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かつて日本の東京都品川区にあった女子プロレス団体 ウィキペディアから
経営陣との対立から日本女子プロレス協会を退社した松永高司と共に退団した元日本女子の奄美百合子、本堂活子、山口洋子、巴ゆき子、柳みゆき、遠藤恵子、京愛子、岡田京子、ジャンボ宮本、赤木まり子が設立。会長に万年東一が就任。
設立当初は暴力団と関係があるとする中傷がなされて興行を開催する際、施設借用に困難をきたした。
このため、興行は野外にリングを設営して旅回りをすることが多くストリップ劇場で興行を開催することもあった[1]。
この時に全日本女子を支援して、その身元を保証したのがデイリースポーツで以降は1990年代まで全日本女子の主だった興行には「後援・デイリースポーツ」のクレジットがなされてフジテレビによる試合中継にもデイリースポーツ記者が解説者として派遣された。
また、全日本女子の旗揚げ時にデイリースポーツの運動部長を務めていた植田信治は毎日新聞の記者である牧太郎によると、全日本女子プロレスの将来は明るいと計算してデイリースポーツが責任を持つと全国の警察本部を回って植田の口添えで一年余で市民権を獲得[2]。後に全日本女子の王座運営機関である全日本女子プロレスリング協会のコミッショナーに就任している。
興行は大都市の大規模会場、地方の県立体育館や市民会館、スーパーの駐車場など様々な場所で開催されて最盛期には年間200を超えて300を超える年もあるなど全プロレス団体でも最多だった。
1986年のジャパン女子プロレスの旗揚げ以前は長らく日本唯一の女子プロレス団体だったため、興行のポスターは単に「女子プロレス」と表記しており、スタッフも電話口で「はい、女子プロレスです」と応対していた[注 1][3]。
プロレス団体としては珍しく、東京都目黒区下目黒に自社ビルを所有して2階に事務所が置かれていた。練習拠点となる道場及び選手寮も自社ビル内にあった。2004年まで使用していたビルは1985年7月に完成。それ以前は目黒区内の4階建てのビルの1階に事務所が置かれて選手寮は、そのビルの屋上にバラックで建てられたものであった[8]。
自社ビル1階は普段は車庫として使われていたが、天井が高いことを利用して沿道が歩行者天国となる日曜日に車庫内の車をすべて外に出して「ガレージマッチ」と呼ばれる興行を開催したこともある。
自社ビル内には自社で経営していた飲食店「目黒SUN族」(全日本女子解散後に旗揚げされたCHICK FIGHTS SUNとは無関係)が入居しており、練習生や若手選手が試合の無い日に働いていたほか、イベントも行われていた。閉店後はプロレスグッズショップ「Ring Star」(全日本女子のプログラム名と同一)となった。
自社ビルは1997年の経営破綻で債権者へ所有権が移転した後も賃貸料を支払いながら使用してきたが、解散前年の2004年に引き払い[9]、解散時は品川区小山のビルの一角に事務所を構えていた。移転後の自社ビルは解体されて現在はコインパーキングとなっている[10]。
全日本女子は松永家による同族会社だった。三男の松永高司を中心とする次男の松永健司、四男の松永国松、五男の松永俊国の兄弟4人で高司と国松の間の長女吉葉礼子が女子プロレスラーとしてデビューしたのを機に女子プロレスの世界に飛び込む。のちに全日本女子を設立して運営していた(長男は経営に加わらず)。また、高司と国松の間の次女の山口洋子も所属選手だった。さらに松永正嗣ら兄弟の子息もスタッフに名を連ねていた。
松永兄弟には格闘技出身者が多い。毎日新聞記者の牧太郎によると健司、高司、国松、俊国とともに柔道が大好きで町道場で二段となり講道館に進んで全員、三段となった。「松永四兄弟」と騒がれていた[11]。今で言う総合格闘技の原型に当たる柔拳興行(ボクシングと柔道の異種格闘技戦が売り物の格闘技興行)の経験者もいる[要出典]。一方、牧によると、長女吉葉礼子のアイディアで「柔道対ボクシング」の変則マッチを俊国とボクサー役の国松でキャバレーのステージなどで実施していた[11]。試合に出場した健司は講道館を破門されている。一方、牧によると、兄弟4人に講道館から破門状が届いた[11]。そのことからしばしば全日本女子では異種格闘技戦が行われた。
