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アメリカが開発した艦上戦闘機 ウィキペディアから
F-4 ファントムII(McDonnel F-4 Phantom II)は、アメリカ合衆国のマクドネル・エアクラフト(その後マクドネル・ダグラスを経て、現在のボーイング)が開発した艦上戦闘機である。アメリカ海軍をはじめ、多くの国の軍隊で採用された。愛称はファントムII(Phantom II)。
アメリカ海軍初の全天候型双発艦上戦闘機として開発され、大型の翼と高出力のジェットエンジンを双発で装備し大きな搭載量を特徴としている。当初の機種番号は海軍ではF4H、アメリカ空軍ではF-110だったが1962年にアメリカ軍の軍用機の命名規則統一によりF-4となった。
ベトナム戦争での活躍から多くの西側諸国に採用され、各国の要求に応じて様々な派生型が数多く作られたことにより冷戦期の代表的な機体となった。数々の実戦戦績や各国へのセールスの成功も含めて傑作戦闘機と評価され、マクドネルの発展の原動力としてその名を世界に広めた戦闘機とされる。
マクドネルとダグラスの合併によりマクドネル・ダグラスとなってからも生産が続き、総計5,195機生産された。超音速戦闘機の歴史で5,000機以上製造されたのは、このF-4とMiG-19、MiG-21、MiG-23の4機種しかない。現在のベストセラーF-16が2018年時点で約4,600機[2] であることを見ても特筆すべき生産数である。なお、全世界通算での、F-4の最終生産機は、日本の航空自衛隊の第7航空団第301飛行隊所属の「17-8440」(機番440号機、通称:シシマル)である。
設計・初飛行から約40年が経過した1990年代半ばに開発国のアメリカでは全機退役し、2000年から2015年ごろに多くの国で退役が進んだ[3][4]。日本の航空自衛隊でも2021年3月17日をもって全機退役し[5][6]、今後も残った採用諸国でも退役が進む見込みである。
1950年代から1960年代には空対空ミサイルや超音速機の実用化が進められ、「超音速機同士の交差時間はごく僅かであって航空機関砲による撃破は困難であるため、将来の空戦はミサイルが主役となり、戦闘機はミサイルを運ぶ存在(ミサイルキャリアー)になる」というミサイル万能論が主流となった時期があった。
このため、アメリカ空軍では、格闘戦に重要な旋回性よりも速度や航続力を重視した護衛戦闘機F-101や戦闘爆撃機F-105、空対空ミサイルを遠距離から発射する迎撃戦闘機F-102やF-106等の開発が重視されることとなった。
F-4自体も当初は機関砲は不要として装備されず、空対空ミサイルの搭載量が重視された。
1952年7月、アメリカ海軍はグラマンにF9F-9(後のF11F-1)を発注し、また、9月にアメリカ海軍は超音速昼間戦闘機の提案依頼(RFP)を発表し、応募8社からチャンス・ヴォートの「F8U クルセイダー」を選択した。
この結果、マクドネルはFH ファントム、F2H バンシー、F3H デーモンと続いてきた艦載戦闘機の受注を失うこととなった。これに対してマクドネルはF3HのエンジンをライトJ67に換装しM1.69を狙う「F3H-C スーパーデーモン」、さらに三車輪式降着装置や後退角45度面積450平方フィートの翼を与えたF3H-E、F-101ブードゥーのレイアウトを織り込み双発のライトJ65に低翼配置の面積530平方ftの主翼と全浮動の尾翼を持つF3H-Gと社内検討を行っていた。
マクドネルは1953年9月19日にF3H-Gをアメリカ海軍航空局に提出した。F8U契約直後の海軍は数週間の後に却下したものの作業自体の継続は奨励したため、1954年前半にモックアップは完成し、海軍の上級職員に公開されるに至った。
1954年中頃にアメリカ海軍航空局は全天候戦闘機の提案要求を出した[7][8]。これに対してマクドネルからは単発のF3H-Eと双発のF3H-G、他にグラマンとノースアメリカンから提案が提出された結果、1954年10月18日にマクドネルはF3H-G案を基にしたYAH-1プロトタイプ2機建造の同意書を受け取った。しかし、海軍側で要求を明確にすることができずにいたため、実用化を約束されたものではなかった。とはいえ、数ヶ月のうちに要件として半径250海里で2時間以上の戦闘航空哨戒を実施できる艦隊防空戦闘機とすることが明確になり、F4H-1と改称されることとなった。
マクドネルのモックアップは4門の20mm機関砲を装備することとしていたものの、アメリカ海軍は4発のスパローミサイルの装備のみを要求した。しかしながら、前述されたこの楽観論は、後にアメリカ海軍をはじめとする使用者を悩ませる問題を引き起こすこととなった。F3H-Gは新基軸となるスパローの胴体下半埋め込み式装備に変更され、また、M1.5を想定していたライト J65から当時最新鋭のゼネラル・エレクトリック J79-GE-2に変更してM2級とすることとなった。
要求仕様では火器管制装置の技術的信頼性の問題から搭乗員数の指定はなく、マクドネルは単座と複座の両案を提示していた。これに対してアメリカ海軍は早々に複座案を採択した。また、胴体中心線上の600ガロン入り落下タンク用を除きパイロンは廃止されるものとされた。
1955年6月25日に2機の「XF4H-1」テスト機と5機の「YF4H-1」試作機の正式契約が締結された。
1958年5月27日、原型機であり第一号機でもあったマクドネルの「XF4H-1」が初飛行を行い、油圧系統の不具合で降着装置の格納はできなかったものの飛行自体は不具合なく終わっている。同時期に試作されていたチャンス・ヴォートのF8U-3は、この6日後に初飛行を行っている。
それぞれの初飛行成功後、エドワーズ空軍基地にて両機の比較審査が行われた。1958年12月、単発単座のXF8-Uに対する複座型・双発エンジンの優位性と搭載力が評価され「XF4H-1」が選択された。当時、それまでの超音速戦闘機にみられない太い胴体と直線で構成された大型の主翼を持ち、白鳥になるかどうかも分からない「みにくいアヒルの子」と関係者の間で囁かれたこの戦闘機には、幻影や亡霊という意味を持つ「ファントム II:Phantom II」の愛称が与えられた。IIとなったのは太平洋戦争末期にマクドネルがFH ファントム(世界初の実用ジェット艦上戦闘機)を開発したことによる。しかし先代(FH)は少ない生産数と運用期間の短さから知名度が低く、ファントムといえば本機を指すようになっていった。
アメリカ海軍はマクドネルに対し、既に完成していた原型機「XF4H-1」2機に加え、21機の量産原型機(F4H-1F)を発注した。この計23機でより実戦的な評価作業と原型機の洗い直しが行われた。この研究・開発用の21機はそれぞれメーカーであるマクドネルや、エンジンを担当したゼネラル・エレクトリック、ミサイルを担当したレイセオンなどに各種研究開発のために引き渡され使用されたため、ひとつとして同じ機体はなかったと言われている。この時期にレーダーを換装したことによるレドームの大型化やキャノピーの改善も行われている。
これらに続き生産された24機は訓練用としてアメリカ海軍や海兵隊に引き渡され、パイロットや整備員の訓練に使用された。
F-4の大きな特徴に、無給油で3,184kmを飛行できる航続距離が挙げられる。高い推力と引き換えに燃料消費の激しい大型エンジンを2基も搭載していたが、それを補ってあまりある燃料搭載量は、胴体内6個と主翼内に2個のタンクに加え、胴体下の600ガロン増槽と主翼下370ガロン増槽の総計3,370ガロン(12,460L)と、当時の群を抜くものだった。さらに空中給油能力も合わせると、パイロット自身の持久力の許す限りの航続時間を持つこととなった。
