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日本のテレビオーディション番組 ウィキペディアから
『スター誕生!』(スターたんじょう!)は、1971年10月3日から1983年9月25日の12年間に亘って放送された、日本テレビの視聴者参加型歌手オーディション番組である。略称は「スタ誕」(スタたん)。全619回。
スター誕生! | |
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番組の公開収録が行われていた後楽園ホール | |
別名 | スタ誕 |
ジャンル | 音楽番組/バラエティ番組 |
構成 | 河村シゲル、鈴木しゅんじ・詩村博史(パジャマ党)/ 萩本欽一ほか |
ディレクター |
宮嶋章 吉岡正敏 他 |
監修 | 阿久悠 |
司会者 |
萩本欽一 岩谷隆広 タモリ 坂本九 石野真子 横山やすし 西川きよし 若松愛子 |
出演者 | 別項 |
審査員 | 別項 |
製作 | |
チーフ・プロデューサー | 池田文雄 |
プロデューサー |
金谷勲夫 他 |
制作 | 日本テレビ |
放送 | |
音声形式 | ステレオ放送(1982年10月以降) |
放送国・地域 | 日本 |
55分番組時代 | |
放送期間 | 1971年10月3日 - 1982年3月28日 |
放送時間 | 日曜 11:00 - 11:55 |
放送分 | 55分 |
45分番組時代 | |
放送期間 | 1982年4月4日 - 1983年9月25日 |
放送時間 | 日曜 11:00 - 11:45 |
放送分 | 45分 |
途中、1982年10月24日放送分でタイトルを『新・スター誕生!』と改め、同時にモノラル放送からステレオ放送へと移行したが、1983年4月3日からは正式タイトルを『スター誕生! ~全国選抜歌の選手権~』と改めた(ステレオ放送についてはそのまま継続)[1]。
番組の企画者は審査員の一人でもある阿久悠で、日本テレビ側の一般家庭で普及し始めたカラーテレビの特性を生かして[注 1]、「テレビマンの手でスターを生み出したい」との思い[2]も相まって1971年に『スター誕生!』が始まった。番組名の名付け親はチーフプロデューサーの池田文雄である[3]。公開オーディション番組であり、毎週、厳しい予選を勝ち抜いてきた5-7人程度の挑戦者が歌合戦形式で実力を競う。
同じネット局のよみうりテレビ『全日本歌謡選手権』(『スタ誕』より先に番組開始)や、兄弟番組である日本テレビ『お笑いスター誕生!!』と共に実力勝負が要求された。
『スタ誕』のプロデューサーだった金谷勲夫によると、番組開始にあたり「全くの素人をスターに育てるには時間が必要で、番組がすぐに打ち切られては意味がない」と考えた[注 2]。そこで視聴率をゴールデンタイムの番組ほど求められない、「日曜午前11時」枠でやることが決まった[4]。
1982年3月28日までは毎週日曜 11:00 - 11:55 に放送されていたが、同年4月4日以降は『NNN昼のニュース』の放送時間繰り上げによって10分縮小し、11:45までの放送となった。また、一部のネット局では放送日時が異なっていた。1978年からは『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』放送時に休止となった。
初回の視聴率は4.7%だったがその後視聴率が上昇し始め、1978年5月7日放送分では番組史上最高の28.1%をマークした(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。
1971年10月3日に『スタ誕』の放送を開始したものの、当初は「NHKのど自慢」のように小学生から70代までの歌自慢の老若男女が参加したため、番組側はどういう基準で合格者を選ぶかを迷っていた。そんな中10月下旬に現れたのが当時13歳の森昌子で、初代グランドチャンピオンになるとその後デビュー曲の『せんせい』が大ヒットした。この森の成功が呼び水となり、「自分もプロの歌手になれるかも」と考えた中高生を中心とする若者の『スタ誕』への応募が増え始め、その後の『スタ誕』の方向性を決定づけた[4]。その後『スタ誕』の参加者層は主に10代の年齢層となり、「NHKのど自慢」とは参加者層でも棲み分けされるようになった。
司会のきよしは以下の人物を「評議員」と呼んでいた。
最末期での担当者。最終回まで出演。
応募からデビューまでの道のり[7]
※(1971年当時)
出場希望の葉書が殺到したため、毎週約500-1000人に絞り、百貨店・そごうの有楽町店が入っていた読売会館の7階のよみうりホールで予選会を開いていた。このため、日曜日のそごうの階段は応募者の長蛇の列であふれ返っていた。なお、よみうりホールが他興行やメンテナンスで使用できない場合は、千代田区四番町の日本テレビ四番町ビル(現存し、バップなどが入居する。1号館から4号館まで4棟ある)で、地方で公開収録を実施する場合は、放送している系列局から告知を出していた。
応募者は、自ら持参した歌本(楽譜)を横森良造に提出し、横森のピアノの伴奏で歌う[注 8]。レギュラーの審査員は直接出向かず、テレビ予選の歌唱楽曲の編曲者である高見弘や番組のプロデューサーなどが審査をしていた。
予選会の一次審査は一人あたりの持ち時間は20~30秒で、歌いだし4小節で合否が判定され[8]、応募者は楽曲から好きな部分を四小節選び歌う。歌詞を忘れたり、歌い始めたと思ったらブザーが鳴ってしまったことも多かったという。この大人数の中から50人に絞り、同じ方法で二次審査を行う。二次審査では30人に絞られていく。どちらも失格者はその場で退場となる。
最終審査では、30人は1コーラス歌う時間を与えられる。そして、最終的にテレビ予選への進出者が決定する。その人数は当初は14人だったが、時期により変動がある。詳しくは次の「テレビ予選と審査方法」の欄を参照。
司会者の変遷により異なっていた。
テレビ予選に出場できるのは1回7人(組)まで。両代とも末期は5人に削減され(萩本時代は1978年1月8日から降板までの2年3か月、谷・タモリ時代は最後の1クールにあたる1981年1月11日 - 3月15日)、予選会の二次→最終審査は20人→10人だった。
アシスタントの紹介ナレーションと共に予選通過者が入場、電動昇降のスタンドマイクの前に立って一人1曲、1コーラス歌い、審査を受ける。
結果発表の時、挑戦者の頭上に4桁の電光掲示板があるセットが映される。舞台の下手(左側)に位置し、7人時は下段が1-4番で上段が5-7番、5人時は並列であった。会場の一般審査員と5人のプロフェッショナル審査員の合計点数が表示される。
得点は会場500点、プロは1人につき100点で計500点の1000点満点で、規定の点数に達すれば合格。その点数は7人時250点、5人時は300点。規定の300点時代の頃、305点でしかもギリギリラインで合格した挑戦者も多数いた。
