門司区
福岡県北九州市の行政区 ウィキペディアから
福岡県北九州市の行政区 ウィキペディアから
門司区(もじく)は、政令指定都市である北九州市を構成する7区の行政区の一つである。
1963年(昭和38年)2月10日に北九州市が発足するまで存在した旧門司市の市域に相当する。九州の北端、企救半島にあり、同半島の大半を占める。西側は関門海峡を挟んで下関市と向かい合い、東側は周防灘に面し、南側は小倉北区・小倉南区に接する(→位置)。本州から九州への玄関口であり、日本海と瀬戸内海を結ぶ海路を押さえる場所でもあり、古くから交通の要地であった。
1889年(明治22年)以降の築港と鉄道敷設が寒村であった門司が栄えるきっかけとなり、門司港は筑豊の石炭の輸出港として急速に発展を始めた。商社や金融機関が次々門司港に支店を構え、大里地区には鈴木商店系の製糖・製粉などの工場が建設された。1899年(明治32年)にはいち早く市制施行。大正時代にかけて、門司港は石炭輸出からセメント会社、製糖会社、紡績会社などの製品輸出・原料輸入にシフトしていき、日本有数の貿易港として栄えた。昭和期に入ると大連航路(現門司港駅には鉄道貨車船舶積載設備がかつて存在し、満州鉄道或いはシベリア鉄道の起点、と定義する昭和期の資料も地元史啓発に併用された)などの国際航路も開けた。太平洋戦争末期には、門司は度々空襲を受けた(風師山山頂一帯には迎撃高射砲基地も存在した)ほか、関門海峡への機雷投下を受け、海峡が封鎖される事態となった。戦後は、主要な貿易先であった中国との国交が断たれたことなどから、門司港の地位は低下。1963年(昭和38年)、門司市は小倉市、若松市、八幡市、戸畑市と五市対等合併し、北九州市の門司区となった。1958年(昭和33年)の関門トンネル開通に続き、1973年(昭和48年)の関門橋開通、1975年(昭和50年)の新幹線開通により、門司の通過点化が進み、企業は小倉や福岡市に流出し、経済はますます沈滞した。末吉興一市長が打ち出した「門司港レトロ」構想によって、門司港地区に残る歴史的建造物の保存・活用が行われ、1995年(平成7年)にグランドオープンした。その後も観光開発が進み、賑わいが生まれた。一方、観光以外の地域の活性化には課題もある。
門司区内の地域を見ると、門司港駅を中心とする門司港地区は、門司港レトロの歴史的建造物や観光施設、宿泊施設、商業施設が立ち並び、年間200万人が訪れる。その北側に位置する和布刈地区は、レトロ事業と同時期に海峡めぐり推進事業により和布刈公園周辺が整備されている。門司駅を中心とする大里地区では、サッポロビール九州工場が閉鎖されるなど経済的な衰えもあるが、その跡地の煉瓦造りの工場を門司赤煉瓦プレイスとして開業するなど、観光客の誘致に取り組んでいる。近年ではマンションが増えつつある。周防灘に面した新門司地区には、港湾設備、臨海工業用地が整備されている。太刀浦には、西日本有数のコンテナターミナルがある(→地域)。
旧門司市の人口は明治時代から急速に増加し、1959年に16万人余りのピークに達したが、その後門司区時代を通じて減少を続け、2015年以降、10万人を割り込んでいる。人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)が36.5%と、北九州市の中でも高い。
北九州市門司区は、九州の北端、企救半島にあり、同半島の大半を占める。
西側は、関門海峡を挟んで、本州の西端である山口県下関市と向かい合っている。現在、下関市とは、海底トンネルである関門トンネル(国道、山陽本線等)や関門橋によって結ばれている。
南側は、企救半島西側では北九州市小倉北区に接し、企救半島東側では小倉南区に接する。門司区と小倉北・南両区は、古代から豊前国企救郡として共通する歴史を歩んできた。
企救半島は、山がちであり、筑紫山地(横谷により東から福智山地、三郡山地、脊振山地に分かれる)のうち福智山地の北東延長に当たる[3]。区内最高地は戸ノ上山(標高518メートル)である[4]。関門海峡側には狭長な門司平地があり、門司港付近には本川、栄川流域の平地、田野浦に流れる鳴滝川流域の平地があり、大里地区には、風師山・戸ノ上山山麓の崖錐・扇状地で形成された平地がある。周防灘側には、曽根・新門司平地があるが、山地から突き出す肢節や湾入部に分断されている[5]。
