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日本の俳優 ウィキペディアから
村上 弘明(むらかみ ひろあき、1956年〈昭和31年〉12月22日[2][4][5] - )は、日本の俳優・タレント。本名は同じ[4][5]。
岩手県陸前高田市広田町出身[4][5][6]。宮城県気仙沼高等学校卒業、法政大学法学部政治学科中退[5][7][4]。オフィス佐々木、オスカープロモーションを経て、2024年12月1日から芸能事務所HONESTと業務提携となった。
父親は自転車店と三陸海岸でのワカメ養殖業を兼営しており、弘明も家業を手伝っていた[8]。進学校・気仙沼高校に越境入学して卒業。医学部を目指して浪人中、映画館に入り浸って3浪した末に「東京の大学に行って教職課程を履修し故郷に帰って教師になる」と両親に言って法政大学法学部に進学[9]。映画好きの友人が無断で応募した[9]映画『もう頬づえはつかない』のオーディションを受けて主役にキャスティングされそうでされなかったことを切っ掛けに芸能事務所に籍を置く[4][10](後述)。
事務所の意向を受け不本意ながら1979年『仮面ライダー (スカイライダー)』主演オーディションに応募し、3,786人の候補者から選出され主人公・筑波洋役でデビュー[11][4][10][注釈 1]。役者をしていることを両親に黙っていたが、『仮面ライダー』の放送が始まると露見したため了承されて大学を中退[要出典]。1980年には、劇場版『仮面ライダー 8人ライダーVS銀河王』にも主演している[5]。
現代劇を中心に活動していたが、1985年の必殺スペシャル第5弾『必殺仕事人意外伝 主水、第七騎兵隊と闘う 大利根ウエスタン月夜』以降、必殺シリーズの花屋(後に鍛冶屋)の政役で出演し、時代劇にも活動の場を広げた。同年、NHK大河ドラマ『春の波涛』を皮切りに、1988年には『武田信玄』で農民から一城主になる武将高坂昌信、1993年の『炎立つ 第二部』では藤原清衡を主演するなど、その後も数作品に出演している(大河ドラマについては後述)。
1987年、映画『極道の妻たちII』での演技が評価され、日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞する[5]。1989年の鴻上尚史監督のコメディ『ジュリエット・ゲーム』では、国生さゆり演ずるヒロインに一目ぼれし追いかけまわす小学校教師役で主演を務めた[5]。1991年には、アメリカ映画『アイアン・メイズ/ピッツバーグの幻想』に出演し、国際的な活動も開始している[5]。
1992年、藤沢周平の小説『用心棒日月抄』を原作とした金曜時代劇『腕におぼえあり』に主演してシリーズ化された。2005年には近衛十四郎と千葉真一に次ぐ三代目の柳生十兵衛役として[12]、金曜時代劇『柳生十兵衛七番勝負』に主演し、大層好評だったことから第3シーズンまで制作・放映された[13][14]。このほかにはテレビ朝日の『八丁堀の七人』『銭形平次』などに主演した。
2009年6月、妻がモデル時代に在籍していた縁もありオスカープロモーションへ移籍。
2011年、東日本大震災では、岩手県陸前高田市にある実家が被災した。外出中だった両親は辛うじて九死に一生を得たが、母方の叔父夫婦と従兄弟1人が死亡。実家の建物も半壊し、建て替えを余儀なくされた[8]。地元放送局からの依頼でラジオ生放送で被災者を励ましたり、知人から集めた物資をワゴン車に詰め込んで避難所を訪れたりした[8]。
2012年5月、NHK東日本大震災復興応援ソング「花は咲く」にボーカルとして参加。IBC岩手放送が毎年12月に開催するIBCラジオ・チャリティー・ミュージックソンにも度々ゲスト出演している。2014年より「いわて☆はまらいん大使」を[8]、2016年より「みなと気仙沼大使」を務める。
2018年2月に病院での検査で初期の大腸がんが見つかり、手術を受けていたことを2019年1月に所属事務所が公表した[15]。