最初に司会者が「まずは、会場の500点から、どうぞ!」と言い、会場から手元のスイッチで投票。その際にはファンファーレが鳴る。ボード上の数字は水色(初期は豆電球=ドット式)で回転。
まれに会場の審査段階で合格者が出ることもある。石野真子(大阪大会=豊中市民会館:テレビ放送日1977年2月13日)は、会場からの得点だけで合格ラインを超える280点を記録し、阿久悠らプロ審査員を驚かせた。石野は最終得点が530点(7人のプロ全員が合格と認めたため250点加算)になり1000点の過半数を独占した。ちなみに番組史上最高得点は桜田淳子の573点(秋田大会=秋田県民会館:テレビ放送日1972年8月6日)。
この得点審査中、合格者が出た場合は外周の赤い豆電球が時計回りに回転する。合格者が出なかった場合は(出た場合でも)、ドラムロールをバックに司会者が「トップは○番の○点、その次は○番の○点」とアナウンスする。
続いて、司会者が「さあ、審査員の先生方の500点が伸びます!…どうぞ!」と言い、ドラムロールの音が鳴り続けながら(その際にはクラッシュシンバルを叩いて合図する)プロの点数が加算される。数字が回転するのと同時に豆電球が回転。会場の段階での合格者もプロの点数は加算されるが、豆電球は回転し続けたままである。失格の場合は点数の低い順から豆電球が消える[注 9]。合格の場合、豆電球は回転したままで、数字はブラウン管と同じ原理で赤に変わり、目の前のパトライトが回転して合格を知らせる。
得点ボードが赤く付き、パトライトが回転して合格した瞬間、生バンドによるファンファーレが鳴り、萩本、谷&タモリが「○番の方、合格です!」と言った。さらに「合格!おめでとう!○番(画面では○の中に数字) ○○サン(クン)」の字幕スーパーが出た(坂本時代、きよし単独時代も同様)。
一度、萩本時代に『全国縦断選手権』というものが行われ、日本国内数箇所で予選を行い、それぞれの合格者が決勝に臨んだ(通常の決戦大会は行われなかった)。優勝者はデビューはしなかった。他の出場者はその次の決戦大会に出場したが、スカウトのプラカードは誰にも揚がらなかった。その中の一人に、後に『君こそスターだ!』でグランドチャンピオンになった、古賀栄子がいた。
谷・タモリ時代の5人時は、審査基準を歌唱力と個性に重点を置くため、会場の審査を歌っている最中に行っていた。舞台の中央(バンドボックス)左側にデジタル式の電光掲示板を設置し、画面の左下に緑のデジタル表示(クロマキー)を出していた。
合格者は、日本テレビ音楽学院(現・日テレ学院タレントコース)の入学案内書と、副賞として、全スポンサー6社(資生堂・江崎グリコ・アサヒビール(当時の清涼飲料水部門)[注 10]・浅田飴・ナス・救心製薬・シャンソン化粧品・グロリア魔法瓶・ジャノメミシンほか)の内の3社から奨学金が贈られ、紺色のブレザーコートが羽織られる(この時『コングラチュレーション』のインストルメンタルがBGMとなる)。
また、挑戦者全員には、全6社スポンサーの内、「奨学金」に関わらなかった3社からの参加賞がプレゼントされる。なお「奨学金に関わった3社」と「参加賞に関わった3社」は週毎に変わっていた(すなわち全社から参加賞が出る事はなかった)。番組後年(きよし単独時代後期から)、1分スポンサーが縮小した為、毎週固定スポンサーの賞品となった。
合格者が出ると最後はバンザイをして締めくくり、エンディングとなった。しかし、全員失格だった場合はエンディングの際、萩本時代は「バンザーイ、なしよ!」とポーズをとって締めくくった。これは、合格者が出なかった時に会場全体の空気が重苦しくなるため少しでも場を明るくしたいとの思いから萩本が思いついたもので[5]、これも彼のギャグのひとつになった[9]。なお、谷&タモリ時代は「ゴメン!」の一言だけ、坂本時代は「残念!」の一言だけだった。
テレビ予選は1回8人まで。予選会の二次→最終審査は30人→16人。
二部構成で、パート1は8人がメドレー形式で歌い、100人の観客が審査する。持ち点は各自1点。点数の高い者がパート2へ進む。その人数は当初は5人、途中から4人に削減。
パート2はハンドマイクで一人1曲、1コーラス歌い、プロの審査を受ける。歌う曲目はパート1と異なる。
結果発表の時、舞台に挑戦者が座っている巨大なデジタル式の電光掲示板が登場。5人の審査員の点数が一人ずつ個別に表示される。ドラムロールが流れる中、坂本が「○○先生、得点(または点数)どうぞー!」と言う。そしてファンファーレが流れる中、審査員の似顔絵が描かれたランプが点灯して点数が表示される。持ち点は審査員1人につき60点が基準で、クリアすれば赤い豆電球が回転。5人の合計が300点に達すれば合格で、豆電球が上下を取り囲んで回転し、目の前のパトライトが回転し、生バンドによるファンファーレが鳴り、坂本が「○番、○点!おめでとうー!」と初代の萩本時代、2代目の谷&タモリ同様の言葉をかけていた。
中森明菜はこの時代、予選3回目の挑戦で合格[10](関東大会=後楽園ホール。テレビ放送日1981年8月2日)。点数は、阿久悠:75、森田公一:70、都倉俊一:85、松田敏江:63、中村泰士:99の合計392点。この形式での史上最高得点である。中村は本当は100点満点をつけるつもりだったが、ボードは2桁までしか入らないため99点とした。
合格者には中規模のトロフィーが授与された。初代の萩本時代から、決戦大会の最優秀賞獲得者にゴールデントロフィーを授与していたが、通常でもトロフィーが登場するようになったのはこの頃が初めてである。
同代から「スター誕生!」の番組名ロゴ及び、テーマ曲が変更されている。司会者のマイクもマイクキャップ付きのマイクになり、坂本は灰色、石野は赤色のマイクキャップだった(坂本は前期の番組前半はネクタイピンマイクを装着して進行していた)。その後、4代目のきよしは灰色、やすしは茶色のマイクキャップだった(場合によっては変則的にマイクキャップの色も異なった回もある)。
なお、坂本九はナベプロの影響の強いマナセプロ[注 11]のタレントであり、彼を司会に起用したことについて日本テレビがナベプロとの和解を模索したと評されている。エンディングテーマは坂本の曲「上を向いて歩こう」で、坂本本人が歌っていた。
また、石野は同番組の第20回決戦大会でスカウトされ、歌手デビューから3年後の司会起用であった。
テレビ予選は1回6人(予選会の二次→最終審査は20人→12人)、放送時間短縮後は5人が登場。一人1曲歌う(スタンドマイクの前に立って。決戦大会ではハンドマイク)。
審査時には坂本時代と同様に舞台に巨大なパネルが登場、挑戦者も座っている。ティンパニロールが鳴り、星の形の10個の電光ランプが8個以上点灯すると合格となり、決戦大会に進出となる。
決戦大会の選考方法が違うので、決戦大会の項目を参照。
テレビ予選は1回15人が登場し、一人1曲歌う。審査は歌っている最中に行われ、結果は背後の大きな星型の電光掲示板が合格ラインに達すれば合格となり、自動的に決戦大会に進出となった。しかし、やすきよ時代の決戦大会は1回しか行われなかった。詳しくは決戦大会の項目を参照。また、このやすきよの代から、再び萩本、谷&タモリ時代の番組名ロゴに戻る。