企救半島には、古生代ペルム紀の付加体である秋吉帯の南西延長に当たる地層群が分布している[7]。付加体は、ユーラシア大陸の縁辺部にプレートが沈み込むに際して、沈み込み帯の深い海底で付加された基盤岩類であり、当時は九州は陸地ではなかった[8]。中国地方各地の秋吉帯と同様、北部九州の秋吉帯は、大規模な石灰岩体を含むのが特徴であり、そのほか玄武岩質岩、チャート、砂岩、泥岩などを含む。小倉南区以南の平尾台などでは白亜紀花崗岩類の貫入によって熱変性を受けているが、企救半島では花崗岩の大規模な貫入岩体が見られず、熱変性が弱く、ところによって化石を産出することがある[9]。白野江では、古生代から中生代にかけて海底にいたウミユリの化石を含んだ梅花石が出土し、その岩層は福岡県の天然記念物に指定されている[10]。
九州北部(内帯)は、中生代白亜紀に隆起して陸化し、以後、新生代を通じて、概して陸上での侵食と火山活動が進行した[8]。企救半島北西部では、秋吉帯は、下部白亜系関門層群で覆われている[9]。関門層群は、九州北部から中国地方西部に分布する非海成下部白亜系であり、下部の脇野亜層群と上部の下関亜層群から成る。脇野亜層群は、礫岩、砂岩、泥岩などの非火山性砕屑岩から成る湖成堆積物が卓越し、一方、下関亜層群は、安山岩、デイサイト、火山砕屑岩を主とする。企救半島北西部は主に脇野亜層群で覆われている[11]。小倉北区の脇野亜層群からニシン科魚類化石、淡水生の貝化石、石灰藻類の化石が発見されたことから、この時代(約1億2000万年前の白亜紀初期から中期)、筑豊・北九州地方は湖(古脇野湖)だったことが分かった[12]。
筑紫山地が福智山地、三郡山地、背振山地に分割されたのは、古第三紀(6600万年前-2300万年前)に発生した正断層を伴う堆積盆地の形成によると考えられる[13]。新第三紀中新世(2300万年前-)以降、日本海が生じ、現在の日本列島の形に近づいていった。北部九州の地形の骨格は、この第三紀に形成された[14]。第四紀更新世(258万年前-)に入り、筑紫山地はゆっくり侵食削剥が続いた。最終間氷期(12.5万年前)には現在とほぼ同じ海岸線となったが、氷期には玄界灘や瀬戸内海が陸化した[15]。関門海峡は、最終氷期(7万年前-1万年前)に、陸化した土地に河川が発達したのが原形であると考えられる[16]。関門海峡の海底には、花崗岩類が露出していることから、古生層より侵食に弱い花崗岩類が差別的に侵食されたものと考えられる[17]。1.5万年前以降、急激な海面上昇が生じ、完新世の7000年前に関門海峡が通じた[18]。
下関 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
門司近傍で気象庁観測所がある下関の平年気温・降水量は雨温図のとおりである。
門司の気候は、瀬戸内海式気候と日本海側気候の中間的な性質を持つ。九州北部地方の特徴として、冬型の西高東低の気圧配置になると曇天になることが多く、雪が降ることもあるが、冬の降水量は少ない[19][20]。一方、梅雨期は、前線が停滞しやすくなり、降水量が多い[21][22]。関門海峡は、春先にはしばしば濃い霧が発生する[23]。
関門海峡の南岸に位置する門司は古くより交易上の拠点、さらには戦国時代以降は本州と九州の結節点としての戦略上の拠点として位置づけられてきた。明治時代以降は、九州鉄道が門司・高瀬(現玉名)間を開通させると、筑豊からの石炭の輸出港として大きく発展。1899年に門司市が成立した[24]。