初代会長の万年東一の時代は高司が社長となり、万年の会長退任後は高司が会長を継いで、社長は他の兄弟3人が持ち回りに近い形で就任していた(会社解散時は国松が社長だった[要出典])。山口洋子は1989年10月に50歳で、俊国は2002年9月22日に57歳で、国松は2005年8月17日に63歳で、吉葉礼子は2008年9月18日に70歳で、高司は2009年7月11日に73歳で、それぞれ亡くなっている。最後の生き残りだった健司も2020年2月6日に84歳で逝去[12]。
同族経営が故、全日本女子プロレスリング協会のコミッショナーだった植田信治は松永家と対立して全日本女子を離れた。他にプロデュース責任者だった小川宏も退社後に松永家の同族経営を糾弾している[13]。
全日本女子の社是は「来るものは拒まず」であった。社是に現れているように、全日本女子のスタッフになった人には事務所に直接足を運んだり試合会場に足を運んで会長の松永高司に直談判して、かつ即決で採用に至ったスタッフが多かった。[14]他に全日本女子プロレス中継の実況を担当していた志生野温夫やプロレスライターの須山浩継も、1人で事務所を数時間留守番していたこともあったという[15]。
一般のプロレス団体は「募集を掛けてプロテストを行い、合格者がトレーニングを経てそのままデビューへ進む」形式が多いが、全日本女子でデビューするには「オーディション」と「プロテスト」の2段階を踏む必要があった。
まずオーディションで候補者が篩いに掛けられて合格しても、その時点ではデビューが保障されるわけではなく、その後は候補生として入門した上で道場でトレーニングを積み、一定期間後に行われるプロテストを通過することで初めてデビューへの道が開かれる。そのためオーディションを通過してもプロテストで受からず退団したり、複数回受けて合格に至った者もいた。
オーディションはタッグチーム「ビューティ・ペア」のブーム真っ只中の1977年に候補者が多数集まったため、この年に第1回を行い、以来年1回実施していた。第1回合格者にはジャガー横田らがいる。タッグチーム「クラッシュ・ギャルズ」の全盛期にあった1985年は応募総数が4,000人、オーディション参加者が2,000人にも上り[16]、非常に狭き門だった。オーディションは主に事務所やテレビ放映局だったフジテレビにて実施されていた。
一方で中高生を対象とした練習生制度も確立させた。これは地方巡業で空いた道場を練習生に開放して様々なトレーニングを積ませるもので、所定の選考は通過する必要があるものの「基礎を身に付けることで選考で有利になる」ため、多くの練習生がここでデビューを掴むようになった。
今日では多くの女子プロレス団体のみならず、男子プロレスでも元全日本女子所属選手の北斗晶が代表を務めている健介オフィスなどで、このシステムを採用していた。
全日本女子はプロレス団体としては珍しく興行内の試合の大半をガチンコ(団体内部では「ピストル」と呼んでいた[17])で行っていた[18]。
例えば新人がデビューした直後、基本的に新人同士でガチンコの試合を行わせて、その勝敗に対して団体内の関係者が賭けを行うことが常態化していた[18]。その際、レスリングに近い「押さえ込み」というルールが(内部的に)適用されて最初の数分間はプロレス技を出し合った後「地味に押さえ込んでカウント3を取ったら勝ち」になっていた[18]。時にはチャンピオンベルトのかかったタイトルマッチですら「押さえ込み」で行われたこともある[18]。
そのため、他団体で見られるようなストーリーラインによるシリーズ展開(アングルやブック)ではなく、実力主義で王座が移動したり、エースが交代するといったことが珍しくなかった[18]。
会長の松永高司が日本女子プロレス協会より、NWAの名義人だったため、全日本女子は当初、NWAのラインを利用して外国人選手を招聘。男子における日本プロレスや黎明期の全日本プロレスのように日本人選手対外国人選手を主軸としたマッチメイクを行っていた。
その後、WWWAの管理権を得るとWWWA会長のミルドレッド・バークを窓口として彼女の弟子を招聘する。国際プロレスの女子部が崩壊後、弟子の1人であるファビュラス・ムーラが参戦してからはバークからムーラへと移りつつあった。
ムーラがWWFに参戦した後に全日本女子とWWFの間での相互参戦としてWWF所属選手が全日本女子に来日している。また、WWFと業務提携を結んでいたUWAからルチャドーラも参戦していた。
