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かつて日本の兵庫県西宮市にあった多目的スタジアム ウィキペディアから
阪急西宮スタジアム(はんきゅうにしのみやスタジアム、Hankyu Nishinomiya Stadium)は、かつて兵庫県西宮市にあった、阪急電鉄(法人としては現在の阪急阪神ホールディングス)が所有していた多目的スタジアム。阪急西宮北口駅前(南東側)にあった。
阪急西宮スタジアム Hankyu Nishinomiya Stadium | |
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施設データ | |
所在地 | 兵庫県西宮市高松町 |
座標 | 北緯34度44分37.6秒 東経135度21分34.3秒 |
起工 | 1936年12月1日 |
開場 | 1937年5月1日(4月30日竣工) |
閉場 | 2002年12月31日 |
取り壊し | 2004年9月1日 - 2005年夏 |
所有者 | 阪急電鉄 |
グラウンド |
内外野 - 天然芝(開場 - 1940年代) 内野 - 土、外野 - 天然芝(1950年代 - 1977年) 内野 - 土、外野 - 人工芝(1978年 - 1989年) 内外野 - 人工芝(1990年 - 閉場) |
設計者 | 阿部美樹志 |
建設者 | 竹中工務店 |
旧称 | |
阪急西宮球場(開場 - 1991年3月31日) | |
使用チーム • 開催試合 | |
収容人員 | |
55,000人(開場時の数値) 35,000人(1978年:人工芝完成記念パンフレットより) 40,000人(営業末期の公式ウェブサイトより) | |
グラウンドデータ | |
球場規模 |
両翼 - 101 m(ラッキーゾーン設置時は91.4 m) 中堅 - 118.9 m(開設時は120mとする文献もある[1]) |
日本初の二階席スタンド(鉄傘付き)と内外野総天然芝のグラウンドを持つ野球場として、シカゴのリグレー・フィールドなど当時のMLBの諸球場を参考に設計された[2]。当初の構想では野球場の入口が西宮北口駅に直結する予定だったが、駅周辺の一部の土地(ほとんどが阪神電気鉄道関連の土地)がどうしても用地買収に応じず、駅からやや南東へ離れた場所に計画変更せざるを得なくなった[3]。1936年12月1日に起工、わずか5ヶ月の突貫工事で完成し、1937年4月30日に竣工、5月1日に開場した。
なお、「大毎フェア・ランド」跡地に建設されたとする説があるが[2]、「大毎フェア・ランド」とは日独防共協定締結を記念して1937年3月25日から5月23日まで西宮北口駅の南部経営地で開催された博覧会のことであり、阪急西宮球場は「大毎フェア・ランド」開催前に起工、開催中に竣工しており、矛盾する。
スタンドは鉄傘付き二階席の他にも、当時としては異例の背付き椅子を備えた内野席、55,000人収容の観覧席の傾斜角度をどこから見ても本塁に合わせるなど工夫され、その後長く「行きよい、見やすい」というキャッチフレーズが使われた。また、浴場など選手用施設、記者室、郵便局、当時では珍しかった男女別トイレ、階段のほかスロープを設けていたなど内部施設も充実しており、広い敷地と併せて開設当時としては最新・最高の設備を備えた球場であった[4][3]。設計は、当時の阪急関連の建物の多くを担当した阿部美樹志が手掛けている。
プロ野球黎明期の興行の中心となった3球場は阪急西宮球場と、全面に土を敷いた「大運動場」として開場し、その5年後に外野のみ芝を張った「球場」へ改修された阪神甲子園球場と、阪急西宮球場の開場から約4ヶ月後に開場し、二階席スタンド(鉄傘なし)を持った後楽園球場だった。
阪急電鉄が所有していたプロ野球チーム『阪急ブレーブス』の本拠地(フランチャイズ)として阪急の主催試合が開催された。それ以外に、競輪場として競輪開催(「西宮競輪場」で詳述)、アメフトの試合、コンサートなど様々なイベントで使用されており、まさに“多角経営”の先駆けとなった野球場である。
阪急電鉄が球団を譲渡したオリックスがフランチャイズを移転した後の1991年に「多目的スタジアム」であることを標榜し、「阪急西宮スタジアム(はんきゅうにしのみやスタジアム)」へ改称。
