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日本のキーボーディスト、作曲家、プロデューサー、実業家 ウィキペディアから
向谷 実(むかいや みのる、1956年10月20日 - )は、日本のキーボーディスト、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、実業家、タレント。東京都世田谷区出身。
フュージョンバンド・カシオペアの元キーボード奏者(1977年-2012年)、およびかつしかトリオのキーボード奏者(2021年-)。鉄道関連事業を行っている株式会社音楽館代表取締役社長。
1977年、ネム音楽院(現:ヤマハ音楽院)エレクトーン科在籍中であった20歳の時に、当時まだアマチュアバンドであったカシオペアにキーボーディストとして加入。1979年にカシオペアはメジャーデビューし、2006年の活動休止までリーダーの野呂一生と共に29年間歩み、カシオペアのサウンドを支えてきたが、6年後の2012年に活動再開する際に脱退した。脱退以後の音楽マネージメントは自身の会社である音楽館で行っている。
1995年、自身が培ってきたコンピューター技術を活かして、音楽館で実写版鉄道シミュレーションゲーム『Train Simulator』シリーズの制作および発売開始。1990年代後半から2000年代に掛けては、カシオペアとともに活動の柱となっていった。なお、音楽館は2000年代後半よりコンシューマーゲームから業務用分野の鉄道シミュレーターに事業を転換している。
カシオペア活動中からソロでの音楽活動を行っており、様々なアーティストのレコーディングに参加。自身が中心となってプロデュースしたものも数多い。
カシオペア在籍時はライブでMC(司会)も担当。MCでの巧みな話術はメディア出演でも評判となり、『Train Simulator』制作以後は熱狂的な鉄道ファンとして鉄道関連番組に頻繁に出演するようになり、業務用分野のシミュレーターに事業を転換してからはプロとしての立場で鉄道関連番組に出演している。また、その知見を買われて近年は情報番組にコメンテーターとしても出演するようになり、従来の音楽ファン、鉄道ファン以外からも広い知名度を得ている。
2021年からカシオペアの元メンバーどうしであった櫻井哲夫、神保彰との三人で、カシオペア時代と同じジャンルのフュージョン・バンド、かつしかトリオを結成して活動中。
世田谷区二子玉川出身[1]。幼少の頃から音楽を学び、4歳半からオルガンを、5歳からピアノを習い始め、6歳で既に作曲を行っていたという[2]。その後にエレクトーンに移行した。中学生時代はエレクトーンに精力を傾け、地区のコンクールで優勝するなどしていた。
しかし、全国大会出場への強化合宿に軽い気持ちで出たところ、他の参加者たちが自分よりも高度な英才教育を施されてきたことからレベルの違いに愕然とする。そういった理由もあり、東京都立大学附属高等学校(現:東京都立桜修館中等教育学校)入学後の高校生時代は、音楽はあくまでも趣味レベルに留めることにしたが、エレクトーンの教習には通い続けて、アルバイトでデモンストレーター(楽器店の店頭における試演奏者)もやっていく。将来の目標は音楽とは別のところに置いていて、弁護士として社会奉仕活動に従事することを掲げていた。高校三年生の現役時、その目標のためにいくつかの難関大学を受験するものの、あえなく全滅。高校を卒業後、大学受験浪人として予備校生活に入る。しかし、通学途中の繁華街で遊興に耽る日々が続き、さらなる学力低下を招いてしまう。我に戻って危機を感じた向谷は翌年の大学受験は諦めることにして、進路変更を決意。高校時代の担任に相談しに行ったところ、氏からのアドバイスにより、長年やってきたエレクトーンの腕を活かすことにして、「手に職を付ける」、「就職に有利」な面から、ネム音楽院(現:ヤマハ音楽院)のエレクトーン科に進学した。向谷はそこでヤマハ音楽能力検定の「エレクトーン部門グレード3級(演奏)」と「指導者グレード3級」の両資格を取得している。