全日本女子は日本各地津々浦々を巡業するスタイルで体育館以外の特設会場や野外興行も多く、年間250試合前後と言われていた。2リーグ制を取っていた時期には両リーグ併せて305試合にも達した。これは男子プロレスと比べてもかなり多い数である。所属選手の知名度のみならず緻密なスケジューリング地元とのパイプがなければ難しく、当時の女子プロレス団体で、これを行えるのは全日本女子くらいしかいなかった。ハードな巡業は所属選手に雑草魂を植え付けるといわれていた[注 2]。
全日本女子の解散後は全日本女子から分化したNEO女子プロレスが引き継いだが2010年12月31日に解散。実質後継たるワールド女子プロレス・ディアナが継承するも地方興行は大幅縮小された。一方で全日本女子の地方興行に関わったプロモーターの中にも自主興行を行う所が存在する。
野外興行は全日本女子の名物の1つだった。当初は前述のように公共施設の使用を断る自治体が多くサーキットの編成の障害にもなっており、全日本女子は野外興行を増やすという方針を取ることにした。野外会場を取り囲むシート、パイプ椅子、売店用のテントも自前であったため屋内会場よりも経費が掛かったという。そのため、おいそれと中止にはできず、雨が降っても雨天強行で開催していた。
野外会場近くの商店などに割引優待券を置かせてもらったところ野外会場に気軽に脚を運んでくれる客が増えた。野外会場でも会長の松永高司が直接焼く焼きそばが人気を博していた。さらに前半戦が終わるとミゼットレスラーが自由席の客に対して「500円を払えば自由席から指定席への変更ができる」と声をかけていたこともあった。
「男、酒、たばこ」を嗜んではいけないという掟。「女子選手が酒とたばこをたしなむ様子は風俗嬢そのものである」と考えた松永兄弟が禁止させたという。所属選手に未成年も多いことも関係している。「男が出来ると股を開くのを嫌がり、怪我をすることを嫌がってファイトに精彩がなくなる」と公式に回答していた頃もある。影かほるの証言によると「会長は表現が面白いのよ。男ができると関節が弱くなるって。股からヌルヌル出しちゃうから腰やヒザのゼラチン質がなくなる。だから怪我するんだって。マジメに聞かないでね(笑)。でも三禁を守っていたのは半分くらい。遊ぶ子はすごく遊んでた」とのこと)[20]。ただし、酒に関してはトップ選手に限り、ある程度までは黙認されていたらしい(当時、全日本プロレスの阿修羅・原は長与千種の同郷の先輩という縁があり、試合会場が近いときなどは女子選手を労うべく、頻繁に飲み会を開いていたことを語っている。井上京子は、新人時代に先輩女子選手達の飲み会の席へ呼ばれ同席した事を、全日本女子を退団した後にインタビューで答えている)。北斗晶が新日本プロレスの佐々木健介と結婚するに際して、この三禁の掟が焦点となったが会社に認められて北斗の結婚後の現役続行がOKになったというエピソードがある。
この「三禁」は1992年に旗揚げのLLPWにおいては「プロの大人なのだから」と撤廃された[21]。一方で長与が1995年に旗揚げしたGAEA JAPANでは「三禁」採用して、そのGAEAからデビューした里村明衣子が代表取締役を務めるセンダイガールズプロレスリングでも入門3年間は「三禁」としている[22]。また2012年に設立された東京女子プロレスでも採用されることになった。現存する大半の女子プロレス団体では「競技に支障がない範囲」で解かれているが、長らく定着していた慣習と言うこともあり愛川ゆず季のように会社の意向とは無関係に自らに三禁を課した女子選手は存在する[23]。
かつては「25歳(ないしは在籍10年)に達した選手は引退する」という暗黙の了解があった。理由としては世代交代を潤滑に行うためと、もし引退しても25歳くらいなら結婚や他の仕事を探す等、新しい生活が出来るだろうというフロントの考えからである。他方で給料が上がり、会社に意見を言うようになった選手を追い出す制度であるという否定的な意見もある[24]。年を取り人気の落ちた所属選手には会社から「ポスターの扱いが小さくなる」などと有形無形のプレッシャーが掛けられ引退への道を進むこととなった[25]。
