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オホーツク海の南西部にある島 ウィキペディアから
樺太(からふと)またはサハリン(ロシア語: Сахалин)は、ユーラシア東方、オホーツク海の南西部にある島。南北約948km、東西約160kmで南北に細長く、面積は約76,400km2で、北海道(78,073km2)よりやや小さい。樺太島(からふととう)、サハリン島(サハリンとう)ともいう。日本が実効支配していた頃は樺太という名称以外ではサガレンが一般的に用いられていた。
樺太は、北部と南部でそれぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度線以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。
近世以前、樺太にはアイヌ、ウィルタ、ニヴフなどの先住民が居住しており、主権国家の支配は及んでいなかった。
近代以降、樺太の南に隣接する日本と、北西に隣接するロシアとが競って樺太への領土拡張を求めて植民を進め、多くの日本人とロシア人が樺太へ移住するようになった。
1855年(安政2年)の日露和親条約では樺太には明確な国境が設けられず、日本とロシアとが混住する土地のままとされた。
1875年(明治8年)の樺太千島交換条約によって、以前から日本領であった北方領土にくわえて千島列島(得撫島から占守島)を日本領とする代わりに、樺太の全土がロシア領と定められた。
1905年(明治38年)から1945年(昭和20年)までは、北緯50度線を境に、樺太の南半分(南樺太)を「樺太(カラフト)」として日本が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン(ロシア語:Сахалин)」としてロシア及びソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された[1]。
第二次世界大戦末期、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の市街戦が行われた地である(1945年8月の樺太の戦い)。
戦後はソビエト連邦及びロシア連邦が樺太南部も実効支配している。人口約50万人で最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約20万人。日本名: 豊原)。現在、サハリンプロジェクトが進められている。
「からふと」の名の語源は、古くより諸説あり[2]、今のところ決着はついていない[3]。
樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシリと呼ばれ[4]、 北海道アイヌ語ではカラㇷ゚ト Karapto と呼ばれる[5]。
また、日本語の「唐人(からひと)」がなまって「からふと」となったとの説もある[6]。
古くは「からと」とも書かれた。1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている。1669年(寛文9年)の史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる[7]。1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある。1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる[8]。
1783年(天明3年)の『加模西葛杜加国風説考』では「カラフトの北にサカリインといふ大嶋有」とし、同書の付図では「カラフト」を大陸と地続きの半島として描き、別に「サカリイン」を島として描いている[9]。1785年(同5年)の『三国通覧図説』においても「カラフト嶋」は大陸の半島として描かれ、別に「北海中ノ一大国」として「サガリイン」を描いている。1808年(文化5年)から1809年(文化6年)に亘って行われた間宮林蔵等の調査により樺太が島である事が確認された、1809年(文化6年)以降は東西の蝦夷地に対して北蝦夷地とも呼ばれた(それ以前は西蝦夷地に含まれた)。その後、明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり「樺太」という漢字表記が定められる[10]。
「サハリン」(古くは「サガレン」と表記)という名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じた清国版図測量の際に、黒竜江(満州語名:ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ 転写:sahaliyan ula、サハリヤン・ウラ)河口の対岸に島があると聞き、そこを満州語でサハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ(ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
