バンプ・ウィルス

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バンプ・ウィルス

バンプ・ウィルス英語: Bump Wills、本名:エリオット・テイラー・ウィルス(Elliot Taylor Wills)、1952年7月27日 - )は、アメリカ合衆国ワシントンD.C.出身の元プロ野球選手内野手)。

概要 基本情報, 国籍 ...
バンプ・ウィルス
Bump Wills
Thumb
2014年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 ワシントンD.C.
生年月日 (1952-07-27) 1952年7月27日(72歳)
身長
体重
5' 9" =約175.3 cm
177 lb =約80.3 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 二塁手
プロ入り 1975年 MLB二次ドラフト1巡目
初出場 MLB / 1977年4月7日
NPB / 1983年4月9日
最終出場 MLB / 1982年10月3日
NPB / 1984年8月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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阪急ブレーブスでの登録名は「バンプ」。幼少期にいたずらっ子だったことから父親のモーリー・ウィルスが「バンプ」と名付けた[1]

経歴

要約
視点

1975年の二次ドラフト1巡目(全体の6番目)でテキサス・レンジャーズに指名されて契約。

父親譲りの快足で、メジャーデビューした1977年から1981年までレギュラーとして活躍し、1977年には新人ながら152試合に出場して打率.287、9本塁打、62打点、28盗塁を記録。同年8月27日にはトビー・ハラー英語版とメジャー史上初(現時点で唯一)の二者連続ランニングホームランを記録。

1978年には157試合に出場し、自己最多の52盗塁を記録。1980年には父モーリーが同じ地区(アメリカンリーグ西地区)のシアトル・マリナーズの監督に就任し、メジャーで監督の父親と他球団の選手として対戦したメジャー最初の選手となった。

1982年シカゴ・カブスに移籍。トラディッショナル・オープナー(一番早い開幕戦)の対シンシナティ・レッズ戦で1番に起用され、初回先頭打者として2球目に本塁打を打った。この年も128試合に出場したが、のちにアメリカ野球殿堂入りするライン・サンドバーグの二塁コンバートで構想から漏れた。

1983年日本プロ野球(NPB)の阪急ブレーブスに年俸1億円、4年契約で入団した[1]。 NPBでの登録名は、MLB時代の愛称「バンプ」。MLB通算196盗塁の俊足と堅実な二塁守備を買われ、「1番・福本豊、2番・ウィルス」の俊足コンビを期待された。この年の春季キャンプ中はホームランを連発したため、当時としてはブーマー・ウェルズよりも長打力を評価されていたという話もある。しかし入団後は、NPBになじめず[2]、また元MLB選手としてのプライドをひけらかす態度をたびたび見せて、上田利治監督ら首脳陣やナインから不評を買う[2]。打撃不振に陥った際にコーチから助言を受けても一切耳を貸さなかった。試合中のプレーで手を抜いた態度が見られるようになり、同僚選手から非難されても「日本の試合は長すぎる。これでは持続できない。」と公然と反論した[2]

1984年も阪急でプレーしたが、1月の自主トレの段階で、上田監督はバンプに対し厳しい姿勢で臨む方針を明らかにした。しかし、バンプは高知キャンプの2月7日に、首脳陣に無断で練習を早退して宿舎に戻るという行動を起こし、早くも首脳陣の怒りを買った[2]。この時はバンプが上田に謝罪したが、オープン戦終盤の3月28日の大洋戦で右肘に死球を受け開幕絶望となっても、上田監督は「代役は福原(峰夫)」と語り、バンプを既に見放しつつあった。バンプは4月13日の西武戦から出場したが、打順は下位の7番であり、シーズンに入っても打率2割3分台の打撃不振に喘いだ。

そして、5月9日の日本ハム戦にて、首脳陣の指示を無視した打撃をして、上田との亀裂は決定的なものになる。8回表一死無走者の場面で打席に立ち、カウント「0-2」となったところでベンチから「待て」のサインが出たが、バンプはこれを無視して打って出て、二塁ゴロで凡退した[3]。ベンチに戻ると上田から「サイン無視だ」と問い詰められると、「アメリカでは0-2のカウントからウェートはあり得ない」と答えた[3]。激怒した上田は試合後、バンプの二軍落ちを決めたが、フロントからバンプとの契約を盾に拒否されたため、抗議のため10日の日本ハム戦の指揮権を放棄した[3]

11日、バンプはフロントから「監督に反抗的な態度を取った」として罰金10万円を課され、試合前にはフロント幹部と交えて話し合い、上田に謝罪した[4]。同日の南海戦より上田は再び指揮を執り、バンプも6番・指名打者で復帰した[4]。バンプはその後も出場を続けたが、8月4日のロッテ戦を最後に帰国。チームはリーグ優勝したが、日本シリーズの登録メンバーからも外された。1984年に三冠王を獲得してMVPにも選ばれ、その後も日本で活躍したブーマーとは対照的に、同年限りで退団した。福本豊によると、上田から2軍行きを命じられたが従わず、球団は年俸の残り2年分の半額を支払う条件を出して退団に同意させたという[5]

当時通訳を務めていたロベルト・バルボンは、「20年間通訳やったけど、バンプだけや、日本の野球が好きじゃなかったのは。いつも帰りたいと言ってケンカし、ブーマーに止められてた。」と話している[6]一方、「84年の日本シリーズ、ウチは負けたけど、あの時、バンプがおったら勝ってた思うわ。3、4回セカンドが絡むプレーでゲッツーができんかった。バンプがシーズン途中で帰ってしもうたからおらんかったんやけど、おったらゲッツーできてたいうのがあった。そうなったら阪急が勝ってたんやないかな。僕もセカンドやったからようわかるけど、バンプはどっからでも、どんな体勢からでも投げられた。」[7]と二塁手としての守備力の高さを評価している。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...
















































O
P
S
1977 TEX 1526175418715528692226228127465709610.287.361.410.771
1978 1576195397813517491875752149463349111.250.331.347.678
1979 14661754390148213519046351114353445812.273.340.350.690
1980 1466555781021523155208583491585113718.263.322.360.682
1981 10245441051103132212641129653221498.251.304.307.611
1982 CHC 128477419641141846158383510254635764.272.347.377.724
1983 阪急 125484426521162741218757201214403135913.272.350.439.789
1984 782472072448814702421223115405.232.343.338.681
MLB:6年 8313439303047280712824361091302196655329310201744153.266.335.360.695
NPB:2年 203731633761643551625781221336714189918.259.348.406.754
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記録

MLB
NPB

背番号

  • 1 (1977年 - 1981年)
  • 17 (1982年)
  • 6 (1983年 - 1984年)

脚注

関連項目

外部リンク

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