によって、9月11日のアメリカ同時多発テロ事件による世界貿易センターの崩壊で亡くなった消防士の追悼とチャリティを目的に、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて『ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ』が開かれた。ポールの呼びかけに応じ、 デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガーとキース・リチャーズ、エルトン・ジョン、ボン・ジョヴィ等々、多数のミュージシャンが参加した。11月にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表した。
2002年、アメリカで9年ぶりにツアーを行った。この公演を収めたライブ・アルバム『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。同年11月には、ソロでの3度目の日本公演を行った。
2003年5月にはロシア連邦モスクワの「赤の広場」で野外公演を開き、約10万人の観客を動員した。この公演の模様を収めた2時間のドキュメンタリー番組『ポール・マッカートニー・イン・レッド・スクエア』は、第56回プライムタイム・エミー賞バラエティ・スペシャル部門にノミネートされた。また2004年にはサンクトペテルブルクで公演を開き、その模様を収めたドキュメンタリー番組『ポール・マッカートニー・ライヴ・イン・サンクトペテルブルク』も、第58回プライムタイム・エミー賞バラエティ・スペシャル部門にノミネートされた。
2005年には「ライブ・イン・ザ・U.S.2005」としてアメリカツアーを行い、カリフォルニア州アナハイムでの公演では史上初の試みとして、NASAを通じて地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へその模様を生中継した。この時のナンバーは「イングリシュ・ティー」とビートルズの「グッド・デイ・サンシャイン」だった。7月には世界中で同時に行われた、チャリティー公演である『LIVE 8(ライブ エイト)』にも参加した。9月には、2003年から2005年春までの長期間に渡り、レディオヘッドの作品などで知られるナイジェル・ゴッドリッチをプロデューサーに迎えて制作したアルバム『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』を発表した。このアルバムは2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネートされ、アルバムに先がけてシングル・カットされた「ファイン・ライン」も、同賞のソング・オブ・ザ・イヤーの候補に挙がった。また、2007年の第49回グラミー賞に最優秀男性ポップボーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。
2007年3月、スターバックスがコンコード・ミュージック・グループと設立したヒア・ミュージックと契約を結び[注釈 11][20][21]、キャピトル・レコードのみならず長年契約していたEMIからも離れた[注釈 12]。6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表[22]。このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされると共に、全米では1982年の『タッグ・オブ・ウォー』以来となる、オリジナルアルバムでのプラチナ・ディスクに認定された。
2010年 4月、EMIが所有していたマッカートニーのソロとウイングスの作品の配給権がコンコード・ミュージック・グループに移譲され、ヒア・ミュージックから再発されることになった[23]。6月2日、ポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた作曲家・演奏家に贈られるガーシュウィン賞を受賞。授賞式では、当時のバラク・オバマ大統領から直接賞を贈られた[24]。9月22日にはヒューレット・パッカードが、マッカートニーの作品をクラウド型のデジタル・ライブラリー化する計画を発表。同社はマッカートニー・プロダクション・リミテッドと共同で、インターネット上で公開しながらデジタル・ライブラリーを保護することが可能な最新システムを構築し、ファンがマッカートニーのライブラリーの一部を視聴することを可能にした[25]。
2011年9月、ニューヨーク・シティ・バレエ団から依頼を受け、 ピーター・マーティンと共同制作した自身初のバレエ向けスコア『オーシャンズ・キングダム』を発表した[26] また10月にはアメリカ人女性ナンシー・シベルと結婚した[27]。
