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毎年夏に日本の兵庫県西宮市で行われる高校野球の大会 ウィキペディアから
全国高等学校野球選手権大会(ぜんこくこうとうがっこうやきゅうせんしゅけんたいかい)は、兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場を会場として、日本高等学校野球連盟(高野連)・朝日新聞社主催、毎日新聞社後援、阪神甲子園球場特別協力のもと、毎年8月に開催される日本の高校野球の全国大会である。
今シーズンの大会: 第106回全国高等学校野球選手権大会 (2024年夏) | |
開始年 | 1915年 |
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主催 |
日本高等学校野球連盟 朝日新聞社 |
会場 | 阪神甲子園球場 |
チーム数 | 49チーム |
前回優勝 | 京都国際(2024年) |
最多優勝 | 中京大中京(7回) |
公式サイト | |
www | |
1947年(第29回)までは、全国中等学校優勝野球大会という名称であったが、1948年の学制改革による中等学校から高等学校への改編に伴って、同年の第30回大会から現行の名称となった。
大会旗および優勝旗の色は深紅で、特に優勝旗を指して「深紅の大優勝旗」と呼ばれている[注 1]。「夏の甲子園」「夏の高校野球」「全国甲子園」「甲子園」 「夏」「選手権」「○○回目の夏」などと表現されており、5年に1度(大会回数が5の倍数となる回)は記念大会として実施される。
1915年(第1回)・1916年(第2回)は、箕面有馬電気軌道(箕有電車。現・阪急電鉄)が所有する、大阪府豊能郡豊中村(現・豊中市)の豊中グラウンドで行われた。
出場校が1915年(第1回)よりも増え、加えて敗者復活制も採用した1916年(第2回)は試合数も増えたが、開催期間は1915年(第1回)と同じ5日間(雨天順延)に収めたため、タイトなスケジュールとなった。当時から主催者の大阪朝日新聞社(大朝)は旅費を支給していたが[1]、現在と異なり滞在費補助を支給しておらず、滞在費は出場校の全額負担となっていたため、開催期間の長期化は避けたかった。また、スタンドの収容人数不足、箕有電車の輸送力不足も問題となっていた。
出場校の負担増に直結する開催期間の長期化を避けたい大朝の希望に、十分な輸送力を持ち、もとより大会招致に動いていた阪神電気鉄道(阪神電鉄)がグラウンドを2面備えた鳴尾球場を開場させることで応え、1917年(第3回)から会場が兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)の鳴尾球場へ移った。
しかし、敗者復活制は第3回大会を最後に廃止され、鳴尾競馬場の馬場内という阪神競馬倶楽部からの借り物の土地、加えて陸上競技用のトラックの内側(インフィールド)にあったため、野球観戦用のスタンドを常設できない鳴尾球場は、観客数の増加への対応に追われることとなった。
1923年(第9回)ではスタンドに収まりきらない観客がグラウンドへ流れ込んで試合が一時中断する事態となり、大朝は本格的な野球場の建設を阪神電鉄へ打診した。
阪神電鉄は、武庫川改修工事によって生じた枝川・申川(武庫川の支流)の廃川敷地を1922年に兵庫県から買収しており、当時阪神電鉄の専務であった三崎省三の構想もあり、旧枝川・旧申川の分流点あたりに自前の運動場を建設する計画を立てていたことから、思惑が一致。
ニューヨーク・ジャイアンツのホームグラウンドのポロ・グラウンズを参考に、運動場の開場を1924年(第10回)に間に合わせるため、同年3月11日起工、7月31日竣工という突貫工事で建設され、8月1日に開場した。同年が十干十二支の最初の年である甲子年(きのえねのとし)という60年に1度の縁起のいい年であることから、甲子園大運動場と命名された。
戦後初の復活開催となった1946年(第28回)はGHQに甲子園を接収されていたため、阪急西宮球場で行われた。この大会は、立教大学の教授を務め、戦後GHQの将校として再来日したポール・ラッシュ博士が、若者たちに夢や希望を与えるスポーツを復活させることが戦後の日本の復興にとって喫緊課題であるとして、大会復活に尽力し開催したものであった。
出場校を大幅に増やした1958年(第40回)と1963年(第45回)では大会日数を減らすため、甲子園球場と西宮球場を併用して使用するものの、不公平として評判がよくなかったため(甲子園で試合できず敗退した学校からは苦情があった)、これ以降は一貫して甲子園で行われるようになった。
当大会を主目的に建設された甲子園球場は半世紀あまりの大会を優先的に行っているため、当球場は高校野球の聖地として高校球児たちの憧れの舞台となっている。「甲子園」という言葉自体が高校野球全国大会の代名詞となっており「夏の甲子園」という通称としても扱われているように当大会に大きく貢献していることから、2010年シーズンから大会の特別協力として扱われている。
なお、上述のような経緯、そして開設当時は阪神電鉄も電車運賃と沿線開発によって収益を上げられたことにより、高校野球の開催について甲子園球場の使用料を請求しておらず、これは開設から90年以上を経た2015年時点でもそのままとなっている[2]。
また、阪神甲子園球場は阪神タイガースの本拠地ともなっているが、1990年代半ばまでタイガースは高校野球の開催期間中に本拠地が使えないため、長期ロードを強いられていた。
かつてはロード中に成績が低迷することが多かったため「死のロード」の異名で呼ばれることもあった。1997年以降、タイガースは当大会や春の選抜大会中に準本拠地として近傍の大阪市にある大阪ドーム(京セラドーム)を使用する日程を組むようになったので、そうした異名は過去のものとなっている。