また、アメリカ海軍初の複座型艦上戦闘機であることも特徴となっている[注 1]。F-4では前席にパイロット、後席にレーダー・航法担当のレーダー迎撃士官が搭乗する。キャノピーは前後席が独立したタイプである。
コックピット前席の前面計器盤は、円形のレーダースコープとその操作装置を中心として、上部に光学照準器(HUDではない)、中央部にコンパスや水平儀等の操縦関係の計器、左に操作系、右に警告灯、下側に油圧系統のメーターやゲージが備わり、サイドコンソールに各制御スイッチが配置される。レーダースコープ横に、360度をカバーする円形レーダーホーミング及びレーダー警戒装置用の表示装置が配置される。またF-4Eでは、スロットル・レバーや操縦桿に、レーダーなどの装置の操作スイッチが取付けられたが、これは今で言うHOTASとは異なる。
後席の前方視界は殆どなく、レーダー迎撃士官はパイロット用射出座席、つまりパイロット背中部分のレーダースコープや各種計器を使用し、機内通信装置を用いてパイロットに現在位置や周囲の状況を伝える。後席右パネルには操縦桿の代わりにレーダー操作用ジョイスティックがある。原型である海軍型には後席に操縦装置は無いが、空軍向けの派生型では、後席にも操縦系統を設けている。前後席ともに空戦時の後方確認用にキャノピー枠内側に凹面鏡のリアビューミラーを備えている。
胴体下には、AIM-7スパローミサイルを半埋め込み式で4発搭載、左右の主翼下の各2箇所と胴体中心線下の1箇所に、ミサイルなどの兵装や増槽、または電子戦ポッドを搭載するためのパイロンを設置可能なハードポイントを装備している。
エンジンは当時最新鋭のゼネラル・エレクトリック J79とされた。F-104Aにも採用されたJ79-GE-3A型エンジンはアフターバーナー時の推力が6,715kgと当時としては群を抜く推力を発揮しているが、さらに双発とすることでさらなる搭載力や機動性を確保している。
2基のエンジンは機体中央に寄せ尾翼はノズル上部後方に配置しているが、これはマクドネル社の前作のF-101戦闘機と同じスタイルである。
開発中、地上でのアイドリング状態からアフターバーナー点火時のマッハ2.2まで、同一のエアインテーク形状では対応できないという問題が判明している[注 2]。
この問題はエアインテーク周辺に発生する衝撃波が空気吸入を妨げることが原因と判明しており、対策としてエアインテーク直前のスプリッターベーン(境界層分離板)の先端をマッハ2に対応した位置に調整し衝撃波面をコントロールして空気流を確保している。
スプリッターベーンには表面で成長する境界層を吸い取るために各12,500個の小穴を空けてあり、この排気はスプリッターベーンの上下に出っ張ったアウトレットから排出される。それより後方のエアインテーク内の境界層は別に吸い取られエンジン周囲を冷却して後方に排出される。そのためスプリッターベーンとエアインテークに構造の隙間が見て取れる。また、スプリッターベーンはインテークへの境界層の進入防止と境界層の吸入による振動(バズ)を防ぐため胴体の間に50mm程の隙間が設けられている。スプリッターベーンと胴体表面との間の境界層はくさびがたで上下に逃がされる構造となっている。スプリッターベーンはインテークランプを兼ねており、前半は固定ランプで、後半とその奥は可変ランプで、吸気を適切な流量と流速に調節できる。
「J79」を大別すると、B型が搭載した「J79-8」(最大推力7,710kg)、C/D型が搭載した「J79-15」(最大推力7,710kg)などのノズルが短いタイプと、J型が搭載した「J79-10」(最大推力8,120kg)、E型が搭載した「J79-17」(最大推力8,120kg)などのノズルが長いタイプがある。
主翼はアスペクト比2.8テーパー比1/7で、後退角は翼弦長25%で45度、前縁で52度であり、また、後縁にも若干の後退角がついている。クリップドデルタ翼と後退翼の中間的なものである[注 3]。
開発初期の風洞試験の結果、主翼全体に5度の上反角を与える必要があると判明したが、機体主要部のチタニウム構造材の再設計は困難だったため、主翼幅70%辺りで折り畳まれる外翼部のみに12度の上反角を与えることで同等の効果を得るものとした。また、同じ外翼部の翼弦長を10%程度延長してドッグトゥース[注 4] としている。
また、主翼は低翼配置であり、水平尾翼のほうが高い位置にある。この配置は迎え角を大きく取ると主翼の後流が水平尾翼の効果をなくし急激な機体の頭上げ(ピッチアップ)を生じること[注 5] が判明した。そのためF-4では風洞試験の結果を受けて水平尾翼に23度と大きな下反角をつけることで対処している。なお、水平尾翼(スタビレーター)は全面が一体となって可動する(F-15やF-16のようなエルロンの代わりとしても機能する「差動(アウト・リガー)方式」ではなく、左右の尾翼は一体となっているため、常に左右同じ動きとなる。回転軸はスタビレーターより10 cmほど高い位置にあり、ブランコのように動く)全浮動式(オール・フライング・テール)を採用しており、尾翼前縁で発生した衝撃波の干渉を受けることなく操舵が行えるようになり、超音速飛行時においても機動性を低下させることがなくなった。そのため、F-4以降の戦闘機においても水平尾翼は全浮動式が採用されている。尾部にはドラッグ・シュートと水平尾翼を作動させる装置が内蔵されているほか、垂直尾翼の安定板前部の中央には、スタビレーター人工感覚システムの圧力センサーが取付けられている。
その後の研究で、主翼を尾翼より上に配置すれば、ピッチアップは防止できる事が判明した[注 6]。また、低翼配置は、爆弾・ミサイル等を翼下に吊下するためには降着装置を長大化する必要があり、これもまた問題となった。そのため通常尾翼型の超音速戦闘機においては、これ以降は高翼配置が主流となっていった[注 7]。
基本的に尾翼周りの設計は超音速機の発展途上の形態であり、その技術の未熟さは遷音速域において操縦安定性を悪化させる要因になっている。当時のマクドネル社の基本設計は短いジェットインテーク-ノズル系で機体の軽量化を図り、その上に胴体尾部を延長しているため、ジェット推力の変化による水平尾翼との近接作用で有害な上下力が発生する。高い尾部の上にさらに垂直尾翼を設置している一方で、艦載機ゆえに機体の上端は制限されてしまうためアスペクト比の小さい形となり方向舵の効きが悪く、旋回時に過大なアドバースヨーが発生する。
主翼前縁フラップには、初期型ではエンジンコンプレッサー17段目より抽気した空気を吐出する、BLC(境界層制御)装置を装備していたが、F-4Eの後期型からは前縁スラットに改良されている[注 8]。主翼の内翼部後縁には、内側にフラップ、外側にエルロンを装備しており、フラップ類は着艦時など低速での揚力を確保するだけでなく、空戦フラップとして使用されることで改善されている。ロール制御には、エルロンと、その前方の主翼上面にあるスポイラーを用いる。揚力を上げるときにはエルロンが降りる。エルロンは水平位置より上には動かない。揚力を削る時にはスポイラーが起き上がる。
