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1932-2015, 児童文学作家、翻訳家。 ウィキペディアから
今江 祥智(いまえ よしとも、1932年1月15日 - 2015年3月20日)は、日本の児童文学作家・翻訳家[1]。
今江 祥智 (いまえ よしとも) | |
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誕生 |
1932年1月15日 日本大阪府大阪市南区島之内 |
死没 |
2015年3月20日(83歳没) 日本 |
職業 | 児童文学作家、翻訳家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 同志社大学文学部英文科 |
活動期間 | 1960年 - 2015年 |
ジャンル | 児童文学 |
代表作 |
『山のむこうは青い海だった』(1960年) 『すてきな三にんぐみ』(1969年) 『ぼんぼん』(1973年) 『海の日曜日』(1975年) 『優しさごっこ』(1980年) |
主な受賞歴 |
産経児童出版文化賞(1967年) 児童福祉文化奨励賞(1967年) 日本児童文学者協会賞(1974年) 野間児童文芸賞(1977年) 路傍の石文学賞(1988年) 小学館児童出版文化賞(1996年) 紫綬褒章(1999年) 京都府文化賞功労賞(2002年) 日本絵本賞(2005年) 旭日小綬章(2005年) エクソンモービル児童文化賞(2008年) |
デビュー作 | 『山のむこうは青い海だった』(1960年) |
今江駒吉とサキの三男として、大阪市[2][3]南区島之内に生まれる。父駒吉は、兄が経営する料亭「大市」(だいいち)の仕入れ部長役で、のちに大日本蚕毛株式会社を興し社長に就任したが、1937年、酔って頭部を負傷したことから自宅で療養するようになり、1941年6月、50歳の時に急性脳炎で死亡した。
1936年、渥美幼稚園に入園。幼稚園で配られた「キンダーブック」により、初めて絵本と出会う。1937年、塩町に転居。以後、1945年までここで育つ。
1938年、渥美小学校に入学。当時、名古屋に妻公認の愛人を持っていた駒吉が、妾宅から自宅に帰るときの照れ隠しとして講談社の絵本の新刊を全冊毎月買い揃えたため、『かちかち山』『桃太郎』から『岩見重太郎』『乃木大将』までを刷り込まれ、児童文学に対する素養を育まれる。
1944年、旧制今宮中学校に入学。絵画部に所属する傍ら、海野十三、山中峯太郎、佐々木邦、佐藤紅緑などの少年小説を愛読。幼年学校を目ざす軍国少年だったが、心臓脚気を患ったため、医者に勉強を止められた。
1945年3月、大阪大空襲で焼け出されたため、母の実家がある和歌山県橋本に移住し、ここから旧制今宮中学校に遠距離通学。1945年8月、橋本で敗戦を迎える。橋本では慣れぬ畑仕事を経験したが、1948年に帰阪し、学制改革により新制今宮高等学校2年次に編入。引き続き絵画部で絵を描く傍ら、図書部に入り、ヘルマン・ヘッセ、鈴木三重吉、山本有三、芥川龍之介、夏目漱石などを濫読。さらに、学校新聞の文芸作品募集に応じて「松葉上人」を提出したところ、入選し掲載される。このころ、岩波文庫めあての古書店めぐりに熱中し、中勘助『銀の匙』を読んで感動、座右の書とする。
1950年、同志社大学[2]文学部英文科[3]に入学。上賀茂の医師宅に下宿。ヴェルコールやクロード・モルガンやルイ・アラゴンやアランやフランソワ・ラブレーなどの仏文学に傾倒し、辰野隆や渡辺一夫など仏文学者の著書を愛読、さらにロマン・ロラン研究会を設立して顧問に新村猛講師(当時名古屋大学教授)を迎える。この研究会で知り合った上級生の松居直(のち福音館書店会長)から勧められて立原道造や堀辰雄を愛読。このころ、サークル仲間の京大生尾埜善司(のち弁護士)の招きで信州追分を旅し、立原や堀にゆかりがある油屋旅館で、偶然に福永武彦や中村真一郎と逢う。