虫明亜呂無は「昭和の初めから甲子園の中等野球が阪神地帯を中心に盛んになっていったのは、山陽・四国・九州地方の出身者が、阪神地帯で商店の丁稚や中小工場の工員などで働いていたとき、たまたま8月のお盆休みに、甲子園球場に来て、故郷の学校の活躍を見て、激しい応援を送ったからである。自分と小学校で同窓であった者が、あるいは隣村の誰それが野球の選手として甲子園に来ているという親近感が甲子園の野球を支えた。甲子園の野球は望郷と流浪の野球に他ならない。『いつの日か 故郷に帰らん 流離の泪』が甲子園野球の花である。野球が故郷を離れた者同士を堅く連帯させた。観客の想いはひたすら故郷に向かった」等と論じている[3]。
6月中旬から7月下旬にかけて行われる、各都道府県高等学校野球連盟・朝日新聞社主催の地方大会を勝ち抜いた優勝校が代表校となり、全国大会への出場資格を得る。
現在は全国大会の主催者である朝日新聞社が全ての地方大会の主催者となっているが、もともと各地方に存在した他団体主催の野球大会を地方大会と見なし、そのような野球大会がない地方に限り主催者あるいは後援者となって地方大会を行ってきた経緯があり[1]、事実上の予選ではあるものの、地方大会は全国大会から独立した大会となっている。
なお、予選という用語は、現在は消滅した複数の府県を対象とする地方大会の府県予選といったように、地方大会以下のレベルで用いられる。
地方大会も全国大会と同じく勝ち抜きトーナメントで行われる。かつて一部の地方大会では、全国大会でも一時期採用された敗者復活戦や、リーグ戦が採用されたこともあった。全ての地方大会の参加校数は3500校前後に達し、1990年(第72回)から2011年(第93回)までは4000校を越えていた[4][注 2]。
地方大会の基本的なルールは、選抜高等学校野球大会(選抜=春の甲子園)と同じく開催年度の公認野球規則、アマチュア野球内規、高校野球特別規則に則って行われる。
地方大会では得点差によるコールドゲーム制度(5回10点差以上、7回7点差以上)が実施されている[5][注 3]。
ただし、決勝戦に限ってはコールドゲームは適用されず、2023年(105回)までは9回攻撃終了とならない場合はノーゲームとなった(2022年・2023年は一部の地方のみ。後述)。
2022年(第104回)より全国大会に導入されたサスペンデッドゲーム(以下=継続試合)は、地方大会については各地方の高野連が判断していたが(2022年は35地方大会[6]、2023年は宮城大会を除く48地方大会で適用[7])、2024年(第106回)からは全地方大会に導入され、地方大会でもコールドゲームやノーゲームが無くなった[8]。
地方大会を勝ち抜いた優勝校に地方の代表校として全国大会出場権を与えるという方式で一貫しており、地方の範囲が都道府県より小さくなる場合でも第1代表・第2代表のような上位校方式ではなく、東西あるいは南北に二分して、地方大会を2大会行い、地方の代表校が1校ずつの2代表となる。
地方の範囲が都道府県を基本とするようになるのは後年のことであり、もともとは複数の道府県を基本としていた。1915年(第1回)では地方大会の数、すなわち、代表校の数は10であった[9][10]。その後参加する道県の増加により毎年のように地方大会の増設や編成替えを繰り返し、1926年(第12回)までに12増えて22代表となった。
以降、地方大会の編成替えはあったが1941年(第27回)まで22代表制が続いた。
参加校数が多い関西では、第1回大会から代表枠が3つ設けられて地勢的に兵庫県が単独代表となり、1916年(第2回)から4つ設けられて大阪府も単独代表となった。後年に2代表となる北海道は1920年(第6回)から、東京都(当時東京府)は1923年(第9回)からそれぞれ単独代表となった(東京府は第1回大会も事実上の単独代表であった)。
複数の府県を対象とする地方大会でも長野県(北陸→甲信→甲信越→信越)、愛知県(東海)、京都府(京津/京滋)は他の県を圧倒しており、滋賀県(京津/京滋→福滋)は春より夏のほうが出場回数が少なくなっていたほどである。
このため、歴代の出場回数・優勝回数・勝利数などの都道府県ランキングについて有利不利が存在するのではないかと言われている[9]。
第二次世界大戦に伴う1942年から1945年の中断を挟み、1946年(第28回)から朝鮮・満洲・台湾の旧外地3代表枠が無くなり19代表制に減少して再開された。
また、戦後米国の統治下に置かれた沖縄県が1951年(第33回)まで不参加となった(沖縄県の本土復帰は1972年)[11]。
しかし、1948年の学制改革によって男女共学が実施されると、それまで女子校であった学校にも野球部が発足し、参加校数がこれまでにない早さで倍増に近い規模へと増加した。
その後も高校進学率の上昇と新設校ラッシュに伴って参加校数が増加し、地方大会の増設や編成替えも進み、参加校数が多く面積も広い北海道は1959年(第41回)から北北海道・南北海道の南北2代表、参加校数が突出して多くなっていた東京都は1974年(第56回)から東東京・西東京の東西2代表となった。
1978年(第60回)より、毎年1府県1校・北海道と東京都は2校の49代表制となった。
以下の記念大会に限り、それぞれ地方大会が増設されて代表枠が増加した。
参加校数が多く2代表となる都道府県では東西あるいは南北の地方大会の境界が参加校数に応じて変更されたことがある一方、毎年1府県1代表となって以降、参加校数が少ない県が複数の県を対象とする地方大会へ戻されたことはない。
また、地方大会で優勝するには、参加校数が129校以上となる場合は最多で8連勝しなければならない。一方、31校以下となる場合は最少で4連勝すれば済むといった格差がある。
試合の組み合わせは抽選によって決まる。現在は、開幕3日前に抽選会[注 4]が開催され、各チームのキャプテンによるくじ引きで組み合わせが決定する。
期 間 | 抽選方法 |
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1915年(第1回)- 1918年(第4回) | (不 明) |
1919年(第5回)- 1921年(第7回) | 全試合抽選。 |
