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落語を演じることを職業とする人 ウィキペディアから
落語家(らくごか)は、落語を演じることを職業とする人。戦前は、寄席がおもな活動の拠点で、グループを組んで地方公演も行っていたが、戦後はその話術を生かしテレビやラジオの司会業、パーソナリティなどを行うことも多かった。話家・噺家・咄家(はなしか)は、「落語家」の古い表現である[要出典]。
落語家の演ずる噺は大別して二種類ある。
1.の落とし噺を語るため、「落語家」という表現が生まれたが、現在はいずれの場合も「落語家」と呼ぶ。また「噺家」という呼称もほぼ同意語で使われており、落語家の中には「噺家」という呼び方を好む者もいる[要出典]。
江戸時代には狂歌や雑俳に関わる人々など素人の咄家も活躍していたが、やがて烏亭焉馬や三笑亭可楽などの職業咄家たちがあらわれた[要出典]。
日本の法律では職業として落語を行うのには資格は必要が無いが、出演する興行を行う団体が定める資格が必要になる場合がある。落語協会等の団体では「身分制度」という仕組みを定めている。以下の記述は身分制度に関してである。
その身分は見習い、前座(ぜんざ)、二つ目(ふたつめ、「二ツ目」とも)、真打(しんうち)からなる。
弟子入りを志願し、師匠から入門の許可を得た落語家の卵。入門したあと、前座名(名前)を師匠からもらい、前座登録をして、前座として楽屋入りするまでは見習いと呼ぶ。正規の身分制度にはもともと存在しないが、前座の数が多いのでそれまでの待機をする。おもに師匠宅で師匠・その家族のために家事などの下働き・雑用をする。休みはない。昔は師匠宅に住み込みで身の回りの世話をすることも含め修業であったが(いわゆる内弟子)、現在は通い弟子がほとんどであり、内弟子は非常に珍しい。住み込みであれば家賃も食費もかからないが、自分の自由な時間が持てないというデメリットもある。見習いと前座は、落語家社会では一人前とみなされない。
仏教における前座(まえざ)説教が語源。前述の、師匠宅の家事・雑用の他に、寄席での仕事(前座修業)が課せられる。寄席での、呼び込み太鼓・鳴り物・めくりの出し入れ・色物の道具の用意と回収・マイクのセッティング・茶汲み・着物の管理など楽屋、寄席共に毎日雑用をこなす(大阪では、これらの仕事のうち太鼓・鳴物以外は「お茶子」と呼ばれる寄席従業員によって行われる)。寄席で「開口一番」と呼ばれる最初の一席を受持つ場合もあるが、あくまで勉強の為であるから通常は落語家名は番組にも載らない。また、出演料(割という)も貰えないが、僅かながら1日あたり定額の小遣い(給金)がもらえる。
当日の寄席で働く前座のうち、もっとも古株を立前座(たてぜんざ)と呼ぶ。寄席興行の進行についての決定権を持つ、重要な役回りである。楽屋仕事を他の(下の)前座に指図する。ネタ帳を記録するのも立前座の仕事である。
かつての落語界では、落語家が「二つ目に昇進できるのにあえて前座に止まる」ためのへたりという制度があった。へたりは前座同様下座のお囃子や楽屋の雑務をこなすのに加え、歌舞伎でいう「頭取」のように、寄席の事務を担当する場合があった。4代目橘家圓喬は一旦二つ目に昇進したが、親を養う金を稼ぐために、自ら前座に降格した[1]。そのまま年齢を重ねることが多かったことから、永久前座あるいは万年前座[2]という異名もあった。
江戸落語では、昭和30年代までへたりが数人いた。立川談志は著書において、橘ノ圓福[2]および、「こぶ正」こと林家正吉[3]という2人の「万年前座」の存在について証言している。
上方では、「へたり」は寄席囃子を専門に務める人を意味し、重宝された。主なへたりには三升小三(戎橋松竹)・桂右之助(千日劇場・旧うめだ花月)・桂文蝶(千日劇場)・桂團治(道頓堀角座)・橘家つばめ(神戸松竹座)・2代目三升紋三郎(新花月)などがいた。
また二つ目が真打昇進を諦め再び前座に戻ることを戻り前座という。
現在はこのようなへたり、戻り前座になるものは全くいないといってよい。二つ目が他の組織に移籍したことでその組織で前座修業をやり直す場合[注釈 1]や、二つ目で廃業したのち復帰し、再度前座から修業し直すといった場合は、その落語家をへたりや戻り前座とは呼ばない。