2012年2月、ダイアナ・クラールらを迎えて制作した、ジャズのスタンダード・ナンバーのカヴァー集『キス・オン・ザ・ボトム』をリリース。このアルバムは第55回グラミー賞で最優秀トラディショナル・ポップ・ボーカル・アルバム賞を受賞した[28]。2月9日には個人としてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を獲得[29]。6月4日、エリザベス2世の英国女王即位60周年祝賀の『クイーンズ・ダイヤモンド・ジュビリー・コンサート2012』に参加し、コンサートのトリを飾った。[30]7月27日、ロンドンオリンピックの開幕式で、会場を埋めつくした観衆とともに「ヘイ・ジュード」を演奏した[31][32]。12月12日にはマディソン・スクエア・ガーデンにて開催された『ハリケーン「サンディ」復興支援チャリティ・コンサート』でニルヴァーナのデイヴ・グロール、クリス・ノヴォセリックらと共演し、「ヘルター・スケルター」「カット・ミー・サム・スラック」などを演奏した[33]。
2013年10月、オリジナル作品としては6年ぶりとなる新作アルバム『NEW』を発表。全英・全米では3位、日本では2位(デイリーチャートでは1位)とヒットし、ゴールドディスク(10万枚販売)にも認定された。11月には11年ぶりとなる日本公演を大阪、福岡、東京で行い、26万人を動員した。
2014年5月17日、前年に引き続き日本公演が東京と大阪で予定されていたが、ウイルス感染による体調不良により公演を中止し、緊急帰国する。1975、1980年に続く3度目の公演中止となった。日本公演直後に予定されていた初の韓国公演も中止となり、6月の米国公演は10月以降に延期となった。7月5日、ニューヨーク州オールバニ公演よりツアーを再開。約3時間で40曲を演奏した[34]。
2015年1月、リアーナ、カニエ・ウェストと共演した「フォー・ファイブ・セカンズ」が「スパイズ・ライク・アス」以来29年ぶりの全米トップ10ヒットを記録。4月には日本公演が大阪ドーム、東京ドームで計4回、追加公演として1966年のビートルズ以来49年ぶりとなる日本武道館での公演が行われた。日本武道館での公演は同年7月と10月に日本でTV放送された。
2016年8月17日、キャピトル・レコードとの再契約を発表し、同レーベルへの復帰第1弾となる新作アルバムの制作中であることが報道された[35][36]。12月31日にはNHKの『第67回NHK紅白歌合戦』にビデオ出演し、「2017年に日本に行きます!」(I'm coming to Japan in 2017. See you there!)と発言した[37][注釈 13]。
2017年1月18日、マッカートニーは音楽出版会社ソニーATVに対して、同社が保有する1985年にマイケル・ジャクソンが購入したビートルズの楽曲[注釈 14]の著作権返還を求める訴訟[注釈 15]をニューヨーク郡裁判所に起こした。7月に訴訟が和解に達したがその内容については明かされていない[39][40]。7月公開の映画「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊」では、主人公ジャック・スパロウの叔父「ジャックおじさん」を演じ、牢屋の中でビートルズの「レット・イット・ビー」にも収録されたリヴァプールの俗謡「マギー・メイ」を歌う姿をみせている[41]。
2018年7月26日、リヴァプールのキャヴァーン・クラブに出演した[42][43]。この模様は、後にBBCによって2020年のクリスマスに『Paul McCartney Live at the Cavern Club 2018』として放送された。9月7日、キャピトル・レコードから発表したアルバム『エジプト・ステーション』が『タッグ・オブ・ウォー』以来36年ぶりの全米チャート1位を獲得[44]。10月から11月にかけて、東京ドーム、初となる両国国技館、名古屋ドームで公演を行った[45]。
2020年12月18日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックによるロックダウン中に自宅スタジオで制作したアルバム『マッカートニーIII』を発表。全英アルバムチャートにおいて、ソロ名義では『フラワーズ・イン・ザ・ダート』以来、31年ぶりとなる第1位を獲得した[46]。
2022年2月18日、同年4月28日から6月16日に開催される北米ツアー『GotBack』を発表[47]。3月4日には6月に開催される『グラストンベリーフェスティバル』のヘッドライナーに決定したことが発表された[48]。
2024年7月19日より9月24日まで六本木ヒルズ「東京シティビュー」にて、『ポール・マッカートニー写真展 1963-64〜Eyes of the Storm〜』を開催。ポール自身が所有していたカメラ(PENTAX35mmなど)を用いて、ビートルズメンバーのポートレイトをはじめ、行く先々に集まるカメラマンやファンを撮影した写真を中心に展示している。同年10月12日から2025年1月5日まではグランフロント大阪「ナレッジキャピタル イベントラボ」にて開催する予定[49]。
菜食主義者であり、環境保護活動家としても精力的に活動している。同じく菜食主義者だった最初の妻リンダの娘ステラ、2番目の妻ヘザー・ミルズと共にPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)の会員でもある。
