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部落問題(ぶらくもんだい)は、明治より前の主として江戸時代における厳しい身分制度の下で下に置かれ差別された身分の人々、さらには、それらの人々が身分制社会の下ではしばしば一定地域に居住することが義務付けられていた為そういった地域の出身者に対する差別あるいはそれを基に発生する諸問題である。「同胞融和(どうほうゆうわ)」から略して、同和問題(どうわもんだい)とも称される。同和利権問題や差別自演事件らも含まれる[1][2][3]。
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日本史において、中世から近世にかけて穢多・非人(えた・ひにん)と言った賤民身分が存在していたが、とくに江戸時代には幕藩体制の強化・維持を目的にそれまであった偏見等を利用して身分制度の固定・強化が図られ、これらの身分制度が政治的・人為的に作成・強化されていったと言われる[4]。1871年8月28日に明治政府は維新後の近代化改革の一つとして国民国家形成のため賤民制度を廃止し、他の身分と同じく「平民」に編入するために、「太政官布告」として解放令(「賤称廃止令」、「被差別身分廃止令」とも)を布告した[5]。しかし、戦前から部落差別解消のために尽力していた北原泰作によると、スラム街のような景観のために旧穢多・非人居住地域の区別が目に付きやすかった関西では、特に元の平民が旧穢多・非人と同一の身分とされることを嫌い、周りの者が彼らを「新平民(しんへいみん)」と称すなど、差別が根強く残ったという。とくに解放令布告直後はこれに反発する周辺住民から激しい一揆が起こり、多数の死者を出した地域もあった[6][7]。これについては、あくまで一般的な話となるが、もともと江戸時代には、一方が一揆等で蜂起したときにしばしば他方が藩主側からその鎮圧協力を命じられ、それぞれに死者を出すこともあったという形で、為政者側に巧みに利用され、互いに憎しみを募らせていくといった歴史があったことが影響したとも言われている。その他に、農民らと異なった職能集団として存在していたものが解放令によりこれまで通り続くとは限らなくなり、ただでさえ維新による激しい激動の中で農民らが新たな経済的な利害対立や競争に晒される可能性が増大、将来不安に駆られていたことを指摘する見解もある[8]。
1961年12月7日、池田勇人内閣総理大臣は同和対策審議会に対し 「同和地区に関する社会的及び経済的諸. 問題を解決するための基本的方策」について諮問、1965年8月1日同審議会は答申で以下のように述べた。「いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、とくに、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である。」[9]
しかし、少なくとも戦後の高度成長期以降は、被差別部落地域、戦後の同和地区を忌避する理由が変遷したと主張する人々もいる。第二次世界大戦後の経済発展と莫大な税金が投入された部落対策事業によって、同和地区と指定された旧穢多・非人部落がしばしばスラム街のような地域であったのが近代化し、地区によっては逆に周囲よりインフラ整備されていったともいわれる。一方で、伝統的な差別意識やそれに基づく具体的な差別行動も強固に残っていたため、それに反発して被差別者側から部落解放同盟などの糾弾・吊し上げといった激しい対抗活動も起きていた。これに対し、むしろ部落解放同盟関係者による圧力や威迫があらたな「差別」を呼ぶようになったということを強調する人々もいる。北原は1967年の第1回部落解放研究全国集会で「部落差別は解消しつつある」とし、高度経済成長に伴う日本社会の近代化は部落差別解消に貢献しているとして、逆に部落解放同盟が糾弾・吊し上げ活動による利権確保に重きを置いた逆差別利権団体に変節したと批判するようになった。1975年9月には国民融合を妨げているとして解放同盟から離脱し、「国民融合をめざす部落問題全国会議」を結成したと著書に綴っている[10]。
1968年には1872年に作成された壬申戸籍が他人の身辺調査、つまり被差別部落民かどうかを調査するための手段として利用されようとしていた事件が発覚した。この事件を受けて、民事局長の通達により壬申戸籍は閲覧禁止とされ、以後は法務局・市町村のいずれかで厳重に封印・保管されることになり、現在閲覧できる最も古い戸籍は明治19年戸籍までとなった[11]。その他にも、一流視されるような大企業が被差別部落視される地域の地名簿を入手しようとするなどのスキャンダルを起こしている[要出典]。
民主党政権の復興大臣(部落解放同盟副委員長) 松本龍が、口止め恫喝が報道されたことで世論の批判殺到で辞任させられた際には、2011年7月4日に共産党の小池晃議員は、「『書いたら終わりだぞ』というマスコミ恫喝は、部落解放同盟の地金が出たものでしょう」と述べている[2]。
部落解放同盟とその支持者ら、日本国政府、地方公共団体などが主張・提訴・改善・解決しようと取組む課題の総称となっているが、解決ではなく、同和対策事業が利権化し、「同和問題」(どうわもんだい)と呼ばれている。戦後にかけて同和対策事業が行われる中で、2003年に最早不要と国家的に同和対策の法律が廃止されたが、2016年(平成28年)に「部落差別解消推進法」という新たな同和法が復活して施行されたために、差別の固定化と永久利権化として批判されている。
小池晃も「同和問題は基本的にすでに解消しており、不公正な同和対策を継続すること自体が新たな偏見を生み出すもの」とし、部落解放同盟による無法な利権あさりを批判し、またこのような批判を「差別」とされるのは完全な筋違いであると述べている[2]。
伝統的な身分差別の意識の残存により差別対象となった集落の呼称、エタ村あるいはエタ(穢多)と称された賤民の集落や地域を、「被差別部落」、あるいは解放令の布告にもかかわらず未だ差別から真には解放されていないという意味で「未開放部落」などと呼んだことから、やがて被差別部落を略した呼び名として定着したという。
しかし、「部落(ぶらく)」は「集落(しゅうらく)」と同義であり、九州地方でも佐賀などで行政区の単位を示す部落の意味として使われる場所も多く、1920年5月14日付の九州日報においても、こと福岡県筑後地方で〈先月末より流行性感冒再燃し罹病や者百五十余名に達し部落民中病やまざる者なきの有様〉と集落の意味で用いられているなどしている[12]。
2011年3月4日に第68回全国大会で決定された部落解放同盟綱領では、「部落民とは、歴史的・社会的に形成された被差別部落に現在居住しているかあるいは過去に居住していたという事実などによって、部落差別をうける可能性をもつ人の総称である。被差別部落とは、身分・職業・居住が固定された前近代に穢多・非人などと呼称されたあらゆる被差別民の居住集落に歴史的根拠と関連をもつ現在の被差別地域である」と定義されている[13]。