正式タイトルを「スター誕生!~全国選抜歌の選手権~」と改めた。ルールも大幅に変更され、決戦大会をなくし、勝ち抜き制となった。一人1曲歌い、即座に審査結果が発表される。5人の審査員の合計が350点(持ち点は1人につき70点が基準)をクリアすると次の週に進んだ。そして7週連続勝ち抜くとグランドチャンピオン(GC)に認定。天井から紙吹雪が舞い(紙テープと風船は入っていなかった)、審査員から賞状とゴールデントロフィーが授与された。
この回から「グランドチャンピオン」のフレーズが出て来た。それまでは通常大会や決戦大会でも単に「合格」であり、さらに決戦大会合格者の中からは「最優秀賞」と表現していた。
GC達成の瞬間、「おめでとう!!グランドチャンピオン!!」の字幕スーパーが大きく出た。表彰の際には「1週目『○○(曲目)』×××点…」というように全ての歌った曲目と獲得点数の字幕ロールが出る。この回から、挑戦者がプロ・アマ問わなくなり、プロにはなったものの、ヒット曲に恵まれなかった元プロ歌手も出場していた。
1クール(3か月)に1回、合格者が7、8人たまったところで、観客席に芸能事務所、レコード会社のスカウトマンを集めて行われた。通常通り1人1曲、1コーラス歌い、審査員がコメントし、スカウトマンが質問した。なお萩本時代のみ、萩本が所属している浅井企画が参加し、毎回珍妙な質問を行っていた。
坂本時代までは、全ての出場者が歌い終わった後、バンドの左側に決戦大会専用の「お立ち台」が設けられ、結果発表となった。出場者が一人ずつお立ち台に出て、それぞれがスカウトマンに対しスカウトしてくれるようにアピールした。「○番、○○です。一生懸命歌いました。よろしくお願いいたします!」というフレーズは、多くの挑戦者が口にした。スカウトマンの中には、元ザ・タイガースのタローや元ヴィレッジシンガーズのヴォーカルの清水道夫、ビクターレコードでの飯田久彦などがいた。司会者の「どうぞー!」の合図と、ドラムロールが鳴り、スカウトする意思があれば、会社の名前が書かれたプラカードを揚げた。特に萩本時代、なかなかスカウトマンがプラカードを揚げない状況が続くと「お願い、勝たせてあげてよー!」という台詞もよく出た。プラカードが揚がった瞬間にファンファーレが鳴り、司会者が「揚がりましたー!おめでとうございまーす!」と言っていた。
規則では、1社しか挙がらなくても合格として認められていたが、その後、会社の組み合わせができなければ保留、あるいは失格となった(事務所のみ、あるいはレコード会社のみ等は組み合わせに時間がかかり調整した)。もちろん1社からも指名されずに涙を呑んだ挑戦者もいた。そして、合格者(スカウトされた挑戦者)の中から1人「最優秀賞」が審査員から発表された。その他、最優秀賞の次に優秀だった合格者に「審査員特別賞」が、まれに失格者の中から1人、審査員の裁量で次の決戦大会への挑戦権が優先的に与えられる「審査員奨励賞」が発表された。
12年間の最高指名社数は、桜田淳子の25社。その他では山口百恵、新沼謙治に対して20社、黒木真由美と渋谷哲平が18社、伊藤咲子-17社、石野真子-16社、清水由貴子-14社、森昌子-13社、中森明菜-11社、岩崎宏美とピンク・レディーが8社、岡田有希子-4社、柏原芳恵と小泉今日子が3社、等。最少指名社数1社の合格者には、日本フォノグラムのみにスカウトされた神保美喜[注 12]、渡辺プロダクションのみにスカウトされた松本明子[注 13]などがいる。
現存する番組の一番古い映像は、桜田淳子の秋田県テレビ予選出場者の選考会フィルム。森昌子・桜田淳子・山口百恵の決戦大会の映像は残されていない。音声のみのテープと写真が存在するだけである[注 14]。決戦大会で山口百恵は、東宝レコードスカウトマンの「百恵ちゃんは足は太いほうですか」の質問に、「はい、太いです」と返答した。
きよし単独時代の決戦大会は、スカウトマンが2名までスカウトして投票する形式で、投票後に即集計された。結果発表では挑戦者が「おめでとう!(会社名列挙)以上x(数字)社が貴方をスカウトしました。」と書かれた紙が入った封筒を持って待っていた。その後挑戦者が一人ずつ最前列に立って開封、獲得意思のある会社名が書かれていたら合格となり、「ありました」または「受かりました」などと言った。ファンファーレが鳴り、「おめでとう!(合格者氏名)さん」というテロップが出る中で天井から紙吹雪が舞い(この時期から紙吹雪の演出を始める)、トロフィーが授与された。逆に書かれていなかったら失格となり、「ありませんでした」または「受かりませんでした」と言って退場した。この方式でスカウトされたのは、吹田明日香、松尾久美子、松本明子である。
やすきよ時代の決戦大会は、1982年12月19日・26日の2週に亘って行われた。事実上準決勝となるパート1は全合格者が一人1曲歌い、事実上決勝となるパート2に進める10人が選ばれた。パート2は10人が歌ったあと、スカウトマンが質問。そして萩本・谷&タモリ・坂本時代と同様に、スカウトマンに対し、スカウトしてくれるように呼びかけた。スカウトされたらきよし単独時代同様、「おめでとう!(合格者氏名)さん」というテロップが出る中で天井から紙吹雪が舞い、トロフィーが授与された。この方式でスカウトされたのは、岡田有希子(当時は「佐藤佳代」。この回のみTVのOAはなし)、太田貴子、高橋美枝である。
この番組は歌手デビューがメインのオーディション番組だったが、決戦大会でプラカードが挙がってもデビュー出来なかった合格者、歌手以外の芸能人でデビューして有名になった挑戦者は数多くいる。10回決戦大会:1名、11回:1名、12回:1名、17回:3名(一人は最優秀賞受賞者)、19回:1名など。逆に決戦大会では失格になったものの、別口でスカウトされてデビュー、有名になったケースもある。例えば、全日本女子プロレスから女子プロレスラーとしてデビューしたマッハ文朱(5回)、決戦大会当日(44回)は指名しなかったボンドより翌年原宿でスカウトされデビューした本田美奈子、後にヤマハPOPCONでグランプリを獲得しデビューした本田美緒(35回)、14歳の時に決戦大会に出場し不合格だったが1983年に歌手デビューした井上あずみ[11]など。
挑戦者全員の歌の審査が終わったあと、結果発表が出るまでの間、全挑戦者をリラックスさせるため、ゲストとともにいろいろなゲームを行っていた。特に萩本司会時代が知られ、「欽ちゃんと遊ぼう」コーナーと呼ばれており、「こっちむいてホイ!」「ドビン・チャビン・ハゲチャビン」「フルーツバスケット」「古今東西」「あなたにお名前差し上げます」等の数多くのゲームが生まれた。またリンリン・ランランが加入後は、「振りまねコーナー」といって、リンリン・ランランやピンク・レディーのヒットソングの振りまねをやる事が有った。このコーナーから、黒部幸英(「欽ちゃんコーナー初代チャンピオン」、ニックネーム・クロベエ)、西山浩司らがブレイクし、いずれも萩本にスカウトされた。コーナー冒頭でアシスタントの井上れい子が「審査の集計が出るまで、欽ちゃんと一緒に遊びましょうね」と言っていた。さらに萩本はこのコーナーの企画を手掛けていた。また、谷&タモリ時代にも、タモリのみ出演だが同様のコーナーが行われていた。さらにきよし単独時代にも「仲よしきよし」のコーナーがあった。