当時の戦闘機は超音速飛行時の抗力低下を重視し、主翼面積の小さな高翼面荷重の機体が多かったが、F-4は離着艦性能の維持のため大面積の主翼を採用し、翼面荷重は低くなっている。元来は大型のミサイルキャリアーとして設計され戦闘機同士の空中戦・格闘戦を念頭に置いていなかったものの、低翼面荷重と高推力重量比により格闘戦もこなせる機動性を得ることができた。その空戦性能は、海軍機ながら当時のアメリカ空軍のセンチュリーシリーズなどを凌駕しており、のちに(軽快なMiG機相手に苦戦を強いられる局面もあったものの)ベトナム戦争など数々の実戦でも証明された。
機首部分にウェスティングハウス製APQ-72を搭載し目標の捕捉とスパローミサイルの誘導に使用している。
原型機18号機までは直径が約60cm(24in)のAPQ-50パラボラアンテナだったが、19号機以降では約81cm(32in)への大型化に合わせてレドームも「ドルーピーの鼻」と呼ばれた大型のものに変更された。これによって前方下方向の視界が損なわれたとして後部座席からの後方視界不良の問題も合わせてキャノピーの改良も行われ、機体の背部に沿わせたラインからより膨らませた外形に変更され相応の改善を得ることとなった。
ホイールベース7.01mトレッドベース5.46mと幅広の三車輪式降着装置は着艦時の衝撃に耐えられるように着艦重量17,250kgで7.2m/sの沈下速度[注 9] に耐えるべく太く頑丈に設計されている。海軍型は前脚を51cm(イギリス海軍向けK型は102cm)伸ばして離艦時の迎え角を稼ぐことができる。
着艦時に使用するアレスターフックは尾部に収められ4.8Gの荷重に耐える。アレスターフックは空軍型にも残されている。
機尾に装備されるドラッグシュートは直径4.8mで着陸時だけではなく空中でのスピン回復にも使用可能とされている。
1963年にF-4Bが艦隊配備を開始されて実戦配備下にあった10年間に改良が重ねられ、その間、前縁スラットの追加や受信アンテナの整備、ベトナム戦争中の機関砲の搭載や搭載兵器の追加などが行われた。
初めての大規模改修が1973年の近代化改修と寿命延長で、ベトナム戦争を経たF-4Bの残存649機の中の飛行時間が短く、また、激しい空中戦に参加していない148機に対し「F-4J」に準じた能力(エンジンは排気煙軽減装置の追加のみ)とする改修を行い「F-4N」と改称した。海兵隊のF-4BもF-4Nに改修された。
アメリカ空軍のF-4Dの一部もLORAN航法装置(自機の位置を把握するための装置)の受信アンテナが追加された。また、固定武装として機関砲を搭載したF-4Eも海軍のF-4に装備していた前縁フラップや電子光学望遠鏡、TISEO兼用レーダースコープが追加された。
1967年より生産された522機のF-4Jの内260機も1978年から1987年までに一機当たり180~190万ドルの費用で行われた J79-GE-10B 無煙型エンジンへの換装と前縁スラット追加による延命改修により「F-4S」となった。
F-4が初飛行した1950年代はアメリカとソビエトの最新鋭機を使用した熾烈な世界記録更新競争の時代でもあった。また、アメリカ空軍と海軍も記録の更新競争を行う形となっていた。
マクドネルは1964年会計年度の総売り上げ8億6,500万ドルの7割を国防総省関係からの受注で占めていた。前年度比で3億ドル増を記録しており、アメリカの経済雑誌「フォーチュン」は1964年11月号で当時のマクドネルの活況振りを6ページに渡り紹介した。
軍用機生産に限れば売り上げの2億4,500万ドルの大部分がF-4によるものだった。翌年の1965年にはF-4の年間生産数は500機を突破することが既に決まっていた。マクドネルの敷地面積は50万m2を超え従業員数は3万5千人となった。また、10社を超すアメリカ国内の有力航空宇宙メーカーをおさえてマーキュリー計画の宇宙カプセル開発と生産をNASAから受注している。1939年に15人の従業員とビル2階の間借りでの創設当初から見ると空前の成長だったことが分かる。
だが、創設者であるジェームス・スミス・マクドネルJrはF3H デーモンとF4H ファントムIIの空白期の経験などから浮き沈みの激しい国防総省からの受注に頼っていては心細いと考え、軍事専門の航空機メーカーからの脱却と規模拡大を図り、ベトナム戦争により軍事物資生産に優先された資材の入手難と旅客機受注の伸び悩みにより経営難にあったダグラスを1968年に吸収合併した。以降マクドネル・ダグラスとなり、ダグラスの旅客機の製造と共にA-4 スカイホークの生産を引き継ぐこととなった。
その後、マクドネル・ダグラスは軍用機部門ではF-15 イーグルやF/A-18 ホーネット、C-17 グローブマスターⅢ、民間部門ではダグラスから引き継いだDC-10やDC-9に加えてDC-9の発展形であるMD-80シリーズを送り出して成功を収め、軍民両部門の航空機メーカーとして成長を続けた。1985年にはヒューズ・ヘリコプターをも傘下に入れるに至ったが、冷戦終結による軍需減少や民間機市場におけるMD-11やMD-90の苦戦、中国企業との提携による航空機製造工場の失敗によって苦境に陥り、最終的に1997年、マクドネル・ダグラスはボーイングに吸収合併されて消滅した。
1959年に始まり1960年2月15日に空母「インディペンデンス」における初の離着艦全通試験など一連の航空母艦適合テストで十分な結果を得たアメリカ海軍は1961年に正式にF-4Bの艦隊配備を開始した。
アメリカ大西洋艦隊初のF-4飛行隊となったのは空母「フォレスタル」搭載となる第74戦闘飛行隊だった。太平洋艦隊は1962年に空母「キティホーク」搭載の第114戦闘飛行隊がF-4Bの引き渡しを受けている。
配備開始2年後の1963年時点でF-4保有飛行隊は6個となっていた。この時点でも旧世代のF3H デーモンやF4D スカイレイを運用中でありF8UもF-4と並ぶ主力戦闘機だった。それに対してアメリカ海軍は1965年の時点でF-4を搭載可能なミッドウェイ級以上の空母11隻の全飛行隊へのF-4を配備しようと計画した。1隻当たり二個飛行隊分を配備しようとすると単純計算で244機を必要とし、同時期にアメリカ軍が北ベトナムへの爆撃を開始したこともあり、F-4飛行隊の増強が続いた。
アメリカ海兵隊は海軍への配備開始から一年後の1962年から配備を始めた。F-4Bを初めて受領したのは第531戦闘攻撃飛行隊で、翌1963年には第314戦闘攻撃飛行隊が受領し、同年10月に日本の厚木基地に派遣されている。日本への配備は東南アジアから最短距離にあるためベトナム情勢を鑑みてのことだった。戦争中期頃からは施設の整備の進んだフィリピンの基地を使用するようになった。
当初、F-4は艦上機として開発されたが、空海両軍での戦闘機の共用化によるコスト削減を目論むロバート・マクナマラ国防長官の方針もあって、空軍規格に改められた機体をF-110A「スペクター(Spector)」として採用した。1962年に3軍統一の機体命名法が施行されるとF-4Cに改めている。
空軍への採用の際の変更点は
F-4が当時のアメリカ空軍戦闘機に勝っていたのは、J-79エンジン双発の大パワーと、それに伴う機体規模の余裕であった。ただし全面的に優れていた訳ではなく、低空での速度性能や安定性では高翼面荷重の機体であるF-105に、レーダーや電子装備では全天候要撃機のF-106には劣っていた。しかしながら総合性能においては空軍機を凌駕する事を空軍側でも認めざるを得ず、採用に至った。ベトナム戦争が本格化する直前の1964年、F-4Cを受領した第555戦術戦闘飛行隊が那覇空軍基地の第51戦闘迎撃航空団に配備された。
