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日本の文学者 ウィキペディアから
竹西 寛子(たけにし ひろこ、1929年〈昭和4年〉4月11日 - )は、日本の小説家、評論家。編集者の傍ら丹羽文雄主宰の「文学者」に参加。評論『往還の記』で注目され、次いで『儀式』で小説家としても認められた。古典文学に深い知識を持ち、古典文学を現代文学の問題として考える独自の視点が一貫している。16歳の時に広島で被爆し、その経験がのちの文学活動の根幹となった。随想・随筆も多い。日本芸術院会員。文化功労者。
竹西 寛子 (たけにし ひろこ) | |
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文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真 | |
誕生 |
1929年4月11日(95歳) 日本 広島県広島市 |
職業 | 小説家・評論家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 早稲田大学国文科卒業 |
ジャンル | 小説・随筆・評論 |
主題 | 原爆文学・古典評論 |
代表作 |
『往還の記――日本の古典に思う』(1964年,評論) 『式子内親王・永福門院』(1972年,評論) 『鶴』(1975年,短編集) 『管絃祭』(1978年) 『山川登美子』(1985年,評伝) 『贈答のうた』(2002年) |
主な受賞歴 |
田村俊子賞(1964年) 平林たい子文学賞(1973年) 芸術選奨文部大臣新人賞(1976年) 女流文学賞(1978年) 川端康成文学賞(1981年) 毎日芸術賞(1986年) 日本芸術院賞(1994年) 勲三等瑞宝章(2001年) 野間文芸賞(2003年) 文化功労者(2012年) |
ウィキポータル 文学 |
広島市皆実町(現・同市南区内)に生まれる。家は醸造業だった。広島市の広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)を経て[1][注釈 1]、第二次世界大戦中の1942年、県立広島女子専門学校(現県立広島大学の前身校)に入学、戦争末期には学徒動員により軍需工場などでの勤労奉仕に従事した。1945年8月6日の原爆投下の際は、学徒動員先の工場をたまたま体調を崩して休み、爆心地から2.5kmの自宅に在宅していたために大きな被害を免れることができたが、多くの級友が被爆死し、この体験が後の文学活動の根本になっている。1952年早稲田大学第一文学部国文科を卒業、河出書房に勤務するが、1957年同社倒産により解雇、筑摩書房に入社し、文学全集等の編集に携わった。その傍らで評論を書き続け、1962年に退社し、執筆活動に専念。主な代表作に評論『往還の記 - 日本の古典に思う』、自身の被爆体験をテーマとする小説『管絃祭』などがあり、主要著作をまとめた『竹西寛子著作集』(全5巻・新潮社)や『竹西寛子随想集』(全3巻・岩波書店)がある。1994年芸術院会員に任命[2]。
⁂は小説
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