「欽ちゃんと遊ぼう」コーナーは萩本がアドリブで始めたもので、「番組を観る人が増えればスターもたくさん出るだろう」という考えもあっての企画だった。しかし、当番組を本格的なオーディション・スカウト番組にしようと考えていた阿久悠は難色を示し、当初は阿久に同調した審査員らがコーナーの間は退席していた。その後、スタッフによる執り成しや、コーナーの評判がよく番組の視聴率も上がったことで両者は和解した。「審査員は気を遣って席を外してくれていた」と思っていた萩本は、審査員らの真意と反省の弁を聞いて驚いたという[12]。
決戦大会の合格者が出演し、萩本ら司会者やアシスタントの井上れい子の問いかけに答える形で報告する「スタ誕情報局」コーナーも設けられた。合格者の大半は、芸名とデビューの予定月日を告知する。その芸名は、時によっては視聴者から公募する事もあったが、せっかく公募しても採用されずに、本名が芸名になる事もしばしばあった(桜田淳子、山口百恵、伊藤咲子など)。
また、番組出身の新人歌手を紹介するデビューコーナーがある。デビュー曲発売一週目前から四週にわたりタイトルと歌手名のオブジェを客席に設けステージセットとして使い、新人歌手を大々的にアピールした。最終週はメインステージに移り、生バンドの前で歌を披露した。後年は歌手サイドの意向により様々な演出があった。
1975年から1981年までの毎年1月3日(1976年のみ1月2日)には、萩本欽一を始めとするレギュラーや、番組出身者が集まっての正月特番『正月公演シリーズ』が放送されていた(現在の『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』の枠)
原則として毎月2回、東京都内にある後楽園ホールで2週分収録して、一般観覧客を招いて行なわれた。後楽園ホールがプロレスやプロボクシングなどの他興行や、メンテナンスで使用できない場合は、調布グリーンホールなど、郊外の公会堂を使用していた。
また、年に3、4回は、地方で公開録画も行なわれた。現地の日系人が出場してハワイ大会も行われた。1975年の沖縄海洋博会場からも公録が行われた。また、きよし単独時代はキャンプ形式で1度だけ山中湖のキャンプ場で公録を行い放送した(1982年8月1日放送分)。
この節の加筆が望まれています。 |
決戦大会の回数、 開催日または放映日 |
名前 | 決戦大会での歌唱曲 (原曲の歌手名) |
決戦大会での評価、 スカウト数など |
所属事務所 (デビュー時) |
レコード会社 (デビュー時) |
デビュー日 | デビュー曲 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第1回決戦大会 ・1971年 |
森昌子 | 「涙の連絡船」 (都はるみ) |
最優秀賞を受賞、初代グランドチャンピオン。 | ホリプロダクション | 徳間音楽工業 | 1972年7月1日 | せんせい | 13歳で出場。番組からのデビュー第1号。デビューの翌年から、同じ『スタ誕』出身の山口百恵、桜田淳子とともに「花の中三トリオ」と呼ばれ始める。 |
第1回決戦大会 ・1971年 |
柴葉子 | 1974年[7] | 白い羽根 | |||||
長田たいじ (現・おさだたいじ) |
1973年[7] | 女の未練 | ||||||
三橋ひろ子 (みつはし・ひろこ) |
1972年[7] | 私の花言葉 | 番組からのデビュー第2号。 | |||||
コスモス (立井雅子、田村悦子) |
1972年[7] | 若草物語 | スタ誕出身デュオグループ第1号。 | |||||
藤本哲也 | 1972年[7] | 冬の旅 | ||||||
緑川真 | 1973年[7] | 高校時代 | ||||||
鷲と鷹 (小林茂、渋谷弘) |
1973年[7] | さすらい渡り鳥 | ソフトロック系デュオグループ。 | |||||
南陽子 | 1973年[7] | 赤い花まつり | ||||||
堺淳子 | 1973年[7] | 祭りの想い出 | ||||||
最上由紀子 (さいじょう・ゆきこ) |
1973年[7] | 初恋 | ||||||
池田正臣 | 1973年[7] | われしのぶ | ||||||
第4回決戦大会 ・1972年9月6日[注 20] |
桜田淳子 | 「見知らぬ世界」 (牧葉ユミ) |
最優秀賞を受賞、グランドチャンピオン。番組史上最多の25社からスカウト。 | サンミュージック | ビクター音楽産業 | 1973年2月25日 | 天使も夢みる | 14歳で出場。テレビ予選では、番組史上最高得点となる573点で合格した。「花の中三トリオ」の一人。 |
第4回決戦大会 ・1972年9月6日 |
菅原昭子 | 日活音楽芸能 | ポリドールレコード(現:ユニバーサルミュージック | 1973年9月1日 | 十七才の行進曲 | |||
1972年12月 | 山口百恵 | 「回転木馬」 (牧葉ユミ) |
準優勝し、20社からスカウト | ホリプロ | CBS・ソニー | 1973年5月21日 | としごろ | 「花の中三トリオ」の一人。 |
シルビア・リー | 1973年[7] | 霧のエトランゼ | 『スタ誕』出身外国人タレント第1号。韓国出身。 | |||||
松下恵子 | 1973年[7] | 花嫁の父 | ||||||
すみあきくん | 優勝。 | 1973年[7] | 満員電車 | デビュー曲「満員電車」は、すみあきくんの自作曲。 | ||||
宮本賢治 (現・宮本けんじ) |
1973年[7] | さすらい | ||||||
麿こうじ | 1974年[7] | 悲しみの湖 | ||||||
第6回決戦大会 ・1973年3月 |
藤正樹 | 「新潟ブルース」 (美川憲一) |
最優秀賞を受賞、グランドチャンピオン。 | ホリプロ | キャニオンレコード | 1973年7月25日 | 忍ぶ雨 | 15歳でデビュー。 |
おがた愛 | 1973年[7] | 別れのブラック・コーヒー | ||||||
第7回決戦大会 ・1973年 |
城みちる | グランドチャンピオン。 | 長良プロダクション | 東芝EMI | 1973年12月20日 | イルカにのった少年 | ||
石江理世 (いしえ・みちよ) |
1974年[7] | 目かくし | ソロデビュー後の1977年10月に同じ『スタ誕』出身の目黒ひとみ、黒木真由美とともに3人グループの「ギャル」を結成。 | |||||
第8回決戦大会 ・1973年9月30日放送[14] |
伊藤咲子 | 優勝 | オフィス・トゥー・ワン | 東芝EMI | 1974年4月20日 | ひまわり娘 | 15歳で出場。 | |
第8回決戦大会 ・1973年9月30日放送 |
しのづかまゆみ (現:篠塚満由美) |