ただしその一方で『部落問題事典』(解放出版社、1986年)では「部落民とみなされる人、あるいは自ら部落民とみなす人を部落民という。この同義反復的なことでしか、部落民を定義することはできない」(野口道彦)とも述べられており、「被差別部落」や「被差別部落民」を定義する方法がないことも指摘されている[14]。また、被差別部落には穢多や非人に起源をもつもののほか、夙、鉢屋衆、きよめなど多種多様な起源をもつものがある(雑種賎民)。
静岡県では院内という民間陰陽師がもともと被差別民ではなかったところ、明治初期に陰陽師廃止令が発布されたために失職し貧困化して被差別民認定された[15]。
また、山窩の集住地を同和対策事業の対象とした自治体もごく少数ある[16]。
被差別部落の居住者は先祖代々同じ血筋で固定されたものと誤解されていることが多いが、これは間違いで、歴史的には被差別部落で財をなし成功した者が被差別部落の外へ流出すると同時に、被差別部落の外で食い詰めた犯罪人や無職者が生活費の安い被差別部落の中へ流入することが繰り返されてきた[17]。そのため、北原も部落解放同盟の血縁・職業差別を前面にしていることを批判し、部落差別を海外でいうスラム街忌避とほぼ同じとし、明治期以降の被差別部落の大多数は、海外の貧困スラムと同様の貧民窟、貧民街であると述べている[10]。
京都市内のある部落では、京都部落史研究所の調査の結果、半数を超える「部落民」が部落外からの流入者と判明したこともある[17]。1937年(昭和12年)に京都市社会課が市内の8箇所の部落を対象に行った「京都市における不良住宅地区調査」では、「部落民」のほぼ半数が外部からの流入者と特定された[17]。
また、日本統治時代の朝鮮半島から内地に渡った朝鮮人が被差別部落に住み着いた例も多い。日本の総人口に在日韓国・朝鮮人(在日コリアン)が占める割合は1パーセントに満たないところであったが、京都市の崇仁地区では1920年代(大正9-昭和4年)以降の人口増加は大半が朝鮮人の増加によるものであり、崇仁学区内の貧困者の比率が京都市内で最も高かった例もある[18]。原則として同和地区在住の外国人は属地属人主義により同和事業の対象とはならないが[19]、自治体によっては完全な属地主義を採り、同和地区在住の在日韓国人を同和対策事業の対象としていることもある[20]。
部落解放同盟や同和会が同和予算を行政から獲得するため、同和対策事業特別措置法(同対法)のいう「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」(被差別部落)が存在しない自治体にまで無理やり同和地区を作った事例もある(このような地区は「えせ同和地区」と呼ばれる[21])。
1976年7月には、もともと被差別部落が存在しない宮崎県児湯郡都農町に同和会が結成され、これに伴って同和会が都農町の一部を同和地区指定させ、支部助成金など同和予算495万円の計上を約束させた[21]。1976年(昭和51年)9月の町議会は同和予算を全額削除したが、宮崎県同和対策室の圧力で最終的に1地区(9世帯、30人)が同和地区として認定させられた[21]。
こうして宮崎県では9市9町に36カ所の同和地区が指定されることとなったが、全解連書記長の村尻勝信によると、その3分の1は「えせ同和地区」であるという[21]。
大分県でも同和予算目当ての「でっち上げ同和地区」「ニセ同和地区」の存在が報告されている[22]。同じ大分県では、一般地区の貧窮者が「生活保護を受けたいなら○町(同和地区)へ行け。あそこならすぐ手続きしてくれる」と地元の区長から言われ、同和地区に転入した例が多数ある[23]。
同対法施行当時は、個人施策の受給と同和住宅入居を目的として部落解放同盟支部長に認定料を渡し、部落民として認定を受ける「駆け込み部落民」の存在も指摘された[24]。被差別部落民の定義が曖昧であるため、東京都では、自称部落民が部落差別と無関係の傷痕を「被差別部落に生まれたために虐められた痕跡」と偽って同和対策事業の個人給付を申請したケースも報告されている[25]。
また、同じ東京都では、ある団体の168人の自称部落民から生業資金貸付申請があったが、最終的に部落民と認められたのは2人だけだったこともある[25]。
被差別部落と被差別部落民の総数について、1946年の部落解放人民大会で採択された宣言では「全国に散在する6,000部落300万の兄弟諸君」と呼びかけているが、1965年(昭和40年)の同和対策審議会答申では、日本全国の同和地区数を4,160、同和地区人口を111万3,043人と述べている。
近現代に「部落」の語が用いられるに伴い、「地区」の意味での「部落」と混同されないよう部落民自らが「特殊部落民」と称するようになった[27]。なお、「特殊部落」の語の初出は小島達雄の研究によれば1902年「明治三四年度奈良県学事年報」である[28]。しかし「特殊部落民」との呼称も蔑称として使われたことから、「細民部落」「被圧迫部落」「未解放部落」「被差別部落民」などの呼び方に換えられた。
歴史学者井上清が1954年の論文で、従来使われていた「特殊部落」「未解放部落」の語に代わって「被差別部落」の語を考案した[29]。
なお、井上は、部落問題研究所理事として運営にも関わるなど、部落解放運動に積極的に関わっていた。ただし1966年11月発刊の『世界大百科事典』(平凡社)には「特殊部落」の項目名で記事が立項されており、筆者は井上清その人であった[30]。
灘本昌久は「「特殊部落」の使用が自動的に差別発言であるかのごとくにねじ曲げて解釈されるようになるのは、1970年代に入ってからである」[30] と述べている。
蔑称として「部落民」「特殊部落民」ほか、「同和行政」という語に由来して「同和」が使われることもある。
灘本昌久は、1968年頃以降、共産党系は「未解放部落」、部落解放同盟系は「被差別部落」、行政関係者は「同和地区」、2002年(平成14年)の地対財特法失効後は「旧同和地区」を用いる傾向があるが、近年は共産党系も「同和地区」(「旧同和地区」)で統一している、と指摘している[31]。
ただし「被差別部落」と「同和地区」は同義語ではなく、封建時代の被差別民の集住地でありながら「同和地区」指定を自ら拒否し、同和事業の実施を拒絶した地区(未指定地区)は日本全国で約1,000箇所にのぼる[17]。
この未指定地区は、同和地区に比べて経済的に恵まれている地域が多い[17]。
被差別部落の中では、被差別部落の外(いわゆる「一般地区」)の出身者を指して「ハク」という名称が使われることがある[32][33]。また「部落外」(ムラの外)の意味で「むらそと」という語が使われることもある[34]。高知県宿毛市の部落では、カラゴ(唐語)と呼ばれる地元の部落内隠語で、部落外の者を「ネス」「スネグロ」、部落の者を「テコ」と呼ぶ[35]。
現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする自治体もある。
