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日本に現存する最古の和歌集 ウィキペディアから
「万葉集」(まんようしゅう、まんにょうしゅう、旧字体:萬葉集)は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である[1]。
万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている(万葉仮名を含む)[注 1]。
天皇、貴族から下級官人、防人(防人の歌)、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある[1][3][4][注 2]。7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年(宝亀11年)ごろにかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる[1]。完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集がもっとも古い[6]。
和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「菟原処女の伝説」)、日本文学における第一級の史料であるが[1]、方言による歌もいくつか収録されており、さらにその中には詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重要な史料である。
日本の元号「令和」は、この万葉集の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の一節を典拠とし、記録が明確なものとしては日本史上初めて元号の出典が漢籍でなく日本の古典となった[7][8]。
『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の『万葉集註釈』では、『古今和歌集』の「仮名序」に、
とあるのを引いている。ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るため、この語釈が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま『万葉集』の由来としてあてはめることには疑問もある。
そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖[9]や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、『古事記』の序文に「
なお、「万葉(萬葉)」という言葉は、当時において『万葉集』以外では用いられている事例はほとんど見られず、早い事例として、延暦25年(大同元年・806年)4月16日に五百枝王が平城天皇に対して臣籍降下と春原朝臣の賜姓を願い出た際の上表文に「榮宗枝於萬葉」という句が見られるのが挙げられる(『日本後紀』)。なお、この五百枝王を『万葉集』を今日知られる形にした最終的な編者に充てる説があり(後述)、この上表文も五百枝王が『万葉集』の編纂及び表題決定に何らかの関与をした状況証拠とする研究者もいる[10][11]。
『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。
『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は平城天皇即位後の恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年・大同元年)以降にようやく完成したのではないかと推測されている。『古今和歌集』真名序には「昔平城天子、詔侍臣令撰万葉集」という言葉が載せられているのも、最終的な完成が家持の赦免後であったという事情を反映した記述とみられている[12][13]。ただし、その場合には家持に代わって遺稿を完成形にして公の認知を得た"編者"が存在していたことも考えられるが、その"編者"として名前が挙がっているのは五百枝王(臣籍降下後は春原五百枝)である[10][14][11]。五百枝王は編纂への関与が指摘される市原王の子で、藤原種継暗殺事件で家持との親交から自らも連座していること、現存の記録から確認できる「万葉」の語の初期の使用者(前述)であることが理由に挙げられるが、現時点ではいずれも状況証拠に過ぎず、今後"編者"の存在の有無も含めて検討すべき要素が多い。
