Loading AI tools
日本の大学野球チーム ウィキペディアから
法政大学野球部(ほうせいだいがくやきゅうぶ、英: HOSEI University Baseball Team)は、東京六大学野球連盟に所属する大学野球チーム。法政大学の学生によって構成されている。OB組織の名称は法友野球倶楽部。
東京六大学リーグ戦が始まった1925年秋季は1分けのみの10敗で最下位からのスタートだった。その後も好選手はいながら2位にもなることなく苦戦が続いたが、主将だった藤田信男が監督に就任しハワイから若林忠志が入学すると一躍早慶明に割って入り1930年秋季リーグ戦で初優勝、以後若林在学中に3度の優勝を果たし第一期黄金時代を迎えた。藤田はその後も野球部長として生涯野球部の発展に尽くし「法政野球部の父」と呼ばれている。
戦争に伴う野球弾圧の波は法政にも例外なく及び、1943年をもって活動を停止、翌1944年に部員たちは銃剣術部などに転部を余儀なくされ、本田耕一や坪谷幸一(北海中出身)はじめ数多くの選手・OBたちが戦争の犠牲となった[3]。1945年5月23日夜の空襲によって当時グラウンドのバックネット裏にあった合宿所などを焼失する被害も受けた[4]。
終戦後の同45年11月に活動を再開した。1948年、進駐軍に接収されていた武蔵小杉グラウンドが返還された。この年、関根潤三が力投して秋季リーグ戦で戦後初優勝を遂げるが、その後およそ12年あまり天皇杯から遠ざかる長い低迷期に入った。前年1947年から5回実施された、東京六大学、東都大学、旧関西六大学の3連盟間で王座を決する全国大学野球王座決定戦の第2回大会(1948年)に出場し優勝した。
1960年春、服部力監督のもと山崎正之・新山彰忠両投手、山本一義・室山皓之助・小川博・樋口正蔵らが活躍して久々の優勝を果たした。この頃から六大学リーグ戦で優勝争いの常連となっていく。田丸仁監督を経て松永怜一監督の代になる1960年代後半になると、田淵幸一・山本浩二・富田勝の「法政三羽烏」や桑原秀範、堀井和人ら中軸以外も打ちまくり、その猛打は「法政火山」と呼ばれ恐れられた。また、下級生のエース山中正竹が荒川尭や谷沢健一ら強力打線擁する早稲田を抑えた。1968年の大学選手権決勝で駒澤大を12-3で圧倒し優勝、同時に東都大学の選手権5連覇を止めた。
「法政三羽烏」卒業後の1969年秋、4年生山中正竹投手がリーグ最多の通算48勝を挙げて優勝。翌1970年年から1971年春にかけて横山晴久と1年下の池田信夫両投手と野口善男・藤村正美・依田優一・長崎慶一・伊達泰司ら強力打撃陣を擁して最初の4連覇を果たした。しかし、関大の山口高志や亜大の山本和行投手らが立ちはだかり全国優勝は果たせなかった。
初の4連覇から5年後の1976年から江川卓投手(1974 - 1977年)や後に同大学野球部監督となる金光興二・植松精一・楠原基・徳永利美・袴田英利・島本啓次郎ら「花の(昭和)49年組」を中心に2回目の4連覇を果たす。この4連覇は全4季勝ち点5の完全優勝であり、東京六大学に6例ある4連覇のなかで唯一の記録である。
その後1980年代の10年間は鴨田勝雄・竹内昭文両監督の下、田中富生・和田護・樽井徹・西川佳明・猪俣隆・石井丈裕・秋村謙宏・葛西稔ら豊富な投手陣と武藤一邦・木戸克彦・西田真二・小早川毅彦・銚子利夫・山崎正之・伊吹淳一・秦真司・島田茂・若井基安・松井達徳・中根仁・田中善則・大島公一ら強力打撃陣を擁して毎年必ず春秋どちらかのシーズンで優勝を記録、10戦全勝優勝(1982年春季)、無敗優勝(1985年春季)[5]、大学選手権連覇(1984年・1985年)、3度目の4連覇(1987年秋季から)など長期黄金時代を築く。