なお、年配者や東日本などでは現在でも差別などの意味を持たない「集落」「地区」などの用法で「部落」という言葉を日常的に用いている。一例として、成田空港問題で反対運動を行っている成田市東峰地区の住民らは、広報紙で、特殊部落ではない同地区を東峰部落と称している。
被差別部落の起源については諸説が存在するが、研究者で近世起源説を唱える者はいないとされ、中世あるいは古代以前から存在したとみられているが、人種起源説と職業起源説とがあり、未だ意見の統一を見ない。
政府が同和対策に取り組み出した1960年代からおおよそ1980年代の頃までは「近世に幕藩権力が無から全てを作り出した」といういわゆる「近世政治起源説」が信じられていたが、これが学術的に否定されたことによって、現在では中世以前の様々な要素を踏まえた上でその起源についての考証が行われている。社会的役割の固定化によって安定がもたらされると考えられていた。
1870年(明治3年)1月、山城国愛宕郡蓮台野村年寄元右衛門が汚名廃止の請願書を京都府に提出する[36]。
一、一昨辰年八月元右衛門より供奉の願書差上げ奉り候節、由緒有増申上げ奉り候通り、私共類村の義、在昔は奥羽の土民に御座候。尤も其辺総て東夷(蝦夷)と称せられ、王化に復し奉らざる者もこれあり、遂に日本武尊御征伐あらせらる其の御凱陣の砌、御連れ帰り、扈従し奉り候処、伊勢神宮に御留置きなされ、夫より当時の帝御鳳闕左右に近づかせられ候事、日本書紀にも御座候。一、応神帝国境を御定め玉ひし時、針間国神崎郡瓦村崗辺にて青菜の其川より流れ下るを伊許自別命を以て御求め遊ばされ候処、日本武尊に復帰しものに付、帝更に尊の前功を御思慕あらせられ、命を以て姓佐伯直を賜ひ、其復帰しものの君と遊ばされ候由。姓氏録等に相見へ、其時より佐伯部と相成り候様存じ奉り候。
一、仁徳帝御時御憎しみを蒙り五ヶ国へ散乱、其後安康帝皇子の帳内、私達祖先佐伯部仲子、近江国来田綿蚊屋野え供奉、終に忠死仕り候事も御座候。且、仁賢帝の御代、国郡に散亡の佐伯部を御捜求あらせられ候事等も書紀に相見へ申し候。
一、猶又、古より今に至り小法師と相唱へ、私村内より平常両人或は三人、御用多端に向ひ候時は八人迄相詰め、御苑の掃除役仰付けさせらるるの刻、御築地内に部屋下置かれ日々同所へ出勤、御扶持方頂戴、其外年始・八朔は未明より麻上下にて御紋(菊紋)付箱提灯を持たせ、式礼、献上物いたし、下され物も御座候。又、御奏者所に於いて青緡銭三貫文、又、長橋御局に於いて白木綿一疋是を拝領、且御台所にては御雑煮頂戴、七日七草餅、十五日には小豆粥、其外五日、六日、十四日には穂長汁頂戴。尚又、例年季冬には箒料として銀六十七匁七分下置かれ、其他、諸家様御献上米等これあり候得ば、一々御配分も仰付けられ、猶、五節句には御酒肴、御亥の子には御玄猪箱入りの牡丹餅、花栗、其外とも頂戴仕る。御煤払の節は忝けなくも内殿の御前にて御式あらせられ候て、厚おかべ、味噌懸豆腐、土器にて八枚銘々へ下し賜り候。其砌にも、御酒も下され候得共、私共一同の者右同様下され物等相願ひ候儀には御座なく候。猶又、御大礼の節吉凶共下され物御座候。
一、年頭の節、小法師より差上げ奉り候藁箒の儀は、御殿内において例年正月二日早朝御式あらせられ候御餝付の御一品に相備り候と承り候由。尤も是迄年始・八朔には献上物いたし候者は数家御座候得共、昨(明治二年)巳の春より多分御廃止に相成り、然る処、右小法師より差上げ奉り候藁箒の儀は旧例の通り献上仕り候様御沙汰に付、相替らず献納仕り候。然る処、昨巳冬御沙汰これあり候には、例年正月二日差上げ奉る藁箒の内、御上様へ献上いたし候七つ子と唱へ候分、東京に御廻はしに相成り候間、十二月十二日迄差上げ奉るべき様仰付け為し下し、日限相違なく献納仕り候。猶、其外五つ子と唱へ候分は例年の通り正月二日早朝献上仕り候儀に御座候。
一、諸国神祭には旧例を以て間々私共類村のもと二衣を着け罷出で候儀に御座候。是等往昔の余風残りこれあり候儀かと相見へ申し候。右の通りに御座候処、私共類村のもの多分殺業を嗜み来り、然る処、仏説御国内に蔓延候時より世上専ら殺生を悪み、終に足利御執政の比、誰となく穢多の字を付け候様成り行き候由、且、閑田耕筆には穢多と唱ふは餌取りし字とに、之れ又、和名抄には屠者恵止利と記し、人倫漁猟之部に加へ御座候。然而時は穢多と申すは屠者にて、則ち方今の漁師にて、他にもこれあり候を穢多と申し候へば人外異物の如く賤められ、殊に市交も追々衰微仕り候は実に残念の至りと類村共何れも悲観罷在り候。前条の通り、往昔は佐伯部と迄仰付けられ、自分微功も相立て候を、近年は穢多と迄汚名を受け、方今上を犯し下を妨げ、凶暴・悪戻もこれなく、却て或は仁義・忠孝の心を勉励仕り候ものもこれあり候へ共、市中の交りも絶果て候様成り行き、歎かわ敷く存じ奉り候。然る処、今般御復古、有難くも衆庶の御撫育を専一に遊ばせられ感戴至極、殊に旧弊御一洗の折柄、私共類村に至りて迄、素より神州の生民に候処、却て穢多の名これあり候は何共歎かわ敷く存じ奉り候。獣類に合わせて皮角の品取扱ひ渡世仕り候者も御座候得共、是又、恐れ乍ら御国用の一端にも相成り申すべき哉。且、田舎向きにては多分農業而已にて右様の品取扱ひいたし候もの一向御座なく候。何卒往古の如く穢多の身分を省き、士民同様に御取扱ひ下せられ度く、伏して歎願奉り候。万の一御容許成下せられ候はば、一統何れも蘇生致し候心地にて御髙恩猶如何許り歟有難き仕合せに存じ奉るべく候。以上。
同年12月、元右衛門の息子・茂平も鉄道敷設に関わり願書を出し、汚名廃止を訴える[36]。
一、鉄道の儀、御所開遊ばされ候皆、下賤の身迄も御国益感戴奉り候に附きては、類村共元来奥羽の土民に御座候所、妄行の者もこれある故歟、何の頃より遂に穢多の汚名を請来り、賤者と雖も、素より御国民の故か、類村の者共慙愧致さざる間迚は御座なく候。然し乍ら今日迄相続仕り候て復古御一新に逢ひ奉り候儀は、又以て幸甚の至に存じ奉り候。此御時に当り、何を歟、微忠をも尽くし、一度汚名を雪ぐべしと日夜心魂を動し居り、且又、兼ねて御国恩に報じ奉るべき儀もと打過ぎ居り候折柄、鉄道の儀を拝承仕り、これに仍て御当地並びに大阪渡辺其外類村同志の者申合せ、京より伏見迄の所、路途の失費献金仕り度く、其法、先づ山城・大和・河内・和泉・摂津・紀井・丹波・近江・播磨にて五百か村斗りこれある重立ち候もの、一村弐百人此ものより相応の出金仕り、其他小躬のものは運送等の人足に差出し、猶其余諸国類村に至る迄法の如く致させ候はば恙なく成就致すべき哉。御許容にも相成り候得ば早々取懸り申し度く、就いては類村汚名の儀廃させられ、往古の如く奥羽の民同様に御取扱ひ成下され間歎き哉と竊に願望仕り居り候。尤も此儀、御当地は勿論、渡辺村におゐても兼ねて志願の儀に御座候。猶其他類村に至る迄會て汚名の儀相歎き居り候に付、元の如く奥羽の民同様に成下され候はば、献金に付聊かも異存決して御座なく候。然り乍ら何分にも下賤の者迚斯くの如きの事を願上げ奉るの儀、恐入り奉るの儀と差扣居り候。然りと雖も方今言路御洞察にも相成り、誠に悪を去り善に向ふは人倫の道と多罪を願りみず、類村伝来の書相添へ、此段懇願奉り候。万々一御採用にも相成り候歟、右雑言の程咎めさせられずんば同志のもの重々有難き仕合わせに存じ奉り候。以上。