1949年までの1リーグ時代は近隣の武庫郡鳴尾村(1951年西宮市へ編入)にある阪神甲子園球場と共に関西のプロ野球興行の中心だったが、1950年の2リーグ分立以後は阪急がパ・リーグ、甲子園を本拠地とする阪神タイガース[注釈 1]がセ・リーグとそれぞれ別のリーグに所属したことに加え、フランチャイズの影響もあって、西宮での公式戦は阪急主催のパ・リーグの試合のみが行われる状態が続いた。前述のオリックスのフランチャイズ移転があった1991年に甲子園を夏の高校野球に明け渡した阪神が2リーグ分立から42年目にして初めてセ・リーグの公式戦を行った。なお、1996年にプロ野球の公式戦を最後に行ったのも阪神である(後述)[注釈 2]。
その後はアメフトと競輪開催が主となったが、人工芝の劣化によりアメフト開催が減少し、競輪開催も売上減により廃止されたことが追い討ちとなり、球場自体の老朽化と経営難から2002年末をもって閉鎖。2004年9月1日から2005年にかけて取り壊された(「歴史」で詳述)。
跡地には、スタジアム敷地を含めた周辺再開発により、2008年11月に大型複合商業施設「阪急西宮ガーデンズ」が開業した。なお、その「ガーデンズ」内にある「阪急西宮ギャラリー」には、1983年当時の本球場のジオラマ模型が展示されている。
閉鎖・解体から長期間が経過したが、付近にある阪急今津南線の入出庫線と兵庫県道606号西宮豊中線が交差する踏切の名称は「球場前踏切道」、さらにその西にある兵庫県道606号西宮豊中線と西宮市道幹38号が交わる交差点の名称は「球場橋」であり、本球場の名残をとどめている。
ゴンドラ型になっており2階席のすぐ下に位置する。一塁側から順に関西テレビ・ニッポン放送・RFラジオ日本(ラジオ関西)・毎日放送[注釈 3]・NHK・ラジオ大阪・朝日放送[注釈 4]である。
また、バックネット裏に、放送局(よみうりテレビなど)の札が下げられた座席群も存在していた。
マイケル・ジャクソン、マドンナ、ボン・ジョヴィ、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース、デュラン・デュラン、クイーン、RCサクセション、サザンオールスターズ、おニャン子クラブ、GLAY、THE YELLOW MONKEY、globe、SMAP、渡辺美里、矢沢永吉、浜崎あゆみ、ゆず、ピンク・レディー等がコンサート時に使用した。隣接するコマのゴルフ練習場(後述)の間から球場内の様子が窺える場所が存在し、そこからコンサートを覗く人も多かった。
コンサート使用としての最終使用は2002年8月のSMAP。
西宮スタジアム内で毎年5月ごろに行われていた、関西テレビ放送主催の日本でも有数のマーチングイベント。西宮スタジアムの閉鎖に伴い、以降は大阪ドームで開催されている。
当初は近隣の阪神地区の学校や団体が多かったが、後に近畿地方一円からの小、中、高、大学の吹奏楽部や自衛隊の音楽隊等が出場するようになった。
開始当初は「春の吹奏楽」という名称だったが、年々参加団体が増加し、「1000人の吹奏楽」→「2000人の吹奏楽」→「3000人の吹奏楽」と名称が変更になり、現在に至る。
近年は2019年大阪で開催されたG20の警備上の問題や新型コロナウィルス感染防止の観点から開催中止が続いていたが2023年、5年ぶりに最後の大会として開催することが決まった[14]。
兵庫県、大阪府の幼稚園児が集まり、一団で踊ったりする運動会(マスゲーム)的なイベント。この模様は主催の関西テレビで放映され、司会進行も同局のアナウンサーが務めた。
西宮スタジアムの閉鎖に伴い、以降は大阪ドームにて開催。2011年をもって36年間・通算35回にわたって行われたイベントが終了。
1922年にファンへの感謝を込めて、西宮スタジアムで開催されるようになり、第18回目から、10年ごとに開催されることになった。「花組」「月組」「雪組」「星組」「宙(そら)組」「専科・音楽学校」の6組に分かれ、リレーや綱引き、椅子とりゲームなどを繰り広げた。
当所閉鎖後の2004年度は、大阪城ホールで開催された。
グラウンドに土を入れ、モトクロス場として「ジャパンスーパークロス(オートバイ・レースのビッグイベント)」も行われた。
近畿管区警察局主催、1957年から毎年夏に開催されていた。1年交代で兵庫県警察と大阪府警察の白バイ隊員による白バイを使ったアクロバット演技や音楽隊によるドリル演奏等を披露。阪神・淡路大震災を機に1995年以降開催中止。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
1987年、お盆休みシリーズ(8月)の開催を、実現すれば競輪史上初、公営競技全体でも1986年にナイター開催を開始した大井競馬場に次ぐ2番目となるナイター競走として開催することが計画された。これは通常野球などの試合に使うナイター照明塔6基を使って、通常よりも4時間以上発走時刻を遅らせて、第1競走を夕方の15時台、最終競走を20時台に行うというものだった。