1922年(第8回)- 1926年(第12回) | (不 明) |
1927年(第13回)- 1941年(第27回) | 全試合抽選。 |
1946年(第28回)- 1951年(第33回) | 現行と同じヤグラ方式。 |
1952年(第34回)- 1994年(第76回) | 全試合抽選。1回戦・2回戦・3回戦・準々決勝のそれぞれの最終日に甲子園球場で公開抽選の形式でまとめて決定していた。 1952年8月11日の朝日新聞紙上に「今度の大会から、第3日第1試合の第1回戦(7試合14チーム)の番組と、不戦1勝のクジを引いた残り9チームによる第2回戦の取組を決めるだけで、勝ち残ったチームがどのチームと顔を合わせるかは次の抽選まで決まらないという方式をとった」と表記されている。 1958年(第40回)と1963年(第45回)は記念大会として1県1代表制を採り、出場校が増えたため、3回戦までの組み合わせを事前に決定していた。 また、1979年(第61回)以後1府県1校(北海道は南北、東京は東西の2校)がレギュラー化されてから2006年(第88回)までは後述のとおり、近隣都道府県・地域同士が初戦で対戦しないようにするための「東西対抗戦」方式を採っていた。 |
1995年(第77回)- 2012年(第94回) | 抽選会で3回戦までの組み合わせを決定し、準々決勝と準決勝はその都度で決定する。試合前で勝敗が決まっていないチームの抽選に関しては一塁側のチームが抽選を行った。 |
2013年(第95回)- 2016年(第98回) | 全試合抽選。抽選方法は以下のとおり。
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2017年(第99回)以降 | 事前抽選で3回戦まで決定する方式に戻す[注 5]。 準々決勝の抽選方法は2013年(第95回)以降のものを継続。 2022年(第104回)以降[注 6]準々決勝の抽選は、連戦による選手の健康被害を最小限にするため、3回戦と準々決勝の間に休養日を設け、3回戦の1日目に当たる第10日目の勝者4チームは第1・第2試合から、3回戦の2日目に当たる第11日目の勝者4チームは第3・第4試合から引く(第10日の勝者は中2日、第11日の勝者は中1日の間隔で準々決勝の試合となる)。 |
2024年(第106回)の日程(49代表・48試合制)は、以下のとおりである。
日程 | 試合・他 | |
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初 日 | 開会式 | |
第1試合 | 1回戦 (49→32) | |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
2日目 | 第1試合 | |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
3日目 | 第1試合 | |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
4日目 | 第1試合 | |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
第4試合 | ||
5日目 | 第1試合 | |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
第4試合 | ||
6日目 | 第1試合 | 2回戦 (32→16) |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
第4試合 | ||
7日目 | 第1試合 | |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
第4試合 | ||
8日目 | 第1試合 | |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
第4試合 | ||
9日目 | 第1試合 | |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
第4試合 | ||
10日目 | 第1試合 | 3回戦 (16→8) |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
第4試合 | ||
11日目 | 第1試合 | |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
第4試合 | ||
12日目 | 休養日 | |
13日目 | 第1試合 | 準々決勝 (8→4) |
第2試合 | ||
第3試合 | ||
第4試合 | ||
14日目 | 休養日 | |
15日目 | 第1試合 | 準決勝 (4→2) |
第2試合 | ||
16日目 | 休養日 | |
最終日 | 決勝戦(2→1) | |
表彰式・閉会式 |
現在の全都道府県から代表が出場する以前は8月中旬(おおむね8月10日前後から)の10日間前後で開催されていた。全都道府県から選出された記念大会では、1958年(第40回)・1963年(第45回)は同じ日程であったが、1968年(第50回)・1973年(第55回)は14日間で開催された。
1978年(第60回)より、各都道府県の代表が参戦するようになってからは、おおむね8月8日を起点とした14日間を基本として行われたが、後に選手の連戦による健康被害軽減に配慮し、休養日が設けられたために1 - 2日程度前倒しで行われるようになっている。なお、出場枠が55(56)校に拡大される記念大会は2日間延長される。
準々決勝については、2003年(第85回)までは1日4試合一括で開催したが、2004年(第86回)から2012年(第94回)までは選手の健康管理を考え、1日2試合ずつの2日間開催で行われた(会期を1日延期)[注 7]。