1871年(明治4年)、明治政府により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告(解放令)が出され、以前の身分外身分階層が廃止されたことが明示された。
しかし、近代市民社会の産業革命を成し遂げた欧米列強に見習う部分が多く、一部の知識階級でのみその必要性が理解されたに過ぎない。
そのため多くの村々では穢多や非人と同列に扱われるのには反対が強く、解放令発布直後から2年以上にわたって解放令反対一揆が続発した。
解放令に反対して部落民を排除する取り決めを行ったり、部落民を「新平民」と呼ぶことにさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼んだりした。
これに対し県レベルの行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方が用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平民」というものも出てきたが、一方部落民が「新平民」を自称することもあった。
部落民の呼称はたびたび換えられた。1905年、奈良県教育委員会における文書では「特種部落」が使われ、同時期の三重県の公用文書にもこの語が使われている。
また全国的に部落改善事業が展開されていくに従い、「特種部落」以外に「特殊部落」が行政用語として広まっていった。この言葉に対する部落民からの反発はあったが、部落の自主的改善団体である「備作平民会」の設立趣旨書において部落民を総称する際に「我徒」「同族」が用いられたり、1903年の大日本同胞融和大会においては「日本に新平民なる一種族あり」との文言も見られる。
次に出てきたのが「細民部落」である。これは1912年に開かれた「細民部落全国協議会」で用いられたが、「細民にすると一般的都市貧民との区別がつかなくなる」ということで、「普通細民部落、特別細民部落との区分けが必要になる」と指摘された。「細民部落」の名称以外には「後進部落」「要改善地区」が登場したが、「同胞」「一部同胞」「四海同胞」「四民平等」など、聞いただけでは分からない言葉も一時的には使われた。
滋賀県の郡役所で村長会議が催された席上、特殊部落改善が話題になった際、一村長は、「明治4年に解放令など出さずに、穢多を“皆殺し”にしておけば、禍(わざわい)はなかったものを[37]」と放言している。
解放令によって法的な地位においては、身分職業の制限は廃止されたが、精神的・社会的・経済的差別は却って強まった。たとえば新制度における警察官などが武士階級のものとされ、下層警察官僚だった身分外身分の者が疎外されたこと、武士(特に上層の武家階級)が新制度においても特権階級とされたのに対し、武士に直属し権力支配の末端層として機能してきた身分外身分がなんら権限を付与されずに放り出されることによって、それまでの支配の恨みを一身に集めたこと、などが原因と考えられている。
また現代に続く「部落差別」の問題の制度的源流は歴史的なものであるが、具体的な差別構造の成立は明治政府の政策や民衆に根付いた忌避感の表れであるとみる者もいる。
差別の具体的な形態は、個人においては交際や結婚や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。島崎藤村の「破戒」は、この時代の部落差別を扱っている。
1896年(明治29年)歌舞伎座初演の『侠客春雨傘』では登場人物の侠客釣鐘庄兵衛を被差別階級出身者とし、第五幕の「釣鐘切腹の場」で九代目市川團十郎の演じる暁雨が庄兵衛を諭す科白に「ハテ野暮を言う女だなア。穢多だろうが、大名だろうが、同じように生を受け、此世界に生まれた人間、何の変わりがあるものか。それに差別(しゃべつ)を立てたのは此世の中の得手勝手」(『名作歌舞伎全集』・第十七巻)がある。作者福地桜痴が欧米の平等思想を学んだ影響が見られ、舞台芸術で差別問題を扱った最初の例である。
佐賀市外に神野の御茶屋がある[37]。旧藩主の郊外別園だったが、お茶屋付近の若者は部落民に出入りさせない[37]。
ある年花見に来た部落民は、“身のほど知らずの生意気(なまいき)な奴だ”と入園を拒まれ、血みどろにされた[37]。
部落民の心理的発達は極めて暗い[38]。ながい間、部落民は卑屈にされていた[38]。部落民に対する侮辱は まず個人的な反逆となって現れてくる[38]。大兇賊として知られた“五寸釘寅吉”はその代表的なものである[38]。
大正末期から活動し、1935年に亡くなった社会運動家高橋貞樹は、著書『被差別部落一千年史』で次のように述べている。
ただし今日の部落問題研究者は、被差別部落が貧しくなった原因は「社会の圧迫」ではなく松方デフレであったと指摘している。灘本昌久は次のように述べている。
重要なことは、部落の貧困化は差別問題とはまったく別のところからやってきたことにある。それが、松方デフレ政策にほかならない。1877年(明治10年)に勃発した西南戦争で、明治政府は最強のプロ戦闘集団である薩摩武士を相手に多額の軍費を使い、不換紙幣を乱発したために、悪性のインフレに見舞われた。その解決のために、松方正義大蔵卿が急激な紙幣整理というハードランディング方式をとったために、一挙にデフレになり、部落の製造業が壊滅的打撃を受けたのである。
決して、部落が狙い撃ちされて被害をこうむったわけではなく、また差別されて貧乏になったわけでもない。解放令は、江戸時代の解放論が抜擢解放(行ないが良かったり、社会に功績のあった者から順に身分を引き上げる)とい漸進的方式であったのに対して、明治政府の出した解放令は即時無条件全面解放という画期的なものであり、明治政府が青臭いまでに革命的であったことを物語っている。
部落の貧困化は、そうした解放令とはまったく時期も原因もことなることにより引き起こされたのである[41]。
部落産業の一つに三味線製造用の猫の捕獲があり、このことから、関西地方では被差別部落民を「猫殺し」と呼ぶこともある[42]。
大正時代(1912年 - 1926年)に兵庫県神戸市長田区の番町部落を視察した畑道雄は
此長田村につきて調査せるも血族結婚の数は実に一割二分の多きに達せるなり。
概して早婚早熟にして女は十二三歳の頃より男は十五六歳にして異性を知る。
現に余が聞き知れるには十三歳にして姙娠せる女のありしが如きは実に驚くべき事実といふべし。
近親従兄妹の婚姻は普通にして中には叔父姪、叔母甥の関係に及べる者稀ならずと聞く。
と記している[43]。
ただし、番町部落は1899年(明治32年)の条約改正にともなう外国人居留地制度の廃止による中心市街地改造のために兵庫県が宿屋営業取締規則を改正し、それまで中心市街地区に密集していた木賃宿の営業許可地域を旧葺合区の新川スラムおよび旧林田村の番町部落に限定指定したことでこれらの地域に低廉で劣悪な木賃宿や長屋が集中することとなった。この結果、これらの地区を中心とする地域へ低廉な住居を求める下層労働者が神戸市外から流入し、下層労働者の居住地域となった。
