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日本の落語家団体 ウィキペディアから
落語立川流(らくごたてかわりゅう)は、東京における落語家の団体の1つである。七代目立川談志[注釈 1]とその一門により創設された。
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落語協会分裂騒動は、落語立川流の誕生とは直接に関係しないが、間接的に大きな関わりのある重要なエピソードである。
1978年5月9日、落語協会に分裂騒動が勃発した。前会長の六代目三遊亭圓生(当時:最高顧問)の副産物とも言える大量に存置されていた二つ目の真打への昇進を巡り、大量真打昇進で滞貨一掃を図った協会会長五代目柳家小さんと、安易な昇進に反対する圓生最高顧問が対立。圓生は落語協会からの離脱を決意し、圓生の弟子である五代目三遊亭圓楽に加え、三代目古今亭志ん朝、立川談志ら一部の幹部が圓生に同調し落語協会離脱の動きを見せた。 5月24日に設立が公表された新団体「落語三遊協会」に、圓生一門と志ん朝のほか、七代目橘家圓蔵、圓蔵の弟子の五代目月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)らが参加を表明した。談志は最も強力な賛同者と目されていたものの、公式発表直前に突如として協会残留の意向を示し、この新団体に参加することはなかった。
翌25日、江戸落語の定席である上野の鈴本演芸場・新宿末廣亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場の各寄席の席亭会議で、落語三遊協会に寄席への出演を認めないことを決めた。当初、落語協会所属の落語家の半数が三遊協会に移籍すると見られており、鈴本演芸場の席亭は三遊協会に好意的な立場であったが、実際に移籍を決めた人数は予想されたものよりも少なく、新宿末廣亭の席亭である北村銀太郎の「一見良さそうな顔ぶれだが一握りの売れっ子と無名の若手しかおらず、層が薄い。売れっ子がテレビ出演や地方興行の仕事で寄席を休んだ場合に適当な代演がおらず、これでは毎日(通常は10日間)の公演をまわしていけない」という意見が決定打となった。この決定により、三遊協会からはさらに脱退者が相次ぎ、5月31日に北村の仲介で圓蔵、圓鏡、志ん朝らは協会に復帰し、翌6月1日に正式に落語協会を脱退して落語三遊協会を結成したのは圓生の一門のみであり、しかも圓生の直弟子[注釈 7]からも脱落者を出す有様であった。
1979年9月3日、三遊協会の主軸であった圓生が急死した。これにより落語三遊協会は自然消滅し、分裂騒動は圓生側の全面的敗北に終わった。三遊協会所属の落語家は総領弟子の圓楽一門を除き、いずれも落語協会に復帰した。圓楽一門は新たに「大日本落語すみれ会」を結成。その後何度か改称の後、1990年に「円楽一門会」に改称して現在に至っている。
落語協会ではこの騒動後、真打昇進に関して師匠推薦に代わり「真打昇進試験」制度を導入することとなったが、後述するように合否の運用基準が不明瞭なこともあり、談志の批判、落語協会離脱につながることとなった。
この騒動は圓楽と談志が黒幕になり、圓生を唆して仕掛けたという説が存在している。目的は彼らのライバルであり、当時は将来の落語協会会長と目されていた志ん朝の香盤を落とすことであったとされている[注釈 8]。しかし、最終的に協会に戻った志ん朝は、表向きは「会長小さんの温情」という形[注釈 9]で香盤が下がらなかった。
1983年の落語協会真打昇進試験では、林家源平、柳家小里ん、林家種平、林家上蔵 (現:三代目桂藤兵衛)、蝶花楼花蝶(七代目蝶花楼馬楽・故人)、林家正雀、古今亭八朝、林家らぶ平 (現・らぶ平(フリー))、立川談四楼、立川小談志(四代目喜久亭寿楽・故人)の10名が受験した。当時理事であった談志が不在中、談志の弟子2人(談四楼と小談志)が不合格となる一方、初代林家三平の弟子で、力量が明らかに劣ると思われた源平が合格した(他の合格者は小里ん、花蝶、正雀)。談志はこの試験の結果と考査基準に異を唱え、大半の弟子と共に脱会、立川流落語会を創設した。談志は家元制度を確立し、初代家元となる。
前述の通り、圓生一門の落語協会離脱の際に東京の寄席の席亭は番組編成上、落語協会・落語芸術協会所属者以外の出演は困難であるとした。立川流に関しても同様のスタンスであり、そのため立川流は一門として寄席に出演する意志は当初から持たず、代わりにホールでの落語会を中心に活動している。「日本すみずみ出前寄席」という企画では99,800円で真打1人、二つ目2人、前座1人の計4人を全国各地に派遣した。
2011年11月21日の談志の死去に伴い、2012年1月に一門で話し合いが持たれ、その結果家元制度を廃止したうえで、総領弟子の土橋亭里う馬が新代表となり再スタートした。志の輔によると、談志没後は里う馬と松岡慎太郎(談志長男、談志役場社長)が二人三脚で立川流を守るために様々なことを成し遂げてきたという[5]。里う馬は2024年1月まで代表を務め、代表を立川志の輔に譲った[8]。
長らく任意団体が続いていたが、2024年6月、一般社団法人として法人登録を行った。代表は立川志の輔、副代表に立川談春、立川志らくが就いた[3]。法人登録については、6月7日に議員会館で行われた落語議連の議員の会合[9]や高座などで談春が明かしていたが、中日新聞が6月18日付夕刊の文化面でいち早く報じ[3]、その2日後に読売新聞が報道[4]。演芸専門誌「東京かわら版」7月号に志の輔のインタビューが掲載された[5]。事務方は立川志ららが中心に動いているという[5]。22日にラジオに出演した立川談笑が事情を多少語ったりはしたものの、関係者による正式な記者会見やニュースリリースは行われず[10]、後日ホームページの冒頭に2行で案内が掲載された。
前述の通り、落語立川流は東京の定席寄席(浅草演芸ホール・鈴本演芸場・新宿末廣亭・池袋演芸場)で定席興行を打つことができない。代わって永谷商事が所有するホールなどでの活動が中心となっていたが、2024年より永谷商事の寄席への出演機会が大幅に削減されることとなった。また、同じ経緯で都内の定席に出演できない五代目円楽一門会の「両国寄席」(毎月お江戸両国亭で行われる定席興行)への賛助出演(ぜん馬、志遊のみ出演)や、2017年11月以降、不定期に主に新宿末廣亭や池袋演芸場の落語芸術協会定席興行への客演(1名交互出演の形で顔付けられる)を含めた他流への出演、浅草東洋館で行われる東京演芸協会およびボーイズ・バラエティー協会の定席興行にも1~2名程度出演する。