しかし、準々決勝が2日目のチームは決勝戦まで3連戦となり不公平感が生じるため、全チームが平等となるように2013年(第95回)より、10年ぶりに1日4試合一括開催に戻した。また、準々決勝と準決勝との間に休養日を1日挟み、選手の連戦による健康被害軽減に配慮した(会期は変わらず15日間。以後の表記は休養日込み[12][13])。
2019年(第101回)より、準決勝と決勝戦との連戦を避けるため、休養日が1日追加された(会期は16日に延長)[14]。
2022年(第104回)より、3回戦と準々決勝との間に休養日が1日追加された(会期は17日に延長)[注 6]。
2024年(第106回)より、暑さ対策のため第1日から第3日を午前の部と夕方の部の2部制(3試合日)とした。5日目と9日目は4試合日とした。従来どおり49代表が参加。4試合日が2部制でないのは第4試合の試合終了時刻が夜遅くなることが見込まれるためである。
なお、夏季オリンピック開催年は、開催期間の重複を可能な限り避けるための日程調整が実施される場合がある。
1992年(第74回)と2021年(第103回)は繰り下げて8月10日[注 8]、2008年(第90回)は逆に繰り上げて8月2日(史上最速)にそれぞれ開幕した。
日本の電力消費は全国高等学校野球選手権大会をピークになっており[注 9]、電力供給もそれに合わせて調整を行っているという通説がある。電力需給の観点から、電力行政を管轄する通商産業省(現・経済産業省)が開催時期をずらすことについて検討をしたことがある[注 10]。
朝日新聞社航空部によって、会場の上空を飛ぶ同社保有のヘリコプターから、開幕試合の始球式で使用するボールが投下される[15][注 11]。始球式のボール投下は祝賀飛行と称され、鳴尾球場時代の1923年(第9回)から行われている[16]。当初は飛行機が使用されていていたが、1956年(第38回)からヘリコプターが使用されるようになった[16]。
投下されるボールには朝日新聞社の社旗(西日本版)が取り付けられている。朝日新聞社の社旗には西日本版と東日本版の2種類あるが、大阪朝日新聞社の主催で始まった大会であり、大会会場所在地も朝日新聞大阪本社の管轄区域となるため、西日本版の社旗が使用される。
西日本版の社旗は竿元(旗竿に結ぶ側)が右側となる珍しい旗で、開催期間中はスコアボードにも掲揚されているが、日中は基本的にライトからレフト方向へ浜風が吹いているため、旗が裏返らずに済むという利点もある。
審判員は球審、3人の塁審、予備審判2人と控え審判員1人の計7人。ただし、ナイター下では2人の予備審判員が外審/線審として試合に加わる。
2011年(第93回)と2012年(第94回)は東日本大震災に伴う節電対策のため、試合開始が一部の日程で繰り上げられる処置が取られた。
2013年(第95回)から2018年(第100回)は、4試合日は8時開始を維持し、2・3試合日は2010年(第92回)以前と同じ時間帯に戻したが、2019年(第101回)より暑さ対策のため、2011年(第93回)・2012年(第94回)と同じく、3・4試合日は開幕日を除き8時開始(開幕日・準決勝・決勝戦は従来どおり)に統一された。
また、2016年(第98回)より準決勝の第1試合開始が11時→10時に繰り上げられ、決勝戦の試合開始が13時→14時[注 17]に繰り下げられ、2021年(第103回)より[注 18]準決勝の第1試合開始が10時→9時に繰り上げられた。
2023年(第105回)より後述の#クーリング(給水)タイムの常設に伴い、2試合以上開催する場合「試合時間は2時間5分、その後のグラウンド整備と次の試合の練習に30分」と想定され、新聞社の発表では4試合日の場合「(1)8時、(2)10時35分、(3)13時10分、(4)15時45分」とされているがあくまでも目安であり、原則的には前の試合終了から30分後に次の試合を行う(早く終了した場合は、最大15分繰り上げられる場合もある)。
2024年(第106回)より暑さ対策のため第1日から第3日までを午前の部と夕方の部の2部制を初めて導入し、開会式が8時30分[注 19]に繰り上げられた。また、開幕日と決勝戦を除く第1試合開始が8時に統一された(開幕日の第1試合と決勝戦は10時開始)。決勝戦を午前中に実施するのは、2011年(第93回[17])、2012年(第94回[18])に次ぎ12年ぶり3度目である[注 20]。
試合は9回で同点の場合は延長戦を行う。1958年(第40回)より「延長18回引き分け再試合制度」が導入されたが、1999年12月の高野連全国理事会において、2000年(第82回)より延長15回制に短縮された(詳しくは「延長引き分け再試合規定」を参照)。
2018年(第100回)より延長戦におけるタイブレーク方式を導入。延長10回[注 21]以降、試合が決着するまで行われる。そのため、1957年(第39回)以来61年ぶりに延長イニング数が無制限となった。
なお、地方大会(決勝戦を除く)で採用されている点差によるコールドゲームは、全国大会では認められていない。
2021年(第103回)までは降雨など止むを得ない事情で試合を中断・打ち切る場合は、試合が7回以降に入った場合は成立(コールドゲーム)とした。7回以前の場合は未成立(ノーゲーム)となり、翌日以降に再試合が行われた。ただし決勝戦は、地方大会・全国大会とも試合が9回終了とならない場合はノーゲームとなった。
2022年(第104回)より降雨などで試合が中断された場合は、翌日以降に中断された場面から再開し、9回完了あるいは勝敗が決定するまで行うサスペンデッドゲーム(以下=継続試合)を採用。これにより、全国大会ではコールドゲームやノーゲームが無くなった[20][21]。
なお、地方大会の継続試合については、先述のとおり各地方の高野連が判断していたが(2022年は35地方大会[6]、2023年は宮城大会を除く48地方大会で適用[7])、2024年(第106回)からは全地方大会に導入され、地方大会でもコールドゲームやノーゲームが無くなった[8]。