最優秀賞を受賞、グランドチャンピオン。 | ビクター音楽産業 | 1974年5月25日 | パパはもうれつ | 歌手デビュー後、1980年代後半にものまねタレントとして活躍した。 | ||
第8回決戦大会 ・1973年9月30日放送 |
松田新太郎 | 1974年2月1日 | 君でいっぱい | |||||
第8回決戦大会 ・1973年9月30日放送 |
米永透 | 1974年[7] | あれから | |||||
第8回決戦大会 ・1973年9月30日放送 |
目黒ひとみ | ビクター音楽産業 | 1975年12月20日 | わたしのシュガー・ボーイ | ソロデビュー後の1977年10月に3人組「ギャル」のメンバーとして活動。 | |||
第9回決戦大会 ・1973年12月30日放送 |
小林美樹 | 芸映 | NAVレコード | 1974年7月25日 | 人魚の夏 | 歌手引退後はアナウンサーとして活動。 | ||
1974年 | 片平なぎさ | ホリプロ | 東芝EMI | 1975年1月20日 | 純愛 | デビューしたが3年後に歌手活動を休止して女優に転向し、その後多くの2時間ドラマの主役などで活躍。 | ||
梶たか子 | 1974年[7] | 京都初雪 | ||||||
第10回決戦大会 ・1974年4月放送 |
渡辺秀吉 | 「僕のお嫁さん」 チューリップ | グランドチャンピオン。 | ホリプロ | NAVレコード | 1974年[7] | ぼくはもう一度恋をする | |
小川真代 (おがわ・まさよ) |
1975年[7] | それでも私は | ||||||
第11回決戦大会 ・1974年7月17日[注 21] |
岩崎宏美 | 「あなた」 (小坂明子) |
最優秀賞を受賞し、8社からスカウト。 | 芸映 | ビクターレコード | 1975年4月25日 | 二重唱 (デュエット) | |
第11回決戦大会 ・1974年7月17日 |
黒木真由美 | 「強いほうがいい」 (平田隆夫とセルスターズ) |
審査員特別賞を受賞し、18社からスカウト。 | 小澤音楽事務所 | キングレコード | 1975年3月25日 | 好奇心 | テレビ予選では山口百恵の「青い果実」を歌唱。ソロデビュー後の1977年10月に3人組「ギャル」のメンバーとして活動。 |
第12回決戦大会 ・1973年12月 |
北村優子 | グランドチャンピオン。 | 新栄プロダクション | ビクター音楽産業 | 1976年2月25日 | 若草のデート | ||
決戦大会 ・1975年 |
新沼謙治 | 「哀恋記」 (五木ひろし) |
男性史上最多の17社からスカウト。 | 第一プロダクション | 日本コロムビア | 1976年2月1日 | おもいで岬 | 予選会を4度落選し、5度目の予選にしてようやく本戦出場を果たす。 |
決戦大会 ・1975年[15] |
横本メイ | 1976年[7] | すてきな貴方 | ハワイ出身。 | ||||
第15回決戦大会 ・1975年 |
久木田美弥 | ホリプロ | 1977年3月 | 少女自身 | ||||
第15回決戦大会 ・1975年 |
神保美喜 | 最優秀賞を受賞 | サンミュージック | フィリップス・レコード(現:ユニバーサルミュージック) | 1976年3月25日 | はじめてのワルツ | ||
第15回決戦大会 ・1975年 |
朝田のぼる | 「みれん心」 (細川たかし) |
審査員特別賞を受賞 | サンミュージック | 徳間音楽工業 | 1976年5月1日 | 白いスカーフ | |
第15回決戦大会 ・1975年 |
浦部雅美 (現:うらべまさみ) |
サンミュージック | 1976年[7] | 少し遠出をしてみませんか | ||||
第16回決戦大会 ・1976年2月18日 |
清水由貴子 | 「なごり雪」 (イルカ) |
最優秀賞を受賞、グランドチャンピオンとなり、14社からスカウト。 | 芸映 | CBS・ソニー | 1977年3月1日 | お元気ですか | |
第16回決戦大会 ・1976年2月18日[16] |
ピンク・レディー (増田恵子・根本美鶴代) |
「部屋を出て下さい」 (ピーマン[注 22]) |
T&C ミュージック | ビクター音楽産業 | 1976年8月25日 | ペッパー警部 | ||
神田広美 | 優勝。 | ポリドール・レコード | 1977年1月21日 | 人見知り | 歌手としてデビューした後、作詞家に転向した。 | |||
谷ちえ子 | 1977年6月1日 | 花の女子高数え歌 | ||||||
ものえ和恵 | 1977年[7] | 帰っちまえ | ||||||
1977年 | 梓真由美 | 1977年9月25日 | 白い猫おいで | |||||
第19回決戦大会 | 岩城徳栄 (いわき・とくえ) |
新栄プロダクション | キングレコード | 1978年1月10日 | ダウン・タウン・ベイビー | 同番組からの50組目の合格者。後に愛称の“ピー子”を芸名に『独占!女の60分』(テレビ朝日)のレポーターとしても活躍した。 | ||
第20回決戦大会 ・1977年3月23日[注 23] |
石野真子 | 「天使のらくがき」 (ダニエル・ビダル) |
16社からスカウト。 | バーニングプロダクション | ビクター音楽産業 | 1978年3月25日 | 狼なんか怖くない | 本選の大阪大会では審査発表で会場の一般審査員の得点だけで合格点に達した(最終得点は530点)。デビューから3年後の1981年には、『スタ誕』の司会を坂本九と共に務めた。 |
第20回決戦大会 ・1977年3月23日 |
渋谷哲平 | 「ぼくの妹に」 (加山雄三) |
最優秀賞を受賞。 | サンミュージック | 日本コロムビア | 1978年2月1日 | 朝日に向って | |
大橋恵里子 | 熱帯魚 (岩崎宏美) |
NPプロ | 日本コロムビア | 1978年6月1日 | 経験シーズン | 高校3年生の時に出場。同じく『スタ誕』出身でデビュー同期の岩城徳栄と並ぶ元祖バラドル。 | ||
豊田清 | 1978年[7] | 青春PART1 | 後にプロボウラーに転向。 | |||||
第23回決戦大会 | 金井夕子 | 片想い (中尾ミエ)[注 24] |
最優秀賞を受賞。 | 第一プロダクション | キャニオン・レコード | 1978年6月20日 | パステルラヴ | 初出場した18回決戦大会では不合格となったが、2度目挑戦となる第23回決戦大会で合格。 |
北野玲子 | 1978年[7] | 初恋景色 | 元は北海道中央バスのバスガイドだった。 | |||||
第25回決戦大会 ・1978年9月 |
川崎公明 (京壮亮を経て加川明に改名) |
「おもいで岬」 (新沼謙治) |
グランドチャンピオン。 | 東芝EMI | 1979年3月20日 | ひとりにしてくれ | 元は子役(劇団ひまわり)出身で、『スタ誕』出場後に歌手として再デビューした。 | |
1978年 | ポップコーン | あずさ2号 (狩人) |
サンミュージック | 1979年2月25日 | ブルーロマンス薬局(ファーマシー) | 決戦大会において兄妹デュオでは初の合格者。 | ||