ᠠᠩᡤᠠ
ᡥᠠᡩᠠ 転写:sahaliyan ula angga hada、「黒竜江の対岸の島」)と呼んだことに由来する。ポーツマス条約調印以降の日本では、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、北樺太を指してサガレン(薩哈嗹)と呼ぶ場合もあった。「サガレン州派遣軍」などは、その一例である。
中国語では清の時代の呼び名である「庫頁島」(くげちとう、クーイェダオ、由来は苦夷)と呼ばれる。また、ロシア語の音訳である「薩哈林島」(サハリンダオ)も使われる。
樺太は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置しており、北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて広がる島である。島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)であるのに対し、南北は約948kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400km2である(北海道本島の面積は77,981.87km2)。その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。
樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。島の北岸および東岸はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前の氷期には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。
樺太の最北端は、シュミット半島の先端に位置している鵞小門岬(がおとみさき、別名:エリザベス岬、エリザベート岬とも)である。シュミット半島から西方の樺太北岸から、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸までの海岸線を一続きとみると南に湾曲した湾状の海岸線となっている。この湾はサハリン湾と呼ばれている。
南の宗谷海峡に対しては、西側から能登呂半島が、また東側から中知床半島が突き出ており、これら2つの半島の間には南に開く亜庭湾(アニワ湾)がある。能登呂半島の先端は樺太の最南端となる西能登呂岬である。中知床半島の先端は中知床岬である。
樺太の西方はユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。間宮海峡の最狭部は黒龍水道と呼ばれ、その幅は約7.3kmである。
東方のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出ている。先端の北知床岬から西方は北へ向かって海岸線が湾曲し、その湾は多来加湾(タライカ湾)と呼ばれている。
樺太の気候は亜寒帯モンスーン気候に属する。夏季は湿度が高く、霧が多く発生し、日照時間が少なくなる。冬は日本海側で雪が多くなるものの、オホーツク海側と比較して冷え込みは緩む。南西部は対馬海流(暖流)の影響を受け比較的温暖であり冬季も海は結氷しないが、北東に行くにしたがい東樺太海流(寒流)の影響を受け気温が低く冬季は海が結氷する。オホーツク海側では乾燥し、厳しい寒さとなり、海が氷結すると晴天が続く。また、夏と冬の寒暖の差は大きい。海洋の影響が大きい南樺太と比べ、大陸の影響を受けやすい北樺太は特に気温差が大きく、2018年現在まで観測されている最高気温記録は、ノグリキで1977年7月に観測された39度、最低気温記録はティモフスコエで1980年1月に観測されたマイナス50度であり、寒暖差の大きさがデータでも確認することができる。
植物の分布境界線として北樺太西海岸のヅエと南樺太東岸の内路を結ぶシュミット線が有名であり、日本固有種の分布はこの線より南側で、北側は針葉樹林などシベリア系の様相となっている。動物の分布境界線は八田線(宗谷線)があり、宗谷海峡を挟み樺太と北海道で両生類や爬虫類などの分布が異なっている。
樺太は、石油や天然ガスなどの豊富な地下資源にも恵まれている。
地理的な意味合いでの日本列島の中では、本州、北海道に次ぎ、3番目に大きい島である。
ニヴフのほか、東部(幌内川[要曖昧さ回避]とロモウ川の流域)にはウィルタも居住。