ただし「余一会」(1~7月の奇数月および8・10月の31日に、各定席寄席で行われる特別興行)などでは、事実上落語協会の専用定席となっている鈴本を除き、出演の制約を受けないため「余一会」として、立川流の一門会が行われることもある。
一方、生前の談志を始め、志の輔、談春、志らく、生志、談笑といったいわゆる「売れっ子」たちは、自分の独演会を積極的に開くことを主要な活動としている。他の者が出演する場は、主に立川流の一門会であり、いわば彼らの定席である。
立川流設立時、権威付けの意味合いで、談志と親しい、格上ないし惚れ込んだ著名人に名を貸してくれるよう頼んだのが始まり。その名残から名義だけ(森繁久彌ほか)のものもいれば、昇進試験の際の審査も行うもの(野末陳平、吉川潮ほか)まで多様であった。特に元顧問の吉川は、談志が全面的に信頼を寄せていたため、談志に対する発言力が大きく(二代目快楽亭ブラックの除名を決めたのは吉川とされる)、事実上の筆頭顧問として立川流の運営に関わっていた。談志没後「お別れの会」で弔辞を述べたのは共に顧問である山藤章二と石原慎太郎である。談志没後の顧問の追加はなく、具体的な影響力はほぼなくなったものの、存命者は一門からは顧問として遇されている。
立川流はA・B・Cの3コースがあったが、のちに廃止(時期は不明)。Aコースは落語家、Bコースはビートたけし他の芸能人を中心とする有名人、Cコースは一般人で構成され、それぞれ昇進基準が異なっていた。
Aコースの職業落語家は噺のほか、舞踊などの修得が必修とされ、家元の面前での試験により昇進の可否が決定される。B・Cコースの基準はそれに比して緩やかである。Bコース初の真打は、1988年11月昇進の立川藤志楼こと高田文夫であった。
Aコースの弟子は、
の修得が求められる。2012年6月の新体制発足以後は、前座修行が最低3年必要になった(入門からわずか1年半で、新体制発足直前に二つ目に昇進した談笑門下の立川吉笑のような例が今後なくなる)。家元である談志は昇進の条件として「持ちネタが2席でも、客を爆笑させることができればよい」ともしていたが、その基準をクリアできる弟子はいないのが現状である。以上のように実力主義のため、落語協会、落語芸術協会のような入門順などは基本考慮されていない。2023年5月5日より、立川流初の女性落語家である立川こはる改メ立川小春志(立川談春門下)が同派としては初めて女性で真打に昇進した[14]。
2002年5月、「二つ目への昇進意欲が感じられない」として、一門の前座6名が破門を言い渡された。これにより前座が1名になってしまったため、翌月に立川談吉(現:立川小談志)が立川談一の名で復帰。2003年5月、復帰試験が行われ立川談修のみが合格。不合格となった立川志加吾と立川談号は2003年8月に名古屋を拠点とする雷門小福門下に移籍し、それぞれ雷門獅篭、雷門幸福(現:登龍亭獅篭、登龍亭幸福)となった。2004年1月、立川キウイと立川談大(2010年死去)は、一門の新年会席上で再度復帰試験を受ける。判断に窮した談志は立川流真打達に判断を一任。厳しい意見が相次いだが、二つ目ではなくあくまでも前座としての復帰という条件を談志が提示、談志の意を汲んだ談四楼、志の輔らの音頭によって、ようやく一門復帰を許された。
また、2019年5月、立川志らく門下の二つ目7人について全員を前座に降格とした。これは、志らくが主宰する劇団の稽古に一門の弟子たちが一度も見学に来なかったことを理由に「弟子が師匠に対して興味がないのなら弟子である必要はありません」としている。この中には同年夏に真打昇進が決定していた立川志獅丸や、3月に二つ目に昇進したばかりの立川志ら鈴も含まれているが、いずれも期間を決めた上(志獅丸は真打昇進の前日まで)での前座再修行としている[15]。その後、同年7月1日付で志獅丸は真打に昇進(形式上、異例の前座からの真打昇進)となり、志奄、らく兵、らく人、がじらの4名が二ツ目へ復帰した(志ら門、志ら鈴は「二ツ目に昇進したばかり」との理由でこの時点で二ツ目に復帰できなかったが、2020年1月1日付で二つ目に復帰した)[16][17]。
談志の死去後、家元は廃止された。
香盤順[18]
談幸一門の落語芸術協会移籍の際に、芸協での香盤は談幸は2年間は「準会員」として扱われており、2017年1月に「正会員」となった後も芸協の香盤では真打でも別枠として扱われた。2019年6月より香盤に入れられ、2016年真打昇進者の下に列せられた。一方で師とともに移籍した吉幸、幸之進は離脱時点で立川流二ツ目であったが、芸協では吉幸は1年間、幸之進は2年間前座修業の期間を改めて課された。
他流ではあるものの、特に吉幸は立川流で約10年近い前座修業に加え、その後二ツ目を7年経験しており、その者に改めて前座の修業を課した事には業界でも物議を醸し、立川志らくは自身のブログで「彼を前座に戻すということは、芸術協会は立川流を認めていないことになる。つまり談志を否定していることになる」と芸協を痛烈に批判している(後に削除した)[22][注釈 13]。その後、吉幸は芸協移籍後の2019年5月上席より真打に昇進しており、芸協移籍後4年(芸協で二ツ目昇進から3年)で真打に昇進していることから、立川流での修業期間も反映されたと考えられている[注釈 14]。幸之進は2025年5月上席の真打昇進を予定している。
☆は真打昇進している(昇進披露を行った)者。
Bコースメンバー整理の際に除名された主な人物。
立川談志(7)† | 土橋亭里う馬(10) | ||||||||||||||||||||||||||||
立川左談次† | 立川左平次 | ||||||||||||||||||||||||||||
立川談四楼 | 立川わんだ | ||||||||||||||||||||||||||||
立川寸志 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川だん子 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川只四楼 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川半四楼 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川談声 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川公四楼 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川談九 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川ぜん馬(6) | |||||||||||||||||||||||||||||