2018年(第100回)において、大会本部の判断により、暑さ対策のための休憩時間である「クーリングブレイク(給水タイム)」を設けることが認められ、実際、折尾愛真対日大三の7回裏終了後に10分間の休憩が行われた[22]。
2023年(第105回)より、5回裏終了後に原則として「給水タイム」が行われることになった。選手らは一度10分間、ベンチ裏の特設クーリングスペース(スポットクーラーやサーキュレーターといった冷房器具完備)[23]に入り、アイシングマッサージやスポーツドリンクの飲用などでクールダウンをする。ただし、当日の気候によっては省略する場合もある[24]。
2024年(第106回)からは、試合開始が16時以降となった場合は行われない[25]。給水タイム中のセカンドアップは終了3分前に、6回表から新たに登板する投手については終了5分前からOKとなる。
なお、地方大会では必ずしも5回裏終了後とは限らず、大阪府や福岡県のように、3回・7回にも「給水タイム」を設けるものがあった[26]。
2022年(第104回)の大会終了後、日中の気温の高い時間帯を控え、午前中と夕方の薄暮の時間帯に分ける2部制が検討されていたが、2023年(第105回)は応援団などの客の入れ替え時間の確保が難しいという理由で見送られた[27]。
2024年(第106回)より、第1日から第3日まで午前の部と夕方の部の2部制を初めて導入することになった[28][29][30][31]。
第1日は先述のとおり午前の部として8時30分から開会式、10時から第1試合を行い、夕方の部として16時から第2試合と第3試合をそれぞれ行う。第2、3日は午前の部として8時から第1試合と第2試合を行い、夕方の部として17時から第3試合をそれぞれ行う。
なお、第1日の第1試合が13時30分、第2、3日の第2試合が14時30分以降も続いた場合は原則として継続試合となる。第1日は第1試合、第2、3日は第2試合終了後に観客の入れ替えを行う[32]。
チケットは午前の部、夕方の部でそれぞれ別々となり、入場料は同額となる。多いときで4万人を超える観客入れ替えによる雑踏事故を防ぐため、午前と夕方の間隔を2時間半以上確保した上で、最終試合の終了が夜遅くならないように3試合日のみ行う。なお、悪天候で3試合日が8月10日以降にずれ込んだ場合は2部制は実施しない。
各日の第1試合に出場する選手には、試合前に補食を提供する。早朝の起床で朝食を十分に取れなかった選手が低栄養になって熱中症になるのを防ぐため、医事専門家の提言を受けて実施する[33]。
松井秀喜は、スポーツ報知の寄稿に「地方大会の多くは7月に開幕するが、これを6月から始めるとかできないか」「夏の大会を前半と後半の会期の2部制にすれば体力の負担も軽減されるのではないか。阪神タイガースも一度甲子園に帰ってこられるので死のロードの負担もなくなる。夏休みいっぱいを使って甲子園大会をやってもいいのではないか」[34]とする私見を述べている。
1996年(第78回)までは主催者の職員が司会を担当していたが、翌1997年(第79回)以後は兵庫県内の高校の放送部員(おおむね、NHK杯全国高校放送コンテスト兵庫県大会のアナウンス部門・朗読部門[注 22]で入賞した生徒)が4人(開会式・閉会式に各2名ずつ)が担当するようになった[注 23]。
開式の前に関西吹奏楽連盟と関西合唱連盟がライトスタンドと一塁側アルプスの間に設けられたゲートから入場。
なお、2000年(第82回)の開会式から、ライト側で西宮をPRする会による人文字を行っていたが、同会が会員の高齢化などにより活動を終了したため、2018年(第100回)が最後となった。
表彰式に先立ち、共同公開インタビューとして、NHKアナウンサーの司会により優勝監督へ、朝日放送テレビアナウンサーの司会により優勝校の殊勲選手若干名にそれぞれインタビューを行う。閉会式の準備ができるまでの間、ベンチ周辺でインタビューが行われ、閉会式の準備が終わり次第、閉会式が始まる。
開会式・閉会式の国旗・大会旗の掲揚・降納は、2000年(第82回)までは、開会式は出場校の主将(のちに記録員)が、閉会式は決勝戦を戦った選手全員がバックスクリーンの回転広告板の上(三菱電機の広告看板前)に集まって行っていたが、2001年(第83回)以後は、選手衆はバックスクリーンに移動することなく、所定位置からバックスクリーン方向の掲揚台を向いて見守る形になっている。
3年生部員にとってこの大会の決勝戦以外で負けると高校野球生活が終わるという意味をこめて「夏が終わる」と表現され[注 29]、大会途中で敗退したチームが試合終了直後に甲子園の土を拾い集める光景はよく報道でも取り上げられている。
なお、優勝校・準優勝校は試合終了直後に土を拾い集められず、また閉会式の途中で中継が終了するため、準決勝までに敗退したチームのみが行うものと誤解されているようであるが、実際には優勝校・準優勝校も閉会式や記念写真撮影、インタビュー終了後、グラウンドから去る寸前に土を拾っている。また1、2年生の中にはもう1度戻ってくるという意味を込めて持ち帰らない者もいる。
2001年(第83回)にアルプス席のブラスバンド部員にファウルボールが当たり、負傷したことから、翌2002年(第84回)からは打球に注目してもらうため、従来は係員が回収していたファウルボールを選抜も含め、観客にプレゼントするようになった[36](ただし、ホームランボールは打った選手への記念として渡すために回収される)。
毎年8月15日の第2試合開始前に育成功労賞の授賞式がある。また野球殿堂の特別表彰授賞式を行うことがある。なお、当日の試合が中止となった場合、育成功労賞は8月15日に大阪市内で授賞式が行われ[37][注 30]、野球殿堂の授賞式は翌日以降の第2試合開始前に授賞式がある[38]。
