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日本の俳優、作家 ウィキペディアから
中村 敦夫(なかむら あつお、1940年〈昭和15年〉2月18日 - )は、日本の俳優、作家、脚本家、ニュースキャスター、政治家。日本ペンクラブ環境委員長。身長179cm。本名は中村 敦雄(読み同じ)[1]。旧姓は遠藤(えんどう)。株式会社中村企画(1976年 - 2014年)を経て、クロスポイント所属。
なかむら あつお 中村 敦夫 | |||||||||||
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本名 | 中村 敦雄(読み同じ) | ||||||||||
生年月日 | 1940年2月18日(84歳) | ||||||||||
出生地 |
日本・東京府東京市豊島区 (現:東京都豊島区) | ||||||||||
身長 | 179 cm | ||||||||||
血液型 | A型 | ||||||||||
職業 |
俳優 作家 脚本家 ニュースキャスター 政治家 大学講師 | ||||||||||
ジャンル |
テレビドラマ 映画 | ||||||||||
活動期間 | 1964年 - | ||||||||||
活動内容 |
1964年:俳優デビュー 1972年:小説を発表 1984年:キャスター業開始 1998年:参議院議員 2007年:同志社大学で講師 | ||||||||||
配偶者 | あり | ||||||||||
著名な家族 | 中村勝行(弟) | ||||||||||
事務所 | 中村企画→クロスポイント | ||||||||||
公式サイト | 中村敦夫 -公式サイト- | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『春の坂道』/『木枯し紋次郎』 『おしどり右京捕物車』/『必殺仕業人』 『翔べ! 必殺うらごろし』 ドキュメンタリー 『中村敦夫の地球発22時』 情報番組 『中村敦夫のTHE・サンデー』 | |||||||||||
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勲等は旭日中綬章。参議院議員(1期)、さきがけ代表、みどりの会議代表、同志社大学大学院総合政策科学研究科で講師などを歴任した。
東京府東京市豊島区(現:東京都豊島区)千早に遠藤家の長男として生まれる[2]。父親は新聞記者。幼少期の1945年に東京大空襲をはじめとする連合国軍による空襲があり、福島県平市(現:いわき市平地区)に疎開[3][4]。平市立第一小学校(現:いわき市立平第一小学校)を経て、平市立第一中学校(現:いわき市立平第一中学校)を卒業後[2]、福島県立磐城高等学校に進み、その後東京都立新宿高等学校へ転校[4]。
1958年(昭和33年)東京外国語大学インドネシア語学科に入学。これが後に『チェンマイの首 愛は死の匂い』、『ジャカルタの目』、『マニラの鼻』といった、東南アジアを舞台とする国際小説執筆へと繋がる。両親の離婚後、母方の中村姓を名乗る[5]。
1959年(昭和34年)、同大学を2年で中退[2]、俳優座養成所を経て新劇の劇団俳優座に入る[4]。いわゆる「花の12期」であった。若手のリーダー的存在であり有望株であった半面、劇団幹部などが左翼傾向の強い劇団内では異端児であった。そのため、「トロツキスト」のレッテルを貼られた。その際「ああ、いいですよ、トロでも白身でも」と受け流していたら、今度は新左翼、過激派ということになったという[6]。1965年(昭和40年)ハワイ大学に留学[2][4]。このとき知り合ったアメリカ人と結婚するが3年で離婚[2]。1971年(昭和46年)に中村ら中堅・若手が希望した『はんらん狂想曲』の上演に幹部が反対したことで、俳優座首脳との対立が決定的となる。中村は『はんらん狂想曲』を自主公演した後、市原悦子・菅貫太郎・原田芳雄と共に俳優座を退団した。
1968年(昭和43年)に起きた陳玉璽事件に衝撃を受けて、アムネスティ・インターナショナル日本支部設立に携わる。
1971年(昭和46年)の NHK大河ドラマ『春の坂道』で石田三成を演じ、マスコミに大きく取り上げられた[2][7]。
1972年(昭和47年)に市川崑監修のテレビ時代劇『木枯し紋次郎』で主役の渡世人・紋次郎役に
1984年(昭和59年)から3年半にわたり、毎日放送製作・TBS系列で放送されたドキュメンタリー『中村敦夫の地球発22時』(のち『〜23時』、中村の降板後は『地球発19時』とそれぞれ改題)の司会を務めた[4]。その後1989年(平成元年)10月1日から1992年(平成4年)9月27日までは日本テレビの情報番組『中村敦夫のザ・サンデー』などで司会を務めていた。この間はジャーナリスト活動に専念し、俳優活動からは一旦身を引く。作家としても「チェンマイの首」を発表している[4]。
『ザ・サンデー』を降板し、1993年に映画『帰ってきた木枯し紋次郎』で俳優復帰、以後は俳優活動と政治活動を平行して行う。
1995年(平成7年)の参議院選挙で、さきがけ公認、生活者ネット推薦で出馬したが落選する。1998年(平成10年)7月に同選挙さきがけの推薦及び市民の党の応援を受ける無所属候補として立候補し、東京都選挙区から初当選、政治家となる。同年10月に「環境主義・平和外交・行政革命」の3つを基本理念とした民権政党「国民会議」を1人で旗揚げする。
2000年(平成12年)7月に「さきがけ」代表就任[注釈 1]、同年8月議員連盟「公共事業チェック議員の会」会長就任、静岡空港建設反対運動[8]などに取り組む。2002年1月さきがけと国民会議が合流し、院内会派「さきがけ環境会議」を経て、党名をさきがけから「みどりの会議」に変更した。
2004年(平成16年)7月11日の参議院選挙では比例区に転向して、みどりの会議は中村をはじめとする10人の候補者を立て、90万を超える票を得るも全員落選した。これにより、みどりの会議は国会での議席を失うことになった。みどりの会議は同年11月に解散し、一部メンバーがみどりのテーブルを設立したが、中村は参加していない。
政治家を辞してからは、小休止状態だった俳優に再び復帰。2008年(平成20年)にフジテレビドラマ『CHANGE』では与党・日本政友党幹事長・小野田朝雄を演じて、2009年(平成21年)にはサントリー「BOSS食後の余韻」のシリーズCMで政財界の大物を演じるなど、自身の経歴を重ねたような役柄を演じることが多くなっている。
いっぽう評論活動も続けており、2007年(平成19年)から2009年(平成21年)まで同志社大学で行った、「環境社会学」の講義録を再編した『簡素なる国』を2011年(平成23年)に出版。その中で「みどりの政治思想」などについて言及して、近代経済学に代わる新しい哲学の必要性を主張した。
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