このネム音楽院在籍時の1977年、友人を介して同学年の年齢だった野呂一生と知り合い、野呂が櫻井哲夫と結成していたバンド、カシオペアがアマチュアバンド・コンテスト「EastWest'77」に出場するにあたり、キーボーディストとして加入の誘いを受ける。その際、野呂はカシオペアの指向について、向谷が信奉していたミュージシャンの一人を引き合いに出して「チック・コリアみたいな音楽(当時活動していたエレクトリック編成のリターン・トゥ・フォーエヴァー)をやっている」と口説いた。カシオペアは前年度の同コンテスト(「EastWest'76」)に出場して決勝大会まで進出したこともあって、交友関係の輪の中にいた向谷も存在を知っていた。当初参加した理由は、前年度の同コンテストで野呂が最優秀ギタリスト賞を受賞し、その賞品として当時最新型にして最高級のエレクトリック・ギター(ヤマハSG-2000)を獲得したことが野呂本人から吹聴され、“この有望なバンドで決勝大会に出られれば、自分も欲しい楽器を獲得出来るかもしれない”という一時的なものだった。同じプロミュージシャンでも、これをきっかけにして(収入が不安定な)バンドマンになるなんて気はなくて、安定したエレクトーン業界で生活していく将来設計は据え置いていた。そして向谷を入れたカシオペアは自らのオーディションで選んだドラマーも加えて同コンテストに再出場することになる。
カシオペアに加入した向谷は、野呂が作ってきた楽曲における音楽性の高さに感銘する一方で、それまで野呂が独学で書いていた楽譜の楽典について専門教育を受けている立場から添削・修正する役割を請け負うなど深く関わっていく。また、前年度の決勝大会に出場したカシオペアの再出場は「EastWest'77」の注目の的であり、下馬評で最高位のグランプリが確実視されるなど、軽い気持ちで参加した向谷をどんどん本気にさせていった。そしてカシオペアは前年度に続き、決勝大会まで進出。惜しくもグランプリは獲れなかったが、優秀グループ賞を受賞した(なお、本年度は当初目当てにしていた賞品は出されなく、賞状のみであった)。この頃になると、向谷の気持ちはすっかり変わり、元からプロ志望であった野呂と共にカシオペアとしてプロデビューを目指すことになっていく。そして、カシオペアは「EastWest'77」決勝大会出場メンバーで都内近郊を中心にライブ活動開始。このデビュー前の時期、「EastWest'77」の審査員だった鳴瀬喜博に見いだされ、プロとしての仕事に度々誘われるようになる。また、この頃から家庭を持ち始めたこともあって、自活のために引き続きエレクトーンのデモンストレーターやスタジオ・ミュージシャン、コピー譜の採譜作業をするようになる。
1979年5月25日、日本におけるフュージョンブームの真っ直中、カシオペアはアルバム『CASIOPEA』でメジャーデビュー。野呂の優れた作・編曲の能力とともに、ライブで完全再現させる演奏力で高い評価を得ていく。そのデビューアルバムに付けられたキャッチコピー「スリル、スピード、スーパー・テクニック」の表現通り、超絶技巧かつアクロバティックな演奏スタイルで、向谷は同時に2台のキーボードを弾き分けるなどエレクトーン・プレーヤー出身の素性が活かされた。また、カシオペアはライブにおいて、結成時からしばらくはリーダーである野呂がMC(司会)を務めていたのだが、この頃に向谷に移行されることになる。カシオペアの演奏とともに向谷のMCも評判となり、その軽妙さから向谷の名字をもじり、司会屋実(しかいやみのる)の異名が与えられた。
カシオペアは当時半年というインターバルでのアルバムのリリースごとに売り上げを伸ばし続け、ライブの規模と動員もそれに伴って拡張していった。カシオペアが多忙になったこと、そしてカシオペアで安定した収入が得られるようになったこともあり、デビュー後も行っていたスタジオ・ミュージシャンを一時休止し、1980年代前半の一時期はカシオペアの活動だけに専念するようになる。しかしながら、カシオペア以外の音楽活動にも意欲的な心は持ち続けていて、1984年に初めて自身が音楽制作のイニシアチブを取って、亜蘭知子のアルバム『More Relax』をサウンドプロデュースした。さらに同年には都内にレコーディング・スタジオ「スタジオJIVE」を賛同者とともに建設し、向谷は関連会社の音楽館を興してスタジオ運営に参画する。以降、このスタジオJIVEが、初のソロアルバム『ミノル・ランド』のレコーディングをはじめとした向谷のホームグラウンドとなり、カシオペアの国内におけるレコーディングもここを中心になされていくようになる。