終戦後、門司港は引き揚げの拠点の一つとなり、朝鮮半島や大陸からの引揚船が到着した[25]。市街地は焼け野原であり[26]、関門海峡は機雷除去作業が続き、1949年(昭和24年)に安全宣言が出されるまで、大型船舶の入出港ができなかった[27]。1950年(昭和25年)の朝鮮戦争では、門司は物資輸送拠点となり、朝鮮特需にわいた[28]。貿易関係施設は接収されてアメリカ軍の将兵が駐留した[29]。しかし、朝鮮特需を最後のピークとして、石炭産業は斜陽化し、北九州全体の産業が沈滞していった[30]。中国との国交が断たれ、貿易相手がアメリカ主体となったことからも、太平洋から遠い門司港の地位は低下した[31]。
明治以来、北九州の各市(門司、小倉、若松、八幡市、戸畑市)と下関市との合併論は度々持ち上がっており、昭和に入ってからも、3回、合併運動が展開されたが、失敗に終わっていた[32]。門司市は、1948年(昭和23年)に北九州五市合併総合研究委員会ができた時(第3回合併運動)には、下関市を入れた六市合併を譲らなかった[33]。その背景には、合併により港湾機能が小倉に移転し、門司が「場末」化して衰退するおそれがあるという懸念があった[34]。しかし、1960年(昭和35年)、八幡市長大坪純が五市市長会で五市合併を提案したことを機に、合併が現実性を帯びるようになった(第4回合併運動)[32]。北九州工業地帯の地位低下に対する危機感や生活圏の拡大を背景に、柳田桃太郎門司市長も五市合併に賛同し、1961年(昭和36年)、各市議会で賛成決議がされた。市名は市民から募集された名前の中から北九州市に決定し、1963年(昭和38年)2月10日に北九州市が発足(人口103万人余り)、4月1日に政令指定都市となり、門司市は門司区となった[33][35]。
1973年(昭和48年)の関門橋開通[36]、さらには1975年(昭和50年)の新関門トンネル開通により陸上交通の拠点としての門司の優位性は低下し、門司は経済成長から取り残された[37]。1986年(昭和61年)に北九州市長に就任した末吉興一は、翌1987年(昭和62年)、門司港に残る歴史的遺産を生かして街を整備する「門司港レトロ」構想に着手した[38]。特に、1988年(昭和63年)に門司港駅が国の重要文化財に指定されたことを機に、洋風建築保存・活用の気運が本格化した[39]。総事業費約300億円が投入され、1995年(平成7年)3月、門司港レトロがグランドオープンした[40]。第1船溜りを中心に、賑わいが生まれた[41]。
その後、1997年(平成9年)から2007年(平成19年)にかけて門司港レトロ第2期事業が実施され、九州鉄道記念館や海峡ドラマシップ(関門海峡ミュージアム)など、新しい観光施設、宿泊施設、商業施設も次々オープンした[42]。かつての門司築港が建設した門司港・外浜を通る線路には、2005年(平成17年)まで貨物列車が走っていたが、平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線のトロッコ列車(潮風号)が走るようになった[43]。2014年(平成26年)には三宜楼が保存修理工事を経て一般公開された[44]。
門司市の人口は、明治時代から急速に増加し、1930年代後半は12万人から13万人台まで増加した。戦争の激化に伴って減少したが、戦後、再び増加し、1959年(昭和34年)に史上最高の16万5010人に達した。その後、門司区時代となったが、減少を続け、2015年(平成27年)からは10万人を割り込んだ[45]。
北九州市全体として、高等教育機関が少なく、活力ある企業が少ないため、人口流出はこの先も続く可能性が高いと考えられている[46]。
北九州市全体として若年層の流出により高齢化が進んでいるが[49]、門司区は人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)が36.5%と、市の中でも高い[50]。
門司区の人口構成(2019年3月、単位:人)[50]
|
