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日本の歌手、ギタリスト、作曲家、俳優 (1939-2017) ウィキペディアから
かまやつ ひろし / ムッシュかまやつ(本名:釜萢 弘(かまやつ ひろし)、1939年〈昭和14年〉1月12日[1] [2]- 2017年〈平成29年〉3月1日[3])は、日本のミュージシャン、俳優。通称「ムッシュ」。「ザ・スパイダース」の元メンバーでもある。1989年以降は、ミュージシャンとしては「ムッシュかまやつ」が正式な活動名である。東京府(現・東京都)千代田区出身[4]。血液型はB型。
かまやつ ひろし ムッシュかまやつ Monsieur Kamayatsu | |
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ザ・スパイダース時代のかまやつ(左端後列) | |
基本情報 | |
出生名 | 釜萢 弘 |
生誕 | 1939年1月12日 |
出身地 | 日本・東京府(現・東京都) |
死没 | 2017年3月1日(78歳没) |
学歴 | 青山学院高等部、青山学院大学中退 |
ジャンル |
グループ・サウンズ フォーク ロック ロックンロール |
職業 |
フォーク歌手 作曲家 DJ ギタリスト |
担当楽器 |
ボーカル ギター |
レーベル |
テイチク 日本フォノグラム EXPRESS TRIO ワーナー・パイオニア フォーライフ avex io |
事務所 | ケイダッシュ |
共同作業者 |
ザ・スパイダース 吉田拓郎 One Night Stand Brothers ウォッカ・コリンズ 渚のオールスターズ ソン・フィルトル |
公式サイト | http://www.forlife.co.jp/artist/fl00159/ |
著名使用楽器 | |
スタインバーガーGL-2T ヴォックスMark VI リッケンバッカー345 |
父はジャズシンガーのティーブ・釜萢。長男のTAROかまやつことかまやつ太郎はアーティスト。ジャズシンガーの浅田陽子は母方の叔母、ジャズ・トランペッターの森山久は義理の叔父(浅田の夫)。フォーク歌手の森山良子は従妹、元・歌手の森山奈歩は従姪、シンガーソングライターの森山直太朗は従甥にあたる。
日系アメリカ人でジャズ・ミュージシャンの父ティーブ・釜萢の影響で、代々木上原で育った幼少時からアメリカ直輸入の音楽と英語、ファッションに親しむ[5]。なお、ティーブ・釜萢はほとんど日本語を話せなかった。
青山学院中等部卒業、青山学院高等部時代にカントリー&ウェスタン歌手としてデビュー[6][7]。その後青山学院高等部卒業。青山学院大学中退。
ミッキー・カーチスらとともにロカビリーや歌謡曲などのジャンルに取り組み、グループ「ワゴンマスター」「サンダーバード」「キャノンボール」の一員として日劇ウェスタンカーニバルに出演した。テイチクレコードにてレコードも多数吹き込む。
また、かまやつは田辺靖雄を中心にした六本木野獣会のメンバーだった。メンバーには峰岸徹、中尾彬、大原麗子、小川知子、井上順、福澤幸雄らがいた。多いときは、最大30人前後で構成された。野獣会といってもワイルドな集団ではなく、富裕層の子女が多かった。
釜萢ヒロシ名義で『檻の中の野郎たち』(東宝映画)に出演したこともある[8]。
さまざまな盛場へ出向くことや、ロカビリー歌手時代の映画出演の際の東宝や日活の撮影所での交流などで、時代に名を残すスターたちと出会う。これらの活動から、音楽評論家の松村雄策はかまやつを日本初のロック・ミュージシャンと位置づけている。
「ザ・スパイダース」にゲストボーカルで参加した後、正式メンバーとしてヴォーカルおよびリズムギターを担当、代表曲である「あの時君は若かった」「いつまでもどこまでも」「バン・バン・バン」「ノー・ノー・ボーイ」「フリフリ」「なんとなくなんとなく」などを作曲した。1970年9月の最終シングル「エレクトリックおばあちゃん」は、かまやつの作曲である[9]。
当時から晩年までかまやつは遅刻魔として有名で、デビューシングル「フリフリ」のジャケット撮影時も遅刻したため、彼の姿は写っていない。また、堺正章は「あるとき、かまやつの遅刻に気付いてアパートに電話をしたが、出た相手に『かまやつさんは出発しました』と言われた。電話を切った後でその相手こそがかまやつだったと気付いた」というエピソードを語っている。