他に木賃宿営業許可区域に指定された地域に東京の山谷、大阪の釜ヶ崎などがある。この中心市街地スラムの解体を目的として成立した制度により番町部落では人口の急膨張を生み、1868年に戸数85戸、388名だった人口が1888年には2,208人へと急増する。
結果、従来農業従事者の多かった番町部落が典型的な都市型部落へ変貌していった。その急膨張を生んだ移住者のすべてが他地域の被差別部落出身者であるとは考えられず、番町部落の被差別部落民の多くは、都市政策によって肥大化したスラムに吸収された被差別部落出身外者が被差別部落民化していったと見られている[44][45][46]。
『中央新聞』1918年(大正7年)9月13日は次のように報じている。
それから更に部落には早婚の弊があり、十七八の少年や十三四の未だ乳臭い小娘だと思つてゐると意外にも二人は人の親で蝶々髷の小さい母親が赤ん坊を抱いてゐたと云ふ悲惨な話をよく耳にした。部落民に子供の多い事生れた子供が兎角不完全である事などは是等の関係で略想像する事が出来るが、又一面には部落民の女に貞操観念の薄いこと、従つて男女の野合が多いこと、殊に大阪の特殊部落に於て此の風習が盛んな事は全く想像の外で淫猥な極彩色の浮世絵に描かれた有りの儘の事実を最も赤裸々に見る事が出来る。(略)尤もこれは普通の細民部落にも多い現象だが殊に社会と隔絶して自由の天地を局限された特殊民は常に娯楽が少く、仲間同志が互に密集して淋しい心を慰め合ふといふ特有の風習から男女の接近する機会が多く、又同居を好んで赤の他人の男女が雑然と狭い一家に起臥を続けてゐる事が如何に彼等の醜悪な劣情を唆る事であらう。
部落の下級民の間に全く貞操観念が爪の垢ほどもなく、更に甚だしいのは親子姦、兄妹姦といふあるまじき不倫が行はれるのも敢て珍しくないといふに至つては戦慄せざるを得ない。[47]
留岡幸助は明治時代(1868年 - 1912年)に北海道の空知集治監で教誨師をしていた折、主として関西の部落出身の受刑者に多数接した経験から「挙動が野卑であつて、其罪質を調べて見ると随分猛悪なものが多い。
例へば辻強姦をするとか、辻強盗をするとか、或は殺人をしても眼を繰抜いて、手足を寸断するとか、一種名状すべからざる惨酷な性情を有つて居る。さうしてなかなか犯罪の比例が多い、普通民の犯罪が人口千人に対して一・三位であれば、特殊部民の犯罪は人口千人に対して約八以上もある。
非常に多い処では人口千人に十人位もある所がある」と述べている[48]。
部落民にとって兵役の負担は一般社会に比してさらに一層の重く感じる負担であった[49]。それにも関わらず、部落出身者の国民男子は大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍への兵役中においてあらゆる侮辱を忍び、成績が良好であっても進級することは甚だ困難であった[49]。すでに入営の際に部落出身者という旨を記入し、劣等扱いをした[49]。軍隊内の凌辱に堪えきれず自ら銃台をもって頭を打ち割った兵士や、脱営して古沼に投じた兵士がいた[49]。群馬県の一部の村では、入営のとき次のような出来事があった[49]。
その村から帝国軍人として徴兵された十幾人のうちに部落の青年が二人あった[49]。十二月の入営期がきて、部落出身以外の壮丁は、在郷軍人からも町民からも送別の歓待至れり尽くせりで、在郷軍人会からは軍服を貸し渡した[49]。ところが部落の両青年にはそれを貸してくれなかった[49]。仕方なく一人は新調して間に合わせたが、もう一人は貧しかったため、ようやくにして一着の古いぼろぼろの軍服を町の軍人会に哀訴(あいそ)嘆願して借りた[49]。軍人会は「穢多の奴(やつ)に貸す服はない[49]。奴らにはこれでたくさんだ[49]。」と述べたという。
当初は納税額による制限選挙で、法律で全国統一の金額が定められたため、マイノリティーには経済格差のため参政が困難であった。沖縄県では、県民所得が全国平均の3分の2程度で有権者比率は少なかった。
制限は徐々に緩和され、1920年(大正9年)の時点では鹿児島県の部落民の有権者は衆議院選で154名、地方選で383名に達していた[50]。
1925年(大正14年)に普通選挙が始まり、25歳以上の全国民男性に選挙権が与えられた。
第二次世界大戦降伏による連合国軍占領下の日本で、1945年(昭和20年)10月に兵役法が治安維持法などと同時に廃止され、12月に衆議院選挙法が改正され選挙権は「20歳以上の全国民男女」に与えられるようになった。
このような状況を改善するために、かつての賤民階層の人々(いわゆる「部落民」)は、自主的な運動を始め、差別糾弾・行政闘争を軸に運動を展開した。「部落問題が社会不安の原因になることを憂慮」した政府はこれらの運動が「左傾化」することを恐れ、弾圧と懐柔の両面で相対した。
もっとも水平社は当初、「帝国臣民である以上、天皇の赤子として共に報国の権利と義務があり、それを差別により侵害するのは不当である」という意味の宣言をしていた。
「国民の融和」を目的とし、人権侵害の防止に積極的でなかった政府の運動に反発した西光万吉、阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国水平社が結成された。
そして「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる創立宣言で「全國に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。吾々が穢多であることを誇る時が来たのだ。」と宣言した。今でこそ「特殊部落」は差別用語として扱われ部落民も避ける傾向があるが、水平社結成時には扱いが異なっていたことが機関紙第一号から読み取れる
「明治四年の布令によって解放された吾々の頭上には、今度は新平民の名称を附され、尚近頃は少数同胞などの名称に代っている。實質が變化しなければ名称は問題ではない。歴史は絶対に消されぬ。エタが華族になり、華族がエタの名称に代っても、吾等に対する賤視観念が除かれねば、華族のエタが卑しめられ、エタの華族が尊敬せられる、寧ろ吾々は、明らかに穢多であると標榜して、堂々と社会を濶歩し得る輝きの名にしたい。」と主張する者が多数を占め、結局、名称によって吾々が解放せられるものではない。 今の世の中に賎称とされている「特殊部落」の名称を、反對に尊称たらしむるまでに、不断の努力をすることで喝采の中に綱領通り保存されることになった。この間殆んど一時間有余、口角泡を飛ばして議論を闘はした。
当時は1917年(大正6年)のロシア革命の直後であり、活発化した社会主義運動はこれらの部落解放運動に大きな影響を与えた。また自由民権運動との関わりも深かった[要出典]。
しかし、社会主義運動との連携を恐れた政府は後に水平社、特に日本共産党に関わりを持った水平社左派を弾圧した。1920年代(大正9-昭和4年)後半の低迷を経て、1930年代(昭和5-14年)以降、再建された全国水平社総本部は、松本治一郎を中心とし、合法無産政党に連なる社民派が掌握した。