門司港地区は、門司港レトロの観光事業で脚光を浴びている。門司港駅(1914年(大正3年)築)の付近から第1船溜り周辺にかけては、旧門司三井倶楽部(1921年(大正10年)築)、旧大阪商船ビル(1917年(大正6年)築)、旧門司税関(1912年(明治45年)築)などの歴史的建造物が集まっている。旧九州鉄道本社(1891年(明治24年)築)を転用した九州鉄道記念館などの観光施設や、出光美術館、ホテル、商業施設も立ち並んでいる。関門海峡エリアは、美しい日本の歴史的風土100選に選ばれ、門司港駅をはじめとするレトロ地区の施設群は経済産業省の近代化産業遺産に認定されている[51]。
他方、年間200万人とされるレトロ地区の観光客は栄町などの商店街に流れておらず、商店街再生の前途は厳しいままである[52]。
古城山を中心とする
門司駅を中心とする大里地区は、関門鉄道トンネルの開通によって九州の玄関口となり、駅前の柳町銀天街、市場、スーパーが栄えた。しかし、1985年(昭和60年)頃から空き店舗が目立つようになり、柳町銀天街のアーケードは撤去された[61]。鈴木商店が建設した煉瓦造りの工場群のうち、帝国麦酒(1913年(大正2年)設立)の工場はサッポロビール九州工場として稼働していたが、2000年(平成12年)に閉鎖された。その後、建物の保全・活用が図られ、2006年(平成18年)に門司赤煉瓦プレイスとして開業した。事務所棟(門司麦酒煉瓦館)・醸造棟などが国の登録有形文化財となっている[62][51][63]。
サッポロビールの移転後、区画整理が進み、近年では門司駅周辺のマンションが増えつつある[52]。
小森江地区は、工場群や下関との貨物航路で栄えた町である。林芙美子の出生地という説があり、風師山登山道を登った旧小森江浄水場(1973年(昭和48年)廃止)敷地内に、林芙美子文学碑がある。貯水池跡には、2001年(平成13年)に小森江子供のもり公園が開園した。矢筈山山頂には堡塁跡があり、1971年(昭和46年)に矢筈山キャンプ場が開場した[65]。
大里・小森江の東側にそびえる風師山・戸ノ上山地区は、1972年(昭和47年)、北九州国定公園の一部として指定された[66]。
周防灘に面した新門司地区は、1959年(昭和34年)、通商産業省の工業適地審議会が臨海工業用適地に指定したことから、港湾設備と臨海工業用地の造成が始まった。第1期事業地区(新門司南地区)は1976年(昭和51年)に竣工した。出光興産、古河電気工業などの大規模工場や倉庫、名門大洋フェリーのターミナルなどがある。第2期事業地区(新門司北地区)は1978年(昭和53年)に着工し、阪九フェリーターミナル、マリンレジャーの拠点新門司マリーナ、オーシャン東九フェリーが開設したほか、トヨタ輸送新門司自動車物流センターや農林水産省動物検疫所などが立地している[67]。
企救半島東部には、市の指定無形民俗文化財の大積神楽が上演される大積天疫神社、猿喰新田の開発の跡が見られる汐抜き穴、部埼灯台、1996年(平成8年)に市が整備した白野江植物公園などもある[51][68]。
周防灘海域では、干潟が広がり、ガザミ、コウイカ、スズキ、カレイなどのかご漁、刺し網、小型定置網のほか、カキの養殖が盛んである[69]。柄杓田漁港をはじめとする漁港が整備され、漁業の拠点となっている[70]。
西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽新幹線も区内を通るが、新関門トンネルのため駅はない。
戦前は、金バス(九州電気軌道)、銀バス(門司自動車会社)、赤バスの3社が競い合っていたが、戦時統制下で九州電気軌道に統合され、その後身である西日本鉄道がこの地域のバスを運行するようになった[79]。
2016年(平成28年)経済センサスによれば、門司区内の事業所数・従業者数は次のとおりである[89]。門司区内の産業団地としては、新門司のマリナクロス新門司(31.7ha)があり、トヨタ輸送、西日本ダイハツ運輸、日鉄物流八幡(日鐵運輸)、山九、阪九フェリー、安川ロジステックなどが事業所を立地しており、素材産業、リサイクル、自動車関連の運輸業が集積している[90]。
産業大分類 | 事業所数 | 従業者数 |
---|---|---|
農業、林業 | 1 | 6 |
漁業 | - | - |
鉱業、採石業、砂利採取業 | 1 | 10 |