1980年代前半、趣味の一環としてパソコンを購入。熱中するようになった向谷は、国産からすぐに米国Apple Computerが出したばかりのMacintoshに辿り着き、パソコン通信で海外音楽関係者と情報のやりとりをしたり、デジタル機材のデータ管理など音楽活動にも用いていくようになる。1980年代後半から1990年代前半に掛けて、パソコン、とりわけMacintoshを使うミュージシャンの代表格として各種メディアに取り上げられるようにもなる。そして1993年、向谷は自身が経営する音楽館で、カシオペアが題材となった、映像と音楽を融合させたCD-ROMソフト『Touch the Music by Casiopea』を制作して発売する。これは後に制作する『Train Simulator』のプロトタイプともなった。
幼少の頃から鉄道が趣味で、切符収集から始まり、学生時代は当時ブームだった8ミリ映画カメラでSL(蒸気機関車)を撮りに遠方まで出掛けていた。カシオペア在籍時代もライブツアーで全国各地を廻る際、機会があればその地元の路線に乗りに出掛けたり、他のメンバーやスタッフが旅客機や新幹線で時間的に効率な移動をするなか、好んで移動時間が掛かる夜行列車など利用して鉄道趣味を堪能していた。また、1985年に発表した初のソロアルバム『ミノル・ランド』にSLの音が取り入れられた曲「TAKE THE SL TRAIN」を作って収録するなど、その趣味の熱心さは以前からカシオペア・ファンには知られる事柄であった。
1995年に世界初の実写版鉄道シミュレーションゲーム『Train Simulator』第1弾「中央線201系(中野-豊田)」(Macintosh用)を自身の会社、音楽館で制作して発売する。音楽活動で培ったコンピューター技術を用いて、列車の乗務員室から業務用ビデオカメラで撮影した実写のノンストップ動画を処理して完成したのが本作である。ソロ活動の一環ではあったが、多分な趣味的要素で個人的にプロジェクトを立ち上げたものであった。しかし、ドライブシミュレーションゲーム(自動車)・フライトシミュレーションゲーム(飛行機)しかなかった実機シミュレーションゲームに「鉄道シミュレーションゲーム」という新たなジャンルを生み出してヒットさせた。
これ以後、1990年代後半から2000年代前半に掛けて、向谷にとって『Train Simulator』シリーズの制作はソロ活動の柱となった。『Train Simulator』の音楽制作は自らで手掛けていたが、それ以外のソロにおける音楽活動は激減していった。時を同じくして、カシオペア自体の活動も年々減少していく。そのため、『Train Simulator』制作者として音楽とは異分野でメディア出演が増えていくも音楽シーンにおいては霞がちになっていった。
2006年8月1日、カシオペアはリーダー・野呂の意向により、レコーディングおよびライブなどの活動をすべて休止した。
カシオペア休止以降、向谷の音楽活動は逆に精力的になり、鉄道事業の音楽制作において起用したミュージシャンらで、向谷実とメロディーズ(宮崎隆睦、矢堀孝一、鹿島達彦、平川象士、壷井彰久)を結成し、鉄道イベント等でのデモンストレーション・ライブの他、有料での単独ライブも開催した。また、カシオペアのデビュー直後から親交がある三枝成彰の実験的なコンサートにも参加していくようになる。2010年、twitterでの交流をきっかけに歌手・中西圭三と向谷実×中西圭三プロジェクトが立ち上げられた。twitterで一般から歌詞を公募、レコーディング作業は全てUstreamで実況中継して制作過程を可視化、さらに当初はCDは制作せずにダウンロード販売でするなどインターネットがフル活用された実験的な音楽制作を行って話題となった。
2000年代後半、『Train Simulator』シリーズはタイトーとの合作による『Railfan』に収束して制作が休止するものの、向谷と音楽館はその応用として富士通と提携して鉄道会社が実際に乗務員の訓練に使用する業務用シミュレーターの開発を手がけるようになり[2]、2007年には鉄道博物館の展示品で来場者が動かす「国鉄D51形蒸気機関車運転シミュレーター」の開発にも携わった。これが近年の主な事業となっていく。
ニコニコ超会議における団体臨時列車ニコニコ超会議号や、東急百貨店東横店で毎年開催の「鉄道フェスティバル in SHIBUYA」などの鉄道関連イベントをプロデュース。
2012年4月、メンバー間での話し合いにより、向谷がカシオペアから脱退することが公式サイトで発表された(カシオペアはCASIOPEA 3rdとして6年ぶりに活動再開も表明。向谷の後任には大高清美が起用された)。これにより、向谷の音楽マネージメントも音楽館に移管されることになった。
2015年1月、自身のFacebookとTwitterでナレーターの藤みさきと再婚したことを報告した[3]。