ほかにもかまやつは、印象的なステージダンスやステージの服装関連といったザ・スパイダースの音楽的なアイディアマンとしてグループの中心人物だった。また、当時のトップレーサーである福澤幸雄や式場壮吉らと親交があり、ファッションリーダー的存在であった。紳士服メーカー「エドワーズ」企画部長でもあった福澤からは衣装提供などを受けた。
1970年2月25日に初の本格的なソロ・アルバム『ムッシュー/かまやつひろしの世界』を発売。このアルバムは、当時は世界的にも珍しかった「一人多重録音」という画期的な方法で制作された[注 1]。また、音楽的にもさまざまなジャンルを融合した実験的な作品であった。その反面、1970年4月に発売されたソロシングル「どうにかなるさ」は、もともとザ・タイガースの岸部修三(現・一徳)と岸部シロー兄弟のデュオアルバム『Sally & Shiro』のために書き下ろされた曲のセルフカバーであったが、カントリーシンガーとしてのルーツに回帰する意向も反映された。1970年代初頭のフォークブームに触発され[10]、主導権を奪ったフォークシンガーの吉田拓郎に接近し[10][11]、吉田作品の「シンシア」[12][13]、「我が良き友よ」などを歌う[6][10][14][15]。「我が良き友よ」は90万枚を超えるセールスを記録し代表曲とした[11][14][16]。1975年のフォーライフ・レコード設立の際も参加を希望したが、契約の問題などで参加できなかった[10]。また「ウォッカ・コリンズ」へのゲスト出演や、タワー・オブ・パワーが演奏を務めた「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」を発表[注 2]。ウォッカ・コリンズのリード・シンガー、アラン・メリル、ザ・テンプターズのドラマーだった大口広司や、作詞家の安井かずみらとともにイタリアンレストラン「キャンティ」常連組の一人であった。 テレビアニメ作品『はじめ人間ギャートルズ』のエンディングテーマとなった「やつらの足音のバラード」[注 3]もよく知られ、2004年にはスガシカオによってカバーされている。
空虚なヒット歌手の座に居心地の悪さを感じたかまやつは、1970年代後半からはライブを中心としたマイペースな活動を展開した[11]。フュージョン、シティ・ポップ、ニュー・ウェイヴ等、音楽のトレンドに敏感に反応したアルバムも数枚リリース[11]。1980年代以降は、若い世代のミュージシャンたちとコラボ企画で交流を深めていった[11]。当時の音楽活動について「1975年ころから僕自身、当時のポップ・シーンに手がつけられなくなって探ってました。レコードが出せるようになるまで10年かかりました」と述べている[10]。
音楽活動のかたわら、テレビドラマ『時間ですよ』や映画『戦国自衛隊』といった映像作品にも出演している。1977年2月、朝日放送『ハロー・ヤング』の司会を務め、これに出場したレイジーの才能を見出してデビューの誘いをかけた。その後、デビューしたレイジーに楽曲提供もしている。しかし、本来ハードロック志向だったレイジーが所属事務所の意向でベイ・シティ・ローラーズのようなアイドル路線でデビューさせられたことは予想外だったようで、のちに「レイジーをあのような形でデビューさせたことを後悔している」と述べている[17]。
1990年代初頭のアシッド・ジャズブームで、前述した「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」が再評価され、1994年にバックミュージシャンにブラン・ニュー・ヘヴィーズ、ジェームス・テイラー、D.C.リーなどを起用してロンドンでレコーディングした「Gauloise」を、小山田圭吾が主宰するレコードレーベル・トラットリアから発表する。このアルバムで新たに若い層のリスナーを獲得し、その後もCORNELIUS(コーネリアス)、カヒミ・カリイのアルバムやコンサートに参加する。
2002年には小西康陽プロデュースのアルバム「我が名はムッシュ」を発売する[18]。松任谷由実、小山田圭吾、ミッキー・カーチスなどがコメントを寄せ、堺正章との共演曲などが話題を呼んだ。
