トップQs
タイムライン
チャット
視点
バンプ・ウィルス
ウィキペディアから
Remove ads
バンプ・ウィルス(英語: Bump Wills、本名:エリオット・テイラー・ウィルス(Elliot Taylor Wills)、1952年7月27日 - )は、アメリカ合衆国・ワシントンD.C.出身の元プロ野球選手(内野手)。
阪急ブレーブスでの登録名は「バンプ」。幼少期にいたずらっ子だったことから父親のモーリー・ウィルスが「バンプ」と名付けた[1]。
Remove ads
経歴
要約
視点
1975年の二次ドラフト1巡目(全体の6番目)でテキサス・レンジャーズに指名されて契約。
父親譲りの快足で、メジャーデビューした1977年から1981年までレギュラーとして活躍し、1977年には新人ながら152試合に出場して打率.287、9本塁打、62打点、28盗塁を記録。同年8月27日にはトビー・ハラーとメジャー史上初(現時点で唯一)の二者連続ランニングホームランを記録。
1978年には157試合に出場し、自己最多の52盗塁を記録。1980年には父モーリーが同じ地区(アメリカンリーグ西地区)のシアトル・マリナーズの監督に就任し、メジャーで監督の父親と他球団の選手として対戦したメジャー最初の選手となった。
1982年にシカゴ・カブスに移籍。トラディッショナル・オープナー(一番早い開幕戦)の対シンシナティ・レッズ戦で1番に起用され、初回先頭打者として2球目に本塁打を打った。この年も128試合に出場したが、のちにアメリカ野球殿堂入りするライン・サンドバーグの二塁コンバートで構想から漏れた。
1983年に日本プロ野球(NPB)の阪急ブレーブスに年俸1億円、4年契約で入団した[1]。 NPBでの登録名は、MLB時代の愛称「バンプ」。MLB通算196盗塁の俊足と堅実な二塁守備を買われ、「1番・福本豊、2番・ウィルス」の俊足コンビを期待された。この年の春季キャンプ中はホームランを連発したため、当時としてはブーマー・ウェルズよりも長打力を評価されていたという話もある。しかし入団後は、NPBになじめず[2]、また元MLB選手としてのプライドをひけらかす態度をたびたび見せて、上田利治監督ら首脳陣やナインから不評を買う[2]。打撃不振に陥った際にコーチから助言を受けても一切耳を貸さなかった。試合中のプレーで手を抜いた態度が見られるようになり、同僚選手から非難されても「日本の試合は長すぎる。これでは持続できない。」と公然と反論した[2]。
1984年も阪急でプレーしたが、1月の自主トレの段階で、上田監督はバンプに対し厳しい姿勢で臨む方針を明らかにした。しかし、バンプは高知キャンプの2月7日に、首脳陣に無断で練習を早退して宿舎に戻るという行動を起こし、早くも首脳陣の怒りを買った[2]。この時はバンプが上田に謝罪したが、オープン戦終盤の3月28日の大洋戦で右肘に死球を受け開幕絶望となっても、上田監督は「代役は福原(峰夫)」と語り、バンプを既に見放しつつあった。バンプは4月13日の西武戦から出場したが、打順は下位の7番であり、シーズンに入っても打率2割3分台の打撃不振に喘いだ。
そして、5月9日の日本ハム戦にて、首脳陣の指示を無視した打撃をして、上田との亀裂は決定的なものになる。8回表一死無走者の場面で打席に立ち、カウント「0-2」となったところでベンチから「待て」のサインが出たが、バンプはこれを無視して打って出て、二塁ゴロで凡退した[3]。ベンチに戻ると上田から「サイン無視だ」と問い詰められると、「アメリカでは0-2のカウントからウェートはあり得ない」と答えた[3]。激怒した上田は試合後、バンプの二軍落ちを決めたが、フロントからバンプとの契約を盾に拒否されたため、抗議のため10日の日本ハム戦の指揮権を放棄した[3]。
11日、バンプはフロントから「監督に反抗的な態度を取った」として罰金10万円を課され、試合前にはフロント幹部と交えて話し合い、上田に謝罪した[4]。同日の南海戦より上田は再び指揮を執り、バンプも6番・指名打者で復帰した[4]。バンプはその後も出場を続けたが、8月4日のロッテ戦を最後に帰国。チームはリーグ優勝したが、日本シリーズの登録メンバーからも外された。1984年に三冠王を獲得してMVPにも選ばれ、その後も日本で活躍したブーマーとは対照的に、同年限りで退団した。福本豊によると、上田から2軍行きを命じられたが従わず、球団は年俸の残り2年分の半額を支払う条件を出して退団に同意させたという[5]。
当時通訳を務めていたロベルト・バルボンは、「20年間通訳やったけど、バンプだけや、日本の野球が好きじゃなかったのは。いつも帰りたいと言ってケンカし、ブーマーに止められてた。」と話している[6]一方、「84年の日本シリーズ、ウチは負けたけど、あの時、バンプがおったら勝ってた思うわ。3、4回セカンドが絡むプレーでゲッツーができんかった。バンプがシーズン途中で帰ってしもうたからおらんかったんやけど、おったらゲッツーできてたいうのがあった。そうなったら阪急が勝ってたんやないかな。僕もセカンドやったからようわかるけど、バンプはどっからでも、どんな体勢からでも投げられた。」[7]と二塁手としての守備力の高さを評価している。
Remove ads
詳細情報
年度別打撃成績
記録
- MLB
- 初出場・初先発出場:1977年4月7日、対ボルチモア・オリオールズ1回戦(メモリアル・スタジアム)、2番・二塁手で先発出場
- 初安打・初打点:同上、10回表にジム・パーマーから勝ち越し中前適時打
- 初盗塁:1977年4月10日、対ボルチモア・オリオールズ3回戦(メモリアル・スタジアム)、1回表2死から本盗(投手:ロス・グリムズリー、捕手:リック・デンプシー)
- 初本塁打:1977年5月3日、対デトロイト・タイガース1回戦(タイガー・スタジアム)、9回表にボブ・サイクスから右越2ラン
- NPB
背番号
- 1 (1977年 - 1981年)
- 17 (1982年)
- 6 (1983年 - 1984年)
Remove ads
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads