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日本の落語家 (1938-2001) ウィキペディアから
三代目[1] 古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう、1938年3月10日 - 2001年10月1日[1])は、東京都文京区本駒込出身の落語家。本名:美濃部 強次(みのべ きょうじ)。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。
三代目 Kokontei Shinchô the 3rd | |
古今亭朝太時代(1959年6月6日、当時21歳) | |
本名 | |
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生年月日 | 1938年3月10日 |
没年月日 | 2001年10月1日(63歳没) |
出身地 | 日本・東京都文京区 |
師匠 | 五代目古今亭志ん生 |
弟子 | 六代目古今亭志ん橋 古今亭志ん輔 七代目桂才賀 |
名跡 | 1. 古今亭朝太 (1957年 - 1962年) 2. 三代目古今亭志ん朝 (1962年 - 2001年) |
出囃子 | 老松 |
活動期間 | 1957年 - 2001年 |
活動内容 | 古典落語 |
配偶者 | 美濃部聖子 |
家族 | 五代目古今亭志ん生(父) 十代目金原亭馬生(兄) 長男(一般人) |
所属 | 落語協会 (1957年 - 1978年) 落語三遊協会 (1978年) 落語協会 (1978年 - 2001年) |
主な作品 | |
火焔太鼓 居残り佐平次 文七元結 | |
受賞歴 | |
芸術選奨文部科学大臣賞(2001年) | |
備考 | |
落語協会副会長 (1996年 - 2001年) | |
五代目古今亭志ん生の次男。十代目金原亭馬生の弟、女優の池波志乃は姪、俳優の中尾彬は義甥にあたる。
七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、五代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と呼ばれた[2]。他に、同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』と称される。
なお、後述の通り、「古今亭志ん朝」を名乗った人物は他に2人いるが、いずれも名乗った期間が極めて短い。そのため、単に「古今亭志ん朝」とした場合、三代目(真打昇進から没するまで40年以上にわたって「志ん朝」を名乗り続けた)を指すことがほとんどである。
強次(きょうじ)の名は一時期の父の師匠初代柳家三語楼が出生日の陸軍記念日に因んで命名したとされている[要出典]。
獨協高等学校でドイツ語を学んだ。当初は外交官になるという夢があり、後には毎年弟子を連れて大好きなドイツへ旅行に行った。当初は役者を志しており、噺家になる意志はなかったが、志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けないが噺家は扇子一本で偉くなれる。」と説得され入門した[3]。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に八代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに六代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、名実共に大看板として人気を博した。若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、後にはタレント的な活動をセーブして本業の落語家としての活動に注力した。独演会のチケットはすぐに完売するほどの人気であり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。
同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して八代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と父志ん生に述べた。圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝を買っていた。入門から5年目の真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。志ん朝の晩年に七代目立川談志は「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけ」と語っていた。しかし談志は評価する一方、先輩の自分より先に真打ち昇進した事については快く思わず、志ん朝真打ち披露公演を休演していた。それが談志を奮起させた。 一部のファンや水谷良重(水谷八重子(2代目))、寺田農などの親しい俳優仲間からは「朝(チョウ)様」の愛称で呼ばれた[4]。また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。