前座と真打の間。前座に続き、二番目に高座に上がるため「二つ目」と呼ばれる[注釈 2][4]。かつての上方落語では中座(なかざ)と呼んだ。
落語家社会の中でようやく一人前とみなされる。自分の労力と時間を全て自分のためにだけ使うことが許される。師匠宅の雑用も寄席での裏方仕事もしなくてよい[注釈 3]。以下のことが許される。
正規の落語家として、寄席で落語をして割がもらえるようになる。しかし、定席への出演機会は大変限られているので、仕事は基本的に自分で探してこなければならなくなる。さもなくば本当に仕事がない状態となる。つまり自営業である。前座でやってきた雑用が免除される代わりに小遣いもなくなるので、経済的には苦しいと言われる。かつてはヨビと呼ばれる「仕事」が存在した。これは、代演要員として寄席に出勤するというもので、抜いた落語家の穴が埋まらない時に高座に上がれる。ただし平成に入って以降、真打ちの数が増大したため、二つ目のヨビ制度は2024年現在ほぼ見られない。
一部を除いて、二つ目までは自身の師匠が死去した場合には、基本的に別の真打の門下に移ることになっている[注釈 5]。
真打の語は、「(蝋燭の)芯を打つ」ことから転じた。蝋燭は江戸時代の室内照明であり、それを打つ=消すのは最後に上がる出番の落語家が演じ終わってからである。つまり主任(とり)のみが消すことができる=芯を打てる。
真打は、その名の通り寄席で主任(とり)を務めることができる資格が与えられるほか、師匠と敬称で呼ばれる[注釈 6]。また弟子をとることが許される[注釈 7]。
真打昇進の際には各席において特別興行となり、新真打本人がその芝居の主任となる。そして真打披露目が行われ口上が述べられる。これがなければ昇進したことにならない。つまり、真打昇進と興行とは不可分である。興行中は、終演後に[疑問点]真打本人が全経費を払う飲み会が始まる。出費はかなりのもの(特に単独での昇進披露興行の場合)になるが、反面、お旦(芸人のスポンサー)からのご祝儀が見込める。
在京落語団体のうち、落語協会、落語芸術協会、円楽一門会(落語立川流の出演はまれである)の真打昇進者は合同で日本テレビの演芸番組『笑点』の前半の演芸コーナーにおいて「真打昇進披露口上」に出演し、披露口上を述べることが慣例となっている。コロナ禍のため、2020年から2023年7月2日まで同番組内での昇進披露は行われず[注釈 8]、BS日テレ『笑点特大号』で記者会見やパーティー・公演などを紹介する形となっていた[6]。
2022年6月に真打に昇進した三遊亭一太郎(六代目三遊亭円楽の長男)の場合は、声優としての活動が主で落語家としての活動はほとんどしていないという事情もあり「披露目はやらない、手ぬぐいや扇子も作らない、祝儀ももらわない」という形での異例の形となった[注釈 9]。
1980年代半ばころから、落語協会、落語芸術協会ともに、所属する落語家の半数以上を真打が占めるようになり、制度としては形骸化しているとの意見もある。
戦後、真打昇進制度は数度変わった。しかしその選考基準が不明瞭であるとする批判が一貫してある。これがひいては落語家内部の対立の原因となっている。
真打制度は香盤(同一協会内の落語家間の序列)と密接に関係している。真打昇進の順番、すなわち真打昇進の早い遅いによって真打たちの香盤が決定される。真打昇進以降は、経年により人気、実力が変動することがあっても、基本的に順位は入れ替わらない[注釈 10]。
この2騒動は真打制度の問題点が明らかになった一方、地方でのホール落語の開催増加や団体に所属しないフリーランスの落語家の登場など、落語そのものの幅を大きく広げることともなった。
真打制度は戦前には上方にも存在した。しかし、戦中から終戦直後の時期において大阪では落語より漫才が好まれたこともあり、事実上、上方落語が崩壊していた時期に消滅した。その真打制度は上方落語協会で1977年(昭和52年)2月に一時復活して公表もされた。