「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については「延暦4年の事件で家持の家財が没収された。その中に家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説[15] などがある。
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万葉集の諸本は大きく分けて、「古点本」「次点本」「新点本」に分類できる。この区分は鎌倉の学僧仙覚によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。その訓が附された時代によって、古・次・新に分類したのである。古点とは、天暦5年(951年)に梨壺の五人の附訓で、万葉歌の9割にあたる4000以上の歌が訓をつけられた。確実な古点本は現存していないが、武田祐吉や小川靖彦によって桂本が古点の一部を存しているという見解が示されている。ほかに久松潜一は藍紙本も古点を伝えるとの見解を示している。古点と伝える資料としては、古今和歌六帖など、平安時代中期の歌集に引用された万葉歌がそれにあたるとの見方も山田孝雄や上田英夫らによって提示されたことがあるが、現在ではあまり有力視されていない。
ともあれ、古点とは梨壺の5人による一回的な作業の結果であるが、次点本は古点以降新点以前の広い時代の成果を指し、藤原道長、大江佐国、大江匡房、惟宗孝言、源国実、源師頼、藤原基俊、藤原敦隆、藤原仲実、藤原清輔、藤原長忠、顕昭など、複数の人物が加点者として比定されている。この次点本に属す現存諸本としては、嘉暦伝承本、元暦校本、金澤本、類聚古集、廣瀬本などが現存しているが、いずれも零本であり、完本は伝わらない。このうち、廣瀬本は藤原定家校訂の冷泉本定家系万葉集と認められる。1993年(平成5年)に関西大学教授の木下正俊・神堀忍に発見され、所蔵者である広瀬捨三(元同大学教授)の名をとって廣瀬本と称される。ただし、廣瀬本の奥書には甲府町年寄の春日昌預(1751年 - 1836年、山本金右衛門)や本居宣長門弟の国学者萩原元克(1749年 - 1805年)といった甲斐国の国学者たちによる校訂の痕跡を示す文言があり、賀茂真淵の『万葉考』に依拠した本文や訓の訂正も行われている。
新点本は仙覚が校訂した諸本を指し、大きく寛元本系統と文永本系統に分かれる。寛元本系統の諸本は伝わらないが、上田英夫の考証によって神宮文庫本がもっとも寛元本の様態を留める本であることが確かめられている。また橋本進吉や田中大士によって、紀州本の巻10までが寛元本に近い本ではないかと推測されている。西本願寺本巻1の奥書によれば、寛元本は源実朝本(鎌倉右大臣本)など数種の古写本を校合し、さらに仙覚自身の案も加えて校訂した本とみられる。
文永本に関しては、最古の完本である西本願寺本をはじめ学習院大学本、陽明文庫本など揃いの諸本が多く、特に西本願寺本がもっとも多くの歌数をとどめていることから、現在万葉集のテキストを編む場合、必ずと言っていいほど底本として利用されている。
なお、近年出現した広瀬本万葉集については、項目を別に改めて付加して概述される必要がある。
本節は特記以外は『日本古典文学大辞典』岩波書店、「万葉集」の項目(執筆者は林勉)による。
皇室御物。平安時代中期の書写と推定されており、現存する最古の写本である。巻4の3分の1ほどの109首を収める1巻のほかに、断簡(栂尾切ともいう)が66首と37首分の目録が残る。源兼行筆とされるが、ほかに紀貫之、源順、藤原行成、源俊房とする説がある。次点の影響が少なく、古点本の面影を残している。花鳥草木を描いたきわめて美しい継色紙が使われ、紙背継目の花押から伏見天皇の御物といわれる。その後、前田利家室芳春院の所有となり、子の利常が桂宮家に献上した。名はこれによる。1881年(明治14年)、桂宮家断絶により皇室に入った。断簡は石川武美記念図書館、五島美術館、出光美術館、梅沢記念館ほか諸家が所蔵している。