落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られる。しかし前者に関しては父・志ん生から猛反対され、後者では男性週刊誌記者[誰?]から「落語家が豪邸を建てるとは何事か」「長屋住まいを続け金に執着しない八代目林家正蔵(林家彦六)を見習え」と非難されたりと風当たりは強かった。しかし彦六の弟子の初代林家木久蔵(現:林家木久扇)は「これからの若手が経済面で手本とすべき存在」と高く評価している。
一方では、客入りの良くない名古屋の大須演芸場を守る足立席亭[注 1] の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行った。大阪では道頓堀角座に初めて出演した時、落語が受けなかったので漫談を高座に掛けて大いに受けた。ところが支配人から「漫談ではなく落語をしてもらうために呼んだのだ」と注意され、以降は落語をきっちり演じるようになった。大阪の客に東京の落語が受け入れられるまで5年かかったが、大阪の街を心から愛するようになった[要出典]という。大阪の定宿としていた千日前の旧・上方旅館の女将の葬儀で、関西のしきたりで一番重要な“止め焼香”を遺族に懇願されて行ったりもした。旅館を建て替えて設立されたトリイホールは、上方噺家のみならず、志ん朝一門など東京の噺家も“大阪で定席を打てるホール”として2020年3月の閉館まで活用された。生前の志ん朝も「死ぬまでここでやる」と、大いに喜んだ[要出典]という。
落語以外にも、佃煮・ふりかけ「錦松梅」のCMキャラクターとしても有名で、「中身もいいけど、器もいいねえ」というCM中のセリフを、高座では他の色々なものに置き換えて「器はいいけど、中身は…」などと一種のセルフパロディに仕立ててよくネタにしていた。この他麦茶や紙おむつのテレビCMに出演。
二ツ目時代に身の回りに不運が続いたため、信心が足りないと母に言われて谷中の寺[どこ?]に守り本尊としている虚空蔵菩薩へのお参りに出向いたところ、その寺の住職に、虚空蔵菩薩の使いは鰻であるので、菩薩の命日である13日は鰻断ちするよう勧められた。しかし、13日だけなんて勝手な話は無いと、以来40年以上に渡り大好物であった鰻を断った。鰻については、1994年のテレビ朝日『徹子の部屋』出演時、「初めは我慢するのが大変だったが、食べたいと思わなくなった」と語っていたが、最晩年、『ニュースステーション』の「最後の晩餐」コーナーに出演の際には「鰻を死ぬほど食べてみたい」と語っている。癌による死を前に、食べたいものを聞かれた時も「鰻が食べたい」と語った[要出典]という。
晩年、時間がない時などは決まって漫談「山田吾一」を高座にかけていた。自分が俳優山田吾一と間違えられるサゲのこの演目はいわゆる自虐ネタであるが、志ん朝が最後に演じた演目でもあった。
所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望されたが、後述する落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、58歳から亡くなるまでの5年間、副会長職を務めるに留まった。
父、兄同様に酒を愛したが長年に渡って糖尿病を患い、時折入院加療していた。
最後の高座は2001年8月11~20日までの浅草演芸ホールでの大喜利「住吉踊り」。公演途中の14日から緊急入院していたが、病院から寄席に出演し続けた。
2001年10月1日10時50分[5]、肝臓がんのため妻、姉、弟子たちに看取られ、自宅で死去した[6]。63歳没。直前まで寄席に出演していた志ん朝の突然の訃報は落語関係者のみならずファンにも大きな衝撃を与えた。落語芸術協会の寄席の楽屋も静まり返ったという[7]。
通夜には俳優の北大路欣也や黒柳徹子らが参列し、志ん朝の死化粧を海老名美どりが自宅の化粧道具を持参し、執り行った[8]。告別式は、10月6日13時より護国寺桂昌殿で落語協会葬として営まれ、関係者・ファンなど2500名以上が訪れ、その死を悼んだ。遺影は、村松友視と対談時に撮影された洋装で帽子をかぶり頬に手を当て微笑むもので[9][7]、出棺の音楽は当人がカラオケで良く歌ったというサザンオールスターズの曲が使われ、棺には大切にしていたドイツ語の辞書が納められた[10]。
墓所は、安養山 還国寺(東京都文京区小日向2-19-7)、戒名は「
父である志ん生を尊敬していたが、芸の形を真似しても育った環境も人生経験も全く異なる父の境地に近づく事は不可能と考えていた。8代目桂文楽に注目して噺を丹念に組み立てる方法で自らの芸を構築していった[11]。
六代目三遊亭圓生も敬愛する大先輩であった。1978年5月の落語協会分裂騒動では、志ん朝は一時的に圓生と行動を共にして落語協会脱退を表明している。しかし当初見込みとは異なり、東京都内の落語定席[注 2]の席亭[注 1]たちは圓生の新団体に寄席出演を許可しなかった。志ん朝一人だけならば三代目三遊亭金馬のように寄席に出ずに活動することは可能だが、自らの弟子を含む若手の落語家にとって寄席出演は芸を磨くために重要と考え、周囲の説得もあって脱退を撤回した。この時「これからは芸を見てもらう、それしかありません」と決意表明をしている。落語協会の会長であった五代目柳家小さんは当初は復帰組の処罰を検討していたが、新宿末廣亭席亭の北村銀太郎の諌止もあり、香盤を下げずに志ん朝を含む協会復帰組を受け入れた。なお、兄の馬生は騒動に際して志ん朝の行く末を心配し、信頼していた弟子の古今亭志ん駒をサポート役として志ん朝の許に送った。騒動終結後、形式的に志ん駒は馬生門下からは破門という形になり、志ん朝門下に移籍し惣領弟子となった。
