雑種賎民
日本史における、穢多と非人を除く被差別民 ウィキペディアから
雑種賎民(ざっしゅせんみん)は、日本の歴史上における賎民のうち、穢多と非人を除き、かつて卑賎視された身分の多種雑多な者(被差別民)をいう。
『河原巻物』には30数種の職種が長吏の支配下であるとされ[1]、元禄3年(1690年)の『人倫訓蒙図彙』に44種、享保年間(1716年~1735年)の弾左衛門が幕府に提出した由緒書には配下として28種[2][3]、文政年間(1818年~1829年)の『嬉遊笑覧』に29種、本居内遠の『賎者考』に50種[4][3]の賎民が言及されている。
実態

ささら、胡弓、三味線の3人組による門付芸として描かれている。
彼らの多くは集落を作らず、定住性が低く、時には家族さえ為していなかった。全国を支配する国家体制がなかった中世には支配の間隙にあり、把握や統制は問題にならなかった。
地域別の雑種賎民
雑種賎民の役務
雑種賎民の中には幕藩勢力から役務を申し付けられたものもある。
- 猿飼は弾左衛門の支配下にあり、江戸城西丸下の厩や武家屋敷での馬の祈念などをした。そのほかに大道で猿の芸を見せることもあり、地方巡業にも出かけた[5]。
- 乞胸(ごうむね)は家業について非人頭車善七の支配を受けており、江戸の浅草溜の火災の際、御用書物を持ち出した。『寛政度文政度御尋乞胸身分書』によると、乞胸の始まりは大道芸で糊口をしのいでいた浪人で、次第に人数が増えたところ、非人頭車善七から職域侵犯であると抗議され、両者協議の末、乞胸は町人の身分のまま、稼業に関してのみ善七の支配下になることで決着した。乞胸は空き地や大道で芸をし、門付は非人のみが許された[6]。
- 加賀藩の藤内は葬送・隠密御用・牢番・行刑などを務めた。
- 伊勢国十二郡に広く分布したささらは園城寺(近江三井寺)支配下で、城掃除、死刑・拷問、下級行刑役、町の見回り、寺社の開帳。法食の立ち食い、芝居、行倒人の始末、火消しなどの役務を負った。
- 鳥取藩の鉢屋は生業として竹細工を営んでいたが(それにより茶筅や簓とも呼ばれた)、犯人の逮捕・牢番の役務があった。
- 鹿児島藩の慶賀はその名の通り、藩の慶祝行事に関係していた他、牢番の役務があった。
脚注
参考文献
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