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三島由紀夫の戯曲 ウィキペディアから
『薔薇と海賊』(ばらとかいぞく)は、三島由紀夫の戯曲。全3幕から成る。女流童話作家のヒロインと、童話ファンの白痴の青年との恋愛劇である。現代風俗の跋扈する時代に、性欲を嫌悪する女と性欲を持たない男の恋を設定し、ロマンチック時代と同等の甘い恋の場面を表現させている[1]。1970年(昭和45年)10月の再演時に、三島が客席で涙を流しながら観ていたという挿話がある作品である[2][3][4]。
1958年(昭和33年)、文芸雑誌『群像』5月号に掲載され、同年5月30日に新潮社より単行本刊行された[5][6]。初演は同年7月8日に文学座により、第一生命ホールで上演され、週刊読売新劇賞を受賞した[7][8][注釈 1]。その後1986年(昭和61年)2月25日に新潮文庫より『熱帯樹』に収録された[10]。
構想の母胎は、三島がニューヨークで見たロイヤル・バレエ団(旧・サドラース・ウエルス・バレエ団)の『眠れる森の美女』終幕のディヴェルティッスマンからの着想である[11]。当初は『月のお庭』という題にする予定だったが、『薔薇と海賊』となった[3]。
三島は、『鹿鳴館』を「ロマンチックな芝居」だとすれば、『薔薇と海賊』は、〈私流にずつとリアリスティックな芝居〉だと述べ[12]、『薔薇と海賊』の主題に関わる〈薔薇〉については、次のように解説している。
世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。しかしこんな言ひ直しはなかなか通じない。目に見える薔薇といふ花があり、それがどこの庭にも咲き、誰もよく見てゐるのに、それでも「世界は薔薇だ」といへば、キチガヒだと思はれ、「世界は虚妄だ」といへば、すらすら受け入れられて、あまつさへ哲学者としての尊敬すら受ける。こいつは全く不合理だ。虚妄なんて花はどこにも咲いてやしない。本曲の女主人公楓阿里子は、身を以て、生活を犠牲にして、この不合理に耐へて来た女である。それがこの不合理をものともせず、「世界は薔薇だ」と言ひ切る、少々イカれた青年の突然の訪問をうける。二人の間に恋が生れなかつたらふじぎである。 — 三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」[1]
また眼目は、ラブ・シーンにあるとし、その感情は「真率で、シニシズムも自意識も羞恥も懐疑も一つのこらずその場から追つ払はれてゐなければならない」として、以下のように、説明している。
1970年(昭和45年)10月に再演された際に三島は、主演の村松英子に、「随分前に書いた芝居だけど、僕はいつも25年は早すぎるのかなあ」、「最近ますます、何て世の中は海賊ばかりだろうって思うよ」と語っていたという[3]。
第1幕 - 童話作家・楓阿里子邸の居間。
第2幕 - 楓邸の居間。
第3幕 - 楓邸の同じ部屋での大食卓。
『薔薇と海賊』は週刊読売新劇賞を受賞しているが、他の三島の戯曲に比べると相対的に論究自体が少ない作品である。
奥野健男は、「美と夢の創造者」が「美そのものになり得るか」というテーマが、場違いなところで「ひとりよがり」に出されていると辛口の評価をし[13]、山本健吉は、童話の世界と現実の世界の「大時代的な会話」が交錯するレトリックを生み出す三島の機智が、「夜空の花火のように」ひらめいていると讃辞している[14]。
埴谷雄高は、「さながら原子核のごとき微小な現実の一点をとらえて凸レンズの彼方にこれ程拡大して見せた鮮やかな新しさを敢えて祝したい」と述べている[15]。日下令光は、「目覚めた人間楓の幕切れのセリフは三島ドラマのすごみをきかせてたのしい」と評し[16]、(川)の著名のある日本経済新聞評は、「肉体性を奪われることでしか純潔な愛は成り立たないかと問うような作者の主題がドキッとさせるような鋭さで浮かび上がってくる」と論評している[17]。
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