1993年にはエース格として全日本女子を牽引するブル中野が25歳に達したことから、その去就が注目されたが団体対抗戦の渦中だった状況もあり、会社は現役続行を容認していた。この結果「25歳定年」は事実上はなくなった。なお全日本女子を25歳までに退いた選手のうち数名は、フリーで現役続行したり新団体を旗揚げなどしたケースも見られてデビル雅美も25歳定年制により全日本女子を退団した後にフリーとしてジャパン女子プロレスに参戦していた。同じく後にフリーとして復帰した長与千種も「結婚する」と嘘をついて引退したほどであった[25]。
「後輩女子選手は先輩女子選手の得意技を、その先輩女子選手が引退するまで使ってはいけない」という暗黙の了解があった。ブル中野は「その掟を知らなかったため(デビュー戦まで松永高司がつきっきりで指導しており、他の先輩と話す機会がほとんどなかったため)、デビュー戦で先輩女子選手の技を多く繰り出してしまい、試合終了後に先輩全員から制裁を喰らったことがある」と当時を回想して語っている。そのため、所属選手は知恵を絞ってオリジナル技を開発して、それが各所属選手の個性になっていった。例外として1995年に行われた豊田真奈美(昭和62年組)対北斗晶(昭和60年組)戦で豊田真奈美が北斗晶の得意技であるノーザンライトボムを2発喰らわせ勝利したケースがある。また、引退する先輩女子選手が自分の後継者を指名するという意味合いもあって後輩女子選手に自分の得意技を譲るということがあった。
毎年のように入団する新人選手がいた昭和60年代以降は入団年によって昭和(平成)xx年組と分けて呼称されていたが入門希望者の減少等が要因になりそういった呼称はあまり見られなくなった。
全日本女子では多くの興行で前座としてミゼットプロレス(全日本女子では小人プロレスとも呼ばれていた)を組み込んでおりミゼットレスラーも所属選手として抱えていた。
1990年代中頃まで行われていた試合形式。格闘技戦と銘打っているがバーリトゥードではなく女子選手同士がグローブを着用し殴ったり蹴ったりするキックボクシング形式の試合である。後にキックボクシングやシュートボクシングの選手を招いて所属選手と対戦させている。松永兄弟がボクシングの経験者で、この形式を思いついたらしい。1976年には「世界三大格闘技戦」と銘打った興行が田園コロシアムで開催されて池下ユミ対ピンポン・ロカムヘンの異種格闘技戦やユカリ・レンチ対キム・メイビーのボクシング戦などが行われていた。
一方で日本初の女子総合格闘家である高橋洋子は全日本女子でプロレスラーとして活動した後に全日本女子のリングで総合格闘技ルールを戦って総合格闘技の転向に成功。また、全日本女子で格闘技戦を経験した伊藤薫も総合格闘技の試合に参戦しており、全日本女子の解散後に設立した伊藤薫プロレス教室は総合格闘技の道場も兼ねていた。2003年にはデビュー前の水嶋なつみと高橋裕美を総合格闘技戦に参戦させた。
プロレス団体が相次いで設立された1990年代前半には全日本女子が、これらの新団体の設立を支援していた。例えば旗揚げ前のパンクラスには東京都目黒区の道場を練習の場として提供していた。ユニバーサル・プロレスリングやW★INGプロモーションにはリングの貸し出しだけでなく所属選手を派遣して対戦カード編成を補助している。このことが、それまで女子プロレスを見たことの無かった男性ファンを全日本女子に呼び寄せてブームを巻き起こすきっかけになっている。
女子レスリングについても全日本女子は日本レスリング協会と協力体制を採っていた。男子プロレス界ではアマチュアレスリングが選手の供給源となっている一方、女子はプロレスの方が先に定着していたため、女子プロレスの協力を仰いで選手発掘を行うことになった。1980年代の旗揚げの際に女子レスリング普及に努めていた日本レスリング協会の福田富昭は全日本女子の承認を得た上でオーディションの不合格者をレスリングにスカウトして吉村祥子ら多くの有力選手を育て上げた。一方で全日本女子もジャガー横田がコーチに就任して練習生をレスリングの練習に参加させたり合同練習やエキシビションマッチを組んで女子レスリング国内外公式戦に練習生や新人選手を派遣させるなどしていた。
さらに第1回全日本女子レスリング選手権は全日本女子とレスリング協会の合同興行として開かれた。これにより女子レスリングの知名度向上に一役買う一方、全日本女子から参戦した多くの所属選手もレスリング技術を身に付け、プロレスラーとしての成長を遂げた。中でも豊田真奈美や井上京子らは国内大会優勝を経験している。また、斉藤和枝や中見川志保のようにアマチュアで活躍した女子レスリング選手がプロ入り後も参戦を続けるケースや三田寺由香のように全日本女子の練習生として参加後はプロにならずアマチュアの実力者となるケースもあった。