マッカートニーはビートルズの解散後にソロミュージシャンとして現在まで7度訪日し、ツアーを行っている。しかし、主にウイングスとして活動していた1970年代に彼の日本公演が実現することはなかった。
初の日本公演は1975年に計画されていたが、マッカートニー夫妻の72年のスウェーデンなどでの薬物所持歴などを理由として、法務省が訪日直前にビザを無効としたため中止になっていた。
ビザが発給された1980年には、成田空港で大麻所持により逮捕、勾留、強制退去で公演は中止された。このため当時マッカートニーは入国管理局のブラック・リストに掲載され、日本への入国は不可能になったと考えられた[注釈 16]。
1989年1月、ニュー・アルバム発売後にワールド・ツアーを行うことが内定すると、ビートルズ公認ファンクラブのビートルズ・シネ・クラブがマッカートニー側に日本公演の実現の働きかけを開始。『フラワーズ・イン・ザ・ダート』発売後の7月にはマッカートニーの入国許可を求める署名活動を全国的に実施、20万人もの署名を集め、12月22日に法務省へ提出した。法務省も『ライヴエイド』などマッカートニーの世界的な文化貢献の認知度も考慮してビザ発給を許可したため、ビートルズの来日公演から約24年ぶりとなる1990年3月に、ファン待望の日本公演が行われた[53]。
(チャート;英:ミュージックウィーク/米:ビルボード)
主な楽曲を掲載。詳細は「ポール・マッカートニーの作品」を参照。(チャート;英:ミュージックウィーク/米:ビルボード)
ビートルズ時代とウイングス時代は左利き用のギターは入手困難(もしくは特注する必要があった)であったため、右利き用のギターを改造して使用していた。マッカートニーは普通の右利き用の弦の張り方のまま、ギターを逆向きにして演奏することもできるが、右利き用のギターは全てナットとブリッジを左利き用のものに交換、もしくは調整して使っている。
1967年に5年間交際していたイギリスの女優ジェーン・アッシャーと婚約したが、翌1968年にマッカートニーの浮気が原因で婚約破棄されている。
その直後から交際を始めた写真家リンダ・イーストマンが妊娠したため、1969年3月12日に結婚した。この時リンダには、前夫で地質学者のジョセフ・メルヴィル・シー・ジュニアとの娘であるヘザー・ルイーズ・シー(2人の結婚後にはヘザー・マッカートニー)がいた。以降、リンダはマッカートニーを公私共に支え続けたが、1998年4月17日 米国アリゾナ州ツーソンにて乳癌のため56歳で死去した[75]。マッカートニーとリンダの間には、写真家のメアリー、ファッションデザイナーとして世界的に有名になるステラ、ミュージシャンとして活躍するジェームズの3人の子供が生まれた。
2002年にリンダの死後に出会った元モデルのヘザー・ミルズと婚約を発表、その後正式に再婚し、2003年には娘ベアトリス・ミリーが生まれた。しかし、お互いの生活のすれ違い[注釈 28]やマッカートニーの子供たちとの不仲[注釈 29]などが原因で2006年に別居した。結局、離婚は2008年5月12日に認められ、6週間後に成立した[注釈 30][注釈 31][76]。
2011年、4年ほど交際していたアメリカ人女性ナンシー・シェベルとの婚約を5月6日に発表[注釈 32][77]。同年9月14日、ナンシーとの婚姻予告届をロンドン市内の登記所に提出。同年10月9日に結婚し、ロンドン市内の公会堂で結婚式をあげた。2013年4月、サンデー・タイムズが「英音楽界での長者番付」を発表し、マッカートニーと、アメリカで運送会社を経営する妻ナンシー・シェベルの合計資産は6億8千ポンドにも上り、長者番付1位を飾った。
2019年時点で子どもが5人、孫が8人いる。祖父として孫に本の読み聞かせをすることもあり、2019年11月5日に初の絵本『グランデュードのまほうのコンパス』を刊行した。かつて孫を寝かしつけようと読んだE・E・カミングスの詩集に卑猥な表現があって、絵本の自作を思い立ったという[13]。
サッカーのプレミアリーグでは、イングランド・リヴァプールをホームタウンとするエヴァートンFCのファンである。
また大相撲のファンでもある。1993年11月中旬に来日した際は、福岡公演の前日11月17日に羽田空港から航空機で福岡空港に移動したのち大相撲11月場所観戦のため福岡国際センターに直行。予告なくマッカートニーが登場したために場内は騒然となり、翌日のスポーツ新聞でも取り上げられた。
2013年11月に来日の際にも福岡で観戦。日本相撲協会が11月14日午前から「ポール・マッカートニーさんが相撲を観に本日いらっしゃいます」と告知しており、画面に何回も登場した。また懸賞制度に特に興味を持ち、12・13日目と千秋楽の結びの一番において新作アルバム『NEW』を宣伝する懸賞を5本ずつ掛けた[78]。初めて懸賞をかけるときは1日1本・15日間懸けることになっており、申し込みは場所前となっていたが、日本相撲協会はポール側の申し入れを「特例」として受け付けた[注釈 33][79]。11月22日に帰国の途につくポールにこのことを大きく報じた紙面を記者が見せると大変に喜んだという[80]。
主なものを掲載。詳細は「ポール・マッカートニーの受賞・ノミネート一覧」を参照。
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