後の視点から見ればF-4の最大の長所は、低空侵攻任務では欠点となった低翼面荷重であった。ミサイルキャリアーとして開発された機体であり、空戦性能向上を意図したものでなく、艦上戦闘機としての離着陸(艦)能力を確保するためのものであったが、副産物としてまずまずの格闘空戦性能を発揮した。当時の空軍機は要撃機および戦闘爆撃機が主体で、当時のミサイル万能論の影響もあり、空戦性能を軽視していた。結果としてF-4はベトナム戦争において、その空戦性能で活躍する事になる。
また、アメリカ空軍は当初海軍に提案されていたF-4の偵察型をF-4Cの機首を改造した戦術偵察機RF-4Cとして導入した。アメリカ海兵隊でもF-4B/Jを戦術偵察機に改造したRF-4Bを導入した。これに対してアメリカ海軍はRF-4を採用せず、RF-8やRA-5、その後継として偵察ポッドを装備したF-14を用いて偵察を行なった。
1969年にF-4Jを導入し全米やヨーロッパでアクロバット飛行を披露した。アジアでは日本や韓国にも飛来している。日本に飛来した際にはその騒音から住民から苦情が寄せられた。そのため「もう日本には来ない」とブルーエンジェルスのメンバーは激怒したという。これが原因なのかは不明だが以降ブルーエンジェルスは来日していない。1974年に、A-4F スカイホークに機種転換した。
ブルーエンジェルスと同じく1969年にF-4Eを導入した。こちらも1974年にT-38A タロンに機種転換した。
F-4は同じく出撃したF-8クルセイダーとは異なる最大8発搭載の空対空ミサイルのうち4発のAIM-7ミサイルと当時としては際立って有力なアビオニクスによりレーダー捕捉段階で視界外から敵機を撃ち落すことを可能としたミサイルキャリアーだった。
しかし、F-4初の実戦となったベトナム戦争ではレーダーでは敵味方判別をできないことから生じた同士討ちの結果として、視認前のミサイル発射を禁止されたり、ミサイル装着時の部品の破損などの人的ミス等によるミサイルの信頼性の低下、当時の技術的限界によるミサイルの性能不足[注 11] 等により、F-4の特質を十分に生かすことができず、また、開発時に想定していない空対空格闘戦という状況に対して訓練不足[注 12] と兵装の制限(機関砲を内蔵しない)、さらには爆撃機護衛・制空権確保という任務上、戦闘空域に留まる事が求められたため、苦戦を強いられることになった。
北ベトナム空軍の運用するMiG-17やMiG-19、MiG-21等は旧型ながら優れた機動性と制約の少ない機関銃を持ち、地上管制の元で限定された戦術目標を達成すれば充分という有利さ、さらには迎撃任務が主でミサイルを撃った後は戦闘空域から離脱する事もできた事から、F-4をはじめとするアメリカ軍の戦闘機部隊を苦しめたのである。
とはいえ、当時のアメリカ戦闘機としては運動性は優れており、MiG戦闘機には運動性に遅れを取ったとしても、他に代えるべき機体は存在しなかった[注 13]。空軍においては、機関砲を固定装備とし、運動性を向上させたE型を就役させ、格闘戦への対処とした。また、結果的には空戦での撃墜成績については、MiG戦闘機に勝っていた。しかしながら乗員が2名なので、戦死者の数は敵より多かったともされている。
また、MiG戦闘機との空中戦で、F-4の空力的な弱点として、急旋回などで高迎角での機動中に補助翼を操作すると、パイロットが意図した方向とは逆方向に「ヨーモーメント」と呼ばれる力が発生し、機首が操縦と逆の方向を向いてしまい、操縦が難しくなることが判明した。この現象は補助翼のアドバースヨーとしてよく知られた現象であるが、これが原因で瞬時にスピンに入ってしまう傾向が指摘されていた。
この対策として、主翼の前縁と後縁にスラットやフラップの高揚力装置など、様々な仕様で飛行実験が行われた結果、スラットが最も効果的であることが判明した。空軍では1972年から全てのF-4Eにスラットを装備することになり、海軍でも既存機の近代化改修時にスラットを取り付けF-4Sとする工事が行われた。スラットを取り付けたF-4は高迎角時の飛行安定性とともに、離着陸性能も向上した。
1991年に勃発した湾岸戦争にもF-4が投入された。この時は制空任務等を後継機であるF-15などに譲り、作戦運用上最後の派生型となったF-4Gがワイルド・ウィーゼルの任に就いた。
アメリカ海軍では1973年よりF-14の配備に伴い徐々に数を減らし、1986年に空母「ミッドウェイ」搭載のF-4とA-7がF/A-18へ機種転換したことで全機が空母上から退役した。予備役飛行隊に配備された機体も翌年には姿を消している。
アメリカ海兵隊ではF/A-18への更新により1992年に全機退役した。
アメリカ空軍ではF-15やF-16の配備が進むにつれて戦闘機としては一線から徐々に退いていたが、SEAD専用機材であるF-4Gは湾岸戦争に投入された。しかし、老朽化と陳腐化は否めず、無人標的機(QF-4Bなど)に改造されたものを除き、1991年の湾岸戦争を最後として実戦配備からすべて引退している。一部空軍州兵での使用は続いていたが、1996年のアイダホ州軍F-4Gを最後に米空軍予備役からの引退も完了した。エドワーズ空軍基地にあるアメリカ空軍テストパイロット学校のテストパイロットの養成課程ではF-4が使用されていたため、状態の良い機体や補修部品はここに集められた。
無人標的機型QF-4は、2016年8月17日に最後の任務(F-35の支援)を終えた。最後の機体はF-35よりミサイルを発射されたが兵器テストの詳細な条件やシナリオは不明ながら、同機は無傷で帰還している[9][10]。最後の飛行は2016年12月21日に行われ、QF-4は退役した。後継はQF-16である[11]。
初期設計から約60年、初飛行から優に50年以上を経た2024年時点においても、ギリシャ空軍、韓国空軍、イラン空軍、トルコ空軍の4か国で配備・運用中である(ただし、韓国空軍からは2024年6月に退役)。
アメリカ空軍テストパイロット学校では、教育用として武装を撤去し計測用センサーを搭載した練習機型を数機運用している。
改良・近代化改修の計画が各国で進められており、そのまま2020年以降も使用し続けられる見込みである。この他、アメリカ国内にて非営利団体が1機のF-4Dを飛行可能状態で保存しており、アメリカ空軍デビスモンサン空軍基地においてモスボール状態で保存されているものも存在する。
※各国の詳細については、下記の海外の採用国と派生型一覧を参照のこと。
アメリカ海軍向け | アメリカ空軍向け | イギリス海軍向け | イギリス空軍向け | その他各国向け | |
---|---|---|---|---|---|
固定機銃なし | F-4A F-4B F-4G F-4J F-4N F-4S |
F-4C F-4D |
ファントム FG.1 | ファントム FGR.2 ファントム F.3 |
F-4F |
固定機銃あり | F-4E (F-4G) |
F-4EJ | |||
偵察機型 | RF-4B | RF-4E | RF-4EJ |
F-4は多数輸出されており、その運用国も多岐にわたるが、外国への供与・売却の大半を占めたのは、ベトナム戦争後期から戦争終結後に生産されたF-4Eであった[注 16]。F-4Eには戦訓を取り入れた改良も施されていたが、平和の到来やF-15 イーグル/F-16 ファイティングファルコンへの更新によって余剰ぎみになっていたという事情もある。
同じアメリカ空軍仕様のF-4C/Dの供与・売却が少なかったのはベトナム戦争で多くの機体が損傷し、また機体も疲労が蓄積しているため長期の運用に不向きとされたことによる[注 17]。