2016年、東京で行われた楽器フェアにおいて、自身の還暦を記念したライブ「Minoru Mukaiya presents "EAST meets WEST"」を開催。1982年に発表されたカシオペアのセッション・アルバム『FOUR BY FOUR』で共演以来のリー・リトナー(ギター)とドン・グルーシン(キーボード)とネイザン・イースト(ベース)、旧知の神保彰(ドラムス)、村田陽一(トロンボーン)、エリック・ミヤシロ(トランペット)ら日米で活動する凄腕ミュージシャンを一堂に迎えて話題となった。
2018年、先述したライブがきっかけとなり、共演したドン・グルーシンら日米双方のミュージシャンと再演した、25年ぶりとなる3枚目のソロアルバム『THE GAMES-East Meets West 2018-』を制作して発表。レコーディング・メンバーでの国内ライブツアーも行った。
向谷が音楽館で手掛けている鉄道乗務員訓練用の業務シミュレーターは多くの鉄道会社で採用されるようになった。海外でも注目を浴びていて、日本が官民を挙げて海外に売り込みをしている新幹線では一役買っている。2015年には、東日本旅客鉄道(JR東日本)がアメリカ合衆国・カリフォルニア州知事のジェリー・ブラウンにプレゼンテーションをする際、総理大臣の安倍晋三に帯同して、シミュレーターのデモンストレーションを取り仕切った。2018年には、ドイツで開催されている世界最大の鉄道技術博覧会「イノトランス」に初出展。その模様はTBS系のドキュメンタリー番組『情熱大陸』の密着取材を受けて放送されることとなった。
神保との交流と共演に加え、2010年代後半からは櫻井哲夫との交流と共演も頻繁となっていく。2020年、櫻井と神保はカシオペア脱退後にかつて二人で組んでいたJIMSAKUを再結成し、彼らもまた交流と共演が頻繁となっていった。2021年、神保が単身での演奏によるワンマンオーケストラのかつしかシンフォニーヒルズ公演に、向谷と櫻井の二人がゲスト出演するにあたって、三人の共演形態に名称を付けることになって、ホール名に因んでかつしかトリオとした。当初はそこでの一回限りを予定したものであったが、前評判の高さから複数個所のライブツアーに拡げて行った。その盛況ぶりから翌2022年以降も活動を継続させることとなり、毎年のライブツアーを行い、そして2023年にはアルバム『M.R.I_ミライ』を制作してリリースした。
2022年6月4日、自身のtwitterにて、航空自衛隊のアクロバット飛行チームブルーインパルスの展示飛行用音楽の制作を進めていることを明かした。2023年度より使用される見込み。
2023年1月7日、2022年度の第64回交通文化賞を受賞[4]。これは「公的活動、学術研究、芸術活動、国際的活動等を通じ、我が国の交通文化の向上に著しく貢献した者」に対して国土交通大臣より贈られる賞であり、向谷がこれまでにリリースした鉄道運転シミュレーションゲーム「トレイン・シミュレータ」や発車メロディや車内チャイム制作などに貢献したことを評価したものである。
『Train Simulator』以外にも鉄道に関する音楽の活動を行っている。
2004年には九州旅客鉄道(JR九州)の九州新幹線新八代駅 - 鹿児島中央駅が開通した際に同線の業務音楽(発車音楽や車内音楽)制作を手がけたのをはじめ、以下の鉄道関連の音楽を手がけている。
作品名 | 発売日 | 備考 | |
---|---|---|---|
亜蘭知子 | More Relax | 1984年6月25日 | カシオペアのメンバー全員が作曲に参加し、櫻井と神保が演奏に参加。 |
松原みき | LADY BOUNCE | 1985年6月21日 | カシオペアのメンバー全員が制作(野呂作曲、櫻井と神保が演奏)に参加。 |
スーパーマンサンタ | 1986年11月21日 | 野呂との共同プロデュースによる子供向けクリスマス企画アルバム。 | |
TOKI CLUB | TWEENER | 1989年10月21日 | 土岐英史との共同プロデュース。TOKI CLUBとは向谷と土岐による企画ユニット名。 |
三國志II・三國志III | 1989年12月21日 | コーエーから発売された同名シミュレーションソフトのゲームミュージック。 | |
向谷実 | TIME SLIP | 1992年 | ヤマハシンセサイザーSY85販売促進8センチCD(非売品)。向谷によるSY85のミュージックワークステーション機能の紹介とそれを使用した自作自演曲。 |