1933年(昭和8年)の高松差別裁判糾弾闘争のように、大衆的な盛り上がりを見せることもあったが、次第に戦時体制に呑み込まれていき、弱体化、太平洋戦争(大東亜戦争)突入後の1942年(昭和17年)に消滅してしまった。
戦後に、「同胞融和」という言葉から、部落問題のことを「同和問題」とも呼ぶようになった。
1942年(昭和17年)8月に文部省(当時:→文部科学省)社会教育局は『国民同和への道』を刊行し、初めて政府の教育方針として同和教育政策の理念・具体的方針を示した。
戦後について記述する。 1951年(昭和26年)、在日朝鮮人の生活を扱った小説「特殊部落」を京都市九条保健所職員が杉山清一の筆名で雑誌『オール・ロマンス』に発表し、問題となった(オールロマンス事件)。
設定上の舞台である「特殊部落」は京都市内に実在する被差別部落であるが、登場するのは全員が在日朝鮮人、その「特殊部落」に居住していれば「部落者」と呼ばれ差別されるが、その地域から住民異動すればそれは解消されるという、地域の実情や差別の様態とは懸け離れた内容[51]で、地域の住民たちは事実を歪めて興味本位に書いた差別小説として京都市に対して抗議を行った。
京都市役所内部に形成されていた左翼グループはこの問題を部落に対する行政上の措置の不十分さから起きた事件として扱うよう図り、水平社運動と融和運動の活動家が大同団結して結成された部落解放全国委員会京都府連は彼らと連携して、「小説は京都市が放置してきた被差別部落の実態を反映したものだ」として行政を批判した。
翌年、京都市は前年比5.8倍の同和問題対策予算を計上し、被差別部落のインフラの改善を積極的に推進した。
オールロマンス事件以降、所謂「行政闘争」が活発化する。
1960年(昭和35年) 自民党、社会党、民社党の与野党3党は共同して「同和対策審議会設置法案」を第34回国会に提出[52] [注釈 2]し、同法案は7月15日可決、成立[53]。8月13日に公布、施行された[54]。1961年(昭和36年)12月 「同和対策審議会」の第1回総会が開催され内閣総理大臣が「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策」を示すよう諮問した[55]。審議会は、答申を出すまでの約4年の間に総会を42回、部会を121回、小委員会を21回開催した[55]。そして 1965年8月11日に「同和対策審議会」答申が出された[56]。 「同和対策審議会」は答申の中で、「部落差別の存在」を認め[57]、さらに「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である[58]。」とした。
1969年(昭和44年)に同和対策事業特別措置法が10年間(後に3年間延長)の時限立法で制定された[59]。
このように、部落解放同盟を始めとする各運動団体は行政に強く働きかけ、同和地区のインフラストラクチャーの改善、精神的な部分での差別を解消するための教育などを推進していった。
「同和地区」と呼ばれる地域が出てくるのはこれ以降であるが、運動が盛んでない村では指定によりさらに差別を招くのではという恐れから、地区指定を受けずに同和対策事業を受けなかった例も多い。
教育や社会基盤の格差の是正のための各種同和対策事業については、「部落以外の人に比べ優遇されている」(逆差別)と主張されることがある。これらの措置は移民国家のアメリカ合衆国で女性やアフリカ系黒人、先住民など社会的少数者である非ヨーロッパ系・非白人への雇用や教育に適用されている積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)とも捉えることが出来るが、アメリカにおける人種差別と本邦における部落問題を同列化して捉えることの正当性については議論が呈されている。
1982年(昭和57年)4月1日 「地域改善対策特別措置法」が5年間の時限立法で施行された[60]。
1987年(昭和62年)4月1日 「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」が施行され、2度延長されたが2002年(平成14年)3月31日に期限を迎え、33年間にわたる同和対策事業に関わる法律が終了した [61][62]。
1961年(昭和36年)、高知県の同和地区の父母が、学習会において日本国憲法を学んでいたが、第26条に「義務教育は、これを無償とする」と言う条文を見つける。
この事で、それまで有償だった教科書に疑問を呈し「義務教科書の無償提供運動」を興した。
結果、1963年(昭和38年)「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」が成立し1969年(昭和44年)までに順次、全国の小中学校の教科書が無償提供されることになる。
1974年(昭和49年)11月22日、兵庫県養父郡八鹿町(現養父市)の八鹿高等学校の教職員約70名を総評系労組などで構成された八鹿高校差別教育糾弾共闘会議の部落解放同盟が襲撃する事件が起こった。
この事件により教職員48名が負傷し、29名が入院、危篤を含め2か月から1週間のケガをした。
刑事事件では起訴された部落解放同盟員全員が有罪で確定、民事裁判でも解放同盟の暴行傷害に協力した県、教育委員会が被害者に謝罪し賠償金を支払い、解放同盟は判決確定後かなり経ってから法定の遅延利息を含む判決の金員を支払っているが、今も教師たちに対する集団暴行・傷害の正当性を主張し続けて謝罪を拒否している。
同和対策事業の伸展に伴い、同和地区の環境改善は画期的に進んだが、巨額の予算の執行に伴い、それに関わった行政当局者、運動団体関係者による不正・汚職行為(いわゆるえせ同和行為)が少なからず発生し、マスコミを賑わせることがたびたびあった。
とりわけ1981年(昭和56年)の北九州土地転がし事件、2001年(平成13年)に表面化したモード・アバンセ事件、2006年(平成18年)に発覚した飛鳥会事件や奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件、八尾市入札妨害恐喝事件など、運動団体の幹部と行政の癒着が報道されている。
特に一部の地方自治体で同和対策事業に関する不正が発覚した2006年以降、大阪市を始め各地方自治体では同和行政の大幅な見直しが行われることになった。
2008年(平成20年)鳥取県では、部落解放同盟鳥取市協議会の元会計責任者が架空の人権コンサートをでっちあげて平成17年度の市教委の補助金50万円を不正受給していたことも発覚した。
また、関係者の自作自演による差別事件なども複数発覚している。
これは実際には差別事件など起こっていないにもかかわらず、さも差別事件が発生しているように見せかけた悪質なもので、滋賀県公立中学校差別落書き自作自演事件や解同高知市協「差別手紙」事件などがその一例である。