建設業 | 329 | 2,433 |
製造業 | 271 | 5,729 |
電気・ガス・熱供給・水道業 | 3 | 41 |
情報通信業 | 11 | 165 |
運輸業、郵便業 | 381 | 6,794 |
卸売業、小売業 | 1,109 | 7,391 |
金融業、保険業 | 50 | 509 |
不動産業、物品賃貸業 | 308 | 653 |
学術研究、専門・技術サービス業 | 110 | 549 |
宿泊業、飲食サービス業 | 569 | 3,147 |
生活関連サービス業、娯楽業 | 368 | 1,312 |
教育、学習支援業 | 99 | 890 |
医療、福祉 | 360 | 7,210 |
複合サービス事業 | 27 | 358 |
サービス業(他に分類されないもの) | 293 | 2,300 |
合計 | 4,290 | 39,497 |
北九州港の2017年年報によれば、北九州港のうち門司地区の係留隻数は34,234隻、総トン数は51,413,671トン、貨物輸移出は28,354,625トン(完成自動車、鋼材、再利用資材など)、貨物輸移入は30,122,450トン(完成自動車、自動車部品、とうもろこし、砂利・砂など)であり、新門司、次いで太刀浦のウェイトが大きい。門司地区(小倉を含む)の輸出額は9246億円、輸入額は8837億円に上り、双方とも増加傾向にある[91]。輸出入先は、近年では中国、韓国、台湾などのアジア州が多い[92]。
また、新門司は、3社4航路が集まり、新門司ICと接続した利便性もあり、九州最大のフェリー基地となっている。トラック航送および旅客とも全体的に減少傾向ではあるが、2013年の報告によれば、長距離フェリー航路の九州地区における新門司発着航路の割合は、トラック航送で61%、旅客輸送で53%まで高まっている[93]。
門司区では、北九州市の他の区と同様、かつては、中心商業地区の商店街(栄町銀天街など)に多くの中小・零細商店が軒を連ね、百貨店(山城屋)がそれに隣接していたが、北九州市全体の素材型産業の地位低下、人口の減少、モータリゼーションの進展、大規模小売店舗法の改正による規制緩和などに伴い、商店街ではシャッターを閉めた店舗が多く見られるようになり、百貨店も閉店した。北九州市の購買力は福岡市に吸収されていると指摘されている[94]。平成26年商業統計調査によれば、門司区の卸売業の従業者は1198人、年間商品販売額は1382億円(市全体では1兆4998億円)。小売業の従業者は4099人、年間商品販売額は666億円(市全体では9130億円)である[95]。
門司には、明治・大正期には、日本銀行西部支店(後に門司支店)が置かれたほか、三井銀行や住友銀行など大銀行が進出し、西日本最大の金融市場を形成していた[96]。戦後は、1963年(昭和38年)に日本銀行門司事務所が小倉に移転して北九州支店となったほか、多くの都市銀行が北九州地域の店舗網を縮小し、それに代わり地方銀行・相互銀行のプレゼンスが高まった[97]。現在、北九州地域の主要金融機関は、西日本シティ銀行(2004年に西日本銀行が福岡シティ銀行と合併)、福岡銀行、福岡ひびき信用金庫(2003年に門司信用金庫などが合併)、北九州銀行(山口フィナンシャルグループ)である[98]。
門司では、1947年(昭和22年)には観光協会が設立され、観光案内所が門司港駅に設置された。海水浴場(喜多久海岸)、風師山、和布刈公園、門司ロープウェー、国民宿舎めかり山荘、めかり塩水プールなどに近隣からの観光客や修学旅行客を誘致していたが、多くが市民や近隣向けのレジャー施設であった[99]。1980年代に入ってようやく門司港で歴史的建造物の価値を見直そうという意識が浸透し始め、1985年(昭和60年)に市民団体「門司まちづくり21世紀の会」が活動を始めた。そうした中で、1987年(昭和62年)に初当選した末吉興一市長が、北九州の活性化には観光振興が必要であると主張したのを機に、北九州市ルネッサンス構想の一環として門司港レトロ事業が実施された[100]。2003年(平成15年)には門司港レトロ地区の訪問客数が255万人にまで達したが、ハード面の開発が一段落してからは伸び悩みが見られる[101]。北九州市観光動態調査によれば、2018年(平成30年)に門司港地区を訪問した観光客数は延べ218万4000人(うちレトロ地区189万3000人、和布刈地区29万1000人)であった[102]。なお、1999年(平成11年)以降、門司区のマスコットキャラクターとして「じーも」がイベント等に参加している[103]。