2024年8月31日をもって、オスカープロモーションを退社した[16]。
2024年12月1日より芸能事務所HONESTと業務提携を行うこととなった。
村上は一卵性双生児で、ほかに妹が1人いる。
子供のころは『隠密剣士』が好きで、真似をしておもちゃの刀を振り回すなどしていた[10]。俳優になってからは、『仮面ライダー (スカイライダー)』のメインライターが『隠密剣士』も手掛けた伊上勝であったり、オロナミンCドリンクのCMで『隠密剣士』の制作会社である宣弘社に携わったりなどし、縁を感じたという[10]。
映画が好きで、浪人生時代に『風と共に去りぬ』を観たことがきっかけで映画業界を志した[4]。東京の大学を選んだのも映画業界に触れるためであったが、親には教師になると約束していた[4]。大学生時代はよく映画を鑑賞しており、邦画ではATG作品など社会性のある作品を愛好していた[10]。
1990年、元モデルの田島都と結婚[5]。二男二女あり。妻が野菜の多い手料理をつくることもあって30歳代から食生活の改善を心掛け、漁師町育ちながら苦手だった魚の刺身も好きになった[8]。長男は元俳優の村上由歩。長女は芸能活動をしていないが、両親や弟とともにテレビに出演したことがある。
趣味は、歴史、美術史、陶芸、クラシック音楽、ジャズ、アウトドア[2]。特技は、柔道(弐段)[7]、水泳[2]、スキー[2]。
「もう頬づえはつかない」のオーディションに主演の男性役で合格したが、数週間後スポーツ紙に「主演は桃井かおりと奥田瑛二」と出た。翌日同映画プロデューサーに会うと「当初主演の男女は新人二人でいくつもりだったが、オーディション後に女性役に桃井かおりの起用が決まり、相手の男役の年齢もキャリアもバランスが悪いとの理由で奥田に変更された」と謝罪をされたとのこと[17]。
直後、そのプロデューサーから今後のことを尋ねられ「大学で教職は取るつもりですが将来は特に決めていません」と答えたところ、芸能事務所を後日紹介される。その事務所から「大学に行ってもいいから仕事が決まるまでひと月に66,666円払う」と言われ、これまで通りの生活をしながらお金をもらえることに釣られて契約を決めた[17]。
事務所から「仮面ライダー」シリーズの新作ドラマのオーディションの話をされたが、これまで特撮ヒーローなどは見たことがなかった[17]。このため当初は『仮面ライダー (スカイライダー)』のオーディションには乗り気ではなかったが、事務所から新人なのだから勉強のつもりで受けるよう言われて参加した[注釈 2]。
オーディションではバイクの免許が必須要件となっていたが、オーディションに参加した時点では免許を取得していなかった[10]。バイクの試験になり、無免許で乗ったもののブレーキの掛け方がよく判らなくて飛び降り、石ノ森章太郎(仮面ライダーシリーズ原作者)らのいる審査員席にバイクが突っ込んだという[10]。村上はこれでダメかと思ったが、審査員はバイクについては撮影しながら少しずつ練習させることとして最終候補の5人にまで残ることができ、カメラテストへと進む[10]。しかし、村上以外の4人は『スーパーロボット レッドバロン』で2枚目役としてレギュラーを務めていた加藤大樹をはじめ、『恐竜戦隊コセイドン』主演の大西徹也など経験者揃いでカメラテストの結果も素晴らしく、村上以外なら誰でも良しと報告されていたという[18]。
撮影初日は緊張で眠れず遅刻した[4]。スカイライダーは空を飛ぶ仮面ライダーであることから、『スーパーマン』を意識したという[10]。当時としてはかなり大柄な部類だったため、用意できる衣装が体に合わず「衣装部泣かせ」と言われた[19]。
