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日本の野球選手 (1937-1994) ウィキペディアから
牧野 宏(まきの ひろし、1937年11月9日 - 1994年1月20日)は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
成田高等学校では投手、五番打者として活躍。1955年夏の県予選、南関東大会で3完封、5本塁打を記録。南関東大会決勝で鴻巣高を延長10回の末に破り、夏の甲子園に出場。甲子園では2回戦(初戦)で津久見高の田中喜八郎と投げ合うが、大差で完封負けを喫する[1]。高校同期に左翼手、四番打者の平山正行(南海)がいた。
法政大学へ進学。エース、中心打者として活躍するが、東京六大学野球リーグは当時、長嶋茂雄、杉浦忠らの立大全盛期であり、法大は優勝に届かなかった。しかし1957年秋季リーグで、シーズン最優秀防御率0.19のリーグ記録を達成。打者としては立大の長嶋と1厘差の打率.332でベストテン2位となる。1958年秋季リーグでは13試合に登板して12完投、立大に次ぐ2位となり、同季のベストナインに選出されている。1959年初頭に肋膜炎に罹患、春季リーグを棒に振るが、秋季リーグで打者として復活した。リーグ通算42試合登板、22勝11敗、防御率1.19、162奪三振。
卒業後は日本石油に入社するが、佐々木吉郎、伊藤正敏ら好投手がおり、病後ということもあって一塁手としての出場が多かった。1960年の都市対抗に出場。準々決勝からは四番打者として起用されるが、準決勝で高林恒夫のいた熊谷組に敗退[2]。
1961年に阪急に入団。実績のある右腕投手として期待され、同年は5月末から先発として起用される。しかし病の影響もあってすでに往時の力はなく、わずか1勝に終わった。1962年のシーズン途中から野手転向も模索するが、1963年には出場機会がなく、同年限りで現役引退。
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