1990年代初頭に一時優勝から遠ざかる低迷期に入ったものの山中正竹が監督を勤めた1994年から2002年まで、真木将樹、伊達昌司、矢野英司、福山龍太郎、安藤優也、土居龍太郎らの投手陣と稲葉篤紀、江崎亘、奥村幸司、副島孔太、平馬淳、廣瀬純、阿部真宏、浅井良、後藤武敏ら強力打撃陣を擁して再び毎年優勝を重ねる強い法政が復活した。しかし、全国優勝は大学選手権(1995年)の1回のみに留まる。なお、2000年から2023年秋季リーグ終了現在までのリーグ戦優勝回数は早大が14回、慶明が各12回なのに対し法政は8回(立大1回、東大0回)であり、さらに全国優勝も大学選手権(2009年)の1回のみと、3校に後塵を拝した状況となっている。
リーグ優勝は46回(2023年秋季リーグ終了時点)、うち41回が1960年以降の優勝である。大学選手権優勝も最多の8回を数えるなど、六大学のみならず大学球界の雄として全国にその名をとどろかせている。
戦前はクリーム色で、新人戦用にグレー地のユニフォームも着用されていた[6]。戦後の1948年秋の優勝後、白のユニフォームとなり1960年まで採用。1961年から1973年まではグレー地。1974年から現行のクリーム色となった[7][8]。
野球帽の「H」マークは、1993年まで各自で貼り付けていた。ストッキングは昔と変わらず白の下地にオレンジと濃紺のストライプの配色である[7]。
神奈川県川崎市中原区今井仲町260(合宿所)。グラウンドと野球場も併設されている。武蔵小杉駅南口より徒歩約15~20分。
※獲得タイトルは、東京六大学野球リーグで歴代3位の計57回である。
多数につき、Category:法政大学野球部の選手を参照。
ドラフト年 | ドラフト指名選手(ドラフト外含む) | ||||
---|---|---|---|---|---|
第1回 1965年 | 長池徳二 阪急1位 | 鎌田豊 広島3位 | |||
第2回 1966年 | 中村之保 南海1位 | 里見忠士 東映3位×、河合楽器 | 近藤徹 サンケイ4位×、日本コロムビア | ||
第3回 1967年 | 鶴岡泰 南海12位×、日本楽器 | ||||
第4回 1968年 | 山本浩二 広島1位 | 田淵幸一 阪神1位 | 富田勝 南海1位 | ||
第5回 1969年 | 堀井和人 南海7位 | 山田克己 南海8位×、大昭和製紙 | |||
第6回 1970年 | 野口善男 大洋1位 | 黒田正宏 南海6位 | 江本孟紀(熊谷組)東映ドラフト外 | ||
第7回 1971年 | 横山晴久 東映1位 | ||||
第8回 1972年 | 長崎慶一 大洋1位 | 伊達泰司 ロッテ1位 | |||
第9回 1973年 | 上林成行(中退・クラレ岡山)近鉄3位 | ||||
第10回1974年 | 新井宏昌 南海2位 | ||||
第11回1975年 | 岩井靖久 大洋2位 | 古賀正明(丸善石油)太平洋クラブ1位 | 山本功児(本田技研鈴鹿)巨人5位 | 中西弘明 阪急ドラフト外 | |
第12回1976年 | |||||
第13回1977年 | 江川卓 クラウンライター1位× | 金光興二 近鉄1位×、三菱重工広島 | 袴田英利 ロッテ1位 | 植松精一 阪神2位 | 島本啓次郎 巨人6位 |
第14回1978年 | 高代延博(東芝)日本ハム1位 | ||||
第15回1979年 | 高浦美佐緒(三菱自動車川崎)大洋ドラフト外 | ||||
第16回1980年 | 武藤一邦 ロッテ2位 | 佐々木正行(大昭和製紙)ヤクルト2位 | |||
第17回1981年 | 住友一哉(プリンスホテル)近鉄6位 | 福原峰夫(日本通運)阪急ドラフト外 | |||
第18回1982年 | 木戸克彦 阪神1位 | 西田真二 広島1位 | 田中富生 日本ハム1位 | 谷真一(本田技研)近鉄2位 | |
第19回1983年 | 銚子利夫 大洋1位 | 川端順(東芝)広島1位 | 小早川毅彦 広島2位 | 池田親興(日産自動車)阪神2位 | |
第20回1984年 | 秦真司 ヤクルト2位 | ||||
第21回1985年 | 西川佳明 南海1位 | ||||