戦国無双2 オリジナルサウンドトラック | 2006年2月22日 | コーエーから発売されたアクションゲーム「戦国無双2」の音楽を監修し、それをまとめたサントラ盤 | |
向谷倶楽部 | 向谷倶楽部の奇蹟 | 2011年8月29日 | ダウンロード販売のみだった音源をCD化したオムニバス盤。メイキング集なども収めたDVDを入れた3枚組となっている。 |
参加作品
演者名 | 作品名 | 発売年 | 備考 |
---|---|---|---|
LOFT SESSIONS vol.1 | 1978年 | デビュー前の作品。野呂と共に1曲参加。 | |
小熊達弥 | スパイアラル・フュージョン | 1979年 | カシオペアで全曲の演奏に参加。 エレクトーン奏者のアルバムで、向谷はエレクトリック・ピアノを担当。 |
ジュディ・アントン | サンシャワーズ・イン・マイ・アイズ | 1979年 | 演奏に参加。 |
山根麻衣 | たそがれ | 1980年 | 演奏に参加。 |
ジュディ・アントン | SMILE | 1980年 | 3曲を提供し、演奏とアレンジに参加。 |
山根麻衣 | SORRY | 1981年 | 2曲を提供し、演奏に参加。 |
ブレッド&バター | トゥナイト愛して | 1981年 | シングル曲。複数のベストアルバムにも収録。 カシオペアで演奏に参加。 |
三枝成彰 | ラジエーション・ミサ | 1981年 | 演奏に参加。 |
キャンディ浅田 | WELCOME BACK....to you | 1982年 | 演奏に参加。 |
大野方栄 | MASAE A LA MODE | 1983年 | 全10曲中9曲にカシオペアで演奏に参加。 |
赤尾三千子 | 横笛 / 赤尾三千子の世界 | 1983年 | 演奏に参加。 |
マリーン | Be・Pop | 1985年 | 2曲の演奏とアレンジに参加。 |
松原みき | LADY BOUNCE | 1985年 | 全曲のサウンドプロデュースおよび演奏、アレンジ、全10曲中6曲の作曲で参加 |
亜蘭知子 | IMITATION LONELY ―都会は、淋しがりやのオモチャ箱― |
1985年 | 神保彰が手掛けた3つの作・編曲に演奏で参加。 |
坂田おさむ 森みゆき |
ドラネコロックンロール | 1986年 | 作曲。NHK教育テレビ(NHK Eテレ)『おかあさんといっしょ』の「今月の歌」。 放送後にシングル化。他にも『おかあさんといっしょ』関連のアルバムに収録。 |
坂田おさむ 神崎ゆう子 |
げんきひゃっぱい | 1987年 | 作曲。NHK教育テレビ『おかあさんといっしょ』の「今月の歌」。 後に『おかあさんといっしょ』関連のアルバムに収録。 |
堀井勝美プロジェクト | OCEAN DRIVE | 1988年 | 演奏に参加。 |
MALTA | SAPPHIRE | 1989年 | 演奏に参加。 |
PLAYERS POLE POSITION Vol.2 SURFIN' U.S.A. |
1989年 | ザ・ビーチボーイズのカバー曲集。 野呂、翌年にカシオペアに加入する鳴瀬らと3曲の演奏に参加。 | |
鳥山雄司 | プラチナ通り | 1990年 | 2曲の演奏に参加。 |
中西圭三 | Ticket To Paradise | 1992年 | シングル曲。ベストアルバム『SINGLES』にも収録。 ホーンアレンジを担当。ギタリストとして野呂が演奏に参加。 |
高中正義 | Fade to blue | 1992年 | 演奏とアレンジに参加。 |
高中正義 | AQUAPLANET | 1993年 | 演奏とアレンジに参加。 |
高中正義 | BLUE SHARK | 1993年 | 演奏に参加。 |
堀井勝美プロジェクト | Sunday Brunch | 1994年 | 演奏に参加。 |
中森明菜 | true album akina 95 best | 1995年 | 中森明菜の自身の曲のリアレンジおよび新録3枚組アルバム。
3曲の演奏とアレンジに参加。演奏には鳴瀬も参加。 |
KOJI12000 | DISGUSTING | 1998年 | テイ・トウワプロデュース。矢沢永吉のカヴァー「時間よ止まれ」にカシオペアとして演奏に参加。 |
ヤマハ・MONTAGEシリーズを2016年の発表当初からメイン機材として使用している。また、かつてメインで使っていたヤマハDX7やローランドVP-330などもその音色への懐かしさを求めて時折使っている。