平安時代後期の書写で桂本の類である。巻13の8葉13首のみが現存する。長歌には訓がない。金砂子を散らした鳥の子紙に書かれており、この名がある。醍醐寺、石川武美記念図書館等が所蔵している。
1328年(嘉暦3年)に増充から慶俊に相伝した識語があり、この名がある。鳥の子紙で、綴葉装である。巻11の大部分の472首が1帖に収められている。定家仮名遣いで次点期を経ているが、『拾遺集』所収の万葉歌と一致し、古点を伝えている。松坂高尾家旧蔵で、本居、松本、中山、佐佐木家から文化庁を経て、現在は国立歴史民俗博物館が所蔵している。また巻11の欠落部分の模写断簡7首が民間にある。
平安時代中期ないし後期の書写で、藤原伊房の筆とされるが藤原公任説などもある。薄藍色の漉紙に銀砂子を散らした料紙に書かれていることからその名がある。巻9の5分の4ほどの110首と111首分の目録からなる1巻が現存する。そのほかに
の断簡が残る。次節に述べる元暦校本と同系統である。会津松平、原、中村家を経て、現在は京都国立博物館[16]が所蔵している。断簡は日本学士院、石川武美記念図書館、京都国立博物館、逸翁美術館、五島美術館、徳川美術館、書芸文化院などが所蔵している。
1184年(元暦元年)に校合したとの奥書がある。平安時代中期ないし後期の数筆の寄合書きである。うち、巻17、18は同筆であり、巻6は鎌倉時代初期の補写と考えられている。巻3、5、8、11、15、16を除く14巻、計2617首と2129首分の目録が現存する。そのほかに断簡(難波切ないし有栖川切ともいう)は巻3、5、8、9、13、15、16を除く13巻148首と目録201首分が残っている。すなわち15巻にわたる、全歌数の6割以上が現存している次点本では貴重な写本である。藍と紫の飛雲形文を漉込んだ鳥の子紙の(補写である巻6は飛雲形を欠く)粘葉装である。黒、緑、赤、朱の書き入れがあり、万葉集の本文校訂上最重要である。
減じて江戸時代初期には15冊に、さらに14冊になった。巻1、4、6、10、12、19の6冊の各一部を分けて有栖川宮家から高松宮家に移り、残る大部分は伊勢富山家、神戸俵屋から、天保初期に桑名松平家、1843年(天保14年)に水野忠邦、1911年(明治44年)に古河家に移ったあと、ともに文化財保護委員会の所蔵となった。高松宮家旧蔵の6冊、古河家旧蔵の14冊とも、現在は東京国立博物館所蔵[17]。断簡は仁和寺、宮内庁侍従職、東山御文庫、常盤山文庫、國學院大學図書館、石水博物館、白鶴美術館、MOA美術館などが所蔵している。荒木田久老、加藤千蔭、橋本経亮、鹿持雅澄らが校訂に使用した。
三の丸尚蔵館所蔵[18]。藤原定信筆とされるが、源俊頼、藤原公任説もある。粘葉装、1帖。胡粉引きの白を主として、ほかに薄茶、浅葱、黄の色に、金銀切箔を散らし、雲母による菱唐草や亀甲などの文様を雲母刷りした唐紙を料紙とする。巻2の約5分の4の129首および150首分の目録と、巻4の約4分の1の79首をあわせ1帖とする。そのほかに巻3、4、6の24首と76首分の目録の断簡が現存する。本文と訓は元暦校本・紀州本にもっとも近い。金沢前田家旧蔵による名称。1910年(明治43年)に前田家から皇室に献上された。断簡は逸翁美術館等が所蔵している。また古筆手鑑『筆林翠露』に収められている。
1124年(天治元年)に書写との奥書があり、名称はこれに由来する。これは万葉集最古の書写記録であり、後述の巻2断簡は1129年(大治4年)の書写。巻13の完本と巻15の58首の1巻および
の断簡(仁和寺切ともいう)が現存する。檀紙の巻子本で墨罫があり、寄合書だが巻14と巻15は同筆である。忠兼本を書写した本で、仙覚本底本系統である。福井家と賀川冠纓神社[19]の所蔵。断簡は、加藤、熊沢、角田、沢瀉、武田、岡村、池上、久曾神家および東京国立博物館、京都国立博物館、天理図書館、石川武美記念図書館、岡山美術館、五島美術館などが所蔵している。