樺太アイヌのほか、北東部(幌内川[要曖昧さ回避]の流域、敷香郡や散江郡など)のウィルタ、ニヴフといった北方少数民族がいる。1905年から1945年までの日本統治下の南樺太では樺太庁はアイヌ(樺太アイヌは当初は樺太土人とされていたが、1932年1月に戸籍法上は内地人となった)を除く樺太先住民(ウィルタ、ニヴフなど)はオタスの杜に集住し戸籍法上は樺太土人と扱って内地人と区別されていたが、日本国籍を付与していた。樺太の先住民は南樺太に居住して日本国籍を与えられていたために、ソ連による樺太占領後は残留せざるを得ない事情を持った者を除き北海道以南に追放されている。日本では終戦後の1945年にアイヌを除く樺太先住民の参政権が停止されたものの、1952年のサンフランシスコ平和条約発効の際に就籍という形で参政権を回復した。現在の樺太住民の中にはアイヌを名乗る者が若干名存在するものの、統計が取られていないために詳細は不明である。
北緯50度線以南を指す南樺太はアイヌの居住地で、ニヴフやウィルタは、50度線に近い東岸の幌内川流域周辺のみに分布する。日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に外地から内地へと編入された。人口は1945年(昭和20年)当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙業・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業など。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市(ユジノサハリンスク)。
1995年(平成7年)より稚内 - コルサコフ - 小樽[注釈 1]を結ぶ日露定期航路が開設されており、稚内港より船で渡航が可能である[11]。なお、稚内とコルサコフ間に定期航路が就航したのは50年ぶりである[11]。
1905年、明治政府は、樺太南部から中部までの地層を細かく調査、本州へも移出。塔路町周辺では良質の無煙炭が多く採れた。その富を求めて、人口が増加、塔路小学校では三千名の児童を抱え、六十名の教員が在職、「日本最大の小学校」と言われた[注釈 2][12]。
樺太の留多加は比較的に温暖であり、農耕にも適しているが、亜庭湾においてホッキガイなどを採取し、採取後には暖を取るためたき火などもしていた[要出典]。
1905年(明治38年)の祖国復帰後、明治政府は蝦夷松・椴松がパルプの原料となることを調査・研究によって突き止め、1914年(大正3年)、第一次世界大戦の特需景気の恩恵を受け急成長を遂げる。王子製紙、富士製紙、樺太工業による三社寡占状態であったが、1933年(昭和8年)に王子製紙が競合二社を吸収合併、王子製品は本州へも移出された。また同時期には木材業者の合併も行われ、樺太木材統制組合が設立された。
森林伐採は、開発と不可分で進行するが島内ですべてを消費できることもなく、木材の島外への移出は活発となった。移出量は、1929年(昭和4年)にピークを迎え約1,300万石を記録。しかしその後は漸減し、第二次世界大戦直前の1941年(昭和16年)には約10万石に落ち込んだ。戦争中は、木材を運搬する船舶が不足し、積み出しが不能になったまま終戦を迎えた[13]。
日刊紙だけでも十紙以上が発行されていた(後、読売新聞社が経営、日刊各紙は読売に統合後、読売系樺太新聞となる)。代表的な日刊紙は、樺太日日新聞、樺太時事新聞、樺太毎日新聞、真岡毎日新聞、恵須取毎日新聞である[要出典]。
1936年(昭和11年)、豊原での試験放送が人気を得て、1941年(昭和16年)、日本放送協会(NHK)は豊原放送局を開設。
島民の証言によると、豊原には数軒以上の銭湯があった[要出典]。
熊笹峠には、樺太の戦いにおけるソ連軍の南進を阻止し、同軍に北海道侵攻を断念させた日本の将兵の遺骨が今も眠っている[要出典]。
樺太の富内村には湖沼が多数存在し、マリモが多く生息し北海道のものとは種類が異なるため、樺太天然記念物として指定されている。
フレップ(コケモモ)と呼ばれる直径約1cm程度の木の実があり、ジャムなどにもなる。フレップとは、アイヌ語で、「赤い物」という意味である。
日本時代の南樺太では6月から9月の間、競馬が盛んにおこなわれていた。1931年(昭和6年)には大小20か所の競馬場があり、その中で8か所が1932年(昭和7年)に樺太競馬規則による公認競馬場に認可された。