菅沢恵子 | 1979年[7] | 哀しくて哀しくて | ||||||
井上望 | ビクター音楽産業 | 1979年5月25日 | ルフラン | 歌手デビュー後、アニメソングなどの作詞・作曲を手掛けるようになる。 | ||||
鯨井ゆかり | 1980年[7] | 街はおしゃべり | 二度目の決戦大会で合格。デビュー当初はOPAというラテン音楽グループと共に活動。 | |||||
第29回決戦大会 ・1979年 |
甲斐智枝美 | 第29代グランドチャンピオン。 | ホリプロ | ビクター音楽産業 | 1980年6月21日 | スタア | ||
1979年 | 柏原よしえ (現:柏原芳恵) |
「お元気ですか」 (清水由貴子) |
グランドチャンピオン。 | ゴールデンミュージックプロモーション | フィリップス・レコード | 1980年6月1日 | No.1 | |
北原裕 | 1980年[7] | 愛は今から | ||||||
杉田愛子 | 1980年[7] | 花吹雪 | ||||||
堤久美子 | 1983年[7] | 浜辺のマドリガル | ||||||
宮原巻由子 | 1983年[7] | 花明り | ||||||
第32回決戦大会 ・1980年 |
水谷大輔 | グランドチャンピオン。 | ボンド企画 | CBSソニー | 1981年6月21日 | 星屑海岸 | ||
矢野良子 | RCAレコード | 1981年3月21日 | ちょっと好奇心 | 元は京都市内のOLだった。 | ||||
第35回決戦大会 ・1981年 |
小泉今日子 | 「彼が初恋」 (石野真子) |
バーニングプロダクション | ビクター音楽産業 | 1982年3月21日 | 私の16才[注 25] | ||
第35回決戦大会 ・1981年 |
中野美紀 | 最優秀賞を受賞。 | ビクター音楽芸能 | ビクター音楽産業 | 1982年3月1日 | 未経験 | ||
第36回決戦大会 | 河上幸恵 | 「いい日旅立ち」 (山口百恵) |
最優秀賞を受賞、第36代グランドチャンピオン。 | ホリプロ | 日本コロムビア | 1983年7月21日 | ブルー・エトランゼ | |
第37回決戦大会 ・1981年 |
田中さとみ | マナセプロダクション | ポリドール・レコード | 1984年5月1日 | 私の神様 | |||
第38回決戦大会 ・1981年11月18日[注 26] |
中森明菜 | 「夢先案内人」 (山口百恵) |
11社からスカウト。 | 研音 | ワーナー・パイオニア | 1982年5月1日 | スローモーション | テレビ予選3回目の挑戦では、『スタ誕』史上最高得点となる392点で合格。 |
第39回決戦大会 | 水谷絵津子 | グランドチャンピオン。 | プロダクションオーロラ | 日本コロムビア | 1982年5月21日 | キラリ・涙 | ||
第41回決戦大会 ・1982年5月 |
吹田明日香 | 第41代グランドチャンピオン。 | ミューズ・プロダクション | ワーナー・パイオニア | 1983年6月25日 | バ・ケー・ショ・ン | ||
第41回決戦大会 ・1982年5月 |
松尾久美子 | 田中プロモーション | フォーライフ | 1983年3月21日 | メモワール | |||
第42回決戦大会 | ルー・フィン・チャウ | 第73代グランドチャンピオン[17]。 | ポリスター | 1982年12月24日 | スター誕生 | ベトナム出身。デビュー曲は谷村新司が作詞作曲を手掛けた。 | ||
第44回決戦大会 ・1982年 |
松本明子 | 「Summer Beach~オレンジの香り~」 (松田聖子) |
渡辺プロダクション | VAP | 1983年5月21日 | ♂×♀×Kiss(オス・メス・キス) | 歌手デビュー後、1980年代後半からはバラドルとして活躍。 | |
第45回決戦大会 ・1982年 |
太田貴子 | 徳間音楽工業 | 1983年7月25日 | デリケートに好きして | 歌手デビューと同時に同曲(オープニング)およびカップリング「パジャマのままで」(前期エンディング)を主題歌としたアニメ『魔法の天使クリィミーマミ』で主演声優としてもデビュー。 | |||
第45回決戦大会 ・1982年 |
高橋美枝 | 「けんかをやめて」 (河合奈保子) |
プロダクション尾木 | CBS・ソニー | 1983年11月21日 | ひとりぼっちは嫌い | 歌手活動休止後は作詞家「風堂美起」として活動。 | |
第46回決戦大会 ・1983年3月30日 |
岡田有希子 (当時は本名の「佐藤佳代」) |
「スローモーション」 (中森明菜) |
サンミュージック | キャニオンレコード | 1984年4月21日 | ファースト・デイト | ||
宮野比呂美 | 1985年[7] | 横浜ジゴロ | ||||||
愛田悦子 | 1983年[7] | まわり道 | ||||||
小椋幸子 | 1983年[7] | 初恋しぐれ町 | ||||||
1983年 | 滝里美 | 「迷い道」 (渡辺真知子) |
グランドチャンピオン。 | サンミュージック | テイチクレコード | 1983年11月 | 東京ジンタ | 中学1年生から毎年「スタ誕」に挑戦し、6回目でようやく決戦大会に進み合格。決戦大会出場時は准看護師として働いており、デビュー決定を機に退職。 |
鈴木ゆかり[注 27] | 1984年[7] | 新プロ野球小唄 中日編 |
以下は決戦大会のその他合格者。
応募総数 | 1,277,500通 |
---|---|
(出場)通知を出した人 | 604,800人 |
オーディションを受けた人 | 209,068人 |
テレビに出た人 | 2420組 |
合格した人 | 267組 |
デビューした人 | 56組 |
(今日の)出演者 | 27組 |
『スタ誕』の番組成功には、大きな要因が2つあるとされる。一つは「公平・透明な選考システム」であり、出演希望者は誰でもハガキ1枚で応募することができ、審査の過程は全て公開されたこと。もう一つは「きめ細やかなバックアップ体制」であり、テレビ予選合格者には日本テレビが費用を負担する各種レッスンが施され、デビュー後は日本テレビの番組に優先的に出演することができたとされる[2]。
それまでの他のオーディション番組は、大御所の審査員などが「上手いですね~」などと参加者を持ち上げるものばかりだった。それに対して『スタ誕』は、開始当初こそ視聴率は低かったが、阿久悠や松田トシなどの審査員の歯に衣(きぬ)着せぬ講評に加え、「欽ちゃんと遊ぼう」コーナーも好評を得て、視聴率アップにつながったという[5]。
決戦大会の入札制度[注 29]は、一部から「人買いだ」との批判を受けた。そこで番組側は、スカウト側の顔をテレビ画面に映すことで彼らにも責任感をもってもらった。日本テレビ・芸能事務所・レコード会社で「本気でスターを育てるんだ」という姿勢をテレビを通じて見せることによって、それらの批判をなくしていったという[2]。チーフプロデューサーの池田文雄はこれについて、「あれは参加者や視聴者に芸能界の厳しさを教えたかったから」とインタビューで語っている[21]。