1845年(弘化2年)に伴信友が京都曼殊院所蔵の零本5巻(現存しない)を影写して『検天治万葉集』を作成して
が残っている。したがって総計306首が現存する。こちらは京都大学所蔵である。
鎌倉時代中期の書写。書写者の伝承による名称だが、確証はない。もと冊子本を巻子本にしており、巻9の前半85首を3巻にしたものと後寄りの4首の断簡が現存する。天治本と同系で、仙覚本底本系統である。四日市高尾家旧蔵で、佐佐木家を経て石川武美記念図書館が所蔵している。
平安時代末期の書写。雲母引斐紙の料紙で綴葉装。巻16の全1帖(1枚を欠く)101首と、巻12の61首の断簡、11首の模写が現存する。天治本系で、仙覚本底本系統であり、『類聚古集』に近い。断簡が尼崎から出たことによる名称。倉敷某家から京都大学が所蔵している。断簡は池上、亀井、反町、渡辺、酒井、沢瀉、田中、辻坂家および円照寺、京都女子大学、天理図書館、石川武美記念図書館、白鶴美術館、出光美術館などが所蔵している。模写は東洋文庫が所蔵。古筆手鑑「桃花水」「心画帖」「鸞鳳帖」「筆鑑」「筆林」に所収されている。
半紙形袋綴1冊で、巻1のほぼすべて83首を記載する。ただし目録には後の補校合がある。訓はカタカナで、長歌は本文右に、短歌は左別行に記している。江戸時代初期の冷泉為頼筆と伝えられるが、カナに古体があり室町時代の書写と考えられている。尾張久米家、阪家、佐佐木家を経て、石川武美記念図書館が所蔵している。
鎌倉時代中期の1243年(寛元元年)と翌年に春日神社若宮の神官中臣祐定が書写したとの奥書があり、名称はこれによる。多くが春日若宮神官の和歌懐紙の裏側使用の断簡なので春日懐紙切ともいう。もとは袋綴。
の合計382首と目録285首分と書翰2以上が現存する。
懐紙の和歌を鑑賞のため万葉歌を削っているので判読が困難なものが多数ある。本文の右にカタカナで訓をつけるが、仙覚以前の次点本である。前田家旧蔵だが明治初期に諸家に分散して、松岡、関戸、福井、吉永、谷村、八木家および浄照坊、國學院大學図書館、石川武美記念図書館、ハーバード大学フォッグ美術館、石川県立郷土資料館などが所蔵している。
全巻20巻の前半巻10までが次点本。鎌倉時代末期の寄合書きである。ただし巻7が2首を欠き、巻10で1首が重出する。鳥の子紙、元来粘葉本を綴本に改装している。訓をカタカナで漢字の右側に付すが、新点の訓が左側などに加えられている。巻10の奥書から藤原忠兼→源光行→行遠系統の本と見られるが、天治本とは必ずしも合致しない。後半巻11以降は室町時代後期、1542年(天文11年)以前の文永三年本系新点本による補写である。後藤家を経て公益財団法人後藤報恩会昭和美術館が所蔵している。水戸徳川家の『四点万葉』に校合し、契沖の『万葉代匠記』にも引用されている。
歌体や題材により歌を分類している。平安時代末期の書写。3834首が現存する。中山家、大谷家を経て、龍谷大学が所蔵している[20]。
これも歌体や題材により歌を分類している。1250年(建長2年)の書写で、1934首が現存する。奈良興福院と石川武美記念図書館が所蔵している。
新点本ではほとんどの場合、傍訓形式で訓を本文の右側にカタカナで記している。うち文永本は古点、次点、新点のうち正しいと考えられた訓を多くの場合、色分けして右側に記している。それに対し寛元本では古点、次点を右側に、新点を左側に書いている。
楮紙で袋綴じ。全巻20冊だが
を欠いている。1546年(天文15年)以前の室町時代後期の書写。寛元本系の現存する最古の写本である。外宮宮崎文庫を経て、現在は神宮文庫が所蔵しており、この名がある。
楮紙で袋綴じ。全巻20冊だが、巻4の後半273首に代わって巻3の後半107首が重複して書かれている。全体は江戸時代初期に書写された寛元本であるが、巻4、5、6は室町時代末期の書写で為頼本と同系統の次点本である。1797年(寛政9年)に細井貞雄が温故堂本と校合し奥書を記していることから、この名がある。木村正辞を経て、現在は東洋文庫が所蔵している。
その名の通り林道春が江戸時代前期に細井本を書写したものである。現在は内閣文庫が所蔵している。後述の版本の活字無訓本はこれを底本にしている。
