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日本の女優、声優、童話作家 (1930-2006) ウィキペディアから
岸田 今日子(きしだ きょうこ、1930年〈昭和5年〉4月29日[2] - 2006年〈平成18年〉12月17日[1][2])は、日本の女優、声優、童話作家。本名同じ[3]。身長156cm。血液型はA型。
きしだ きょうこ 岸田 今日子 | |||||||||||
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『婦人生活』1954年9月号より | |||||||||||
生年月日 | 1930年4月29日 | ||||||||||
没年月日 | 2006年12月17日(76歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本・東京府豊多摩郡(現・東京都杉並区)[1] | ||||||||||
死没地 | 日本・東京都 | ||||||||||
血液型 | A型 | ||||||||||
職業 | 女優、声優、童話作家 | ||||||||||
活動期間 | 1950年 - 2006年 | ||||||||||
配偶者 | 仲谷昇(1954年 - 1978年)[1] | ||||||||||
著名な家族 |
父:岸田國士 母:岸田秋子 姉:岸田衿子 従弟:岸田森 | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『男嫌い』[1] 『傷だらけの天使』 『大奥』 『法医学教室の事件ファイル』シリーズ 『かりん』 『鍵師』シリーズ 『御家人斬九郎』 『徳川慶喜』 映画 『黒い十人の女』 『破戒』[1] 『秋刀魚の味』(1962年) 『砂の女』[1] 『犬神家の一族』 『利休』 『八つ墓村』 『学校の怪談2』 アニメ 『ムーミン』 | |||||||||||
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自由学園高校卒業[1]。父は劇作家で文学座創設者の岸田國士[1]、母は翻訳家の岸田秋子[4][5]。姉に詩人で童話作家の岸田衿子、俳優の岸田森とは従弟にあたる。元夫は俳優の仲谷昇。
東京府豊多摩郡(現在の東京都杉並区)に劇作家の岸田國士・秋子夫妻の次女として生まれる[注釈 1]。
10代の頃戦争により姉妹で長野県に疎開した[3]後、1946年に東京に戻り自由学園高校に入学。在学時に彫刻家・本郷新の美術の講義に触発され、同時に父の蔵書で戯曲に親しんだ[3]。舞台美術に興味を抱いて舞台美術家を志し、高校卒業と同時に裏方として文学座付属演技研究所に入り研修生となる[1]。
しかし研究所卒業後女優に転じ、1950年に『キティ颱風』で初舞台を踏み、これを機に芝居の虜になる。1953年に今井正監督の『にごりえ』の端役で映画デビュー。その後は演技に磨きをかけ、舞台を中心に映画、テレビ、声優と幅広い芸域を持つ。1954年、突然の病により父を亡くす[3]。
1960年、『サロメ』で主役に抜擢され、以降『熱帯樹』など三島由紀夫演出作品の多くに出演[6]。他にもテアトロン賞を受賞した『陽気な幽霊』[3]をはじめ、数多くの舞台で多くの大役、難役をこなす。しかし1963年、杉村春子ら文学座幹部の運営に限界を感じ、賛同者の芥川比呂志、高木均、小池朝雄、神山繁、山﨑努らとともに文学座を脱退。
同年、現代演劇協会付属の「劇団雲」の設立を経て、1975年には「演劇集団 円」の設立に参加。以後『壊れた風景』、『うしろの正面だあれ』、『トラップ・ストリート』など、別役実書き下ろしの大半の作品に出演した。近寄りがたい妖艶さを見せる一方、ユーモラスな役もこなす硬軟自在の演技は若い頃から評価が高かった。舞台女優と並行して映画・テレビ出演でも第一線で活躍し、その存在感から時に怪優と称されることがあった。