大阪の落語家との交流の深さは同世代の東京の落語家の中でも群を抜いていた。六代目笑福亭松鶴に心酔し、自身「大阪の角座に出るたびに追っかけまわした」と証言するほどであった。そんな志ん朝を松鶴も可愛がり、その縁から志ん朝は大阪の寄席にも頻繁に出る機会を得て、大阪の客に受け入れられ芸も上達した。志ん朝にとっては松鶴は芸の恩人であり、遊びを教えてくれたよき先輩でもあった。志ん朝自身、上方落語界復興の苦労話を松鶴から夜を徹して聞かされたのが一番感動した事だと述べている。他には三代目桂春團治・三代目笑福亭仁鶴とは二人会を開くなど親交を深めた。特に春團治とは共に親が落語家であったこともあり双方とも格別の思い入れがあった。二人会になると文字通りの真剣勝負で、二人とも気合いの入った高座となった[12]。立川談志との若手時代からのライバル関係は有名であり、志ん朝に真打昇進を追い越されたことが、談志が奮起するきっかけになった。
また落語協会分裂騒動では、圓生が三遊落語協会の自らの跡目を志ん朝としたことが、談志が土壇場で新団体参加を断念した大きな要因であったとされている。この件を巡り、談志とは激しい口論になった。談志の芸は「協会離脱後、志ん朝とのライバル関係がなくなったから衰えた」という説を談志の弟子が唱えていたことがある[13]。
1957年2月に実父五代目古今亭志ん生に入門。前座名は朝太。柳家小光と共に2月1日から前座入り。
1959年3月、二ツ目昇進。1961年 NHK『若い季節』レギュラー出演。
1962年5月、五代目春風亭柳朝と共に36人抜きで真打昇進し、三代目古今亭志ん朝襲名。抜いた先輩には兄弟子金原亭馬太郎、六代目むかし家今松や三遊亭全生、柳家小ゑん、橘家舛蔵がいた。この年映画『歌う明星・青春がいっぱい』(東映)に初出演。また、フジテレビ『サンデー志ん朝』に司会としてレギュラー出演する。
1978年5月 落語協会分裂騒動で落語協会を脱会し落語三遊協会に参加するが、僅か数日で落語協会に復帰。1990年から1999年まで大須演芸場での独演会を始める。
1996年8月1日、三代目三遊亭圓歌の後任で落語協会副会長就任。兄馬生も1972年から1982年まで落語協会副会長を務めていた。
三代目古今亭志ん朝† | 古今亭志ん駒† | ||||||||||||||||||||||||||||
初代古今亭志ん五† | |||||||||||||||||||||||||||||
六代目古今亭志ん橋† | 三代目古今亭志ん丸 | ||||||||||||||||||||||||||||
古今亭志ん陽 | 古今亭松ぼっくり | ||||||||||||||||||||||||||||
五代目古今亭志ん好 | |||||||||||||||||||||||||||||
二代目古今亭志ん五 | |||||||||||||||||||||||||||||
古今亭駒治 | |||||||||||||||||||||||||||||
古今亭志ん雀 | |||||||||||||||||||||||||||||
七代目古今亭志ん橋 | |||||||||||||||||||||||||||||
古今亭八朝† | |||||||||||||||||||||||||||||
古今亭志ん輔 | 古今亭伝輔 | ||||||||||||||||||||||||||||
七代目桂才賀 | 三代目桂やまと | ||||||||||||||||||||||||||||
古今亭右朝† | |||||||||||||||||||||||||||||
七代目古今亭志ん馬† | |||||||||||||||||||||||||||||
ほか
など
上記ソニーのDVD全集はセット販売のみであったが、2024年9月より順次1枚ずつの分割販売が開始された[19]。
落語協会百周年記念商品。「志ん朝」と銘打ってはいないが、全127号中64号までは1958年以降のラジオ局5社(TBSラジオ、文化放送、ニッポン放送、ABCラジオ、STVラジオ)で放送された古今亭志ん朝の未発表音源が中心。監修・解説:京須偕充(創刊号~第3号)、解説:長井好弘(第4号~)、監修:東京かわら版編集部(第4号~)、写真:横井洋司。
発行を記念して、2024年2月23日、文化放送では「古今亭志ん朝を語る夜」(出演:林家正蔵、林家たい平)、TBSラジオでは「ちょいといい噺を聴きたくなってきた今、ふたたびの古今亭志ん朝」(出演:毒蝮三太夫、外山恵理、大沢悠里)を放送。20日、文化放送で正蔵・たい平・毒蝮・長井好弘・佐藤友美による記者会見が行われた[22][23]。
※カセット版は文藝春秋より1988年〜1989年に発売された。
戦後まもなく五代目古今亭志ん生に入門。古今亭志ん一から1948年3月に志ん朝と改名。1949年5月まで落語協会の名簿に見えるが7月にはなくその頃廃業したと思われる。通称「魚屋の志ん朝」。本名∶金田 睦男。
一部資料ではこの志ん朝については触れず美濃部強次の志ん朝を二代目とすることもあり、強次自身の真打ち昇進披露口上時の音源においては、二代目古今亭志ん朝としている。
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