Loading AI tools
ウィキペディアから
三菱重工長崎硬式野球部(みつびしじゅうこうながさきこうしきやきゅうぶ)は、長崎県長崎市に本拠地を置き、日本野球連盟に加盟していた社会人野球の企業チームである。2017年から活動休止中。
チーム名(通称) | 三菱長崎、重工長崎、三菱重工長崎 |
---|---|
加盟団体 | 日本野球連盟 |
加盟区分 | 企業チーム |
創部 | 1917年 |
廃部 | (2017年から休部中) |
チーム名の遍歴 |
|
本拠地自治体 | |
練習グラウンド | 三菱重工業長崎造船所スポーツセンター野球場(長崎市) |
チームカラー | 赤色、黒色 |
都市対抗野球大会 | |
出場回数 | 17回 |
最近の出場 | 2015年 |
最高成績 | 準優勝 |
日本産業対抗野球大会 | |
出場回数 | 4回 |
最近の出場 | 1973年 |
最高成績 | 初戦敗退 |
社会人野球日本選手権大会 | |
出場回数 | 11回 |
最近の出場 | 2016年 |
最高成績 | 優勝 |
全日本クラブ野球選手権大会 | |
出場回数 | ※出場資格なし |
1917年、三菱造船の長崎造船所を拠点に『三菱造船長崎硬式野球部』として創部。その後、本社の改称などに伴うチーム名の改称が数回あり、1964年から『三菱重工長崎硬式野球部』として活動。
社会人野球の九州地区においては、新日本製鐵八幡(旧:八幡製鐵)やJR九州(旧:門司鉄道局)や日鉄二瀬などが長年強豪チームとして君臨し、さらに電電九州などの台頭もあり、長年全国大会への出場にまで至らなかった。
本格的なチーム補強が実り、1975年に念願の都市対抗野球に初出場を果たした。1984年には、日本選手権に初出場を果たしている。
1991年の都市対抗野球では、小島啓民・林修治・牧瀬寅男らの活躍で決勝に進出するが、東芝に敗れ準優勝に終わった。チームとして小野賞、小島が久慈賞を受賞した。1999年の都市対抗野球では、内薗直樹・貝塚政秀・伊藤大輔・竹下慎太郎(大分硬式野球倶楽部から補強)らの活躍で8年ぶりに決勝に進出する。しかし、再び東芝に敗れ準優勝に終わった。伊藤が久慈賞を受賞した。
2000年は、投手陣で入社2年目の杉内俊哉が台頭し、打線も好調で圧倒的な力で都市対抗九州予選を突破。竹下慎太郎(大分硬式野球倶楽部)・帆足和幸(九州三菱自動車)らを補強し、万全の態勢で都市対抗野球に臨むが、準々決勝で優勝チームの三菱自動車川崎に逆転負けを喫した。
2001年は、都市対抗野球では2回戦で優勝した河合楽器に敗退。しかし、九州第1代表で出場した日本選手権では、社会人野球の金属バット使用が最後の大会で打線が爆発。2回戦の松山フェニックス戦では1試合チーム最多得点となる23点をたたき出し、決勝では都市対抗野球で2度優勝を阻まれていた東芝に快勝し、悲願の全国制覇を達成した。MVPはエース右腕の後藤隆之、首位打者賞は開田博勝、打撃賞は村上竜太郎が受賞。万全ではなかった杉内も最後には好投し、大きな手土産を作ってプロ入りしていった。
野球教室の開催など、地域密着の野球チームを目指す活動も行っており、2005年にチームの公式サイトを開設、2006年にユニフォームのロゴも"JUKO"から"Nagasaki"へ変更された("JUKO"の文字は"Nagasaki"の文字の上に残されている)。
2016年、シーズン終了をもって三菱日立パワーシステムズ横浜(旧:三菱重工横浜)と統合され[1]、『三菱日立パワーシステムズ』として神奈川県横浜市を拠点に活動することが決定した[2]。同年は、都市対抗野球への出場は逃したが、日本選手権に出場し1回戦で敗退。その後、長崎市での活動休止が正式に発表された[3]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.