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フランスの劇作家 ウィキペディアから
ジャン・バティスト・ラシーヌ(Jean Baptiste Racine,1639年12月21日誕生、12月22日受洗 - 1699年4月21日没)は、17世紀フランスの劇作家で、フランス古典主義を代表する悲劇作家である。
シャンパーニュ地方のラ・フェルテ=ミロンに生まれる。幼少時に両親を亡くし、ジャンセニスムの影響下にあるポール・ロワイヤル修道院の付属学校で、厳格なカトリック教育を受ける。ラシーヌはこの学校で古典文学に対する教養と、ジャンセニスムの世界観を身につけた。このことは後のラシーヌの作品に深い影響を及ぼす。名門校コレージュ・ダルクールに進学することでパリ生活を初めて経験し、文学へ傾斜し始める[1]。18歳の時にルイ14世の結婚を祝したオードを書き、はからずも褒賞を受けたのがきっかけで詩作に専念するようになった[2]。1667年に悲劇「アンドロマック」のために格別の厚遇を得て、レピネの小修道院長の肩書を与えられる。1677年、悲劇「フェードル」上演にあたってゲゴネー座と抗争したことをきっかけとして劇作からは離れ、国王の修史官としての職務に励むようになる[3]。1692年から4年間は国王に同行して戦場をめぐり、ヴェルサイユ宮殿やフォンテーヌブローに自室を与えられ、貴族を差し置いて王に面会を許されるというくらい寵愛をされていた。
その悲劇作品のほとんどは、三一致の法則を厳格に守り、主にギリシア神話、古代ローマの史実に題材をとる。『旧約聖書』に題材をとるものを、ラシーヌは悲劇とせず史劇と呼んだ。
ラシーヌは均整の取れた人物描写と劇的な筋の構成を、アレクサンドラン詩行と呼ばれるイアンボス6詩脚の丹精で華麗な韻文に綴った。後期の『聖書』を題材とする作品を除けば、ラシーヌの劇は、二人の若い恋人を中心とするものが多い。二人は愛し合っているが、女性が王など高位の男性に望まれる、あるいは二人が敵対しあう家系にいるなどして、恋愛は成就しない。この葛藤がラシーヌの悲劇の中心となる。これに第三者の嫉妬、政治闘争などが加わり筋が複雑になり、最終的に二人の恋は成就せず、主人公の死をもって幕が下りる。
またラシーヌは自身の作品を印刷に付し刊行する際、必ず書き下ろしの序文をつける習慣があった。このためラシーヌの作品は、たんに悲劇としての価値のみならず、演劇論としての価値をももつ。ラシーヌの詩論のなかではオスマン帝国の皇位継承争いを題材にする『バジャゼ』につけた序文での「悲劇の題材は観客から適切な隔たりをもつものでなければならない。この隔たりは神話や古い歴史のような時間的な隔たりだけでなく、時間的にはあまり遠くないがわれわれの風俗になじみのない距離的な隔たりであってもよい」とするものなどが知られる。
ラシーヌの代表作として今日もなお上演されるものには『アンドロマック』、『ベレニス』、『フェードル』などがある。
なお1960年代から90年代までのフランス50フラン紙幣にはラシーヌ肖像が描かれていた。
括弧内は順に原題、形式、初演年を示す。
前任 フランソワ・ド・ラ・モート=ル=ヴェイエ |
アカデミー・フランセーズ 席次13 第3代:1672年 - 1699年 |
後任 ジャン=バチスト=アンリ・ド・ヴァランコール |
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