自身が所属するかつしかトリオのレコーディングでは、Nord Stage 3 Compactを導入し、同バンドのライブにおいてはMONTAGE 8と2段重ねで演奏していた。2023年10月発売のMONTAGE Mシリーズ導入からはMONTAGE M8xおよびMONTAGE M7の2台を使用。
カシオペア時代からヤマハ製のキーボードをメインに使用していて、代表的なユーザーの一人である。しかし、1979年のデビュー時は、ヤマハ製のキーボードは向谷個人では持っておらず、ステージではアマチュア時代から使っていたローズ・スーツケース・ピアノ(73鍵式)とコルグ800DV(1974年発売開始のデュオフォニックアナログシンセサイザー)、その二機種のみを使用していた(なお、その二機種はネム音楽院の同窓生だった倉田信雄から譲渡してもらったものである)。デビュー直後にローランドから当時出たばかりのVP-330(ヴォコーダー)を購入して前述の二機種に加えて使うようになる。レコーディングではそれらに加えアコースティックピアノの他にファーストアルバムでエレクトーンのヤマハEX-1、セカンドアルバムではハモンドB-3を使っていた。
1980年頃にライヴで使用していた機材は前述のローズ、800DV、VP-330に加えポリフォニックシンセのコルグDELTA(後に音色メモリーの付いたポリフォニックシンセの同TRIDENTに変更)、オルガンのコルグCX-3などで、その他にヤマハCP70やヤマハSK20なども使用するようになりキーボードの台数は増えていく。レコーディングでもレンタルやマニピュレーター所有の機材を使用するようになり、松武秀樹が参加したアルバム「MAKE UP CITY」ではシーケンシャル・サーキット プロフェット5を使用したり、マイケル・ボディカーの参加した「EYES OF THE MIND」ではプロフェット5、ポリモーグ、アープ2600等も使用している。その後他のメンバーと同様に本格的にヤマハからの支援を受け、CS70Mや GS1 などヤマハ製キーボードのフラグシップモデルが貸与されるようになる(ほかにもヤマハが輸入元となっていたモーグ・シンセサイザーも貸与される)。また、デジタルシンセサイザーの先駆けであるヤマハ・DXシリーズの音色開発も初期の頃から手掛けるようになり、そのシリーズ初の製品であるDX7や、DX7の派生機種であるDX1、DX9なども発売後(DX9はアルバム「フォトグラフス」で発売前の試作機を使用)すぐにカシオペアのレコーディングとライヴで使っていたことで、いち早く代表的なDXシリーズのプレーヤーともなった。プロ仕様ながらも比較的低価格だったDX7はカシオペアをコピー演奏するアマチュア・キーボーディストにとってもマストアイテム的なものとなり、それに応えるかたちで、向谷が実際に使っていたDX7用の音色データを専用ROMに収めたソフト「Voice ROM for DX7 向谷実」(リットーミュージック)が発売された。
DXシリーズに搭載されていたMIDIを駆使した複合的なキーボードサウンドを早期から積極的に導入していたことで、1980年代後半からはTX816などのラック式の音源モジュールにマスターキーボードであるヤマハ・KXシリーズのKX88およびKX76をつなぐ合理的なシステムが構築された。使用する音源モジュール類は、TX816のほかにPCM音源のローランドD-50のラック版D-550、コルグM1のラック版M1RやサンプラーのヤマハTX16W等が増え、その後もデジタルシンセサイザーやサンプラーの急速な進化とともに日々目まぐるしく変わっていったが、この2つのマスターキーボードは1980年代後半から1990年代後半まで十年以上にわたって向谷のフロントに置かれ続けたことにより、当時のカシオペアと向谷にとってアイコンになった。その後、1998年に出されたヤマハ・EXシリーズ、2001年に出されたヤマハ・MOTIFシリーズを使うようになり、フロントのマスターキーボードとしても置かれたことにより、KX88とKX76は表舞台から去った。意外なことにはヤマハとは楽器使用に関しては専属契約を一度もしていないと言う。ヤマハ製のものが占めるようになってからも、自ら購入したVP-330は長年にわたって使い続け、その他の他社製品もレコーディングおよびライブで使っていることを隠していない。
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