F-4を運用したのは開発国のアメリカのほかに政治的に親密だった日本やイスラエル、和平に合意しイスラエルとの友好関係を築いたエジプト、革命まではアメリカの重要な同盟国でオイルマネーを持つ重要顧客でもあったイラン、北大西洋条約機構(NATO)加盟国であり対ソ戦において地政学的に重要な位置にあるトルコとギリシャ、アメリカへの基地提供の見返りを望んでいたスペイン、英語圏の同盟国であるイギリスとオーストラリア、東西対立の最前線ドイツ(旧西ドイツ)、極東地域の大韓民国など11ヵ国に上り、冷戦下で同盟国の防空能力向上を図ったアメリカの戦略が見て取れる。
運用国によって異なる使用・運用目的に合わせた派生型や近代化計画が多数存在する。
1968年にF-4D 16機の発注が行われ、1969年8月にアメリカ空軍の中古機6機を受領する[24]。 以降、順次引き渡しが行われた。 その後韓国側はF-4D 18機の追加供与を希望し、アメリカ政府はこれを了承。1972年には、韓国軍向けにアメリカで製造されていたF-5A/B 36機を南ベトナムへの駆け込み供与する見返りに、国内に駐留するアメリカ空軍部隊の機材を譲渡される形でF-4Dの引き渡しが行われた[24]。 引渡し対象となったのは、韓国国内に駐留していたアメリカ空軍第3戦術戦闘航空団所属機である[24]。その後もアメリカ空軍の保有していたF-4Dの引き渡しが行われ、1988年4月までに92機のF-4Dを取得した[24]。
1978年には「ピース・ピーザントII」の計画名で、アメリカ空軍で余剰となったF-4Eを総計103機(新造機は37機)導入する[24]。1990年には第460戦術偵察航空群の閉隊を受けて、同隊が保有していた12機のRF-4Cを取得[24]。以後、アメリカ空軍で退役したRF-4Cの引き渡しを受けている[24]。
最終的にF-4D、F-4E、RF-4C合計で203機のF-4を購入した。通算5,000機目(5057号機)に製造されたF-4は韓国が発注したものだった。同機は記念塗装が施され完成セレモニーに参加した。その後、通常迷彩に戻され1978年5月24日に引き渡しが行われた。
1980年代後半にはF-4D/Eに対して近代化改修が行われ、AN/AVQ-26 ペイブ・タック照準ポッド、ポップアイ空対地ミサイルの運用能力が付加されている[25]。さらに、韓国空軍では、100機前後のF-4をF-4 ICE相当へ近代化改修する計画を立案したが、韓国戦闘機計画(KFP)でF-16C/Dのライセンス生産する事が決定し、合わせて当時の経済事情などから1993年に計画は放棄された。
2007年頃には140機程度が実戦配備されており、大邱基地所属の第11戦闘飛行団にF-4D 2個飛行隊、清州基地所属の第17戦闘飛行団にF-4E 3個飛行隊、城南空軍基地の第39戦術偵察航空群にRF-4C 1個飛行隊が編成されていた[24]。大邱基地に配備されていたF-4Dは、同じ複座型の戦闘爆撃機である第4世代機のF-15K(F-15Eの韓国ライセンス生産型)、RF-4Cは偵察ポッド装備のKF-16で更新されたが、F-4Eについてはその後も残存。
2024年6月7日、水原基地において、F-4E最後の2機のラストフライトとともに退役式が行なわれ、アジア地域最後の機体が引退した。この引退では、現存するマクドネル・ダグラス製の最終生産機である78-0743号機(本来の最終生産機は78-0744号機だか、事故で失われているため)が引退となった。
第三次中東戦争後にイスラエルに兵器の供給を行っていたフランスの中東政策が、対立するアラブ連合共和国(エジプトとシリア)やヨルダンなどアラブ諸国寄りとなり、50機のミラージュ5の対イスラエル禁輸処置を始めとしてイスラエルへの兵器供給が全面的に停止された。戦闘機50機の損失に10機がスクラップとなっていたイスラエル空軍は、第三次中東戦争による消耗からの回復と戦力補強が死活問題となっていた。また、ソビエト連邦が第三次中東戦争で消耗していたアラブ諸国に960機、シリアに430機の戦闘機の引き渡しを行っていたこともこの問題に拍車をかけた。
イスラエルは兵器供給をアメリカに頼ることとして1968年に当時のレヴィ・エシュコル首相が自ら訪米、20機のA-4と50機のF-4Eの有償援助を求めた。アメリカ政府と議会は傍受した無線などからソビエトのアラブ諸国への軍事援助が本格化しており中東の軍事バランスがアラブ側に大きく傾いていると判断し、イスラエル政府の要求を受けることとした。
1968年末にF-4E型48機を約2億8千万ドルの有償での最優先供与が認められ、翌年からイスラエル空軍のパイロット・整備員120名がカリフォルニア州ジョージ空軍基地でF-4を使用した訓練を開始している。
1969年9月7日に第一陣6機がイスラエルに到着して以降、順調に引き渡しが行われ、同月中にハツォール空軍基地に最初のF-4飛行隊として第201飛行隊が[26]、翌10月にはラマト・ダヴィド空軍基地で2番目のF-4飛行隊として第69飛行隊が編成された[27]。イスラエル向けF-4の改修点として空中給油システムが当時のイスラエル空軍が保有していた他の軍用機と同様のプローブアンドドローグ方式に変更されている点が挙げられる。また、この機体の導入と共に入手したJ79はミラージュIIIの独自改良型であるIAI クフィルにも装備された。イスラエル空軍ではF-4に"クルナス" (英語: kurnass, ヘブライ語: קורנס。スレッジハンマーの意。)という独自の愛称を付けた。
飛行隊編成から間もない1969年11月頃からF-4は実戦に参加し、スエズ運河を挟んだアラブ諸国側の地上目標への積極的な攻撃を行なった。この間、イギリス製Z級駆逐艦ミングスを撃沈し、ソビエト製コマール級ミサイル艇を炎上させたりもした。だが、翌年の6月30日に2機、7月5日に1機と、地対空ミサイルによる損害も発生している[注 25]。それでも双方の政治的判断から直接的な空中戦は避けられていた。
1970年7月30日にスエズ運河上空において、イスラエルのF-4編隊とアラブ諸国のソビエト軍パイロットの搭乗する16機の MiG-21J編隊がヘッド・オンから大規模空中戦に突入した。後に低空から接近したイスラエル空軍のミラージュIII編隊も加わった結果はMiG-21の5機被撃墜に対してイスラエル側の被害はゼロという一方的な結果となった。
1969年末から1972年8月までのF-4Eのキル・レシオ(撃墜・被撃墜の率)は、25:1と圧倒的に優勢だった。
第四次中東戦争終了後にイスラエルとの和平合意(エジプト・イスラエル平和条約)を行い、アメリカの仲介によりキャンプデービットで合意がなされた。この結果エジプトとイスラエルの国交が樹立し、それまでエジプト国内に多数送り込まれていたソビエトからの軍事顧問団は姿を消した。ソ連軍機一辺倒だったエジプト空軍は1979年に「ピース・ファラオ」計画の名称[33] で、アメリカの支援により5億9400万USドルでAIM-7、AIM-9およびAGM-65 マーベリックと共にアメリカ空軍のF-4E 35機を購入・配備した。
エジプト空軍は単純構造のミグ戦闘機の整備には慣れていたが、ファントムが必要とする高度な整備には対応し切れず、1980年代初頭には9機だけ[注 27][33] が飛行できる状態であるだけだったものの、アメリカ空軍の徹底した訓練プログラムの結果、1985年には稼働率は飛躍的に向上する。パイロットの育成についても、アメリカ空軍ホームステッド空軍基地の第31戦術戦闘航空団で訓練が行われた[33]。