1990年代に入ってもジャガー横田が全日本女子レスリング選手権50kg級に出場。1回戦はピンフォール勝ち、2回戦は同大会3位の石田由美(関東学園高)にテクニカルフォール負け。同大会の表彰式で、横田にはこれまで全女の若手選手を出場させてきた功績が称えられ、特別賞が贈られた[26]。東京ドーム大会に女子レスリングの世界チャンピオンだった山本美憂や当時新人だった浜口京子も参戦しており以降もレスリングルールのエキシビションを行った。一方で府川唯未らレスリング出身者も全日本女子に入門。1999年にも日本レスリング協会主催の「レスリングフェスティバル99」が開催されて第1部で全日本レスリング選手権(全日本女子からは中西百重が参加)、第2部で女子プロレスが行われた。なお、全日本女子の解散後はプロアマ協調路線をエスオベーションが引き継いでいた。
全日本女子が全国的人気を獲得できたのはフジテレビによる試合中継番組の影響力も大きい。1975年からの放映開始以来、「全日本女子プロレス中継」「格闘女神ATHENA」と引き継がれて2002年まで長きにわたって放映されてきた。さらに試合中継を放映するにとどまらず所属選手のテレビ番組出演やオリジナル楽曲発表などフジテレビの全面的バックアップで所属選手は全国的人気を獲得。これらの施策により、「女子プロレスブーム」が幾度となく起こり全日本女子への入門希望者が激増するということも起こった。フジテレビによる中継終了後も解散までお台場のフジテレビ社屋で興行が開催されるなど全日本女子とフジテレビの関係は維持されていた(後にリング横幕からはフジテレビの名前は外されて最末期のリング横幕スポンサーはAVメーカーであるソフト・オン・デマンドであった)。
フジテレビでの定期中継番組開始前は東京12チャンネル「女子プロレス中継 世界選手権シリーズ」、NETテレビ「23時ショー」、日本テレビ「11PM」の中で不定期に中継していた時期もあった。
フジテレビにおける中継終了後はFIGHTING TV サムライが中継を引き継いだ。FIGHTING TV サムライでは「全女CLASSICS」と題した過去の名勝負を放送している。
所属選手は歌手や女優など芸能活動も積極的に行ったことで、これも人気獲得に一役買った。それまで、プロレスの試合中継と取材以外でメディアに登場することは男女とも団体の看板選手を除けば皆無に等しかったが、マッハ文朱が元々歌手志願だったことから全日本女子の事務所内に「芸能部」を設置して、マッハ文朱を筆頭に多くの所属選手を歌手デビューさせてレコードを発売すると共にテレビの歌番組にも出演させるプロモーションを展開。それまで女子プロレスに興味を示さなかった一般層の獲得に成功している。
また、所属選手のテレビドラマや映画などへの出演も多く、特に中継局であったフジテレビの番組「オレたちひょうきん族」のコーナー「ひょうきんプロレスアワー」と「めちゃ×2イケてるッ!」のコーナー「格闘女神MECHA」や、放映局を問わず女子プロレスを題材としたドラマについては全日本女子が団体として全面協力していた(格闘女神MECHAは格闘女神ATHENA終了と同時に他団体協力へ変更)。1981年公開のアメリカ映画「カリフォルニア・ドールズ」にも当時の所属選手からミミ萩原とジャンボ堀が出演した。
松永家における浪費、飲食業経営、土地転がし、株の投資に手を出したことが経営を著しく悪化させた最大の要因である。不動産事業に関しては外部から不動産業務のプロを招き入れて埼玉県秩父市に「女子プロレスワールドリングスターフィールド」と言う800坪のキャンプ場をオープンさせたが、バス1台ですら通行困難な山奥の土地で、全女のイベントと他団体のプロレスラー・格闘家が特訓場所として利用していた以外には一般客の利用は数えるほどしかなく結果、開発は失敗して頓挫しており、利益が出ていたかどうかは疑わしい。1番の原因は博打的な株の投資で大損害を負ったからとも言われている。
