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作家 (1907-1991) ウィキペディアから
井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家・詩人。主な代表作は「闘牛」「氷壁」(現代小説)、「風林火山」(時代小説)、「天平の甍」「おろしや国酔夢譚」(歴史小説)、「敦煌」「楼蘭」(西域小説)、「あすなろ物語」「しろばんば」(自伝的小説)、「わが母の記」(私小説)など。
井上 靖 (いのうえ やすし) | |
---|---|
1955年 | |
誕生 |
1907年5月6日 日本・北海道旭川町 (現:旭川市) |
死没 |
1991年1月29日(83歳没) 日本・東京都中央区築地(国立がんセンター)[1] |
墓地 | 伊豆市の熊野山墓地 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 京都帝国大学文学部哲学科(美学) |
活動期間 | 1936年 - 1991年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 |
『闘牛』(1950年) 『あすなろ物語』(1954年) 『氷壁』(1957年) 『天平の甍』(1957年) 『敦煌』(1959年) 『風濤』(1963年) 『おろしや国酔夢譚』(1968年) 『本覺坊遺文』(1981年) 『孔子』(1989年) |
主な受賞歴 |
千葉亀雄賞(1936年) 芥川龍之介賞(1950年) 芸術選奨(1958年) 日本芸術院賞(1959年) 文藝春秋読者賞(1960年) 毎日芸術賞(1960年) 野間文芸賞(1961年・1989年) 読売文学賞(1964年) 日本文学大賞(1969年・1982年) 文化勲章(1976年) 菊池寛賞(1980年) 朝日賞(1985年) 贈正三位・勲一等旭日大綬章(1991年、没時叙位叙勲) |
ウィキポータル 文学 |
1950年(昭和25年)「闘牛」で芥川賞を受賞、私小説・心境小説が主流だった敗戦後の日本文学に物語性を回復させ、昭和文学の方向性を大きく変えた戦後期を代表する作家のひとり。劣等感から来る孤独と人間の無常を、時間と空間を通した舞台と詩情あふれる文体・表現によって多彩な物語のなかに描き、高い評価を得た。10代から83歳の絶筆まで生涯にわたって詩を書きつづけた生粋の詩人でもある。
1950年代は、いわゆる中間小説とよばれた恋愛・社会小説を中心に書いたが、徐々にその作風を広げ、1960年代以降は、中央アジアを舞台とした西域ものと呼ばれる歴史小説、幼少期以降の自己の境遇を基にした自伝的小説、敗戦後の日本高度成長と科学偏重の現代を憂う風刺小説、老いと死生観を主題とした心理小説・私小説など、幅広い作品を手掛けた。
まだ海外旅行が一般的でない昭和期に、欧米の大都市からソ連、中央アジア・中東の秘境まで数々の地を何度も旅しており、それを基にした紀行文や各地の美術評論なども多い。
1980年(昭和55年)には日中文化交流会会長、1981年(昭和56年)には日本ペンクラブ会長に就任し、以後、文壇・文化人の代表としても国内外で積極的な文化活動を行った。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
小説は知識人の孤独な魂を叙情豊かに描いた現代を舞台とするもの(『猟銃』、『闘牛』、『氷壁』他)、自伝的色彩の強いもの(後述。『あすなろ物語』、『しろばんば』他)に加え、歴史に取材したものに大別される。歴史小説は、日本で特に戦国時代(『風林火山』、『真田軍記』、『淀どの日記』他)、中国ではとりわけ西域を題材にした(『敦煌』、『楼蘭』、『天平の甍』他)ものを多く描いた。巧みな構成と詩情豊かな作風は今日でも広く愛され、映画・ドラマ・舞台化の動きも絶えない。
『しろばんば』、『夏草冬濤』、『北の海』は、自身がモデルの主人公・伊上洪作が幼少期から青年に至るまで自伝的な作品である(井上靖自伝的小説三部作[7])。『しろばんば』[注 1]は静岡県伊豆湯ヶ島(現:伊豆市湯ヶ島)で過ごした幼少時代の、『夏草冬涛』は旧制沼津中学校の生徒だった頃の、『北の海』は沼津中学卒業後の沼津での浪人生活の1年近くの日々を描いたもので、その日常、あるいは旧制第四高等学校の練習に誘われ、寝技主体の柔道、いわゆる高専柔道に明け暮れる洪作が生き生きと描かれている。井上靖の周囲に実在した人物がモデルとして多く登場し、特に『しろばんば』中に登場する、曽祖父の妾で洪作とは血の繋がらない「おぬいばあさん」(実在の名は「おかの」)との生活は、井上靖の人格形成を語る上で欠かせないものである。
その他、老いの境地に入った実母・八重について書いた作者晩年の短編三部作として『花の下』、『月光』、『雪の面』がある(講談社文庫より『わが母の記 -花の下・月の光・雪の面-』の題名で発行され、モントリオール世界映画祭審査員特別グランプリ受賞の映画『わが母の記』にもなった)。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
1981年(昭和56年)10月、井上靖がノーベル文学賞の候補との報道が流れ、世田谷の井上宅に報道陣が殺到した。井上は報道陣を自宅の応接間に招き入れ、受賞者が発表されると、集まった一同と残念の杯を上げた。以降、毎年ノーベル文学賞発表の日になると、集まった報道陣を応接間に招き入れて、残念会の酒宴「ノーメル賞」が行われるようになった。
報道は年を追うごとに過熱したが、当の井上は「天から石が降ってきて、世界の何十億人の誰かひとりに当たるというのだから、当たると考えるほうがおかしいし恥ずかしいことだ」として、自らの受賞にはまったく期待も望みもしない態度であった。家族からは、賞を期待しているように思われるから報道陣を家に入れないほうがいい、という意見もあったが、相手にとって嫌なことでも取材せざるを得なかった新聞記者時代の経験から、「仕方ないことだ」として、集まる報道陣に対しては一定の理解を示し、丁寧な応対をつづけた[15]。
当時、井上が実際に候補に挙げられているかどうかは不明であったが、2020年(令和2年)1月、井上が1969年(昭和44年)の候補に実際に挙げられていたことが判明した[16]。
また、それ以前の2012年(平成24年)3月、ノーベル委員会のペール・ベストベリー委員長が、読売新聞の取材に対して「井上靖が非常に真剣に討論されていた」と回答している[17]。
※無印は現代小説、●印は時代小説、★印は歴史小説、◆印は自伝的小説・私小説。
※2022年現在、公立図書館に所蔵が多いと思われる全集のみ、収録内容を記す。
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