第22回1986年 | 猪俣隆 阪神1位 | 高田誠 巨人3位 | 山越吉洋(本田技研)阪急2位 | ||
第23回1987年 | 若井基安(日本生命)南海2位 | ||||
第24回1988年 | 中根仁 近鉄2位 | 石井丈裕(プリンスホテル)西武2位 | 金子誠一(本田技研)阪神3位 | 島田茂(日産自動車)ロッテドラフト外 | |
第25回1989年 | 葛西稔 阪神1位 | 鈴木俊雄(日立製作所)ロッテ3位 | 松井達徳(日産自動車)中日4位 | 秋村謙宏(日本石油)広島ドラフト外 | |
第26回1990年 | 瀬戸輝信 広島1位 | ||||
第27回1991年 | 高村祐 近鉄1位 | ||||
第28回1992年 | 大島公一(日本生命)近鉄5位 | ||||
第29回1993年 | 諸積兼司(日立製作所)ロッテ5位 | ||||
第30回1994年 | 稲葉篤紀 ヤクルト3位 | ||||
第31回1995年 | |||||
第32回1996年 | 副島孔太 ヤクルト5位 | ||||
第33回1997年 | 真木将樹 近鉄1位 | ||||
第34回1998年 | 矢野英司 横浜2位 | 福本誠 横浜4位 | 福山龍太郎 福岡ダイエー4位 | ||
第35回1999年 | 宮﨑一彰(米独立リーグ)巨人7位 | 松田匡司(シダックス)阪神7位 | |||
第36回 2000年 | 広瀬純 広島2位 | 阿部真宏 近鉄4位 | 伊達昌司(プリンスホテル)阪神2位 | 開田博勝(三菱重工長崎)オリックス5位× | 田中聡(米独立リーグ)日本ハム7位 |
第37回 2001年 | 浅井良 阪神自由枠 | 安藤優也(トヨタ自動車)阪神自由枠 | |||
第38回 2002年 | 後藤武敏 西武自由枠 | 土居龍太郎 横浜自由枠 | 河野友軌 横浜8巡目 | 北川利之(川崎製鉄水島)横浜6巡目 | |
第39回 2003年 | 新里賢 近鉄5巡目 | 佐藤隆彦(元フィリーズ1A)西武7巡目 | |||
第40回 2004年 | 田中彰 オリックス5巡目 | 普久原淳一 中日12巡目 | |||
第41回 2005年 | 加藤光教 育成中日2巡目 | ||||
第42回 2006年 | 大引啓次 オリックス大学社会人3巡目 | 西川明 中日大学社会人7巡目 | |||
第43回 2007年 | 下敷領悠太(日本生命)ロッテ大学社会人5巡目 | ||||
第44回 2008年 | 小松剛 広島3位 | ||||
第45回 2009年 | 二神一人 阪神1位 | 武内久士 広島3位 | |||
第46回 2010年 | 加賀美希昇 横浜2位 | ||||
第47回 2011年 | |||||
第48回 2012年 | 三嶋一輝 DeNA2位 | ||||
第49回 2013年 | 西浦直亨 ヤクルト2位 | 三上朋也(JX-ENEOS)DeNA4位 | 山本翔也(王子)阪神5位 | ||
第50回 2014年 | 石田健大 DeNA2位 | ||||
第51回 2015年 | 木下拓哉(トヨタ自動車)中日3位 | ||||
第52回 2016年 | |||||
第53回 2017年 | 若林晃弘(JX-ENEOS)巨人6位 | ||||
第54回 2018年 | 中山翔太 ヤクルト2位 | ||||
第55回 2019年 | 宇草孔基 広島2位 | 福田光輝 ロッテ5位 | |||
第56回 2020年 | 鈴木昭汰 ロッテ1位 | 高田孝一 楽天2位 | 石川達也 DeNA育成1位 | ||
第57回 2021年 | 山下輝 ヤクルト1位 | 三浦銀二 DeNA4位 | 岡田悠希 巨人5位 | ||
第58回 2022年 | 是澤涼輔 西武育成4位 | 村上喬一朗 オリックス育成5位 | |||
第59回 2023年 | 森田駿哉(Honda鈴鹿)巨人2位 |
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.