北緯50度線以北を指す北樺太はニヴフの居住地で、東岸のロモウ川流域にはウィルタも分布する。樺太・千島交換条約以来のロシア領であり(条約以前は領有未確定で日露混合居住地)、ロシア帝国時代は沿海州に属した。ソビエト連邦成立当初はシベリア出兵時発生した尼港事件を受け、1920年7月から1925年5月15日の約5年間日本のサガレン州派遣軍による保障占領下にあった。1925年(大正14年)に日ソ国交樹立で日本軍が撤退するとハバロフスク地方に編入され、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市はオハやアレクサンドロフスク・サハリンスキー(日本名:オッチシ・落石、アイヌ語由来。ニヴフ名:イドイー)である。オハ油田、サハリンプロジェクト(サハリン1、サハリン2)が代表的な石油産業である。
冷温帯気候に属する。北端のオハでは植物の生長期間が97日と極端に短い。全島面積の75%は森林であり、かつては北はエゾマツ、南にはトドマツ中心の原生林が広っていた。南樺太を日本が領有した際には、パルプの原料として大規模伐採を行ったほか、病虫害(カラフトマツカレハ)の発生、山火事により森林資源は減少。ソ連が実効支配した後もパルプ工場は稼働し、森林の伐採は続いたことから、森林の減少は続いたとみられる[15]。
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中国、朝鮮の古書(山海経、海東諸国記)には、いずれも「日本の北(又は領域)は黒龍江口に起こる。」と記載。
氷河時代には、樺太島は大陸とつながっていた。新石器時代から樺太島には人々が住んでいた。3世紀から13世紀にかけて、エホツク海岸一帯にオホーツク文化が存在し、現在の北海道、樺太島、千島列島南部に分布していた。この文明は、コリャーク人やニフフ人と関連があり、北海道の続縄文文化や擦文文化とは異なる。この時期には、アイヌ人が樺太島の南部で、オロッコ人が中部で、ニヴフ人が北部で生活していた。中国の古代文献によれば、ホジェン族やオロチョン族を代表とするツングース系民族がこの島に住んでおり、主に狩猟と漁労で生計を立てていたとされている[16]。
唐の時代には、中国人はカムチャツカ半島と千島列島を発見し、カムチャツカ半島と千島列島を航行していた。[要出典]唐の玄宗の開元十三年(西暦725年)、唐朝はハバロフスク(伯力)に黒水府を設置し、黒水軍を配置し、黒水靺鞨の地域に効果的な行政支配を行い、現在のカムチャツカ半島と千島列島を探検した。[要出典]『新唐書・北狄伝』には、「黑水西北又有思慕部、益北行十日得郡利部、東北行十日得窟說部、亦號屈設、稍東南行十日得莫曳皆部」と記されている。
唐の時代において樺太島は靺鞨の窟説部に属し、「窟説」や「屈説」といった言葉が同島の中国語名である「庫頁」の語源となった。[要出典] 当時に靺鞨の勢力が強力であったため、窟説は直接唐に朝貢するのではなく、靺鞨に属していた。また、流鬼国は唐に朝貢し、その王子の可也余志も唐朝の都である長安に訪れ、唐朝の冊封を受け、可也余志には唐朝から騎都尉の官職が授与された。流鬼国はおそらくカムチャツカ半島のエホツク文化の一部族であったと考えられている。[要出典]史料によれば、流鬼国の使者は「三訳而来朝貢」し、まず窟説部が流鬼国の言葉を窟説部の言葉に訳し、次に黒水靺鞨が自らの言葉に翻訳し、最後に中国語に訳されたとされている。
また、飛鳥時代の斉明天皇のころ行われた蝦夷征討・粛慎討伐の際、阿倍比羅夫が交戦した幣賄弁島は樺太との説[17] もある。樺太は南北に長いため、アイヌの居住地である南樺太と、ニヴフの居住地である北樺太で分けて記述する。
15世紀初、明は北伐し黒龍江の下流地域に進出したため、女真族の各部族が明に服属し始めた。1410年、同島の東に位置する駑烈河流域のオロッコ人の族長が率先して明に朝貢し、その地に兀烈河衛を設置した。1411年に明は外満洲の特林に奴爾干都指揮使司を設け、外満洲の女真諸部族をなだめるためのものだった。1412年、北部近海に住むニヴフ人の族長も朝貢し、その地に囊哈児衛を設置した。1428年に中部の波羅奈河流域のオロッコ人の族長も朝貢し、その地に波羅河衛を設けた。これら三つの衛はすべて奴爾干都指揮使司に属していた。明は黒龍江下流地域や樺太島などを効果的に管理するため、太監の亦失哈を派遣した。彼が奴爾干地域を巡回し、永寧寺を建立しながら、この地域の事務を記録している永寧寺碑も建った。亦失哈は1413年には樺太島を再び視察した。1430年、明宣宗は都指揮の康旺、王肇舟、佟答敕哈らを奴爾干都指揮使司に派遣し軍民を慰撫した[18]。奴爾干都指揮使司は宣徳9年(1434年)に正式に廃止された。その後、三つの衛は明に朝貢しなくなった。
1616年に、魏源の『聖武記』によると「太祖遣兵四百收瀕海散各部、其島居負險者刳小舟二百往取、庫頁內附、歲貢貂皮、設姓長、鄉長子弟以統之」との記述がある。清朝が建国した後、樺太島(中国語名は庫頁島)は最初に寧古塔副都統の管理下に置かれ、1715年以降、三姓副都統の統轄となった。島の住民は毎年、黑龍江の下流の普祿郷まで赴き、清朝に貂皮などを献上しなければならなかった[19]。
