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日本の安土桃山時代の武将、武将・織田信長の近習 ウィキペディアから
森 成利(もり なりとし)は、安土桃山時代の武将。織田信長の近習をつとめ、本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死した。
軍記物等で用いられる蘭丸の通称で知られるが、同時代文書では「乱」あるいは「乱法師」という表記が用いられている[2]。諱は『寛政重修諸家譜』に長定(ながさだ)とあるが、本人の署名では「成利」である[3]。また長康(ながやす)とする文書もある。
永禄8年(1565年)、織田信長の家臣・森可成の三男として尾張葉栗郡蓮台[注 1]に生まれる。
天正5年(1577年)5月、織田信長に小姓として弟らと共に召し抱えられる[4](『兼山記』)。以後、信長の側近として活動する。天正9年(1581年)4月20日には近江国に500石の知行を与えられた[3][4]。
特に『信長公記』によれば、使者としての活躍も見られ、天正7年(1579年)「四月十八日 塩河伯耆守へ銀子百枚遣はされ候、御使森乱、中西権兵衛相副へ下され、過分忝きの由候なり」、天正8年(1580年)「正月廿六日、森乱御使にて、濃州岐阜御土蔵に、先年、鳥目一万六干貫入れおかれ侯」などの例がある。また、母の妙向尼は織田信長と石山本願寺との争い(石山合戦)の和睦成立に奔走した際に、成利を通じて情報を得て信長と直談判をしたとされる。なお信長は当時、本願寺との和睦に際して「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、息子(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に和睦を提示した[5]。
天正10年(1582年)、甲斐武田氏滅亡後は甲州征伐に貢献したとして信濃川中島に領地替えとなった兄の長可に替わって美濃兼山及び米田島を与えられた(『信長公記』)[3]。また美濃岩村城主にもなった。『寛永伝』には5万石とある[3][4][注 2]。ただし成利は岩村城には在城せず、長可の家老の各務元正が成利に付けられ、城代を務めた。
同年、本能寺の変において本能寺で明智光秀の軍1万に囲まれて健闘するも、信長に槍で傷を負わせた明智配下の安田国継(天野源右衛門)によって討ち取られた。享年18。討たれる際、成利は白小袖を着て修善寺の平元結びで髪を茶筅髷に結っていたといわれる。ただし、これは源右衛門本人の証言によるものであり、信長に槍で傷を負わせたという証言にも疑問が残っており(『天野源右衛門覚書』)確証はない(『名将言行録』)。『本城惣右衛門覚書』では自身らが最初に本能寺に入ったとされるが、信長や成利を明示した人物は描写されていない。ルイス・フロイスの『日本史』では信長はしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自ら部屋に入り、襖を閉じてそこで自害したとされている。このように信長や成利の最期も諸説が入り乱れており、確たる事実は明らかになっていない。
『決定版 図説・戦国甲冑集』(学習研究社、2003年)に「森蘭丸所用」とされる伊予札胴具足が掲載されているが、この具足は日本甲冑史学研究会会長の井伊達夫(当時中村姓)が彦根で発見して川越の古美術商奥平長良に譲ったものであり、両人とも名前を公表することを承知した上で「真実を記しておかないと誤ったことが歴史事実のようになる」、「発見当時には名号の前立なども存在しなかった」と成利所用のものであることをはっきりと否定している[6]。また、この具足を修理した甲冑師の明珍宗恭も、同様に成利の用いた品ではないという趣旨の発言をしている[7]。なお、明珍は付随する兜は自身で別に手に入れて鎧に合わせたとも語っているが、前出の井伊達夫によれば具足は一領分揃っており、兜を他から取り合わせたと言うのは明珍の記憶違いであるとしている[8]。
兵庫県赤穂市の大石神社に、森蘭丸所用の槍が伝わっている。 元は浅野家断絶後に転封された森家が所持していたとされ、森家藩祖と蘭丸を祀る赤穂神社に神宝として伝来、第二次大戦後赤穂神社が大石神社に合祀されたため大石神社の所蔵となる。宝物殿で公開されている。
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