8月15日は終戦の日のため、正午前にプレーを中断し、正午に選手、審判員、観客一同で30秒間の黙祷を行う(サイレン鳴響も行う)。この終戦の日の黙祷は1963年(第45回)から行われている[39]。正午が試合間の入れ替え時間と重なったときは、次の試合開始前(両チームあいさつの前)に行う場合がある。なお、当日の試合が中止となった場合は黙祷は行われない(1973年・2017年・2019年・2023年の4例がある)。また、第92回選抜高等学校野球大会中止に伴う救済として行われた2020年甲子園高校野球交流試合でも8月15日に試合が行われたため、黙祷が行われた[39]。
広島県・長崎県代表は、それぞれの原子爆弾投下の日時で独自に黙祷を行うことがある。一例として2016年(第98回)の大会3日目第2試合、山梨学院と長崎商の対戦で、試合時間が長崎に原爆が投下された8月9日の11時2分を挟むことから、試合中(応援団は1回表終了後、選手は1回裏終了後)に黙祷を行った例がある[40][41]。
ただし高校独自で行われるものであり、試合進行が止められることはない。
大会の本番前に、出場校の選手らは「甲子園練習」と称して、実際に試合で着用するユニフォームを着てグラウンド(または屋内練習所)でグラウンドの感触を確かめるための事前練習会があった。しかし、新型コロナウイルスの影響で、甲子園練習は取りやめられたが、2023年から「甲子園見学会」として、選手がユニフォーム、または制服姿でグラウンドの感触を確認する下見の機会が設けられた[42]。
これまでに大会歌として新旧2曲、行進曲(正式には「行進歌」)として1曲が作成されている。行進曲は前年のヒット曲などから選定される春の選抜と異なり、1935年(第21回)から固定の楽曲を変わらず使用している。
また、選抜の大会歌は現行の「今ありて」まで歴代3曲とも歌詞に「甲子園」を含むのに対し、夏は新旧2代の大会歌・行進曲(行進歌)とも歌詞に「甲子園」が含まれていない。
大会参加時の各校野球部の遠征・用具・応援団のバス代などは、近畿圏の学校でない限り数千万円にのぼるという試算がある。夏の甲子園で2試合を戦った徳島県の県立高校では、出費が約4000万円かかったと報じられている[44]。
高校の野球部が全国高等学校野球選手権大会に出場すると、通常は同校の吹奏楽部・チアリーディング部およびチアダンス部(バトン部がチアリーディングおよびチアダンスを兼任していることも多く、その場合はバトン部が参加。学校によってはバトントワリング部とも称す)が応援に参加する(両方を複合させたバトンチアの場合もある)。
一方、出場校の吹奏楽部が試合当日にコンクールなどで応援に参加できないことがあるほか、学校によっては吹奏楽部自体が存在しない場合もあり、他校の吹奏楽部や卒業生、その他の有志が「友情応援」という形で参加する姿が時に見受けられる[45]。特に沖縄県の場合、移動の際の交通費や楽器の輸送費が大きく嵩むことから多数で応援に駆けつけることが容易ではないため、例年尼崎市立尼崎高等学校吹奏楽部が沖縄県代表校応援団に加わり「ハイサイおじさん」などを演奏するのが恒例となっている。
学校活動で参加するチアリーダーなどの女性を狙った撮影を目的として、会場に入場する男性の者がおり、野球観戦とは異なる目的での入場として書類送検されるトラブルが起きている[46]。
かつては大会終了後、基本的に上位進出校の3年生選手を集め、国際親善を主目的とした海外遠征チームが組まれていた。行き先はおもにアメリカ(韓国、ブラジルへの遠征実績もあり)で、2006年以降(2008年を除く)はアーバンユース・アカデミー(カリフォルニア州コンプトンにあるMLBの野球振興・選手育成機関)との対戦が組まれていた。
選手およびコーチングスタッフは、帽子マークは「J」、胸文字は「JAPAN」、袖に日章旗という、数十年間変わっていない簡素なデザインのユニフォーム(白およびグレー地)を着用することが多いが、過去には試合により各校のユニフォームの袖に国旗を縫いつけたものも併用したことがある。また背番号は1(優勝投手)から投手→捕手→内野手→外野手の順に振り分けられる(つまり投手は背番号がほぼ1桁、野手は背番号が必ず10番台となる)[注 32]。
1998年以降はBFA U-18アジア選手権大会開催年は海外遠征の代わりに原則としてそちらに出場[注 33]、2012年以降はWBSC U-18ワールドカップ[注 34]の日程が変更されたため、同大会にも出場するようになった(その場合、選手権不出場校の選手や2年生以下の選手が選ばれることがある)。これに伴い、親善目的のチームは2010年を最後に結成されていない。国際大会出場の場合、2011年アジア選手権・2012年世界選手権は社会人他アマ代表と同一の、2013年世界選手権以降はプロ・社会人・学生各年代・女子を含めてデザインを統一した『侍ジャパン』のユニフォームを着用している。
優勝校に優勝旗と優勝盾、準優勝校に準優勝盾が贈られる。
優勝旗の色は深紅[35](「深紅の大優勝旗」)。現在の優勝旗は3代目[52][53][54]。いずれも西陣の職人による制作。
なお、毎日新聞社主催の選抜高等学校野球大会の場合、優勝旗の色は紫紺であり、準優勝旗もある点が異なる[35]。
2024年(第106回)終了時点で、次の29都道府県が優勝を経験している(太字は選抜未制覇の地域)。
2024年(第106回)終了時点で、次の18県が1度も優勝したことがない。
地区 | 県 | 最高成績 | (参考) 選抜大会の 最高成績 |
---|---|---|---|
東北 | 青森県 | 準優勝 | 準優勝 |
岩手県 | ベスト4 | 準優勝 | |
秋田県 | 準優勝 | ベスト4 | |
山形県 | ベスト4 | ベスト4 | |
福島県 | 準優勝 | ベスト8 | |
関東 | 山梨県 | ベスト4 | 優勝 |
北信越 | 新潟県 | 準優勝 | ベスト8 |
石川県 | 準優勝 | ベスト4 | |
富山県 | ベスト8 | ベスト4 | |
福井県 | ベスト4 | 優勝 | |
近畿 | 滋賀県 | 準優勝 | 準優勝 |
中国 | 岡山県 | 準優勝 | 優勝 |
鳥取県 | ベスト4 | 準優勝 | |
島根県 | ベスト4 | ベスト8 | |
九州 | 長崎県 | ベスト4 | 優勝 |