1689年に清朝とロシア帝国は『ネルチンスク条約』を締結し、スタノヴォイ山脈以南を中国の領土と規定したが、当時のロシア人は樺太島の存在を知らなかった。1709年に康熙帝は三人のイエズス会の修道士を全国地図を測量するために派遣し、彼らは一つの大きな島が存在することを知った。翌年、満洲人で構成された第二の測量隊が間宮海峡を横断して樺太島に到達した。满洲文の地図では、樺太島は正式に「ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
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ᡥᠠᡩᠠ」(sahaliyan ula angga hada)と名付けられ、「黒江の口先」という意味である。雍正十年(1732年)、清朝は三姓副都統衙門を設立し、「海島に居住する庫頁フェヤカ人が貂皮を献上する場合、三姓副都統衙門の兵士が派遣され、約束の地で貂皮を収集する。約束の場所に来ない場合は、兵士に島に来るように命じ、貂皮を収集する」(居住海島之庫頁費雅喀人貢貂、則由三姓副都統衙門派出官兵、前往約定之奇集噶珊收集貢貂並頒賞烏林。如不前來約定之地、則令官兵尋入海島、喚起前來、徵收貂皮並頒賞烏林[20])と規定され、同年には「海島に住む特門赫圖舎などの庫頁フェヤカ人146戸を招撫し、貂皮を進上するように命じた」(招撫居住於海島上特門赫圖舍等處庫頁費雅喀人146戶、令其貢貂[21])。さらに、清朝は「薩爾罕錐」と呼ばれる旗人の娘が地元の部族と結婚することで連絡を強化するようになった。結婚の条件は高く、皇帝の直接の承認が必要であった。男性は贈り物を用意しなければならず、通常は貂皮304枚とさまざまな色のキツネの毛皮が必要であった。清朝も豊富な持参金を用意し、主に衣類であったが、「牛二頭,犁、鏵、犁碗各一對」といった農業具も持参金に含まれていた[22]。
1738年から1739年にかけて、日本航路を探検したロシアの中尉シュパンベルクはアイヌ族から樺太島の存在を知った。1742年にロシア人探検家シェリティンクは樺太島のほぼ全体の東海岸を探検し、ロシアは遠東地域で樺太島の重要性に気づき始めた。1783年から1787年にかけて、フランスの航海家ラ・ペルーズは黒龍江口と樺太島を調査し、その中で宗谷海峡を発見した[19]。1785年、江戸幕府は山口鉄五郎ら5人とその側近らを派遣し、千島列島と樺太島を二方向から測量し、「樺太島北部は清国に属する」と結論付けた[19]。
古代以前は南部に進出した続縄文人や、日本書紀上の粛慎(みしわせ)に比定されるオホーツク文化人などが存在し、鎌倉時代以降はアイヌ民族や和人が進出、北東部(幌内川[要曖昧さ回避]の流域)には、アイヌ民族が「オロッコ」と呼んだウィルタ民族や、「ニクブン」と呼んだ東岸のニヴフ民族(ニヴヒとも。)などの北方少数民族もいた。以下は、南樺太中心の出来事。
西暦(元号) | 人口 |
---|---|
1804年(文化元年) | 2,100 |
1822年(文政5年) | 2,571 |
1839年(天保10年) | 2,606 |
1854年(安政元年) | 2,669 |
1873年(明治6年)1月1日 | 2,358 |
1875年(明治8年)1月1日 | 2,374 |
され、樺太は完全に内地へ編入された。ただし、廃止法律の附則で、それまでの勅令による特例はなお効力を有するとされたため、樺太施行法律特例(大正9年勅令第124号)は廃止されずそのまま有効とされた。北海道とともに北海地方[注釈 5] に含まれた。
調査年月日 | 人口 | 出典 |
---|---|---|
1908年(明治41年)12月31日 | 26,393 | 樺太庁統計書 |
1913年(大正2年)12月31日 | 44,356 | 樺太庁統計書 |
1918年(大正7年)12月31日 | 79,795 | 樺太庁統計書 |
1920年(大正9年)10月1日 | 105,899 | 国勢調査 |
1925年(大正14年)10月1日 | 203,754 | 国勢調査 |
1930年(昭和5年)10月1日 | 295,196 | 国勢調査 |
1935年(昭和10年)10月1日 | 331,943 | 国勢調査 |
1940年(昭和15年)10月1日 | 414,891 | 国勢調査 |
1944年(昭和19年)2月22日 | 391,825 | 人口調査 |
古代以前は日本書紀上の粛慎(みしわせ)とされるオホーツク文化人などが存在し、鎌倉時代以降は、ニヴフ民族(ニヴヒとも。アイヌ民族は西岸を「スメレンクル」、東岸を「ニクブン」と呼んだ)、アイヌ民族が「オロッコ」と呼んだ東部(ロモウ川の流域)のウィルタ民族、などの北方少数民族もいた。以下は北樺太中心の出来事。
幕末以来、日本とロシアの間で領有者が度々変遷した。