2012年現在は制度として事実上消滅している。内部の落語家ランク(例えば協会費のランク)も他の基準(年功序列)で決定している。また大阪では、香盤は内部で存在している(かつて真打のみ一回だけ公表もされた)ものの、現在では外部には一切非公開となっている。
当時の会長六代目笑福亭松鶴は「真打にふさわしいかどうかはお客様が決めること(であり、真打制度に胡坐をかいて落語家サイドが真打を客に押し売りするのはおかしい)」と言っている[要出典]。その後、定席天満天神繁昌亭開設時に、真打制度復活が論議されたが見送られている。上方落語ならではの自由な気風を損ねるというのが、真打制度非導入の理由であった。このこともあり、主に上方落語四天王(松鶴・三代目桂米朝・五代目桂文枝・三代目桂春団治)の弟子には、寄席やテレビなどで早くに知名度をあげ、入門から7~10年程度で弟子を採る者も多くいた[注釈 12]。なお、上方落語では修業は年季奉公のシステムであり、年季明けとともに独り立ちとなる。真打の代替としてコンクールなどの各賞の受賞がステイタスの一つとなっており、受賞記念に定席となる天満天神繁盛亭および神戸新開地喜楽館で1週間主任を務める。
また、修業中に師匠が死去しても、別の師匠の元に移籍するというようなことがない。代表的な例には六代目松鶴の最後の弟子、笑福亭鶴二がおり、入門から1年も経たずに師匠松鶴が死去し、兄弟子にあたる笑福亭松葉(贈・七代目笑福亭松鶴)らの指導を仰いだが、現在でも「松鶴の弟子」として活動している。ただし全員がその限りではなく、東京のように元の師匠の兄弟弟子などに移籍する場合も稀にある。後者の例では、五代目林家小染などがいる。
真打・香盤問題は、上方落語協会では東京よりもナイーブな理由(ほとんど口喧嘩)で大物が脱退したことすらある[注釈 13]。
香盤制度・真打制度は完全な実力主義でもないので、『急激に売れた人』『若い時から売れっ子になった人』に対する処遇が難しいというのも理由の一つである。真打昇進と真打昇進披露興行はリンクさせるが、上方落語協会(繁昌亭)は(香盤と関係なく)「賞」を落語家に受賞させそれと興行をリンクしている。東京の協会では幹部を話し合いで選ぶが、上方落語協会では協会員による直接選挙(正式には協会員の互選により会長候補者を選出する選挙[8])で選ぶ。
笑福亭仁智が上方落語協会会長在職中の2024年、上方落語の活性化を目指し「真打」の代替となる新たな試みとして、入門から15年程度の協会所属の若手中堅落語家を対象とした「
東京の流れを汲む中でも、名古屋の登龍亭(旧・名古屋雷門)一門のように、「仮に真打を名乗ったとしても一門外の落語家や客が認めてくれるかどうかわからない」という理由から真打制度を棚上げする意向を示している一門もある[10][注釈 14]。
大学の落語研究会に所属する学生などのほかにもアマチュアの落語家が昔から存在し、これらの人々はプロの落語家と区別するために「天狗連」「落語愛好家」などと呼ばれる。プロの落語家が使わない亭号・屋号を名乗ることが多いが、指導しているプロの落語家が自身の亭号を与えるケースも多い。その他にも、地方で落語をベースにした独自の活動を主体にしている、大分県の県南落語組合・宮城県の東方落語などのような社会人活動グループなどもある。
昭和後期になるまで、正式にプロの落語家に入門・団体に所属する女性落語家は存在しなかったが、1975年に上方落語の二代目露乃五郎(後の二代目露の五郎兵衛)に入門した露の都が初のプロの女性落語家とされる。当時は「落語は男がやるもの」という観念が強く、都は五郎に何度か断られた末に入門している[注釈 15][11]。
その後、江戸落語でも落語協会では1981年に三代目三遊亭圓歌に入門した三遊亭歌る多(当時:歌代)が初の女性落語家となり、1993年には古今亭菊千代とともに女性落語家として初の真打に昇進している。歌る多・菊千代は当初は「女真打」として別枠であったが、2002年に女真打枠が撤廃され、通常の真打として男性と同列に扱われるようになった。
落語芸術協会は、1986年に桂右團治(当時:小文)が十代目桂文治に入門、2000年に真打に昇進し初の同協会所属の女性真打となった。