熊本県 | 準優勝 | 優勝 | |
宮崎県 | 準優勝 | ベスト4 | |
鹿児島県 | 準優勝 | 優勝 |
旧外地では、満洲と台湾は準優勝、朝鮮はベスト8が最高である。
長い歴史を持つ大会であるゆえに「球史に残る」とされる試合は多く、以下は一例である。
1978年(第60回)以降は出場が49校のため、最初の組み合わせ抽選の時点では、1校だけ初戦の対戦校が決定しない[注 36]。その1校は初戦で開幕試合の勝者[注 37]と対戦することになるが、初戦の対戦校が決定しない高校の対戦成績は、出場が49校に定着した第60回大会(1978年)以降、1998年(第80回)・2008年(第90回)を含め、11勝32敗1分・勝率0.256である。また、勝利した11校のうち2勝以上あげたのは2006年(第88回)の鹿児島工のみであり、ほかの10校は勝利しても次の3回戦で敗退している。鹿児島工はこのジンクスを破ってベスト4入りしたが、中迫監督は「試合を見に行かせた」「対戦相手の試合を見られることもいいこと」などと振り返っている[58]。
1953年(第35回)よりNHKがテレビ中継を開始[59]。1965年(第47回)からカラー中継を開始した。1974年(第56回)までは、原則として総合テレビのみで18時まで中継するスタイルであったが[注 38]、同大会準々決勝(8月17日)の「東海大相模対鹿児島実」戦がテレビ中継の放送予定時刻を大幅に超え、試合途中の18時54分で中継を打ち切った[注 39]。その直後からNHKに対して視聴者から中継打ち切りに対する抗議が殺到したため、天気予報と「7時のニュース」終了後に中継を再開した。
これを受けて、翌1975年(第57回)より総合テレビと教育テレビ(現・Eテレ)とのリレー中継方式で完全生中継を行うようになった。地上デジタル放送開始以降はイベントリレー機能を利用し、リレー時の案内を実施している。
リレー中継開始前は、11時55分 - 13時25分[注 40]はレギュラー編成のため[注 41](日曜日の9時 - 10時も『日曜討論』の前身である『国会討論会』を放送するため)中継できなかった。
リレー中継は、民放各局でも1977年に日本テレビが巨人主催の公式戦ナイターをテレビ神奈川など関東地方の独立局(当時はテレビ埼玉、TOKYO MX、とちぎテレビは未開局)に向けてトップ&リレー中継を開始したほか、1985年には朝日放送がサンテレビジョンなど関西地方の独立局に向けて後述する本大会のトップ&リレー中継を開始した。
1999年(第81回)以降は、アナウンサーと解説者1名で実況しているが、1980年代(遅くとも1984年)から1998年は、初戦のみ両校関係者をゲストとして招き、4人体制で中継を行っていた。
当初、ゲストは試合をする両チームの野球部員から代表として選ばれた生徒1人(両校合わせて2名)が出演していたが、ある年の試合中に解説担当として出演した生徒が相手チームを愚弄する発言をしたことから生徒同士が口論となり、カメラが回っているのも忘れて放送中に喧嘩を始めるという放送事故が起きてしまい、これがきっかけで生徒をゲストに呼ぶことが廃止され、それ以降は、各校の野球部関係者(コーチやOBなどの成人者)が出演していた。
初戦では学校紹介のVTRが放送され、おもに学校所在地の市区町村を中心に紹介している。BGMは「栄冠は君に輝く」[注 42]のマリンバ[注 43]テイストによるインストゥルメンタルが流れる。その後、主将と選手陣のコメントVTRが流される。
試合間には歴史や過去の名勝負、記憶に残る高校や選手・プレーなどを振り返るVTR「白球の記憶」が放送される。
高校野球関係者が入った年に行われる野球殿堂入り表彰式は、民放とは異なり映像を映さず、実況でもどのような表彰かは明言しなかったが、2019年(第101回)では、脇村春夫の表彰式が行われた際にその映像が映され、野球殿堂入りの旨も説明された。
1988年(第70回)より、走者の位置をベースに見立てた図で走者のいる塁を赤色で表示している。このレイアウトが現在の日本における野球中継の標準になった。
1994年(第76回)より、平日は9時から1時間おきに、土曜日・日曜日は10時と15時に、イニング終了後、ニュースを伝えるために3分間[注 44]中継を中断するようになった。
ただし、初戦は2回表・裏に校歌が流れるため、2回裏終了後にニュースを放送する。また、台風などの豪雨発生時は、3分以上放送する場合がある。
そのため、イニングの途中から中継が始まったり、イニングそのものが中継できない場合もある。一例として、2017年(第99回)では広陵の中村奨成の1大会個人最多新記録となる6本目の本塁打が生中継できなかった[60]。なお、決勝戦は5回裏終了後に3分間伝えている[注 45]。
2010年(第92回)までは、BS2でも開会式・準々決勝・準決勝・決勝戦と閉会式のみ中継された。また、小笠原諸島、沖縄県大東島地方の地上波テレビの衛星再送信中継局ができるまでは、東東京・西東京・沖縄のそれぞれの代表出場校の試合も中継された。
2011年(第93回)からは東日本大震災に伴う節電・省エネおよび暑さ対策のため、第1試合の開始時刻は3試合以上の場合(開幕日を除く。2013年 - 2018年は4試合日のみ。2011年および2024年は2試合日も含む)は、1994年(第76回)以来17年ぶりに8時開始に戻された(#第1試合の基本的な開始時刻を参照)。
このため『連続テレビ小説』の定時枠(8時 - 8時15分)確保のため、日曜日を除き冒頭15分間の生中継は行われない(Eテレで中継開始となる場合を除く)。Eテレでも中継しないのは、東日本大震災発生後の特別編成の際、この時間帯のEテレでは通常番組を放送していたのが原因と思われる。この影響で、第1試合の出場校が初戦の際に演奏する校歌が中継できない場合がある。
なお、2011年(第93回) - 2015年(第97回)は土曜日のみ8時からEテレで中継[61][62][63][64][65]。2012年(第94回)はロンドンオリンピックの録画中継のため、大会前半は8時からEテレで中継。2016年(第98回)はリオデジャネイロオリンピック中継のため、4試合日のほとんどが8時からEテレで中継された。