樺太(50度線以南)について、日本では国際法上帰属が未確定であるとするゆえに、北方領土問題とともに取り上げられることも多い。
1945年(昭和20年)8月9日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦。これは1945年(昭和20年)2月、米英首脳がソ連に対してナチス・ドイツ降伏3カ月後に対日参戦することを条件に、南樺太と千島列島を引き渡すという密約を与えたヤルタ協定に基づいて行われたものである。8月11日より南樺太に侵攻を開始した。8月14日のポツダム宣言受諾後も、8月22日に知取町で日ソ停戦協定が成立するまでソ連は民間人に対しても攻撃を続けた。
1951年(昭和26年)9月8日に、日本政府は、北緯30度線以南の南西諸島、小笠原諸島、南樺太などの権利、権原及び請求権の放棄が明記されたサンフランシスコ講和条約を締結したが、引渡先は未記載である。そして、ソビエト連邦がサンフランシスコ講和条約への調印・批准を拒否し同条約の当事国でない為、条約の内容がソ連(後継のロシア連邦)に適用される訳ではなく、南樺太の領有権の帰属先は国際法上未定のままとなっている[68]。
現在、日本は積極的な領土返還要求を行っていないものの、最終的な帰属は日ロ間の平和条約の締結など、将来の国際的解決手段に委ねられると主張している[69]。さらに、日本政府は「仮に将来、何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合には、日本としてその内容に応じて必要な措置」を取るとしている[69]。そして、日本政府はヤルタ会談について、日本は参加していないためこれに拘束されず、ヤルタの秘密協定は主権侵害であり国際法違反だとしている。
また、冷戦下の1952年(昭和27年)3月20日に、サンフランシスコ講和(平和)条約の当事国であるアメリカ合衆国上院は、同年4月28日に発効するサンフランシスコ平和条約では、ソビエト連邦への南樺太の領土、権利、権益の引き渡しを決めたものではない、とする決議を行っている。
一方で、日本政府は、ロシアによる実効支配についてロシア以外のいかなる国の政府も領有権の主張を行っておらず、異議を唱える立場にはないとしている[69]。この点が、いわゆる北方領土問題(北方地域)とは異なっている。
ロシア側の立場は、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかったが国際条約で領有権放棄が明記されており、さらに、ヤルタ会談を根拠として、南樺太と千島列島のソ連による占領とロシアの領有は戦争の結果であり、また既にソ連国内法により編入されている[70][71] というものである。
蔣介石にまつわる記録文書をまとめた『蔣中正先生年譜長編』には、かつて中国で「国恥」教育が実施されたと記録されており[72]、1933年に上海の世界輿地学社から発行され、中国で使用されていた小学校用の地理教科書『小学適用 本國新地圖』には、過去100年間に外国に奪われた中国の国土範囲を表した地図「中華国恥図」が掲載されており、中国を中心とした広大な地域を囲んだ黒の破線(「現在」の国境線)と、その上に引かれた太い赤線(「古い時代」の国境線)があり、赤線で囲んだ広大な範囲がすべて中国の領土であり、赤線と黒の破線に挟まれた領土の差を失ったことが、中国の「国の恥」だと訴えている。赤線は日本海の真ん中を通り、種子島・屋久島をかすめたところで東側に急カーブし、琉球諸島を範囲内に収めながら南下し、台湾、東沙諸島も囲って進み、フィリピンのパラワン島を抜けたところで、再び急にスールー諸島を取り囲むために東へ寄り、ここからボルネオ島北部のマレーシア、ブルネイ、マレーシアとシンガポールのあるマレー半島すべて、そしてインドのアンダマン諸島まで囲いこんでから北上し、ミャンマーの西側を通り、ネパールとインド国境を進み、タジキスタンとアフガニスタン、ウズベキスタンやカザフスタンまで含んだ赤線は、中露国境を通ってモンゴルへ向かう。そしてモンゴルもすべて領内としたうえ、樺太すべて、最後に朝鮮半島をまるごと収めて、環を閉じている[73]。その領土がいつ、どのように失われたかという説明書きには、樺太は「俄佔 一七九〇年後喪失 日佔(ロシアが占領、1790年以後喪失、日本が占領)」とある[74]。
ソ連はサンフランシスコ平和条約に調印しなかったため、南樺太、千島列島全域は日本の領土のままであるというものである。北樺太の領有権も主張している人物もいる[誰?]。
樺太等に住んでいたが敗戦の混乱により帰国できなかった日本人。2018年現在では家族を含め275人が永住帰国を果たし、86人が樺太に、23人が旧ソ連圏に暮らしている[75]。
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