立川龍志 | 立川小談志(2) | ||||||||||||||||||||||||||||
立川談之助 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志の輔 | 立川晴の輔 | ||||||||||||||||||||||||||||
立川志の八 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志の春 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志のぽん | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志の彦 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志の太郎 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志の麿 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志の大 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川文都(6)† | |||||||||||||||||||||||||||||
立川談春 | 立川小春志 | ||||||||||||||||||||||||||||
立川志らく | 立川こしら | 立川かしめ | |||||||||||||||||||||||||||
立川志らら | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志ら乃 | 立川のの一 | ||||||||||||||||||||||||||||
立川志ゑん | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志ら玉 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川らく朝† | |||||||||||||||||||||||||||||
立川らく次 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志らべ | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志獅丸 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川らく兵 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川がじら | |||||||||||||||||||||||||||||
立川らく人 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志ら鈴 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川うぃん | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志ら門 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川らく萬 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志らぴー | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志音 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川生志 | 立川生九郎 | ||||||||||||||||||||||||||||
立川雲水 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川志遊 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川談慶 | 立川平林 | ||||||||||||||||||||||||||||
立川キウイ | |||||||||||||||||||||||||||||
立川談笑(6) | 立川吉笑 | ||||||||||||||||||||||||||||
立川笑二 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川談洲 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川笑えもん | |||||||||||||||||||||||||||||
立川笑王丸 | |||||||||||||||||||||||||||||
立川談修 | 立川談吉 | ||||||||||||||||||||||||||||
立川談大† | |||||||||||||||||||||||||||||
かつて入門者は、家元への上納金の納付が義務付けられていた。家元が亡くなり、理事会制度となったため、現在は廃止されている。
※2001年6月より
2000年8月、滞納者が多数いる事が発覚した。談志は滞納者に破門を申し付けたが、滞納分の同額から3倍の支払いを条件に復帰を承認する。支払い不能であった立川談々・國志館・志っ平・小談林は、そのまま破門された。國志館は五代目三遊亭圓楽門下に移り三遊亭安楽となり、現在は全楽を名乗る。志っ平は十代目桂文治門下に移籍し前助、文治没後柳家蝠丸門下となって二つ目に昇進、柳家小蝠となった(その後2014年真打昇進、2018年1月に死去)。小談林は色物に転向、のちに落語芸術協会にバイオリン漫談「マグナム小林」として加入している。
談志健在時・談志没後・談志13回忌に出版された以下の3冊は、表紙デザインや弟子が各自文章を書くなどのフォーマットが共通している。
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