江戸時代の書写であり、基本的には寛元本系だが、巻5、6は次点本系である。学習院大学図書館所蔵で、この名がある。
江戸時代前期の書写である。寛元本系だが、巻4、5、6は文永本系である。現在は宮内庁書陵部が所蔵している。
西本願寺本は鎌倉時代後期の13世紀末から14世紀初頭の書写と推定されている、20冊の冊子本である。縦が約32.1センチ、横が約24.8センチの大きさで、「大和綴」という装丁がなされている。この写本は、1266年(文永3年)に仙覚が完成させた『仙覚文永三年本萬葉集』(原本は失われている)の系統に属している。仙覚と親交があった北条実時が完成後間もなく書写したものを、さらに書写したものと考えられている。さらに鎌倉幕府滅亡後に足利義満が北条実時の創建になる称名寺に使者を遣わして貴重な書籍を収集した折に、『尾州家河内本源氏物語』(大きさ、装丁が酷似している)などとともに入手し、後年皇室に献上したものである。その名称は、後奈良天皇が本願寺第10世の証如に下賜して、西本願寺の蔵書となったことから、佐佐木信綱が命名した。1917年(大正6年)に佐佐木の手に渡ったあと、現在は佐佐木が寄贈した「竹柏園本」内の一点として石川武美記念図書館が所蔵している[21]。
西本願寺本を書写したものである。題詞が低い。訓を黒、紺青、朱に書き分けるのは文永本に準ずるが、この写本では紺青を朱、黄、緑に分けている。室町時代末期の書写で、各巻は別人の筆になる。所蔵者による名称。
1677年(延宝5年)に河野公業が西本願寺本を書写したもの。水戸徳川家の四点万葉に校合し、訓を黒、青、朱、黃に書き分けている。『万葉代匠記』にも幽斎本として引用される。彰考館が所蔵している。
室町時代初期の書写だが、飛鳥井雅世、尊円法親王筆との説もある。元来大型冊子本だったものを巻子本にした。巻1、9、19の全歌4巻(巻19は二分されている)と
の断簡と巻13の3首の影写が現存する。このほかに巻11は関東大震災で焼失したが、『校本万葉集』に校合されているのと、木村正辞の『万葉集書目提要』に巻4が記されている。文永三年本系であるが、巻11と巻19は文永十年本寂印成俊本系。題詞は低く書かれ、巻7、9、11、12、13、19は訓を黒、紺青、朱に書き分ける。金沢文庫に伝来したことによる名称である。
巻1、19は大口鯛二旧蔵で、佐佐木家を経て石川武美記念図書館が所蔵している。巻9は馬越家の所蔵。断簡は、久曾神、酒井、久松、渡辺、池上、藤井家および真如堂、金剛証寺、天理図書館、奈良県立万葉文化館、京都国立博物館、MOA美術館、山川美術財団などが所蔵。また古筆手鑑『筆鑑』に、影写本は東洋文庫『万葉切』に所収される。
全巻20冊であるが、巻10の152首を欠いている。鳥の子紙で大和綴。陽明文庫旧蔵による名称であるが、巻9に1571年(元亀2年)の奥書があるため元亀本とも呼ばれる。しかし同年以後の書写である。文永十年本頼直本系で、黒、紺青、朱の訓が残る。温故堂本の書写の際に底本にされている。曼殊院から近衛家を経て、現在は京都大学図書館が所蔵している。
胡蝶装で、全20巻を合本して10帖にしている。そのうち
を欠いており、巻6は温故堂一伝の東京帝国大学本から木村正辞が補写したものである。文永十年頼直本系の陽明文庫本を書写したが、紺青訓がなくその部分は空白が多い。木村正辞から東洋文庫が所蔵している。
袋綴で、全巻20冊。光明寺覚雄等が温故堂本を書写した。東京帝国大学旧蔵による名称。関東大震災で焼失したが、温故堂本に欠けている部分が『校本万葉集』に校合されている。
室町時代末期、数人の筆による書写。袋綴で全巻20冊であるが、
を欠いている。文永十年本寂印成俊本系で寛永版本の巻7の錯簡を補う資料として重要である。大矢透旧蔵による名称だが、元は京都木田家蔵で、大矢家、佐佐木家を経て石川武美記念図書館が所蔵している。
江戸時代初期の書写。大型袋綴で、20冊の全本。文永十年本寂印成俊本系であるが、中院本に見られる禁裏御本巻1、20の奥書がある。大矢本と同系であるが、無訓歌は5首のみで書写字形も明瞭で、より善本である。近衛家陽明文庫所蔵で、この名がある。
