日向大神宮
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社伝によれば、第23代顕宗天皇の治世に勅願により筑紫の日向国にある高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建されたという[1]。その後、天智天皇が神田を寄進して神域の山を日御山(ひのみやま)と名付けたという[1]。
平安時代には、日向宮、日向神宮、粟田口神明宮、日岡神明宮とも称した。
「宇治郡名勝誌」、「京都府山科町誌」には、延喜式神名帳小社に列する「山城国宇治郡 日向神社」とするが、「山城名勝誌」、「山城志」、伴信友の「神名帳考証」では別のものとしている。
清和天皇より「日向宮」の勅額を賜ったほか、醍醐天皇により延喜の制で官幣社に列せられている[1]。
応仁の乱で社殿等を焼失して祭祀が一旦途絶えたが、江戸時代初期に篤志家・松坂村の松井藤左衛門によって旧社地に再建され、後陽成天皇により「内宮」と「外宮」の御宸筆の勅額を賜っている[1]。
慶長19年(1614年)には徳川家康により失われた社領も戻され、新たに神領が加増され社殿の改造が行われている[1]。
後水尾天皇と中宮東福門院より修理料や御神宝を賜い、中御門天皇より享保14年(1729年)4月に両本宮の修理に際して神祇官領吉田兼敬が奉幣の儀に派遣されている[1]。
後桃園天皇よりたびたび御代拝を遣わされ、毎年御紋付提灯を賜っている[1]。
寛政4年(1792年)12月女院御所より初穂奉献、寛政6年(1794年)9月奉礼門院及び女院御所中宮より同年11月には内侍所よりそれぞれの翠簾の寄進があり、文化6年(1809年)11月外宮遷宮、文化7年(1810年)5月内宮遷宮に際しては光格天皇より神宝を寄進されている[1]。
その他、仙洞御所、青蓮院宮、聖護院宮、梶井宮、桂宮の参拝、御初穂の奉献・宝物の寄進があった[1]。
交通の要所・東海道の横にあることからか、交通祈願の神社として有名になった。
1929年(昭和4年)10月には皇室より御大礼調度品が下付され、1936年(昭和11年)10月久邇宮より参拝・初穂が奉献され、1937年(昭和12年)2月には御献木を賜っている[1]。
本殿は、内宮(ないく)と外宮(げく)の二つある。