1986年に日本を代表するスタジオ・ミュージシャン達を集めたバンド「One Night Stand Brothers」(ギター:今剛、ベース:高水健司、ドラム:島村英二、キーボード:小島良喜、ボーカル・ギター:ムッシュかまやつ)を結成したり、アラン・メリル(ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ「I Love Rock'n'Roll」の作者として知られる)、大口ひろし、ルイズルイス加部と再結成した「ウォッカ・コリンズ」(Vodka Collins) の活動もある。 そして、1999年には堺正章・井上堯之とともに「ソン・フィルトル」を結成し、シングル「Yei Yei」をリリースした。
2006年ごろからはザ・ブルーズパワーへの客演を行っていたが、2009年9月2日に発売されたブルーズ・ザ・ブッチャー(ザ・ブルーズパワーの後身バンド、メンバーは永井ホトケ隆、沼澤尚、中條卓、KOTEZ)の「Rockin' with Monsieur」に参加し、ブルースやブリティッシュビートのカバーを手がけている。
BS朝日『SHAKE THE MUSIC』のメインMCを担当したほか、多数の音楽番組やCMに出演。プロ野球・東京ヤクルトスワローズの青木宣親外野手の応援歌に「バン・バン・バン」が使われていた[注 4](2006年度から変更)ほか、北海道日本ハムファイターズの応援団が同チームの得点時にかまやつ作曲の「I'm A 北海道 Man(お〜い、北海道)」(オリジナルは三橋美智也)を演奏するのが恒例となっている。
テレビ番組出演時に「ボクは、君たち(若い)世代と話ができなくなったらおしまい」と言っていたことからもうかがえるが、時代の最先端の音楽に取り組みながら、若手ミュージシャンとも積極的に共演した。彼は松任谷由実、伊藤銀次、THE ALFEE、Char、小西康陽、小山田圭吾、カヒミ・カリィ、曽我部恵一らのミュージシャンたちから敬愛されていた。
2009年2月18日には、井上順、今井美樹、甲斐名都、堺正章、THE ALFEE、TAROかまやつ、トータス松本、秦基博、一青窈、布袋寅泰、Micro、森山直太朗、森山良子などのゲスト・ミュージシャンとのコラボレイトによるアニバーサリー・アルバム『1939〜MONSIEUR(サンキュー ムッシュ)』を発表した。
2012年10月3日には、THE BOHEMIANSとコラボし、ザ・スパイダースの名曲をカバーするミニアルバム『THE SPIDER BEAT』を「THE BOHEMIANS avec ムッシュかまやつ」名義で発表した。
2013年以降は、KenKen、山岸竜之介とのユニット LIFE IS GROOVE としての活動もある[19]。
2016年9月6日、9月10日に出演予定だったイベントを欠席することと肝臓がんであることが所属事務所から発表された[20]。
10月に退院後はいとこの森山良子宅で療養しながら通院治療を行っていた。同年12月8日には、堺正章の70歳記念ライブに訪れた[21]。当初は客席後方で観ていたが、堺の呼びかけに応じて登壇。堺と2人で『サマー・ガール』を歌った。がん公表後初の公の場での姿であったが、このときがかまやつ最後の公の場での歌唱となった[22]。
2017年3月1日18時5分、膵癌のため東京都内の病院で死去[23]。78歳没。妻も同年2月に亡くなっていたが、かまやつは最期まで妻の死を知らないままだったという。なお、妻の告別式の時点でかまやつの状況も思わしくなく、意識混濁状態であった[24]。
キリスト教徒だったため密葬は世田谷区の頌栄教会で行われたが[24]、墓所は東京都港区元麻布にある賢崇寺。釜萢家の墓はかつて東京・小平にあったが2018年4月に賢崇寺へと改葬されたことが息子のTAROを通して公表された[25]。麻布十番の近くにしたのは人が集まる所が好きだったかまやつの希望を叶えたものだという[25]。
父はジャズシンガーのティーブ・釜萢。長男のTAROかまやつことかまやつ太郎は、フジテレビ勤務のサラリーマン時代に、2005年5月25日に『風のわだち』でメジャーデビューしたアーティストであり、2011年に退職した後はより本格的に音楽活動を行っている。また、叔母(母の妹)はジャズシンガーの浅田陽子。浅田陽子の夫で義理の叔父が、ジャズトランペッターの森山久。従妹はフォーク歌手の森山良子。従姪は元歌手の森山奈歩(おぎやはぎの小木博明の妻)、従甥はシンガーソングライターの森山直太朗という芸能一家である。
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