これは、現在でも行われており、2009年(平成21年)7月7日には、福岡県で、同和地区の出身者である立花町(現・八女市)の嘱託職員の男が、自宅にカッターナイフの刃を同封した差別的な文書を、町役場にも差別的な記述があるはがきを匿名で送るという事件が発生した。
「被害者になれば町が嘱託の雇用契約を解除しにくくなると思った」と男は話しており、県警は偽計業務妨害の疑いで逮捕した[63]。
2009年(平成21年)、福岡県では、2月、立花町役場に採用された被差別部落出身の男性から、県議に「差別問題を県議会で取り上げてほしい」との電話があった。
2003年(平成15年)から、この男性に対する44通の差別的なはがきが役場などに郵送されていた。県議は、電話を受け、県警に徹底捜査を要請した。しかし、3か月後、逮捕されたのは「被害者」であるはずの男性だった(立花町連続差別ハガキ事件)。
この男性は、44通すべての関与を認めており、会合で話をして、講演料まで受け取っている。県警は、町に雇用を継続させることが目的だったと見ている[64]。
所得格差、進学率の違い、差別される要因になっていたインフラストラクチャー整備の遅れは住宅改善事業などの同和対策事業により指定地区ではかなり解消され、若い世代では部落へ意識は薄れてきている[65]。逆に部落解放同盟な同和団体による「解放教育」と称した横暴な公教育介入、「部落の子」調査や「部落民宣言」の強要、人権侵害の「差別糾弾闘争」など、部落問題解決よりも、恐怖を招いて部落差別温存・固定化させる言動が問題になっている[66]。
特に1955年頃から1973年頃までの高度経済成長期の大規模な人口移動、それに伴う都市近郊の開発・移転により、転入してきた住民の大量流入で被差別部落地区色が薄れたり、忘れ去られていく傾向は多い。また各種運動の結果として差別意識が改善している部分も大きい[65]。義務教育過程で同和教育が行われることがあるが、「寝た子を起こすな論」では「そもそも被差別部落の意味を理解していない(実体験として被差別部落が何であるかを知らない)子供に単に「部落」という言葉が差別語であるという意識を植え付けている」と批判されている[65]。逆に、同和教育推進派の部落解放同盟委員長の組坂繁之は「差別は自然にはなくならない。それどころか、『寝た子を起こすな』というので自分の家が部落民であることも部落問題のことも何も教えられずに育った子供が、家の外で聞いてきた社会の偏見を鵜呑みにして家族の前で平気で差別発言をしたという例がある」と述べている[65]。
一方、従来の「周囲の差別的な視線により移転の自由がままならず、同じ血筋の人が代々住み続けているところ」との一般的な部落に対するイメージとは異なり、京都市、大阪市などに多数存在する都市部落では、人口の流出入が極めて活発であり、社会的地位の上昇を果たした階層が転出していき、その代わり社会的に低位な層が転入してくるという循環構造が形成されていることが近年明らかになってきている[67]。近い将来、それらの地区では、新たな貧困と、それに起因する様々な社会的問題を抱えることになるのではないかと懸念されている。早期に同和対策事業が開始された地域では、その一環として取り組まれた社会資本の老朽化が顕著になっているほか、すでに地区住民の実情に合わないものになっており、その対処を巡り新たな課題が発生していると指摘されることもある[68]。
部落出身者と結婚すると血縁関係が生ずるため、「自分の家系(息子、娘)の血が穢(けが)れるから」と反対する家族(親戚なども)が多くいた。内密に身元調査や聞き合わせを行い、部落出身者と分かると結婚を許さない例や、好きな人と一緒になることに妨げがあった[69]。そのため部落民は部落民同士で結婚することや、仮に部落外の人と結婚できたとしても、それは親族の祝福がない駆け落ちであるなどのことが多かった。
また結婚差別に遭い、自ら命を絶つ者も多くいた。今でも、結婚に反対する傾向は少なからずあり、露骨に反対する場合・それ以外の理由に託けて反対する場合の両方がある。この問題があるため、探偵業の業務の適正化に関する法律の成立後は、どの探偵業者も『差別につながる身元調査はしません』と広告(タウンページ)や契約書に注記している。
なお、部落民による結婚差別もあったことを畑道雄が報告している[43]。それによると、神戸市の部落の娘に部落外の会社員が求婚したところ、娘の親が会社員の血統の調査をおこない、「もし男が同じ穢多の生まれなら喜んで娘を嫁がせるが、そうでなければ断る」との理由で破談になったという[43]。
1975年(昭和50年)11月に、被差別部落とされる地域を一覧で記した本が興信所などにより作成され購入者の人事部に配備したとされる「部落地名総鑑事件」が発覚した。しかし法務省人権擁護局は、被差別部落ではない地名も含まれている、としている。2007年(平成19年)には、部落地名総鑑の内容を収録したフロッピーディスクが出回っていることが発覚した[70]。
部落問題は、部落解放同盟の糾弾・攻撃対象になることを恐れる者において、タブーである[2]。そのためマスメディアなどでは「荊タブー」と呼ばれ正面から取り上げられることは少なく(真面目に取り上げられる番組は『朝まで生テレビ!』など少数)、また公の場で部落問題を語ることは大きな論争の原因となることが多い。
「部落」という言葉自体も、事実上の放送禁止用語となっており、出演者が「集落」の意味での部落という言葉を使った時でさえ、すぐに謝罪訂正、もしくは「集落ですね」などとその場で言い換えられる。しかし最近では、本来の「部落」の意味や過剰な自主規制への反省からか、特に何事もなく放送が進む場合が多い。
21世紀に入って『同和利権の真相』(寺園敦史、一ノ宮美成、グループK21著・別冊宝島Real、宝島社文庫)というシリーズが発表された。既に累計50万部前後のベストセラーとなっている。また、本書で取り上げられたハンナン株式会社の浅田満元会長が2004年(平成16年)4月17日にBSE対策の補助金詐取の嫌疑で逮捕された。
なお、『同和利権の真相』で主要な批判の対象とされている部落解放同盟の公式見解として公表された反論文[109]や、宮崎学、角岡伸彦など解放同盟外の論者らの同書への批判を眼目とした反論本『『同和利権の真相』の深層』(解放出版社)がある。
被差別部落の数や部落問題の認知度については大きな地域差がある。差別の対象となった賤民身分や被差別部落の呼称も地域により様々であり、一般に西日本には、大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んに行われる傾向が強い。
一方、関東地方では、残存した被差別部落が極めて少ない上に、1960年代以降の人口移動の継続的な増加[110] と、大規模な都市再開発が進められたため、1970年代半ばには、住民とその居住する地域の関連性が見出せなくなった。これにより、被差別部落も曖昧な「過去の概念」に変化し、自律的な被差別部落の解消が急速に生じた。