その後1988年に事故で失われた機体分の3機と、さらにアメリカ空軍の余剰となった8機を購入した。一方で1982年からはF-16A/B、1986年からはF-16C/Dの導入が開始されたため、これ以上の追加発注は行われなかった[33]。
F-16C/Dの配備に伴い、現在は退役済み。
1968年に親アメリカのパーレビー王朝下で導入した。当時は石油がもたらす莫大なオイルマネーで主に西側製の最新兵器を大量導入していた。1966年にはイラン空軍が32機のF-4Dを発注しており、ベトナム戦争真っ只中でF-4の生産に余裕がなかったアメリカだったが、イラン向けF-4の生産には熱心だったと言われている。その後、1970年代初めから中期にかけて総計208機のF-4Eを発注し[33] 、1971年3月からイラン革命直前の1979年までに177機が引き渡された[注 28][33]。
ただし現場要員達の質は低かった。当時カリフォルニア州ジョージ空軍基地での訓練の際、イラン空軍と航空自衛隊パイロットや整備員たちが机を並べたが、空自パイロットの一人は「たとえ一時限の講義を理解するのにも大きな隔たりがあった」との感想を述べている。そんな彼らでも大部隊を編成・維持できたのは、アメリカの航空機産業を丸抱えできるほどのオイルマネーの恩恵だった。F-4に限らず、1960年代から1970年代のパーレビー王朝時代は、F-5を皮切りにF-14など多種の軍用機を輸入・導入契約を行っている。結果、イラン革命直前には225機のF-4を保有するに至り、286機を受領したイスラエルに次ぐ大規模保有国となった。
しかしながら、1979年2月28日に発生した反アメリカ派のルーホッラー・ホメイニー率いるイラン革命の際、親国王派が中枢を占めたイラン空軍では親国王派パイロットたちが政治犯として次々と投獄された。F-4もアメリカの武器輸出禁止の影響を受けて、発注済み機体の引渡し拒否や支援等が一切受けられなくなったため、稼働率が著しく低下した。それでも新政権がオイルマネーで潤っている間は、闇市場などからの部品調達で何とか飛ばせる機体を維持していた。
1980年9月のイラン・イラク戦争では、人員不足を補うために投獄されていたパイロットたちを釈放し戦闘に参加させたものの、その多くが失われた。F-4の稼働率も約40%とされ[24]、戦闘終結時点で飛行可能な機体は約10機であった[24]。戦後のオイルマネー枯渇で補給が途絶し、稼働率はさらなる低下とパイロット喪失によりF-4を満足に扱える人員は少なかったと言われる。
一方で、依然として闇ルート(いわゆる「イラン・ゲート」)による部品輸入が行われているとも、国内企業および友好国である中華人民共和国の軍需企業の協力により中国製兵器を用いた「近代化」を施されていると言われるなど近況は不明である[注 29]。
イラン・コントラ事件でアメリカは「ニカラグアの反政府組織コントラ支援の資金調達目的」で、20機前後のF-4Eをパラグアイ経由で輸出、その後アメリカ国内で政治的問題となった。
2014年12月、アメリカの有志連合が行っているISILへの空爆とは別に、イランが独自でISILへF-4による空爆を行っていることが確認されている[34]。
1974年に「ピース・ダイアモンドIII」計画の一環として、40機の新造F-4Eの配備を開始した[35]。1977年にはF-4E 32機とRF-4E 8機を追加発注し、1981年6月と1984年にアメリカ空軍のF-4Eを15機ずつの計30機を受領している[35]。1987年からは「ピース・ダイアモンドIV」が開始され、アメリカ空軍で余剰となった40機のF-4Eを受領した[35]。さらに1991年3月には湾岸戦争支援の見返りに、やはりアメリカ空軍の余剰F-4E 40機の受け渡しが行われた[35]。長期に渡るアメリカ空軍機受領によって、前縁スラット装備機・非装備機の両種を保有する。なお、トルコ空軍には生産5,000機目のファントム(77-0290)が在籍している。
偵察型については1992年から1994年にかけ、ドイツ空軍で退役した32機のRF-4Eを受領する[35]。
トルコ空軍はF-4Eを182機、RF-4Eを55機受領、総受領数は237機となる[35]。現在も合計200機近いF-4を保有し、各国でF-4が数を減らしている事から現時点ではトルコが最大のF-4保有国となっている。予算等の問題からトーネードIDSなどの新型機導入が難しいため、トルコ空軍ではF-4を2020年頃まで運用する予定である[33]。これに対応した機体の延命・改修により54機のF-4が「F-4E 2020」となった。
2012年6月22日には、トルコ空軍のRF-4Eがシリア付近の公海上空でシリア陸軍に撃墜された(2012年トルコ空軍F-4戦闘機撃墜事件)。
1971年にアメリカ空軍の中古のF-4Cを譲り受け導入する。当時、アメリカ空軍の第一線を退き始めていたとはいっても、高級機でもあったF-4C供与が決定したのは、スペイン国内の基地提供の見返りという思惑が絡んでいた。当時のスペイン空軍はF-104G (C.8/CE.8)やミラージュIIIEE/DE (C.11/CE.11)を保有してはいたが、前者は21機、後者は30機と少なく数の上で主力機は旧式機F-86 (C.5)だった。
最初にスペイン空軍に引き渡された36機のF-4Cは、イギリスのベントウォーターズ空軍基地に駐留する第81戦術戦闘航空団で運用されていた機体で、同航空団のF-4Dへの機種転換での余剰機であった。その後1978年に損耗補充としてF-4C4機と、同じエンジン搭載のRF-4C4機ずつ追加導入した。その後1989年に8機、1995年に6機のRF-4Cを追加供与を受け、合計40機のF-4Cと18機のRF-4Cを受領した。スペイン空軍内部においては、F-4CはC.12、RF-4CはCR.12と呼ばれ区別された。
F-4Cは1989年にF/A-18と入れ替わり退役した。RF-4Cは1990年中期に、レーダーのAN/APQ-172への換装、リング・レーザー・ジャイロ式慣性航法装置、AN/ALR-44レーダー警報受信機、ハヴ・クイック無線機の装備、機体背部へのイスラエル製空中給油プローブの装備などの近代化改修を施され、2002年まで運用されている[25]。
トレホン空軍基地:第12航空団 - 第121飛行隊(C.12/F-4C)- 第122飛行隊(C.12/F-4C)- 第123飛行隊(CR.12/RF-4C)
当時のイギリスの国防政策による予算削減のため国産次期主力機の候補だったホーカー・シドレー P.1154やBAC TSR-2をキャンセルし、イギリス海軍は1962年2月にデ・ハヴィランド シーヴィクセンの後継となる次期艦上戦闘機にF-4を選定した。当初は正式にどのタイプを導入するかは決定していなかったが、選定から3ヶ月後にF-4Bの改良型、F-4Jの開発が始まったことを受け、J型をイギリス向けに改修、エンジンはイギリス国産のロールス・ロイスRB168-25RスペイMk.203(アフターバーナー時推力91.26kN)ターボファンエンジン搭載の「F-4K」を導入することとなった。
試作機は1966年6月に初飛行して、レーダーをAN/AWG-11に換装した量産型の製造に入り、ファントム FG.1の名称でイギリス海軍に導入された。イギリス空軍も、エンジンを同様のRB168-25RスペイMk.202とし、レーダーをAN/AWG-12に換装した「F-4M」の試作初号機が1967年2月に初飛行し、ホーカー ハンターやイングリッシュ・エレクトリック キャンベラの後継としてファントム FGR.2の名称で導入した。その後、ファントム FG.1は、1979年12月までにイギリス空軍に移管され、1984年3月には、アメリカ海軍の中古のF-4Jを導入し、F-4J(UK)としている[注 30]。