しかし、競輪ファンと会社帰りのサラリーマン、また夏休みということで行楽帰りの利用者とが混在すると混雑が懸念され、ファンの確保が難しいことや警備上の問題などを理由に、結局ナイター競走開催は実現には至らなかった。
一方、1979年に開催された全日本プロ選手権自転車競技大会ではナイター開催が行なわれている。
当場所有者である阪急電鉄は、一方的に賃貸契約を解除されたとして、兵庫県市町競輪事務組合を相手に当初、調停を申し入れたが、同組合がこれに応じなかったため、2004年11月16日、同組合を構成していた19市1町の首長を相手取り、約27億6000万円の損害賠償訴訟を大阪地方裁判所に起こした。
2007年4月27日、一審で、阪急電鉄に対して5億8千万円の損害賠償支払いを命じた判決が下ったことから、同組合構成首長が控訴。二審の判決は2009年1月31日に下り、大阪高等裁判所は、「赤字による撤退はやむを得ない」、「補償措置を講じる信義則上の義務はない」として、一審の判決を全面的に取り消す趣旨の判決を言い渡し、阪急電鉄の全面敗訴となった。その後阪急電鉄側が上告を取り下げたため、二審の判決をもって当訴訟は確定した。
かつて、阪急百貨店が経営していた企業内教育施設[23]。1957年、将来の優秀な社員を育成する目的で設立された。同学園の入学者は全員、阪急少年音楽隊として吹奏楽活動を行い、学園を卒業後は阪急百貨店に就職することになっていた[23]。球場の5階と6階に教室・職員室があった[23]。校内の規律は厳しく、学生服の襟は閉め、生徒の喫茶店利用は禁止だった[23]。マーチングは第二球場で練習し、ナイターがない日は放課後に球場スタンドで練習できた[24]。
クリスマスの阪急グランドドームでのコンサート等の阪急百貨店の行事のほか、各種イベント、ラジオ、コンサートに出演し吹奏楽ファンのみならず、一般客からも人気を博した。
当初から長らく男子校だったが、1997年度から女子のみの入学となり最末期は女子校となった。それに伴い愛称も阪急少年音楽隊から阪急商業学園ウィンドバンドに変更になった。
その後、阪急百貨店が学園運営から撤退し、2004年度からは高卒資格取得のための連携校だった向陽台高等学校が吹奏楽コースを新設し、向陽台高等学校ウィンドバンド(後述のリンクを参照)として継承され、2009年度からは、同法人の早稲田摂陵高等学校に移管され、早稲田摂陵高等学校ウィンドバンドとして再出発した。学園が阪急百貨店と球場を離れるのを機に、2004年にOBと在校生150人による記念演奏会がグラウンドで開催された[25]。
阪急商業学園時代は音楽を主体にしていた学校であったため、規定により全日本吹奏楽コンクールに出場することができなかった[注釈 15]。2004年に向陽台高等学校へ継承されてからは高等学校部門として全日本吹奏楽コンクールに出場できるようになった。
西宮スタジアムの敷地内の一部、スタジアム西?南西角に、コマスイミングスクール・コマスポーツセンター・西宮コマゴルフ練習場が存在した。これらはいずれも新宿コマ劇場を経営していた株式会社コマ・スタジアムの経営だった。
スイミングスクールとスポーツセンターは、元々ボウリングブームの最中に作られたボウリング場だったが、ブームが去った後にボウリング場を閉鎖、1977年4月オープンのスイミングスクール、同年7月オープンの西宮コマスポーツセンターに転用された。ボウリング場時代の建物をそのまま利用したため、非常に不思議な外見をしていた。
これらは、スタジアム解体に合わせて2003年3月に閉場、後に解体された。スイミングスクールとスポーツセンターは同じ建物内で行われており、特にスイミングスクール(ジェイエスエス)は、近所の子供たちの多くが通っており、ニチイ西宮店(→西宮サティ)内にあった「ピープル」(現コナミスポーツ。西宮サティが閉店する前に移転している)との生徒集めの競争化が起こっていた。
西宮コマゴルフ練習場は、それらに先駆けて1973年にオープン。スポーツセンター南側に来客者用駐車場を挟んで、その南[注釈 16]に存在した。土日などは多く利用者があった。
閉鎖された後解体作業が始まっている中、「西宮に映画館を作ろう」というスローガンのもと活動している団体・シネギミックにより、「ファイナル・コマ・シネマ」と題し、西宮コマスイミングスクール内にて、一日のみ映画を上演した。この団体が活動目標としていた「西宮市内の映画館開設」は、球場跡地で2008年にオープンした阪急西宮ガーデンズ内に「TOHOシネマズ西宮OS」が開業したことによって実現している。
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