海外向けのNHKワールド・プレミアムでも準決勝、決勝戦と閉会式を中継している。録画での時差放送(ディレード)となる場合と生中継となる場合とがあるが、最近は編成の都合上、時差放送で行われることが少なくない[注 46]。
2015年(第97回)より、全試合でリアルタイム字幕放送、5.1サラウンドを実施。
2017年(第99回)より、投手の投球数と球速が交互に表示されるようになった。
2018年(第100回)より、中継テーマソングとして福山雅治の「甲子園」が使われている。2021年(第103回)から2023年(第105回)は、エンディングのみの使用となったが、2024年(第106回)では再び中継で使われた。
2021年(第103回)は、東京パラリンピック中継のため、8月25日 - 28日の試合は、全てEテレで中継された[66]。
なお、8月25日の13時 - 15時は、総合テレビで国会中継(第204回国会 衆議院〈13時より。散会は13時57分[67]〉・参議院〈14時より。散会は14時57分[68]〉議院運営委員会閉会中審査・新型コロナウイルス緊急事態宣言対象地域拡大事前説明)が行われたため、パラリンピックはEテレメインチャンネルで中継し、高校野球はサブチャンネルで中継された[69][70]。
2024年(第106回)は、前述した2部制の導入に加え、パリオリンピックの録画中継に伴い、8月7日 - 11日の11時54分以降の試合(総合テレビからのリレー中継および7日 - 9日の「夕方の部」)は全てEテレで中継。また、18時45分 - 19時30分は総合テレビで各放送局からのニュースと『NHKニュース7』を放送するため、オリンピックはEテレメインチャンネルで中継し、高校野球はサブチャンネルで中継された。
なお、8月8日は「夕方の部」(第3試合)の途中(16時42分)に日向灘地震が発生し、気象庁が津波注意報および南海トラフ地震臨時情報を発表した関係で中継が中断[71]。その後、18時30分からEテレサブチャンネルで中継を再開した[72]。
このほか、8月12日は台風5号関連のニュースのため、15時5分 - 18時を除いてEテレで中継され[73][74]、16日は台風7号関連のニュースのため、9時以降は全てEテレで中継された[75][76]。
ラジオ中継の歴史は古く、1927年(第13回)より、当時の大阪中央放送局が中継を開始した(これがスポーツ中継の始まりでもあった)[77]。
ラジオ第1で全試合を中継[注 47]。中継時間は、原則として8時 - 18時50分。2024年(第106回)の第1試合開始は開幕日と決勝戦を除き8時であるが、2021年(第103回)までは、第1試合の最初の5分間はニュースのため中継できなかった。2022年(第104回)より、1回表の攻撃終了後にニュースを挟む形に変更された。なお、4試合日の第1試合開始が現在と同じ8時であった1980年代は、試合開始5分前の7時55分から中継していた[78]。
2012年(第94回)より、IPサイマル配信「NHKネットラジオ らじる★らじる」で、2018年(第100回)からは、民放ラジオポータルサイト「radiko」でも同時配信を行っている(2018年はNHKラジオ第二次実験配信[79][80]。ただし、アーカイブ機能の利用は「らじる★らじる」のみ利用可)。
2021年(第103回)は、勝利監督インタビューが終わって次の試合に入るまでの穴埋めBGMに「栄冠は君に輝く」のフェンダー・ローズテイストによるインストゥルメンタルが流れた。もとの変ロ長調ではなく、半音下げたイ長調のものが使用された。BGMがフェイドアウトすると次の試合が始まる。
テレビとは異なり、11時50分[注 48] - 12時20分の間[注 49]は、試合展開にかかわらず中継が中断するほか、毎正時ごろのニュース挿入と、一部の地域は道路交通法の規定による日本道路交通情報センターからの交通情報による中断もある(ニュースの場合は、毎正時になった後の攻守交代時。ただし、第1試合と決勝戦は1回表終了後。交通情報の場合は毎時28分前後の攻守交代時。また、初戦は2回表・裏に校歌が流れるため、2回裏終了後にニュースまたは交通情報を放送)。
また、8月9日は長崎平和祈念式典中継のため10時55分 - 11時30分[注 50]、8月15日は全国戦没者追悼式中継のため11時50分 - 12時20分の間は、試合展開にかかわらず中継が中断する。
このほか、18時50分[注 51]からニュース終了(平日=19時30分、土曜日・日曜日・祝日=19時20分)までは、試合展開にかかわらず中継が中断する。ニュース終了後も試合が続いている時は、ニュース終了後に中継を再開する(中断中に試合が終了した時は、ニュースの中で結果のみ放送する)。中継再開後は、最大で22時までとなっている[注 52]。[注 53]。
FM放送では、ラジオ第1の中断時(正午のニュースなど)にリレー中継は行っていないが、夏季オリンピックと日程が重複したり(1984年ロサンゼルスオリンピック、2008年北京オリンピック、2012年ロンドンオリンピック、2016年リオデジャネイロオリンピック)、国会中継を行う場合は中継する[83][84]。
1960年代前半まではラジオ第2で中継されていた。その後も、ラジオ第1で中継できない場合に中継していたが、ラジオ第2の周波数があまり知られていない、カーラジオに設定されていない、語学講座、気象通報、株式市況が定時に放送できないという理由からFM放送に移行した[85][86]。
1970年代前半までは、11時55分 - 13時5分は当時のテレビと同様、レギュラー編成のため中継できなかった[注 54]。
大会期間中は、中継枠の時間調整のため、穴埋め番組『話題と音楽』が随所に編成される。
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