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伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社 ウィキペディアから
神明神社(しんめいじんじゃ)は、天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社である。神明社(しんめいしゃ)、神明宮(しんめいぐう)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。
神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされているが、一説には約1万8,000社ともいう。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、伊勢信仰に分類される神社は、全国2位(4425社)であるという。
祭神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき広く信仰を集めた。古代においては国家祭祀の斎場として、律令国家の代表者たる天皇のみが奉幣を許され、皇后、皇太子であっても臨時の奏聞が必要とされたが[1]、平安時代中期に入り朝廷が衰微し荘園制が成立すると、神税など古代において伊勢神宮を支えた経済基盤が動揺したため、伊勢神宮の神主らが、御師となって武士団などの荘園の在地領主層に対して神宮への祈願を取り次いだり、神宮の神威を説くなどの働きかけを行なったことで、在地領主による神領(御厨)の寄進が行われた[2]。その結果、御厨として寄進された土地に、伊勢神宮の祭神が勧請されるようになり、神領を中心に神明神社が分布することとなった。御厨に勧請されることで成立した神明神社として、仁科神明宮(仁科御厨[3])、神明社(榛谷御厨[4])、天津神明宮(東条御厨[5])などが挙げられるが、芝大神宮のように、御厨に存する神明神社であるものの、御厨成立以前から成立していたとされる神明神社もあり[注 1]、これらは御師の活動拠点となっていた場所に成立した神明神社と考えられている[6]。御師の東国の出先機関には、御師が配り歩いた御祓(神宮大麻)が一時的に安置されるなどしたため、そこに宗教的意義が見出され、神明社へと展開した事例もあった[7]。
中世後期には、御師の檀那が上級武士層からさらに広い範囲に広がって、庶民層にも伊勢信仰が及ぶようになり[8]、特に京都を中心に、伊勢の神が飛来したなどと称して、神領でない場所にも伊勢が勧請される事例が増え(そのようにして成立した神明神社は、「今神明」「飛神明」などと呼ばれる)[9]、神明神社はさらに広範囲に分布した。京都宇治の神明神社などがその例に当たる[9]。そして、伊勢信仰は近世に至るとさらに盛んになり、全国的かつ中小農民も含む広い階層に及ぶようになった[10]が、特に天照大御神が太陽神であることや、伊勢御師が檀那に農業との関連が深い神宮暦を配ったことなどもあって[11]、国家鎮守のほかに農業神としても信仰されるようになり、小平神明宮のように、新田開発の際にその地の鎮守神として伊勢神宮が勧請されることが増え、神明神社はさらに増加していった。
その祭事はほぼ伊勢神宮と同じであり、神使も鶏である。鳥居の形は主に「神明鳥居」であり、素朴な形式で全体的に直線的である。建築様式は神明造であることが多い。
なお、「神明」という言葉は天照大御神のことを指すほか、単に「神」という意味でも用いられる。例えば「天地神明に誓う」の「神明」は後者の意味である。明治時代に全国の神社の調査が行われたが、その神社の氏子に神社の祭神について質問した所、氏子も何の神が祭られているかを知らず、「神」というつもりで「神明」と答えたら、天照大御神を祀る神明神社ということにされたという例も少なくない。また、明治時代には、それまで「神明宮」という名称であった神明神社が、「伊勢神宮」と重なる「宮」という字を用いるのを避け、「天祖神社」や「神明社」などへと名称を変更することが多発した[12]。
岡田荘司らにより伊勢信仰に分類される神社は中部地方に多く、鎌倉期の伊勢神宮の所領とほぼ一致する。
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