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立川 談慶(たてかわ だんけい、1965年(昭和40年)11月16日 - )は、落語立川流所属の落語家。長野県上田市(旧丸子町)出身。本名∶青木 幸二。出囃子は『イン・ザ・ムード』。
株式会社ワコール正社員、吉本興業福岡事務所(よしもとクリエイティブ・エージェンシー福岡支社の前身)1期生、立川流Cコース、同Aコースと特異な経歴を持つ。[要説明]
長野県上田高等学校、駿台甲府高等学校を経て慶應義塾大学経済学部経済学科卒業。
慶應義塾大学在学中は落語研究会に所属していた。同研究会出身者唯一の演芸人である。また、同大学のMITSテニスクラブに所属。1988年4月、株式会社ワコールに入社、福岡支社に配属。福岡・佐賀地区担当の営業職についていた[1]。
その後落語家を志し、芸人活動を開始。しかしお笑いとして何の経歴もないまま落語家になるのは難しいと思い、「作家」の肩書きを手土産に落語の世界に入ろうと思い至る[2]。こうして1990年4月、オーディション番組『激辛!?お笑いめんたい子』(テレビ西日本)に参加。それがきっかけとなり、同5月吉本興業福岡事務所の1期生のオーディションに合格。カンニング竹山、博多華丸・大吉が同期にあたる。初代吉本福岡事務所長の「芸人は本名ではなく芸名で」という方針で、働いている会社名からあやかり、芸名を『ワコール青木』とする。こうして平日は会社員、土曜と日曜は芸人という生活を送る[2]。
1991年4月、ワコールを退社し、吉本福岡事務所も退所。同年5月に立川流Aコースに正式入門、前座名は「立川ワコール」とした[注釈 1]。見習いから前座になるまで1年2か月、前座としての仕事が与えられるようになり、重宝がられるまで3〜4年かかったという。通常5年程度だとされている前座暮らしは、最終的に9年半という期間になった[1]。
2000年12月、二つ目に昇進。立川談志の命名により「立川談慶」に改名。2005年3月、真打昇進(慶大出身者では初の真打)。
2006年3月、ひかり荘で25時間連続落語、25席を演じる。
2010年4月、長野県佐久市で柳田清二市長からの依頼を受け、総合文化会館「コスモホール」の館長に就任(~2012年3月)。落語会などを企画・開催した[3]。
2013年2月、 アカペラボーカルグループINSPIとのコラボ「アカペラ落語の会」を企画・脚本執筆・演出・上演。
2019年12月、「50歳過ぎでベンチプレス100キロ以上挙げる落語家」としてSASUKE出場の予定だったが、収録日当日が荒天のため順延となり、翌日が事前に決まっていた仕事のため出場できず欠場となった[4]。
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