映画では1962年に『破戒』などの演技で毎日映画コンクール助演女優賞を受賞。1964年に『砂の女』で映画初主演すると、作品とともに世界中で絶賛され[3]、ブルーリボン助演女優賞を受賞して、実力派女優としての地位を確立した[1]。上記の『破戒』や『犬神家の一族』など、市川崑作品に多く起用された[6]。また、1982年の増村保造監督の映画『この子の七つのお祝いに』では、岸田演じるヒロインの母親役での怪演が話題となった[3]。
テレビドラマでは、1964年の『男嫌い』で、男をむしる独身四姉妹・越路吹雪、淡路恵子、岸田今日子、横山道代(現・横山通乃)の三女役で出演したことで、お茶の間での岸田の認知度が上がった(四姉妹の末弟役は坂本九)。同番組は「カワイ子ちゃん」「かもね」「そのようよ」などの流行語を生み出す大人気ドラマだった。
上記以外にも、1962年の映画『秋刀魚の味』や1974年のドラマ『傷だらけの天使』など数々の話題作に出演すると、「岸田は脇役でこそ、役者としての輝きを放つ」と評されるようになる[6]。
独特の声と情感豊かな読みにより、1969年のアニメ『ムーミン』に声優として出演。また、『ムーミン パペットアニメーション』では、ムーミンを含めた全てのキャラクターおよびナレーションまでを一人で演じ分けている。この仕事で世間の子供たちにその声が愛され、気品と温かみがある声により大人からも支持された[6]。以降ナレーターとしても他に得がたい存在として、ドキュメンタリーからバラエティまで幅広く起用された。2002年にはポップシンガーUAのシングル「DOROBON」で詩の朗読に参加。
著作も多く、エッセイから翻訳など幅広い分野で健筆を振るった。特に児童文学、童話については造詣が深く、所属する「演劇集団 円」では、毎年年末にシアターΧで上演される、幼児にも楽しめる舞台「円・こどもステージ」の企画も担当した。上記のような幅広い活動は、1950年代にデビューした女優としてはかなり珍しかった[6]。
さらに1990年頃には、バラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』内のドラマ仕立てのコント[注釈 2]にも出演し、当時の若年層にも高い知名度を誇るようになった[1]。一方、九条の会の他、「イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会」に参加するなど、護憲運動に関わったことでも知られる[7][8]。
2006年版『犬神家の一族』では1976年のオリジナル版で演じた琴の師匠役にキャスティングされていたが、岸田の体調不良により配役が変更された[3]。
2006年12月17日午後3時33分、脳腫瘍による呼吸不全のため東京都内の病院で死去。76歳没。墓所は東京都府中市多磨町の多磨霊園。
同年1月のテレビ朝日放送の法医学教室の事件ファイル第22作が岸田の遺作となった。また、同年12月にNHK-BS2にて放送された『ミス・マープルシリーズ』では、主人公ミス・マープルの吹き替えを担当した[9]が、放送と前後して他界したため、遺作となった。
岸田の没後、持ち役を引き継いだり、代役をした人物は以下の通り。
若い頃の母・秋子は出版社で翻訳の仕事をし、文学の道を志していたが父・國士との結婚により諦めた[6]。その後生まれた岸田は母に溺愛されて育ったが、12歳の頃に最愛の母を結核で亡くす[注釈 3]。その後女優として名が売れ、多方面で活躍するようになったが、以後も母の存在を意識し続けた[6]。
1993年頃、とある人から「女優や執筆業をするのは劇作家である父の影響か?」と尋ねれると、本人は「むしろ母の影響が強いように思います」と答えている。続けて「母の若い頃の日記を見つけてから、その中の一節『どうぞ私の中にある芸術の蕾(つぼみ)が、大きくいきいきと開きますように』が、頭から離れなかった」としている[注釈 4]。