原型機からの最大の変更点は、当時の最新技術であるターボファンエンジン(ロールスロイス製「スぺイ」)を採用したことである。エンジン以外にも原型に比べ変更点が多く、非公式に『ブリティッシュ・ファントム』あるいは搭載エンジンから『スぺイ・ファントム』と呼ばれることもある。1992年のF-4Mの引退により正式に全機退役した。
軍種 | 部隊 | 任務 | 基地 | 配備年 | 前任機 | 機種 | 退役年 | 後継機 |
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RN (FAA) |
第700P飛行隊 700 NAS |
評価試験 | RNAS ヨーヴィルトン(Yeovilton) | 1968年 | ウェセックスHAS.3 | FG.1 | 1969年 | シーキングHAS.1 |
第767飛行隊 767 NAS |
機種転換訓練 | 1969年 | 無し | 1975年 | 無し(解隊) | |||
第892飛行隊 892 NAS |
艦隊防空 | RNAS ヨーヴィルトン(Yeovilton) →RAF ルーカス(Leuchars)[注 33] HMSアークロイヤル(母艦) |
1969年 | シーヴィクセンFAW.2 | 1978年 | 無し(解隊)[注 34] | ||
RAF | 第2飛行隊 No. 2 Sqn |
戦術偵察 | RAF ラールブルッヘ | 1970年 | ハンターFR.10 | FGR.2 | 1976年 | ジャギュアGR.1 |
第6飛行隊 No. 6 Sqn |
戦術爆撃 | RAF カニングスビー(Coningsby) | 1969年 | キャンベラB.2 | 1974年 | |||
第14飛行隊 No. 14 Sqn |
RAF ブリュッゲン(Brüggen) | 1970年 | キャンベラB(I).8 | 1975年 | ||||
第17飛行隊 No. 17 Sqn |
1970年 | キャンベラPR.7 | 1975年 | |||||
第19飛行隊 No. 19 Sqn |
防空戦闘 | RAF ヴィルデンラート(Wildenrath) | 1977年 | ライトニングF.2A | 1992年 | ホークT.1 | ||
第23飛行隊 No. 23 Sqn |
RAF カニングスビー(Coningsby) | 1975年 | ライトニングF.3/F.6 | 1988年 | トーネードF.3 | |||
第29飛行隊 No. 29 Sqn |
1975年 | 1987年 | ||||||
第31飛行隊 No. 31 Sqn |
戦術爆撃 | RAF ラールブルッヘ | 1971年 | キャンベラPR.7 | 1976年 | ジャギュアGR.1 | ||
第41飛行隊 No. 41 Sqn |
戦術偵察 | RAF カニングスビー(Coningsby) | 1972年 | ブラッドハウンドMk.2SAM | 1977年 | |||
第43飛行隊 No. 43 Sqn |
防空戦闘 | RAF ルーカス(Leuchars) | 1969年 | ハンターFGA.9 | FG.1[注 35] | 1989年 | トーネードF.3 | |
第54飛行隊 No. 54 Sqn |
戦術爆撃 | RAF カニングスビー(Coningsby) | 1969年 | FGR.2 | 1974年 | ジャギュアGR.1 | ||
第56飛行隊 No. 56 Sqn |
防空戦闘 | RAF ワティシャム(Wattisham) | 1976年 | ライトニングF.6 | 1992年 | トーネードF.3 | ||
第64飛行隊 No. 64 Sqn |
機種転換訓練[注 36] | RAF カニングスビー(Coningsby) →RAF ルーカス(Leuchars)[注 37] |
1968年 | ジャベリンFAW.7/FAW.9 | FG.1/FGR.2 | 1991年 | 無し(解隊) | |
第74飛行隊 No. 74 Sqn |
防空戦闘 | RAF ワティシャム(Wattisham) | 1984年[注 38] | ライトニングF.6[注 39] | F-4J(UK) →FGR.2[注 40] |
1992年 | ホークT.1 | |
第92飛行隊 No. 92 Sqn |
RAF ヴィルデンラート(Wildenrath) | 1977年 | ライトニングF.2A | FGR.2 | 1992年 | |||
第111飛行隊 No. 111 Sqn |
RAF カニングスビー(Coningsby) →RAF ルーカス(Leuchars)[注 41] |
1974年 | ライトニングF.3/F.6 | FGR.2 →FG.1[注 42] |
1990年 | トーネードF.3 | ||
第1435飛行小隊 No. 1435 Flight |
RAF マウント・プレザント | 1988年 | 無し | FGR.2 | 1992年 |
1968年にRF-104Gの後継戦術偵察機として、RF-4CをF-4E規格に合わせたRF-4Eを88機発注した[36] 。RF-4Eは1971年に大西洋を横断し西ドイツに到着後、第51偵察航空団と第52偵察航空団の2個航空団において、RF-104Gを更新した。
また、同時期にF-104Gの後継機としてトーネードIDSを導入し、防空及び攻撃任務を担わせようと計画した[36]。だが、F-104Gの退役開始時期に間に合わないとして、1970年に防空戦闘機の導入を決定する[36]。当時、アメリカ国内にて輸出用戦闘機として単座化・簡素化したF-4Eが計画されていたが、最終的にはF-5Eが選定される[36]。しかし、この単座化・簡素化F-4E案は西ドイツ空軍が求めていた要求に合致し、1971年に西ドイツ向けF-4Eが提案された[36]。案では単座化のほか、AIM-7の運用能力が外されていたが、設計変更に伴う価格上昇も見込まれた[36]。西ドイツ空軍は方針を変更し、複座型のまま、AIM-7の運用能力削除のみを施したF-4Fが採用された[36]。
1976年4月より引き渡しが開始され、175機が製造された[36]。この内の12機はアメリカでパイロット訓練用に用いられたことから、非公式にTF-4Fと呼ばれている[36]。訓練部隊の第20戦闘飛行隊は、当初はカリフォルニア州ヴィクターヴィルのジョージ空軍基地、1993年からF-4Fのパイロット養成が終了する2004年まではニューメキシコ州オテロ郡のホロマン空軍基地を拠点としていた。F-4Fは西ドイツ国内では第71戦闘航空団、第74戦闘航空団、第35戦闘爆撃航空団、第36戦闘爆撃航空団の4個航空団に配備された。最終的に西ドイツが保有したF-4はRF-4E、F-4E、F-4F合わせて273機にも達した。
冷戦終結と東ドイツとの統一に伴う軍縮で1993年にRF-4Eが全機退役し、代わりに保有数は減少するが稼働率の向上を見込みトーネードIDS/ECRを導入した。この時退役したRF-4Eは後にトルコとギリシャに引き渡されている。そしてF-4Fも2013年7月末をもって全機退役した。ドイツでF-4に付けられたニックネームには、黒い排煙を吐き出しながら飛ぶために「空飛ぶディーゼル(Luftdiesel)」「石油ストーブ(Öloffen)」や、当時の戦闘機としては大柄な機体から「鉄の豚(Eisenschwein)」があった。