『スタ誕』でデビューしたタレントの活躍は、芸能界地図を塗り替えるきっかけとなった。テレビの草創期から1970年代まで「ナベプロ王国」と称される黄金時代を築いた芸能事務所・渡辺プロダクション(ナベプロ)がその絶対的な地位を失ったのは、ホリプロ[注 30]、サンミュージック、田辺エージェンシーが力をつけたからであり、それら新興プロダクションへのタレント供給源となったのがこの番組だった。
前身番組である『ホイホイ・ミュージック・スクール』、『あなた出番です!』はナベプロと蜜月関係にあったので、直前の前身番組『スターへばく進!!』の出身タレントであってナベプロに所属していたザ・シュークリームが『スタ誕』最初期のアシスタントを務めた。初期のゲストも、ナベプロ所属のタレント達が出演していた。韓国で開催された予選にも、当時ナベプロ所属だった森進一がゲストとして出演した。こうして第6回決戦大会ごろまでは、ナベプロが番組に関わっていた。
ところが、『スタ誕』に対抗するために、NETテレビ(現・テレビ朝日)は1973年から独自に制作したオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』(あなたなら)を放送していた。『あなたなら』の放送日時となった月曜日の夜8時という時間帯は、日本テレビが『紅白歌のベストテン』を放送していたので、ナベプロは『紅白歌のベストテン』からの撤退を決定した。しかも、ナベプロの社長渡辺晋が日本テレビの井原高忠に「ウチのタレントが欲しいなら『歌のベストテン』の放送日を変えたら?」と発言[22]したことから[注 31]、テレビの芸能史上に残る日本テレビとナベプロの間での戦争が起こった[注 32]。
しかし、『あなたなら』は視聴率に恵まれることなく、結果は失敗に終わった。ホリプロ、サンミュージック、田辺エージェンシーなど新興プロダクションへの『スタ誕』からのタレントの優先供給も、井原が、ナベプロ包囲網を敷くために各プロダクションに協力を要請した見返りとして実現したものであった[24]。その後、井原は1980年に日本テレビを退社し、ナベプロは第38回決戦大会の前後から『スタ誕』に再び関わりはじめ、最終的に当番組から、松本明子をデビューさせた。
1970年代後半になると『スタ誕』出身者が、各音楽祭の新人賞に名を連ねるようになる。これは、それまで「芸能界の帝国」と呼ばれるほどの権威を誇っていたナベプロの一強体制を揺るがす事態となった。その後、1980年代に入って日本テレビとナベプロの関係は修復されたが、音楽業界は複数の芸能事務所による群雄割拠の時代へと突入することとなった[2]。
1976年にホリプロタレントスカウトキャラバンが始まり、初代王者である榊原郁恵がブレイク後、芸能事務所は全国各地でタレントを直接スカウトして発掘する形式にシフトしてゆく。これに伴い番組の応募者は次第に減ってゆき、司会者・審査員の交代などテコ入れが進められたが、視聴率も次第に低下し、末期には平均6 - 7%(ビデオリサーチ・関東地方)にまで下がっていた[25]。
視聴率の低下は萩本欽一の司会降板から始まり、山口百恵の引退、ピンク・レディーの解散などが重なり、短期間で番組のリニューアルを繰り返すも視聴率が好転することがなく、1982年10月24日、横山やすしが加入し「やすきよ」体制となった同日にはフジテレビで『笑っていいとも!増刊号』が放送開始[注 33]。裏番組である『いいとも増刊号』が『スタ誕』の視聴率を上回り、圧倒的な高視聴率番組となったことで「日曜の昼前としては及第点の視聴率」という言い訳ができなくなり、番組終了に至った。
また、1970年代半ばからシンガーソングライターが台頭し始めたことや、1980年に『スタ誕』とは無縁の松田聖子がデビューからほどなくしてヒットを連発し、一躍トップスターに躍り出たことも『スタ誕』関係者にとって印象的な出来事だったという[2]。さらにプロデューサーの金谷によると「1980年代になった頃から徐々に若者たちの間で“自分でハガキを出してオーディションを受けるのはダサい。それよりは街でスカウトされる方がカッコいい”という風潮になってきた。そういう時代の変化を感じて『スター誕生!』の幕を下ろすことになった」とも語っている[4]。
1983年9月をもって12年・619回の歴史に幕を閉じた。最終回には初代司会者の萩本からVTRによるコメントがあった。番組冒頭に番組出身の歌手が集結し(復帰したばかりの石野真子も出ていた)、ナレーターの伊藤英敏が5分間紹介した。また、前週まで末期の段階でGC規定数週に満たなかった出場者が2人出たため、その週にクリアした出場者は認定書を贈られた。
番組エンディングには今後デビューが見込まれる合格者を紹介した後、全員で番組テーマ曲「スタ誕賛歌」を歌った。「スタ誕賛歌」の前奏部分で「12年の足跡」を縦向き横文字ロールで紹介した。応募総数が約200万通、予選参加総数が約60万人、番組出場者総数が5500組、うち決戦大会出場者総数が423組、うちプロデビュー者は81組。終了時点で41組が現役で活躍し、以降のデビューを控えていた者が18人いた。「スタ誕賛歌」を歌い終わった後、西川きよしが「それではみなさん、またお会いする日まで…(以下省略)」とコメントし、続いて「十二年間 六百十九回に亘って スター誕生!を応援してくれた皆さん… ありがとう!」の縦書きテロップが表示され、さらには表示中にブルーバックに切り替わる形で、12年間に亘る番組の歴史に終止符が打たれた。
番組終了後も人気は高く、復活を望む声があった。局の編成部は「12年もの長い間続いたので、このあたりでひと区切り」としながらも「完全に終わらせるわけではなく、一旦お休み。盛大なお別れ特集もやりませんし、番組内容などを立て直してもう一度チャレンジします」とコメントし、早ければ半年後の1984年4月には番組を復活させる考えを示していたが[25]、結局この時の本番組復活は無かった。また、中三トリオを仕掛けた堀威夫(ホリプロ創業者、現・ファウンダー最高顧問)は後のインタビューで「当時は3分で作れるカップ麺が受けた時代だから、昨日の素人がアイドル、スターになれる番組が受けた。今は高い金を出して、並んででも美味しいものを求める時代だから、もう最大公約数を求めるテレビは、スターを作る番組は作れないだろう。」と語っている[26]。
「スター誕生!」終了後の1985年から1987年には、フジテレビで夕やけニャンニャンという番組が放送されていたが、その番組とタイアップして結成されたおニャン子クラブを通じて、新人タレントを発掘し育成する場という側面も同時に持っていた。「スター誕生!」出身者と同様、おニャン子クラブの出身者も今なお芸能界で活躍している者は少なくない。
(1980年時点のもの。萩本が降板する頃)
なお、地方収録の場合は各ネット局が制作・技術協力として参加した。