1968年に私生活で岸田自身も母となったが、“母親”という存在に特別な感情を抱いていたことが影響し、映画やドラマでの母親役にはあまり関心がなかった。1976年のドラマ『歯止め』で母親役を演じた際、撮影現場でスタッフから「お母さん」と呼ばれた[注釈 5]ことに冷淡な態度を示した[注釈 6]。
仲谷昇とは1954年に文学座で出会って以降同志となり、その後「劇団雲」や「演劇集団 円」でも行動を共にした[3]。また、演技だけでなく当時二枚目俳優としても評判の高かった仲谷と結婚。“新劇界のおしどり夫婦”と呼ばれた[3]。その後妊娠したが俳優という休めない仕事の影響もあり、一度流産を経験する。その後二度目の妊娠をすると、流産回避のため仕事を断る決意をし、1968年に長女を出産する。
仕事面では俳優として評判を得て忙しい日々を送る一方、私生活では次第に夫との仲がうまくいかなくなった[注釈 7]。1978年に離婚[注釈 8]後に娘との二人だけの生活が始まった。その娘に自分の仕事を理解してもらおうと[注釈 9]、アニメ『ムーミン』のムーミン・トロールの声を担当した。
1948年に舞台美術に興味を持ち、文学座研究所に入るが、2年後の卒業時に裏方志望を含めた全員参加のオーディションが開かれる。当時岸田は引っ込み思案だったが出演者として選ばれ、意図せず初舞台を踏むことになったが何とかやり遂げた。その後父親の反対[注釈 10]を押し切って1952年に正式に文学座の所属になり、四畳半一間のアパートでの貧乏生活を始めた[6]。
文学座時代の1955年、日本演劇史の転換点である福田恆存演出、芥川比呂志主演『ハムレット』においては、ヒロインのオフィーリア役の候補となった。しかし、あまり若くして良い役に付けると周囲の嫉妬を買い、本人のためにもならないとして文学座創設者の岩田豊雄が反対し、幻となってしまった[10]。また、『サロメ』(1960年)の主演に抜擢された時は、三島由紀夫に「僕のイメージにあるサロメ役とぴったり」と言わしめた[3]。
文学座脱退後、「劇団雲」の出演した舞台『聖女ジャンヌ・ダーク』(1963年)が芸術祭賞を受賞[3]。以後、シェイクスピアから日本の作家に至る幅広い意欲作に出演し、芸域を広げる[3]。ちなみに「演劇集団 円」に所属後、つかこうへいとの舞台のオーディションを兼ねた稽古で即興のセリフが上手く言えず、彼から罵倒されたことがある[注釈 11]。その後舞台に加えて映画でも多彩で卓越した演技を見せ、役者として円熟期を迎えた[3]。
岸田は「芝居というものは妄想の賜物」と評し、与えられた役柄に自由にアプローチしていく面白さを感じたことが、晩年まで役者業を続ける理由となった[注釈 12]。本人は真面目な新劇女優と思われるのは本意ではなく、「面白いことなら何でもやりたい。観客から『何なのこの役者さん?』と言われ続けるのが本望」としていた[3]。
また、文学座の後輩である山﨑努[注釈 13]によると、「岸田さんとは役に対する考え方が似ていて、2人とも『一見すると説明の難しいミステリアスな役』が好きだった」とのこと[注釈 14]。演じる難しさはあったが岸田は役作りの苦労を周りには全く見せず、自然体で作品に臨んでいたという[6]。
趣味は麻雀で、1970年代に「週刊ポスト」で行われていた勝抜麻雀企画に出場し、阿佐田哲也(色川武大)に勝ったこともあるほどの強豪であった。
俳句も嗜んでおり、俳号は「眠女(みんじょ)」だった[3]。
映画監督の利重剛は、「岸田さんの出演映画で、監督との相性が特に良かったのは市川崑監督」と評している[6]。1961年の映画『黒い十人の女』では、華やかな女優陣に混じって1人だけ独特のオーラを放ち、復讐に燃える女を好演[6]。また1996年版『八つ墓村』では、岸田演じる双子の老婆役が観客に強烈な印象を与えた[6]。
1988年から16年に亘り放送されたバラエティ番組「あっぱれさんま大先生」は、岸田が明石家さんまに手渡した1本のカセットテープが誕生のきっかけであるという[11]。
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