配備部隊 | 部隊章 | 基地 | 配備年 | 前任機 | 退役年 | 後継機 | その他 |
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第51偵察航空団“インメルマン” Aufklärungsgeschwader 51 „Immelmann“ |
ブレムガルテン(Bremgarten)航空基地 | 1971年 | RF-104G | 1993年 | 1993年3月17日付で解隊。1994年1月1日付でシュレースヴィヒ航空基地にてトーネード RECCEを装備して再編成。 2013年10月1日付で第51戦術航空団"インメルマン"(Taktisches Luftwaffengeschwader 51 „Immelmann“)として再編成。 | ||
第52偵察航空団 Aufklärungsgeschwader 52 |
レック(Leck)航空基地 | 1993年3月31日付で解隊。第51・第52偵察航空団が装備していたRF-4Eは、ギリシャ空軍とトルコ空軍に売却された。 | |||||
第71戦闘航空団“リヒトホーフェン” Jagdgeschwader 71 „Richthofen“ |
ヴィットムントハーフェン航空基地 | 1973年 | F-104G | 2013年 | ユーロファイター タイフーン | 2013年9月30日付で、第31戦術航空団“ベルケ”隷下の戦術航空群“リヒトホーフェン”(Taktische Luftwaffengruppe „Richthofen“)として再編される 2016年6月1日付で第71戦術航空団“リヒトホーフェン”(Taktisches Luftwaffengeschwader 71 „Richthofen“)に再編される。 | |
第74戦闘航空団“メルダース” Jagdgeschwader 74 „Mölders“ |
ノイブルク(Neuburg)航空基地 | 1974年 | 2008年 | 2005年に、コンドル軍団参加者から全ての名誉を剥奪する法律に基づいて航空団から「メルダース」の名前は抹消された。 2013年10月1日付で第74戦術航空団(Taktisches Luftwaffengeschwader 74)として再編成。 | |||
第35戦闘爆撃航空団 Jagdbombergeschwader 35 →第73戦闘航空団“シュタインホフ” Jagdgeschwader 73 „Steinhoff“[注 43] |
プフェルツフェルト(Pferdsfeld)航空基地 →ラーゲ航空基地 |
1975年 | G.91R/3 [注 44] |
2002年 | 1993年から、旧東ドイツ空軍第3戦闘航空団より継承したMiG-29を同航空団の第1飛行隊に配備。このため第73戦闘航空団は、2002年にF-4Fを手放すまで、MiG-29とF-4Fを平行装備する混成部隊であった[注 45] 2013年9月30日付で、第73戦術航空団“シュタインホフ”(Taktisches Luftwaffengeschwader 73 „Steinhoff“)に再編成。 | ||
第36戦闘爆撃航空団 Jagdbombergeschwader 36 →第72戦闘航空団“ヴェストファーレン” Jagdgeschwader 72 „Westfalen“[注 46] |
ホプシュテン(Hopsten)航空基地 | 1975年 | F-104G | 2002年 | 2002年1月31日付で解隊。 |
オーストラリア空軍のキャンベラの後継機候補としてF-4Cが挙げられたが、F-111Cに敗れた。F-111は当時まだ開発中であったため、つなぎとしてF-4CをKC-135と共にリースすることも提案されたが、これも実現しなかった。
しかし1960年代後半、F-111に設計上のトラブルが発生し戦力化に遅れが生じた。オーストラリア空軍はこの穴埋めとしてアメリカ空軍から24機のF-4Eをリースし1970年から3年間運用した。万一F-111をキャンセルした場合はそのまま買い取ることができるオプションもあったが、最終的に事故で失われた1機を除き全機アメリカへ返還され、事故機分の弁償金も支払っている。
1974年3月よりアメリカからF-4Eの引き渡しを受ける。この引き渡し計画は「ピース・イカロス」と呼ばれた[35]。まず36機のF-4Eを受領し、1976年6月には消耗分の2機が追加で引き渡されている[35]。
引き渡しはその後も継続され、1978年6月から1979年4月にかけてF-4E 18機とRF-4E 8機が引き渡された[35]。これに加え、1978年8月から12月までの期間に数機のF-4Eを追加受領する。同年にはF-4EとRF-4Eの追加発注が行われ、同時に西ドイツ空軍で余剰となった29機のRF-4Eを取得する[35]。
1987年にはアメリカ空軍がギリシャ国内の空軍基地使用期限を8年延長する見返りとして、アメリカ空軍のF-4E 50機とF-4G 19機を引き渡す提案が示されたが、結局28機のF-4E受領に留まる[35]。
現在は老朽化したF-4Eの退役に伴い、F-16の配備が進んでいる。その一方39機のF-4Eには改良が施された。この改良はドイツ空軍のF-4改修計画「ICE(Improved Combat Efficiency:戦闘効率改善)」を行ったESDA社(現EADSジャーマニー)が担当し全機が「F-4F ICE」と同様の改修を受け「F-4E PI2000」(F-4E AUP)となり、1999年4月28日に初飛行した。
2007年現在、ギリシャ空軍はF-4 PI2000を36機、RF-4Eを23機保有しており、これに加え10機程度が補充用に保管されている[35]。
2017年5月5日、RF-4Eを装備していた第348飛行隊が解隊された[37]。これに伴い、RF-4Eも退役した。
航空団章 | 航空団 | 基地 | 飛行隊 | 配備年 | 前任機 | 派生型 | 退役年 | 後継機 | 参照 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
n/a | 第110戦闘航空団 (110 Πτέρυγα Μάχης) |
ラリッサ空軍基地 | 第337飛行隊 (337 Μοίρα) |
1978年 | F-5A/B | F-4E | 2005年 | F-16C/D | [38] |
第348飛行隊 (348 Μοίρα) |
RF-84F /RT-33A |
RF-4E | 2017年 | 解散 | [37] | ||||
第117戦闘航空団 (117 Πτέρυγα Μάχης) |
アンドラビーダ空軍基地 | 第338飛行隊 (338 Μοίρα) |
1975年 | F-84F | F-4E →F-4E AUP |
現役 | [39] | ||
第339飛行隊 (339 Μοίρα) |
1974年 | 2017年 | 解隊 | [40] |
出典: The Great Book of Fighters[41], Quest for Performance[42], Encyclopedia of USAF Aircraft[1].
諸元
性能
武装
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