興行面での利益確保は、タッグチーム「クラッシュ・ギャルズ」の全盛期は数十億円程度の収入があったといわれているが[25]、地方興行は立見券(1,000円)や自由席券(末期は前売りで3,000円)での入場者がかなり目立ち、指定席券は空席が多く見られた。当日券は指定席券が1,000円割引、自由席券が半額となる優待券やネット割引クーポン(ネット割引クーポンは事務所の車庫で開催するガレージマッチ、後楽園ホール、一部試合会場では使用不可)で集客に努めていた。試合会場で売っていた焼きそばやグッズは良く売れていたが、それらの利益は選手には全く還元されず、松永家の事業に費やされていった。アジャコングや北斗晶が在籍していた頃でさえ、地方興行のほとんどが赤字遠征であった。
2003年9月11日に開催した山口県小野田市(現:山陽小野田市)の小野田市民館体育ホール大会では、プロモーターによるチケット代金持ち逃げが原因で、前払いから後払いに急遽変更した試合会場使用料の未払い額である約32万5000円を滞納したため(使用料約35万2000円の内、3万円は支払い済み)、施設を管理する小野田市は全日本女子を相手取り、船木簡易裁判所に告訴した(後に全日本女子と小野田市の間で和解)[27][28]。
1996年秋ごろから、松永家のプロレス興業以外における巨額の借金の返済に追われて、所属選手とスタッフに対して給料の未払いや遅配が発生していた。所属選手はサーキットや練習に追われていたためアルバイトも出来ず、最終的にはサーキット中に無償で食事などを提供してくれるプロモーターを頼らざるを得なかった。下田美馬は「貯金は底を突き、給料袋には千円札一枚の時もあった」事を明かしている。ある中堅選手も年間300万円の給料の未払いがあったと後に告白しており、水嶋なつみも給料未払いを理由に全日本女子を退団している。1997年の日本武道館大会直後には所属選手全員が我慢の限界に達して事務所前で給料の支払いを求めてストライキを敢行している。
経営改善策として1997年初めに興行から所属選手を交代で間引く「公休制」を試験導入したが、ファンやプロモーターからの反発が大きくすぐに頓挫している。スタッフには全日本女子の運転資金にするため、各自消費者金融から50万円借りて来るよう促されたといい(返済は当然、スタッフ個人が行っていた)、リングアナウンサーの今井良晴のようにアルバイトを掛け持ちしたスタッフもいたという。経営破綻と同時に所有権が移動した自社ビルに関しても経営破綻前から売却を検討していたという[13][29]。事務所移転前後には全盛期のような20戦前後かつ全国を回るサーキットは殆ど組めず、関東地方中心でかつ10戦前後のサーキットとなっていた。2004年12月時点では負債が約30億円あったという[28]。
結局は飲食産業部の売上げでプロレス興行の赤字分を補填し続けていたが、倒産する5年以上前から自転車操業状態だった。
最終興行でも正式な「解散宣言」はなく、その後は渉外担当の松永正嗣(松永俊国の子息)が中心となって新たな興行主を探して全日本女子の継続を模索していたが多額の負債がネックとなり断念している。譲渡先には最終興行をプロモートしたファースト・オン・ステージも挙がっていた。なお、最終興行になった後楽園ホール大会後もかなくぼ総合体育館大会が4月27日に予定されていた。
2005年8月17日、社長の松永国松が東京都品川区内のビルから飛び降りて亡くなった。松永高司は全日本女子の解散後に東京都千代田区神田で飲食店を経営して柴田恵陽との共著で2008年に著書「女子プロレス終わらない夢 全日本女子プロレス元会長松永高司」を出版。2009年7月11日に帰らぬ人となった。
全日本女子の解散後も多額の負債を返済できず全日本女子の借金の保証人となっていた悪徳レフェリーの阿部四郎は松永家に対する売掛金の回収難も相まって2008年に自宅を差し押さえられている。
全日本女子の解散時の所属選手7人はフリーとして選手活動を継続。そのうち高橋奈苗、Hikaru、前村早紀が自主興行「ドリームキャッチャー」を開催。2005年9月に業務停止になったメジャー女子プロレスAtoZ所属選手と共にKOプロダクションと契約するも2006年1月に契約を解消。その後、2004年まで全日本女子に所属して我闘姑娘に移籍していた夏樹☆ヘッドも合流して10月1日からファースト・オン・ステージでプロレスリングSUNを設立したが高橋は後に退団してHikaruと前村もSUNの解散と同時に引退。フリーとして活動を継続していた前川久美子は2006年、藤井巳幸は2009年に引退。ミゼットレスラーはJWP女子プロレス、NEO女子プロレス、AtoZなどを転戦して現在は単発興行に参戦している。