落語立川流は、2006年に立川こはるが立川談春門下に入門したのが初であり[12]、2023年5月に同派初の女性の真打に昇進(同時に「立川小春志」に改名)した。
円楽一門会は設立以来、長らく女性の落語家が在籍していなかったが、2022年に三遊亭竜楽に三遊亭たつみが入門。円楽一門会では初の女性落語家となったが、同年に正式に前座となる前に廃業している。
2024年現在では東西併せて女性の落語家は50名を超えており[11]、真打制度のある江戸落語3団体で17名が真打に昇進している(落語協会11名[注釈 16]、落語芸術協会5名[注釈 17]、落語立川流1名(立川小春志)。2024年5月現在)。現在では歌る多が落語協会の理事に就任しており、菊千代は女性の落語家として同じ女性の弟子である古今亭駒子を初めて真打に育て、歌る多も同様に女性の弟子である弁財亭和泉、三遊亭律歌を真打に昇進させた[13]。また、弁財亭和泉(夫は柳家小八)、春風亭一花(夫は金原亭馬久)の様に落語家同士が結婚するケースも出てきた。2024年には林家つる子が(女性の落語家が現在の共通の香盤になって以降では)初の抜擢真打として昇進している[14][15]。
江戸落語のうち、毎年1月の新宿末廣亭の余一会では、昼夜を通じて落語協会所属の女性落語家がほぼ出演する「落協レディース」の特別興行が恒例となっており、定席以外でも江戸落語の所属団体横断のユニット「落語ガールズ」の落語会が2023年4月まで定期的に開催されていた[16]。女性落語家の所属者が比較的多い落語協会では、2023年3月上席の浅草演芸ホール夜の部の興行で、蝶花楼桃花を主任としゲスト[注釈 18]も含めたすべての演者が女性芸人の番組編成となる「桃組」と名付けられた「江戸落語の定席では初」の興行が行われた[17]。この試みは翌2024年5月下席の浅草演芸ホール夜の部(「落語協会百年興行✕桃組」)でも行われ、主任は日替わり交代で女性真打落語家10名[注釈 19]、ゲスト枠として上方から女性落語家[注釈 20]が日替わりで顔付けされた。
真打制度のない上方でも都が複数の女性の弟子を入門させ、育てている[注釈 21]。2021年のNHK新人落語大賞では、上方落語協会所属の桂二葉が女性として初めて大賞を獲得した[19]。
このうち、前述の経緯もあり、東都の寄席定席(狭義では鈴本演芸場・新宿末廣亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場)に出演できるのは、原則として落語協会と落語芸術協会(鈴本は芸協も絶縁中のため、出演不可)会員のみであるが、近年は芸協については円楽一門会、立川流の所属噺家も定席興行の顔付けに加わる事がある(主に新宿末廣亭)。なお、余一会などの定席興行以外の興行はこの限りではない(ただし、鈴本は余一会なども落語協会以外はほぼ出演できない)。
所属していた協会を何らかの理由で別の団体へ移籍するケースも散見される。主に前座や二ツ目の落語家が一度廃業または破門され、その後改めて別の師匠の門下になるケースが多いが、真打の身分でありながら他団体に移籍し、その団体でも真打の身分で活動するケースも数例存在する。師匠が変わるために亭号とそれに合わせた高座名に改名するケースもある。この場合は移籍先の香盤の扱いが難しくなることから、一定期間「準会員」の身分であったり、香盤を真打の序列の最下位、あるいは別枠にしたりして、一定程度の経年により香盤に組み入れるケースが多い。上記の団体の枠組みが固まって以降、真打の身分のまま、団体を移籍した主な例を列挙する(落語協会分裂騒動や円楽党の結成、落語立川流の創設に関わるものは省略)。
このほか、三笑亭笑三のように、日本芸術協会→落語協会→日本芸術協会(現在の落語芸術協会)と一度は別団体に移籍したものの、再び元の団体に出戻るケースもわずかながら見られる。
一部を除き、上記5団体に属さないプロ落語家を以下に挙げる。いわゆる天狗連でなく、プロとしての修業を積んだ経験のある者、かつ存命の人物に限定する。ただし、既に名を成した芸能人などが副業、余興として落語もやる場合[注釈 26]は除く。