|
|
|
|
|
|
郵便局は、関門海峡側に多く所在する。なお2017年2月20日付で区内の集配業務が門司郵便局に集約された。
1892年(明治25年)に津田維寧が日刊紙『門司新報』を創刊し、福岡県内で有力紙となったが、全国紙との競合に敗れ、1938年(昭和13年)に廃刊となった。1919年(大正8年)に毎日新聞関門支局が門司市に発足し、その後、西部総局、西部支社、西部本社に昇格したが、昭和40年、小倉市に移転した。大阪朝日新聞門司支局は1894年(明治27年)に開設され、その後、九州支社に昇格したが、1937年(昭和12年)に小倉市に移転した(朝日新聞西部本社)。1942年(昭和17年)に新聞統制の結果、福岡県は朝日新聞、毎日新聞、西日本新聞の3紙となった[139]。
現在、門司区内には、現在西日本新聞社が門司支局と関連拠点を置いているのみである。
テレビの電波直接受信については、地理的に皿倉山の八幡テレビ・FM放送所から出される電波が届かない地域が多いため、区内に数多くの中継局が設けられている。詳細は北九州市内の小規模テレビジョン中継局を参照。
ラジオについてはFMは八幡送信所からの放送を、AMについては響ラジオ放送所からの電波を、それぞれ受信する。但し、AMについては、周防灘側では送信所からの距離がやや離れていることもあり、高周波の2局が、季節や時間帯によっては他局からの混信障害を受ける。なお、NHK北九州放送局は、FMの中継局を区内の風師山に設けている。
五市合併前から、門司以外の4市は北九州水道組合を作っていたが、門司は、従来貯水量が豊富であり、これに加わっていなかった。1964年(昭和39年)1月、北九州市水道局に統合されたが、料金は門司が約1割安いままであり、水道本管の接続もされなかった。しかし、同年には梅雨・台風による降雨量が少なく、門司の4貯水池(頂吉、福智、松ヶ江、小森江)の貯水量が減少したため、翌年5月までの夜間断水や、小倉系配水管からの応援で対応せざるを得なかった。その後、北九州市では1967年(昭和42年)、1968年(昭和43年)と異常渇水が続き、市民生活に打撃を与えた[140]。北九州市は、その後水源開発を進め、現在、遠賀川を主水源として安定した給水を行っている[141]。
門司区で行われる主なイベントには、次のようなものがある[151]。
北九州市域は共通語化が著しいが、「読ミキラン」(読む能力がない)、「見ラン」(見ない)などの九州方言は、年層・性別を問わず聞かれる。また、門司は北九州市の中でも旧豊前国・小倉藩に属することから、筑前方言の文末詞「バイ」「タイ」は余り使われない。豊前方言が残っている一方、中国地方の言い方も流入しており、地理的位置を反映して多様性が見られる[159]。「イツ行クン」などの問いかけに「ン」を用いるのも豊前方言である[160]。理由を示す「……から」は「ケ」が一般的で、「ケン」はまれである[161]。「書いている」「知っている」を「書キヨル」「知ットル(知ッチョル)」と言うが、昭和40年代頃から、遠賀川以西の発音の影響を受けて「書キヨー」「知ットー(知ッチョー)」と言う人が増えている[162]。
北九州市が2000年(平成12年)に組織した北九州フィルム・コミッション[163]の誘致活動もあり、近年では多くの映画・ドラマ等が門司区内でロケを行っている。
50音順。※は北九州市から特命大使を委嘱された人物。★は故人。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.