1952年、文学研究会に所属し、「同志社文学」に評論を発表。田宮虎彦、堀辰雄、桑原武夫などを扱った内容。1953年、「同志社文学」[3]に短篇「夜と人と」「夢の中では瞳は空色になる」を発表。当時はとりたてて児童文学に関心が向いていたわけではなかった。和辻哲郎『古寺巡礼』の影響で奈良や京都の古寺を巡ったのもこの時期のことである。
卒業論文にはヘンリー・フィールディングを、次いでロバート・ネイサンを扱おうとしたが、いずれも教授に拒絶されたためハーバート・リードに決め、英文による卒論「批評家ハーバート・リードの諸相」を提出して、1954年3月、大学を卒業。同年4月、新村の世話で名古屋市の桜丘中学校[3]に英語教師として赴任(初任給9800円)。初めは新村家に寄寓していたが、やがて新出来町なる覚音寺の庫裡の二階六畳に下宿して学校に通勤。この時期の体験は『牧歌』の材料となった。中学校では担任を持たされず、図書館係[3]に任ぜられ、岩波少年文庫の『ムギと王さま』(ファージョン)、『くろんぼのペーター』(ヴィーヘルト)、『おにごっこ物語』(エーメ)、『エミールと少年探偵たち』(ケストナー)、『星の王子さま』(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ)といった名作群と出会ったことがきっかけで児童文学の魅力に開眼。同年、詩集「四季」および短篇集「野の娘」「仔馬」(いずれもガリ版刷りの私家本)を出したことがきっかけとなり、同人誌「近代批評」に迎えられる。
1957年、「近代批評」に立原道造論やケストナー論を、「詩と評論」に谷川俊太郎小論を発表。さらに松居の勧めで童話を書き始め、当時松居が編集していた「母の友」に「ネコのクロクロ」「トトンぎつね」を載せる。1958年、「母の友」に「アメだまをたべたライオン」「三びきのライオンの子」「四角いクラゲの子」「ぽけっとくらべ」などを続々と発表。1959年、「近代批評」に発表した連作童話「小さな神様たち」12篇がきっかけとなり、「岐阜タイムス」に「山のむこうは青い海だった」を連載(挿絵は長新太)。
1960年、松居直の勧めで教職を辞して上京、小金井(画家河野通勢の未亡人の家)に下宿して福音館書店に勤務[1][3]。編集者として児童文学に関わることを望んでいたが、意に反して「英語発音小辞典」「ピクチュア・カード」など英語関係の学習書籍を担当させられた。木島始の世話により、同年10月、理論社から『山のむこうは青い海だった』を上梓。
1961年、松居の世話で日本リーダーズ・ダイジェスト社に移り、漫画誌「ディズニーの国」の編集を担当[3]。(当時の編集長の三井高進が三井財閥に連なる小石川三井家の第10代当主だったことから、後年『大きな魚の食べっぷり』が生まれた)当時珍しかった週休二日制の会社であることを利用し、余暇は創作に打ち込む。秋に千江夫人と結婚。また寺村輝夫の『ぞうのたまごのたまごやき』を読んで、理論社初代社長の小宮山量平に掛け合い、『ぼくは王さま』を刊行するきっかけを作る。
1962年、三井編集長の急死により「ディズニーの国」誌の編集長となり、手塚治虫や福永武彦、飯沢匡、岡本喜八、北杜夫、三浦哲郎など多数の執筆者と交友するが、1964年の同誌廃刊に伴い、理論社の嘱託編集者に転じる[1][3]。この間、1963年10月に長女冬子(のち女優)が誕生。1967年、『海の日曜日』によりサンケイ児童出版文化賞および厚生省児童福祉文化奨励賞を受賞。