以下、◎印がついている者は「東西寄席演芸家年鑑2」(2021年、東京かわら版刊)に、◯がついている者は「東都寄席演芸家年鑑2」(2023年、東京かわら版刊)[20]に名前・顔写真・プロフィールの掲載がある者である。
詳細は上方落語協会・各個人の項を参照。主な者のみ。
旧2代目桂枝雀一門 ※雀三郎一門・雀松・九雀・む雀はその後、上方落語協会に復帰。
その他
大須演芸場(2014年閉場→2015年9月再開)を定席とし、東海地区を中心に活動している。
落語芸術協会仙台事務所所属。2019年1月より落語芸術協会客員。東方落語真打。
上記の中で、三遊亭はらしょう[28]は神田連雀亭(プロの二ツ目の演芸家のための定席)に落語家として、落語立川流広小路寄席に色物として出演している。
団体脱退後、亡くなるまで業界団体には所属せずに活動した者。
上記の者は除く。また、吉本の「住みます芸人」として地方に赴任中であるだけの者は除く。
故人
落語家として長期にわたり顕著な活動をみせた者に対して、日本国政府より叙勲や褒章が授与されたり、また近年では文化財保護の観点から、古典芸能を継承する落語家に対し、文部科学省より「重要無形文化財の各個認定の保持者」(いわゆる「人間国宝」)に指定される落語家の例がある。また、顕著な実績を残した落語家が死没した時には日本国政府より位階に叙されることもある。
2021年の時点で現役の落語家かつ現職の議員としては以下の人物がいる。
このほか、林家とんでん平は札幌市議会議員(豊平区選挙区選出)を2003年から2015年まで3期務めた。三遊亭洋楽(2017年12月死去)も生前函館市議会議員を務めたことがあり、道議会議員と北斗市議会議員選挙に立候補したがそれぞれ落選した。また、柳家三寿(2020年6月死去)は2007年足立区議会議員選挙に、四代目桂右女助(筆名の「梅田うめすけ」名義)は2023年浦安市議会議員選挙に、入門前の笑福亭呂好[注釈 34]は2007年兵庫県議会議員選挙(宝塚市選挙区)にそれぞれ立候補したが落選した。
窓里(師:六代目圓窓)、らん丈(師:圓丈)、洋楽(師:五代目圓楽)は奇しくも六代目圓生の孫弟子であり、年代とキャリアも同世代。桂三発は町議会議員も務めた(市町村合併に伴い失職→市議会議員として当選)。
また、いなせ家半七(2023年5月死去)は、2003年4月の山口県議会議員選挙熊毛郡区に本名・無所属での立候補を予定していたが公示日前日に体調不良を訴え入院、出馬を断念している。なお、議員に立候補経験のある落語家のうちとんでん平・窓里・らん丈・半七(立候補断念)の4人は、1996年3月に同時に真打に昇進している。
立川談志は1971年(昭和46年)の第9回参議院議員通常選挙全国区に無所属で立候補し当選(1969年(昭和44年)にも衆議院選挙旧・東京都第8区に無所属で立候補し落選)。2021年(令和3年)現在では落語界唯一の国会議員経験者であり、のちに自由民主党へ入党し、1975年に三木内閣の沖縄開発政務次官を務めている(ただし、舌禍により在任36日で辞任している)。
月亭可朝は参議院選挙に2回立候補(談志と同じく1971年(昭和46年)第9回参議院議員通常選挙全国区に無所属、2001年(平成13年)第19回参議院議員選挙に自由連合公認)していずれも落選している。四代桂小文枝も「桂きん枝」時代の2010年(平成22年)第22回参議院議員通常選挙比例代表区に民主党公認で立候補したが落選した。柳家東三楼は2024年(令和6年)第50回衆議院議員総選挙に神奈川県第2区から立憲民主党公認で立候補したが2位で落選、比例復活もかなわなかった。
落語家から寄席の色物(漫才・漫談・物まね・コントなど)に転じたケースを除く。またアマチュア落語家として入門したケース、既に名を成した芸能人などが落語もやる場合も除く。
(二世落語家)*順不同 *太字は現役。
順不同。
なお、快楽亭ブラック(2代目)は父親が米国人であるが、英語は話せない。
明治以降において活躍した代表的な落語家を挙げる。その他の落語家については落語家一覧、Category:落語家を参照。
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