北陸地方や東北地方でも、残存した被差別部落はごく少数であったことから[111]、明治時代中期には、既に被差別部落への意識は希薄なものとなっていた。このような状況から、戦後の学校教育で、部落問題を敢えて取り上げる必要性も無くなった。また、並行して「部落」という言葉は「被差別」の意味を失い、「一般的な集落」や「町内会」といった本来の語義に戻った。差別用語としての認識は全く無く、むしろ地域の仲の良さを象徴する言葉となっている。現在の東北出身者のほとんどは住む地域や職業による差別が存在すること自体知らず、理解に苦しむ者がほとんどである。
このように、東日本では1980年代初頭までに、被差別部落の解消が広い範囲で進展したため、解放運動も局所的かつ小規模なものに留まるようになった。なお、北海道や南西諸島には、この項でいう「被差別部落」は存在していない。(琉球における宮古・八重山に対する差別と、この項で述べるものとでは、その背景が異なっている。)
北陸地方で部落問題が深刻化しなかったのは、大多数が浄土真宗(一向宗)を信仰していたことが一因である。浄土真宗では武士、猟師、そして被差別民の「役務」・「家職」に伴う殺生は、忌避の外としていた。浄土真宗では自力で本願を遂げられると信じる「善人」よりむしろ「悪人」こそが、阿弥陀如来によって救われる存在であるという「悪人正機説」が唱えられた。ここでいう「悪人」とは自力で本願を遂げられないもの、煩悩や迷いがあり悟りを開けぬものものといった意味であるが、鎌倉時代の辞書『塵袋』によると当時の「悪人」という言葉には賤業と考えられていた猟師・商人の意味もあった。このような教義から浄土真宗は全国の被差別民の救済にも熱心にとりくみ、被差別民の大半が浄土真宗に帰依していくことになる。浄土真宗が殺生とどう向き合っていたのか例を挙げると越中(富山県)に残る「念仏行者心得か条」には「稼職に非ざる殺生を致し申す間敷事」(仕事ではない殺生はしないようにしましょう)と書かれている。代々の指導者は繰り返し生きるために必要な殺生の必要性を説いている。開祖親鸞は「海川に、網を引き、釣をして、世をわたるものも、野山に、猪を狩り、鳥を取りて、生命を継ぐともがらも、商いもし、田畠を作りて優る人も、たゞ同じことなり」と言っている。また本願寺中興の祖といわれる本願寺第8世の蓮如が越前(福井県)吉崎御坊を拠点としていた際に書いたと思われる手紙(御文)の一節に「ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり」とある[112]。
浄土真宗への帰依が深い越中(富山)において被差別民にあたる職業を担っていた「藤内」は一般集落から隔離されること無く、各集落内に分拠していたため被差別部落そのものが形成されなかった。加えて、1980年代後半以降、これらの地域では急速な過疎化が進み、1990年代以降は被差別部落も含め消滅集落になる集落が珍しくなくなった。この状態で被差別部落の隔離が維持されることはなく、意識が低かったこともあって部落問題そのものが過去のものとなりつつある。そのため、北関東地方も含めたこれらの地域では、通常の学校教育では現代の部落問題に関して教えることはまずないことから、関西以西に進学する学生を対象に、部落問題についての禁忌、タブーといったものを特別に講義する事態になっている。
部落解放同盟は「部落差別の根深さ・厳しさの表れ」の根拠として、福岡県内の部落解放同盟員に送られてきたとされる「部落差別ハガキ」を宣伝し、県内の小中高生にも教え込ませてきた。しかし、部落解放同盟員が自分の公務員の地位維持のために約5年も自分に対する部落差別狂言を行っていただけであることが発覚した。自由同和会は、かつての部落差別は地区整備などで既に解消されつつあり、新たな「現在の部落差別」は部落解放同盟のような特定団体優遇の同和行政が原因だと指摘し、同和行政・教育の終結と改革を求めている。部落解放同盟は「冤罪」と主張していたものの、2009年に逮捕された部落解放同盟員である嘱託職員は差別されていると契約更新が続くから差別自演をしていたと述べている。自由同和会は関西や中国、九州地方で部落解放同盟の不祥事発覚が相次いでいること、以前にも自作自演がバレて部落解放同盟の支部長が自殺したことにも触れ、「やっぱり、またか」と部落解放同盟関係者の自作自演であったと機関紙で伝えている[3]。
2019年9月に発覚した福井県高浜町における関西電力幹部らの金品受領・便宜供与問題の第三者委員会の報告書では1987年に高浜発電所において従業員間で同和地区出身者による差別事案が発生し、また1988年には関西電力協力会社の従業員が同和地区出身者に対し、差別発言をしたとして部落解放同盟高浜支部から問題提起がなされて以降、関西電力では主に原子力発電所関連の要職に就いている役職員に対し人権教育をするようになったとしている[113]。また事件に関与した森山栄治が高浜町長をもしのぐ権威をもつに至る背景に部落解放同盟の存在があり、「森山さんは部落解放同盟の力を笠に着て、役場でも出世していきました」との共産党町議の言葉を引用した週刊新潮の記事や「人権団体を率いて、差別をなくす“糾弾活動”の名目で恐怖政治を敷き」と同じ町議の言葉を引用し、「女性教師が差別発言をしたとして森山らに糾弾され教員を辞めた」という話を紹介した週刊文春の報道に対し、部落解放同盟中央本部が執行委員長名で「部落は怖いものとする予断や偏見を利用し」「部落差別の助長拡大」をしていると批判コメントを発表する事態となった[114][115][116]。
2020年11月25日、YouTuberが篠山町連続差別落書き事件を題材として現地を取材し、差別が発生する心理メカニズムに迫ろうとした動画がインターネット動画投稿サイトYouTubeとニコニコ動画並びに、ライブドアブログ(LINE)に公開したが、地元自治会が、差別だとして丹波篠山市に相談、同市は「住民のプライバシーや名誉権を侵害している」と判断。サイト管理者に削除を要請したが、表現の自由の範囲内と判断し応じなかったため、市と地元自治会長の連名で、2020年10-12月、3社を相手取り、仮処分を申し立てた。その後、YouTubeとライブドアブログは管理者が自主的に削除。動画テロップの内容は、ほぼウィキペディア通りで、「投稿動画の内容を確認したが、任意では削除しない」としてドワンゴが争う姿勢を示したため、同支部が2021年2月、「差別が助長された」として、丹波篠山市と地元自治会が、サイト管理会社ドワンゴに動画削除を求める仮処分を申し立て、2021年5月には、神戸地裁柏原支部が削除を命じる決定を出した。ドワンゴは自治会長のプライバシー侵害などを認める決定を受け、動画を削除した。市は直接的な当事者ではないためと決定を速やかに得る目的で最終的には申立人から外れた。
丹波篠山市長の酒井隆明は、申立人と積極的にかかわったが、部落差別をなくすのは市の責務で、長年取り組んできたと弁明、表現の自由の侵害には当たらないという立場を示した。部落差別問題を扱った動画の削除を命じる仮処分は全国初であった[117][118][119]。
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