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日本の漫画家 ウィキペディアから
あだち 勉(あだち つとむ、1947年8月1日 - 2004年6月18日)は、日本の漫画家。群馬県伊勢崎市出身。本名は安達 勉(読み同じ)。当初のペンネームはあだちつとむ[1]。実弟は漫画家のあだち充。
10代の頃より貸本漫画誌の読者コーナーに投稿を始める。才能が認められ、高校生で日の丸文庫『QP』に執筆するなど、貸本漫画家としてデビューする。高校卒業後に上京、広告会社でデザイナーとして働くが、プロを目指して漫画家としての活動を再開。
『週刊少年サンデー』に短期連載された『タマガワ君』を見た赤塚不二夫から絵の上手さを認められ、以前から担当であった武居俊樹を介してアシスタントに誘われ、フジオ・プロダクションに参加[3]。高井研一郎や古谷三敏がフジオプロにあまり関われなくなった穴を埋めるように、作画の要である下絵チーフを任された。これに初期からのアシスタントであった北見けんいちを加えて赤塚門下四天王と称される[4]。また、フジオプロの漫画制作システムの中枢であった「アイデア会議」にも参加するようになった。
1981年ごろフジオプロを退職し、『みゆき』でブレイクしつつあった弟のマネージャー兼アシスタントを務める[1]。翌1982年には、ペンネームをあだちつとむからあだち勉に改めている[1]。1984年ごろには、片手間に新所沢で書店「タンデム1」を経営し、日本初の「日曜漫画家」を自称する[1][5]。1998年には赤塚と共に立川談志家元の落語立川流に門下生として入門を許され、「立川雀鬼」を名乗る。1996年発表の赤塚不二夫『シェー教の崩壊』制作で歴代アシスタントが集まった際には、チーフを務めた[6]。
2004年6月18日、胃癌のため死去した。享年56[2]。入院先は、赤塚が先に入院していた順天堂大学医学部附属順天堂医院であった[7]。
弟・あだち充の才能を見抜き、反対する両親を説得し、漫画家にするために上京させた。2人は兄弟仲がよく、あだち充は「バカあんちゃん」として慕っていた。あだち充の『タッチ』における愚兄賢弟の設定は、あだち兄弟の漫画家関係を反映したという見方も存在する[8]。
根アカな性格から、ギャグ漫画を体現した人物と言われた。「飲む、打つ、買う」の三拍子揃った遊び人であり、麻雀が非常に強く、赤塚もあだちから麻雀を教わったと語っている[9]。安達家では兄弟ともに子供の頃から麻雀を仕込まれており、二人ともに若くして相当なキャリアだった。雀荘で雀ゴロのような生活をしていた時期もあったようで、初心者相手にイカサマや点数ごまかしなども平気でやったと語られている。
フジオプロ入社後は「先生と呼ばれるのは赤塚先生だけなんだよ!」と「あだち先生」と呼ばれるのを否定し、弟子筋や後輩にあたる漫画家(ありま猛、小野新二、てらしまけいじ他)からはいつしか「おじさん」と呼ばれるようになっていた。
赤塚不二夫のチーフアシスタントや弟のマネージャーを務めながら、『中一コース』などで独自の仕事を密かにこなし、1987年ごろまで月刊連載を抱えていた[1]。
あだちを弟子として可愛がっていた赤塚不二夫は、フジオプロを辞して弟のマネージャーに転身する際、再考を求めたほどであった。折角の高い画力を持っているのだから、辞めるのなら再度一本立ちをして欲しいと願っていたが、結局、そのまま裏方を全うした。
基本的に赤塚不二夫風の頭身の低いギャグタッチを得意としていたが、劇画調の画風にも長けており、美人女性や美形の男性を描く際にはあだち充似の画風にしたりするなど、幅広い絵柄を使い分ける技量があった。
その性格から、弟子のありま猛の作品『連ちゃんパパ』の主人公・日之本進のモデルとなる。ありまは後にあだち充の協力を得て、勉の破天荒なエピソードを中心に描いた評伝漫画『あだち勉物語 〜あだち充を漫画家にした男〜』を連載した[10][11][12]。
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