スカイライダーのスーツアクターを務めた中屋敷哲也は同じ岩手県出身であり、自宅の遠かった村上は撮影所から近かった中屋敷宅によく泊まりに行くなど懇意にしていた[10]。中屋敷の隣には殺陣師の岡田勝も住んでおり、中屋敷宅と岡田宅を行き来することもあったという[10]。中屋敷宅から中屋敷の車で撮影所に向かう際、彼からは「主役を事故にあわせず送り届けなければならないから緊張する」との旨の言葉を受け、村上は番組を背負っている立場を自覚するようになったと述べている[4][10]。
両親には大学を中退していたことを内緒にしていたうえ、「教職を取って田舎に帰る」と言っていたため、『仮面ライダー (スカイライダー)』へ出演していることが近所の人から伝わった際には、故郷に背を向けたという[9]。
後年のインタビューでは、作品を振り返り、路線変更した後半よりも、独自色の強かった前半の方が好きであると述べている[10]。別のインタビューでは、空を飛ぶ設定が最も印象に残っているとしつつも、ドラマに活かされてはいなかったとも述懐している[11]。
後年、『仮面ライダー』での経験は自身のベースになっていると強く意識するようになり、自身の誇りであると述べている[4]。
1983年にプロレスを題材にした舞台『タンジー』に主演した[20]。この舞台はレスリングで表現することから、本番の半年前から目黒にある女子プロレスのトレーニングジムに通い、体力作りからその後飛び蹴りやボディスラムなどの技をマスターするぐらいのしっかりした訓練を受けた[20]。
稽古をして動きが良くなってくると自然とセリフの言い回しも肌に染み付いて緊張しなくなり、本番では客が沸いて本人も練習時よりテンションが上がった。この舞台は事務所に言われるがままオーディションに参加したものだったが、村上は後年「自分の表現で客の気持ちが動くのを目の当たりにできて本当に嬉しかった。この舞台で初めて演技が楽しいと思えるようになり、僕の役者人生の大きな転機だった」と語っている[20]。ちなみに村上が聞いた話によると、松竹のプロデューサーがたまたまこの舞台の観劇に来ていたらしいことから、その後『必殺仕事人V』への出演が決まったとのこと[20]。
元々岩手の漁師町で育った村上にとって、田舎を感じさせる時代劇はあまり好きではなく、ちょんまげや中剃り[注釈 3]も嫌いだった[20]。1980年の『御宿かわせみ』で時代劇ドラマとしては初のレギュラー出演を果たすが、中剃りを経験することなくその後『必殺仕事人V』などに出演。1989年のドラマ『大忠臣蔵』で初めて侍役を演じることになり「いよいよ中剃りか」と覚悟した[21]。しかし村上が撮影現場の床山のところに行くと同作の監督である工藤が現れ、「村上は自毛で行くから」と床山に伝えたことで、村上は中剃りのない髷姿で演じることが決まった[21]。他にも『月影兵庫あばれ旅』『腕におぼえあり』などで侍役を演じたが、いずれも中剃りではない自毛での出演となった[21]。
『御宿かわせみ』ではセリフを江戸弁(江戸言葉)で話すよう指示され、ディレクターから落語家の古今亭志ん朝の録音テープを渡されて「こういう巻き舌でやってくれ」と言われた[20]。しかしこの言い回しが上手くできず、まだ演技にも自信がなかったことから自らの申し出により登場シーンを減らしてもらった[20]。
1985年に『必殺仕事人V』のオファーをもらうが上記の挫折から江戸弁に不安を感じていたところ、プロデューサーから「村上君は時代劇をやる必要はない。現代人が江戸時代にタイムスリップした感じで役をやればいい」と言われ、撮影にすっと入っていくことができたとのこと[20]。
1999年の『髪結い伊三次』の同心・不破友之進役では それまで避けてきた江戸弁を披露している[22]。これは宇江佐真理の原作が江戸弁で書かれていたためで、村上が江戸弁でやると聞いた当初、先述の『御宿かわせみ』の挫折が蘇り再び不安になった。しかし、歌舞伎の指導もしている人に江戸弁の言い回しを教えてもらったところ、江戸弁の方が友之進が持つ想いやニュアンスを託しやすいことに気付き、苦手だった江戸弁を克服したとのこと[22]。また、2000年に始まった『八丁堀の七人』シリーズでは、リーダー格の与力・青山久蔵役をべらんめえ口調の江戸弁で演じた[22]。当初、久蔵役はべらんめえ口調の設定ではなかったが、撮影前の脚本家との顔合わせの場で村上のマネジャーが提案したことでべらんめえ口調で演じることが決まった[22]。それまで村上は江戸弁を単に方言の一つだと思っていたが、放送開始後「久蔵役の村上が秀逸だ」という評が新聞に載ったり、周りから「久蔵は粋人だ」と言われりしたことで「江戸弁の独特なテンポとリズムによって、江戸っ子ならではの風情や粋な感じを引き出す要因の一つだと気づかされた」とのこと[22]。