母の死をきっかけに東京を離れ、1968年4月、京都市に移住[3]。同年から中川正文の世話で聖母女学院短大講師となる。
1971年春、千江夫人と協議離婚し、娘と二人暮らしになる(この時の経験が『優しさごっこ』『冬の光』の題材となる)。1972年、「ベトナムの子供を支援する会」から反戦短編『へんですねぇ へんですねぇ』を発表(絵:長新太)。1974年、『ぼんぼん』により日本児童文学者協会賞受賞。
1981年、教授会の煩雑さに閉口し、自らの全集の刊行を機に聖母女学院短大教授を辞任するが、以後2年間、同校で非常勤講師を務める。季刊誌「飛ぶ教室」を光村図書からプロデュース[1]。1985年3月、理論社編集者の成澤栄里子と再婚。1988年、『ぼんぼん』から『牧歌』に至る四部作で路傍の石文学賞を受賞。
シャンソンを愛し、イヴ・モンタンを崇拝。好きな落語家は桂枝雀。歴史上の人物では高杉晋作を尊敬している。
1970年代の『兄貴』『ぼんぼん』『優しさごっこ』『冬の光』などの長編は、児童文学の枠を超えて読まれるようになり、特に『優しさごっこ』は1980年にNHKでドラマ化され、ベストセラーとなった[2][4]。この時期、灰谷健次郎、上野瞭、佐野洋子などが、同様に、児童文学や絵本から、大人向け作品へ移行していく現象があり、それは踵を接して、よしもとばななや角田光代のような、最初から少年文学風に書く作家を生む一因をなした。このことは、児童文学の境界の問題として考察されるべきものである。
今江は「母の友」に1967年4月号から1968年3月号まで連載した長篇『ひげのあるおやじたち』(1970年11月10日、福音館書店から刊行)の第8章「八ばんのとうちゃん 非人頭甚五」における
非人たちは、いつもどこか死人のにおいがした。(112-113ページ)
などの表現や、非人部落の描写である
なんともかともいえぬにおいが、下のほうからむっとのぼってきたのだった。目のなかにまでしみるようなにおいだった。(116ページ)
などの表現が部落差別を助長しているとされ、部落解放同盟から糾弾を受けたことがある。特に『解放新聞』編集長の土方鐵の意見は「(田島征三の)絵が汚い、汚く描いたところが差別だ」というものであった[7]。
これに対して、自らの画風をかねがね「汚い」と評されて差別されることが多かった田島は「それこそ、差別じゃあないですか!」と言い返そうとしたが、今江は、1971年4月、「日本児童文学」誌に「わたしの中の"差別"」と題する反省文を発表し、早々と『ひげのあるおやじたち』を絶版・回収・裁断処分にすると決定(以後、全集にも収録していない)。この対応を“表現の自由を主張しないのは立派だ”と土方や宅間英夫ら部落解放同盟の関係者から讃えられた今江は、これ以後『タンポポざむらい』など差別に関する作品を執筆した時は宅間らに検閲を乞うに至った。特に宅間からは、京都市北白川の自宅を購入する際に「銀行をだまくらか」す便宜を図ってもらったという[8]。その他、部落解放同盟大阪府連合会に招かれて講演をおこない、さらに部落解放文学賞童話部門の選考委員を20年以上にわたり務めていた。
その後この作品は38年の歳月を経て2008年に『ひげがあろうが なかろうが』に併録される形で部落解放同盟の出版部門である解放出版社から復刊された。このことにつき田島は「今回38年ぶりに、出たが、超分厚い本の中に飲み込まれてしまったし、タイトルカットのみで、見てもらいたいイラストレーションは一枚も入ってないのだ。タイトルカットにしても、原画がみつからず、印刷物からの複写だから迫力に欠ける。今回の出版社は部落解放同盟の出版、要するに三十八年前の絶版は早とちりということなんですね」と評している[7]。
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