系列は放送終了時・ネット終了時のものを記載。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 放送時間 | 備考 |
---|---|---|---|---|
関東広域圏 | 日本テレビ | 日本テレビ系列 | 日曜 11:00 - 11:55 日曜 11:00 - 11:45 | 基幹・製作局 |
北海道 | 札幌テレビ | 1972年3月までフジテレビ系列とのクロスネット局 ただしFNSのみ加盟でFNNは非加盟 | ||
青森県 | 青森放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | 日曜 11:00 - 11:55(放送開始時点)[28] | 1975年3月まで日本テレビ系列単独加盟局 |
岩手県 | 岩手放送 | TBS系列 | 日曜 11:00 - 11:55(放送開始時点)[28] | 現・IBC岩手放送 1975年9月28日まで |
テレビ岩手 | 日本テレビ系列 | 1975年10月5日から 1980年3月までテレビ朝日系列とのクロスネット局 | ||
秋田県 | 秋田放送 | 日曜 11:00 - 11:55(放送開始時点)[28] | ||
宮城県 | ミヤギテレビ | 日曜 11:00 - 11:55(放送開始時点)[28] 日曜 11:00 - 11:45(1982年4月から)[29] | 1975年9月までNETテレビ系列とのクロスネット局 | |
山形県 | 山形放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | 日曜 11:00 - 11:55(放送開始時点)[28] | 1980年3月まで日本テレビ系列単独加盟局 |
福島県 | 福島中央テレビ | 日本テレビ系列 | 土曜 14:00 - 14:55(1971年10月 - 1972年3月)[30] 日曜 15:30 - 16:25(1972年4月 - 1973年9月)[31] 日曜 10:30 - 11:25(1973年10月 - 1981年9月)[32] 日曜 11:00 - 11:55(1981年10月 - 1982年3月)[33] 日曜 11:00 - 11:45(1982年4月から)[29] | 1981年9月までテレビ朝日系列とのクロスネット局 |
山梨県 | 山梨放送 | 日曜 11:00 - 11:55(1976年1月時点)[34] | ||
新潟県 | 新潟総合テレビ | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | 日曜 10:30 - 11:25(1976年1月時点)[34] | 現・NST新潟総合テレビ 1981年3月まで |
テレビ新潟 | 日本テレビ系列 | 1981年4月4日から | ||
長野県 | 信越放送 | TBS系列 | 日曜 11:00 - 11:55(1976年1月時点)[34] 日曜 10:30 - 11:25(1977年4月3日 - 1981年9月27日)[35] 土曜 13:30 - 14:25(1981年10月3日 - 1983年10月1日)[36] | |
静岡県 | 静岡放送 | 日曜 10:00 - 10:55(1976年1月時点)[34] 日曜 10:30 - 11:25(1977年4月 - 1979年3月) 土曜 10:15 - 11:10(1979年4月 - 6月) | 1979年6月まで | |
静岡第一テレビ | 日本テレビ系列 | 1979年7月1日開局から | ||
富山県 | 北日本放送 | 日曜 11:00 - 11:45(1983年9月最終回時点)[37] | ||
石川県 | 北陸放送 | TBS系列 | 日曜 10:00 - 10:55 日曜 10:00 - 10:45(1982年4月から) | 1976年4月から |
福井県 | 福井放送 | 日本テレビ系列 | 日曜 11:00 - 11:45(1983年9月最終回時点)[37] | |
中京広域圏 | 名古屋放送 | 日本テレビ系列 NETテレビ系列 | 現・名古屋テレビ放送(メ〜テレ) 1973年3月25日まで | |
中京テレビ | 日本テレビ系列 | 1973年4月1日から 中京広域圏のネットワーク整理のため | ||
近畿広域圏 | よみうりテレビ | |||
鳥取県 ↓ 鳥取県・島根県 | 日本海テレビ | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | 当初の1年間(1972年9月17日の第4回決戦大会まで)は日本テレビ系列単独加盟局で鳥取県のみの放送。翌週の9月24日放送分から島根県にもエリアを拡大。 | |
山口県 | 山口放送 | 1978年9月まで日本テレビ系列単独加盟局 | ||
広島県 | 広島テレビ | 日本テレビ系列 | 1975年9月までフジテレビ系列とのクロスネット局 | |
徳島県 | 四国放送 | |||
香川県 ↓ 香川県・岡山県 | 西日本放送 | 1983年3月までの放送免許エリアは香川県のみ。しかし岡山県の南部を中心に視聴可能エリアは広かった。実際に西日本放送の制作協力により岡山でも公開収録が行われ、大橋恵里子が合格しデビューしている。詳しくはこちらを参照。 | ||
愛媛県 | 南海放送 | |||
高知県 | 高知放送 | |||
福岡県 | 福岡放送 | |||
長崎県 | テレビ長崎 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 | 当初は平日に遅れネット(日時不明) | |
熊本県 | テレビ熊本 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | 1982年3月28日まで | |
くまもと県民テレビ | 日本テレビ系列 | 1982年4月4日から | ||
大分県 | テレビ大分 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 | 日曜 10:55 - 11:50(1982年3月まで) 日曜 11:00 - 11:45 | 1976年4月4日から |
宮崎県 | テレビ宮崎 | |||
鹿児島県 | 南日本放送 | TBS系列 | 日曜 11:00 - 11:55(1976年3月まで) 日曜 10:30 - 11:25(1977年4月 - 1982年3月) 日曜 11:00 - 11:45(1982年4月 - 9月) | 1982年9月まで |
鹿児島テレビ | フジテレビ系列 日本テレビ系列 | 最後の1年間のみ | ||
沖縄県 | 沖縄テレビ | フジテレビ系列 | 日曜 12:00 - 12:55(1973年4月 - 1978年9月) 日曜 10:30 - 11:25(1978年10月から) | 1973年4月1日から |
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