1993年の『炎立つ 第二部』の主演である藤原清衡役を演じた。この役について後に振り返り、「故郷・岩手の最大の偉人であり英雄である藤原清衡を演じられたことは僕にとって格別の役だった」と語った[23]。
1996年の『秀吉』では明智光秀を悲劇的な人物として演じた。撮影前に村上の明智光秀役のオファーを知ったNHKの別番組のディレクターから「光秀と言えば逆賊だ。お前はやるべき役じゃない」と言われた[23]。しかし、後日「秀吉」のディレクターやプロデューサーから「今回の光秀は逆賊のイメージを払拭したい。これは本作品のテーマでもある。だからこそ村上さんにやってほしい」と言われて出演を決めた[23]。これまで村上はヒーロー役や強い役が多かった村上は、「『秀吉』で悲壮感漂う光秀役を演じられたことは役者としていい経験ができたと思っています」と語った[23]。
また、時代考証を担当した小和田哲男の「明智光秀はこれまでの時代劇では悪役が多かったが、歴史的に見れば悪役とはいいがたい面もある。明智役は若くて爽やかで清潔感のある人を」という言葉により配役され、小和田もその演技に「満足した」と語っている。[要出典]村上が演じていた時期に、光秀の居城である丹波亀山城や首塚(京都府亀岡市宮前町の谷性寺)のあった亀岡を訪れる観光客が増えたと、『京都新聞』が報道した[要文献特定詳細情報]。
『元禄繚乱』(1999年)では徳川綱吉の下で権勢を振るう柳沢吉保を演じた。本作品の共演者にして1975年の大河ドラマ『元禄太平記』で同役を演じた石坂浩二から、「今度の吉保役は(役者にとって)いい役だね。僕が演じた時より面白い役柄になっている」と言われ、演じる上でのモチベーションがさらに上がったという[23]。
2013年の『八重の桜』では松平春嶽を演じ、同作が東日本大震災からの復興のために作られる側面を持つことから、出演を決めたとのことである。[要出典]
『柳生十兵衛七番勝負』(2005年)の十兵衛役を演じる上で意識したのは、殺陣などの立ち回りだった[24]。この時の殺陣には村上もアイデアを出し、ただのチャンバラで終わらないよう十兵衛というキャラクターの動きに一つ一つ意味を持たせて作り上げた[24]。後に村上は、「『七番勝負』は、所作も含めて時代劇でのこれまでの集大成と言える作品かもしれない」と答えている[24]。
多くの時代劇映画やドラマで監督を務めた工藤栄一監督は、村上にとって“時代劇の師”とも呼べる存在である[21]。『必殺仕事人V激闘編』で工藤が手掛ける時代劇に初めて出演した後、先述の『大忠臣蔵』や『月影兵庫あばれ旅』などで共演した。ちなみに村上が人づてに聞いた話によると『必殺仕事人V」で村上が演じた花屋の政が、続編の『必殺仕事人V激闘編』で鍛冶屋に職替えしたのは、工藤が「あいつ(村上)は体がいいから肩を出して野性味を強めた方がいい」との理由で変更されたとのこと[21]。
また、工藤は“いかにも時代劇”という作風を嫌う人だったとのことで、彼の作品に出演した時の村上のセリフは現代寄りの言い回しになっていたという[21]。ちなみに一般的に時代劇の殺陣は重心が重要になるため長身の役者には不向きと言われるが、長身の村上は殺陣師でもある工藤からある撮影現場で「お前立ち回り上手いな」と殺陣を褒められたとのこと[21]。
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