全日本女子が管理していた王座は解散と同時に封印されたがWWWA世界シングル王座のみ前川久美子が高橋奈苗とのタイトルマッチを希望していたため管理権を引き継ぐ形で引き続き保持していた(前川久美子は最終興行でWWWA世界シングル王座の防衛戦を行って引退する予定だったが高橋奈苗が怪我で離脱していたため、先延ばしになった)。そして、全日本女子の解散から約1年が経過しようとした2006年3月26日に後楽園ホール大会での自身にとって最初で最後の自主興行(主催は当時、アパッチプロレス軍の親会社だったキャッシュボックス)で最後のタイトルマッチが行われて勝利した高橋奈苗が最後のWWWA世界シングル王者となり元会長の松永高司にWWWA世界シングル王座を返還して封印された。この引退興行は全日本女子最終興行同様に全日本女子OG達を集めてスタッフも元全日本女子で構成されるなど事実上、全日本女子の最終興行とも言える興行になった。
2006年7月には旧全日本女子専属プロモーターの1つだった田島企画によるニュー全日本女子プロレスが設立されて不定期で興行を開催している。当初、松永高司は「ニュー全日本女子は全日本女子と一切関係がない」の見解を示していたが後に田島企画は松永家から許可をもらい「全日本女子プロレス」の名称を復活させた。ただし、所属選手を持たないプロモーション企業であり参戦選手もJWP所属選手を中心に旧全日本女子所属歴が全く無い選手が多い。
また、2006年にお台場で開催された「レッスルエキスポ2006」の女子プロレスでは「女子プロレスがお台場に帰ってきた」と題して開催された。
全日本女子解散まで後援に当たっていたデイリースポーツは、その後、全日本女子に代わり現存する最古の女子プロレス団体になったJWPの主要大会の後援として女子プロレスに関わり続けている。また、2011年には全日本女子で開催された「タッグリーグ・ザ・ベスト」がJWPで「JWPタッグリーグ・ザ・ベスト」として復活している。
2024年9月19日よりNetflixにてダンプ松本をモデルにしたドラマ『極悪女王』が配信され、ダンプだけでなく、当時の選手たちや全日本女子プロレスが再び注目されている。
全日本女子の解散後の全日本女子の映像版権は力道山OB会に譲渡されてネット配信などに利用されているが2009年から2010年まで「全日本女子プロレス・メモリアルDVDシリーズ」と題してエースデュースより順次発売された。
2009年6月24日に第1弾として1993年4月2日の横浜アリーナ大会が収録されたDVDが発売されて2009年内発売分は1990年代のいわゆる「対抗戦ブーム」に行われたビッグイベントが、それぞれBOXとして収録されている。2010年には、それぞれ単品として発売された。
一方でJWP女子プロレスとの団体対抗戦を収録したDVDはクエストのJWP激闘史シリーズより「JWP激闘史〜団体対抗戦 vs 全女編〜」として発売された。
2011年にはベースボール・マガジン社から「週刊プロレスDVD増刊 超戦士伝説1」と題した1990年代初頭(メモリアルDVDシリーズより以前)に発売された。
全日本女子が管理、WWWAが認定していた王座。「WWWA」は「World Women's Wrestling Association(世界女子レスリング協会)」の略。
全日本女子が管理、認定していた王座。創設当初の挑戦資格は全日本女子所属選手に限られていたが多団体化により、全日本女子所属選手以外の日本で活動している選手にも開放されていた。
全日本女子が管理していた王座。以前はスタンピード・レスリングが管理、認定していた。「IWA」は「International Wrestling Alliance」の略。
全日本女子が管理、AGWAが認定していた王座。「AGWA」は「American Girls Wrestling Association(全米女子レスリング協会)」の略。
全日本女子が開催していたリーグ戦、トーナメント戦。
同期3人の中では一番強かったが、デビュー間もない1995年退団。
1998年11月29日、全日本女子が創立30周年を機に創設。日本の女子プロレス史に多大な功績を残した人物を表彰する制度。
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