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日本の野球選手、野球指導者 ウィキペディアから
赤根谷 飛雄太郎(あかねや ひゅうたろう、1916年1月5日 - 1969年8月22日)は、秋田県秋田市出身のプロ野球選手(投手)、野球指導者(秋田市立秋田商業高等学校硬式野球部監督)。プロ野球史上、最も漢字名の長い(7文字)選手として知られる。
秋田商業を経て、法政大学に進学すると、東京六大学野球で活躍を見せる。その後、社会人野球の秋田コンマーシャルクラブ・帝国石油でプレー。
1948年に32歳にして急映フライヤーズに入団。新人ながら加藤正二(35歳)に次ぐ高齢の選手だった。1年目は二軍の急映チックフライヤーズの監督を兼任しながらドロップを武器に一軍で12試合に登板し2勝を挙げるが、9月28日に行われた対金星戦(後楽園球場)で坪内道則に史上初の1000本安打を打たれてしまう。2年目は未勝利に終わり、この年限りで引退。
引退後は東急の球団職員となる。この頃、球団の主砲であった大下弘と仲が良く、しばしば連れ立って飲み歩いていた。赤根谷は大下のとりとめもない話しに対して、あまり意見を挟むこともなくいつもニコニコ聞くだけだったという[2]。
1950年オフに大下の移籍騒動(大下騒動)が発生すると、法政大学野球部の同窓でかねてより交流があった近鉄パールスのスカウト・大西利呂に請われて、大下の代理人である加藤政志を紹介。これをきっかけに、赤根谷自身は関与していなかったものの、大下・加藤と近鉄側の移籍の密約が成立してしまった[3]。
のちに、この密約を把握した東急球団幹部により、裏取引に加担したことを理由として赤根谷は東急を解雇されてしまった。この対応に大下が激怒したことから、東急電鉄本社の専務・大川博が赤根谷と加藤との三者会談を行う。この場で、赤根谷が密約に対する疑いを晴らすと、大川から東急に戻るように要請を受けるなど懐柔される[4]。それまで赤根谷は、大下を希望する近鉄に行かせてやるべきと話していたが、この会談以降、大下を東急の決めた西鉄ライオンズに行かせた方が得策と口にするようになったという。なお、加藤が務める国際自動車へ就職する仲介を受けていたため、大川の要請を受けても赤根谷は東急球団へは戻らなかった[5]。
その後、大下が加藤をも避け始めて身を隠した際には、赤根谷が実家の旅館に大下の身柄を匿っていたとされる[6]。
その後、加藤から紹介された国際自動車へ務めることもなく、故郷の秋田へ戻って高校野球指導者となる[7]。赤根谷が育てた選手として嵯峨健四郎(東映フライヤーズ)、石戸四六(サンケイアトムズ)、佐々木吉郎(大洋ホエールズ)などがいる[8]。
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