江戸時代初期の書写。袋綴で、20冊の全本だが巻19の1首を欠いている。文永十年本寂印成俊本系である。巻1、2、9、13、20に禁裏御本の奥書があり、全巻にわたって赤で禁裏御本と校合した書き入れがある。巻1の奥書には古万葉集序を記す中院本のひとつで、寛元本の内容を知り得る貴重な写本である。京都大学図書館が所蔵している。
江戸時代初期の刊行であり、初めての万葉集の版本である。全巻だが10冊のものと20冊のものがある。一面は8行×18字詰めで、上下左右に二重の界線がある。歌を高く記し、題詞と左注は1字低い。全体は寛元本系だが、巻4、5、6は細井本系の林道春校本に依っているため、巻4の後半が欠落し、巻3の後半が重出する。また、巻3末尾に大伴旅人、大伴家持、藤原不比人の伝が掲載されている。内閣文庫、東京大学図書館、大阪府立中之島図書館、石川武美記念図書館、尊経閣文庫、大東急記念文庫、穂久邇文庫、大英博物館などに所蔵されている。
活字無訓本を文永十年本系の寂印成俊本(現存しない)で校合して訓をつけたもの。木版で袋綴じ、全巻10冊である。江戸時代初期の慶長(1596年 - 1615年)か元和(1615年 - 1624年)ごろの刊行と考えられている。なお、以下の奥書が付されている。
国会図書館、石川武美記念図書館、天理図書館、東洋文庫、宮内庁書陵部、東京大学図書館、大谷大学図書館、龍谷大学図書館などに所蔵されている。
寛永版本とも呼ばれる。江戸時代初期の1643年(寛永20年)の刊行で、京都三条寺町安田十兵衛の刊記がある。木版で袋綴じ、全巻20冊である。活字附訓本の整版本だが、若干の増補改訂が行われている。江戸時代から流布本として用いられ、明治時代から戦前まで各種テキストの底本とされていた。国会図書館などが所蔵している。
宝永本の本文に旁註を施したものである。木版で袋綴じ、全巻20冊である。1789年(寛政元年)の刊行で、註は常陸国の恵岳が契沖、賀茂真淵説に自説を加えて行った。出雲国寺和泉掾と同文治郎の刊記がある。国会図書館などが所蔵している。
木版で袋綴じ、全巻20冊である。1803年(享和3年)に和泉寺などによって刊行された。土佐国の今村楽と横田美水が宝永本に改訂を加えて本文だけを出版したもので、今村の序と横田の跋がある。内閣文庫などが所蔵している。
『校異本万葉集』の題を持つ。木版で袋綴じ、全巻20冊である。校異を上欄に記している。1805年(文化2年)の刊行で、出雲寺文治郎の刊記がある。旁註本の註を削除して、元暦校本等の橋本経亮の校異に藤原(山田)以文が再校を加えたものが掲載されている。国会図書館などが所蔵している。
全二十巻であるが、首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されてあったものを寄せ集めてひとつの歌集にしたと考えられている。
各巻は、年代順や部類別、国別などに配列されている。また、各巻の歌は、何らかの部類に分けられている。
表現様式からは、
などに分けられる。
巻十四だけが
歌体は、短歌・長歌・旋頭歌の3種に区別されている[注 3]。短い句は五音節、長い句は七音節からなる。
歌の数は4500首あまりからなるが、写本の異伝の本に基づく数え方が、歌数も種々様々の説がある。
例えば『国歌大観』によれば総歌数は4516首であるが、これには一首に2度番号を振るなど問題が多い。それらを整理した武田祐吉によると総歌数は4506首で、そのほかに「或本の歌」が57首、「一書の歌」が4首、「一本の歌」が3首、「或書の歌」が2首、「或は云はく」とある歌が3首、『古事記』の歌が1首の計70首であるという[22]。
歌を作った時期により4期に分けられる。
歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代とともに拡大されていったと考えられる。
全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。しかし、歌は、日本語の語順で書かれている。歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とをあわせたもの、文字を使っていないものなどがあり多種多様である。
編纂されたころにはまだ仮名文字は作られていなかったため、万葉仮名と呼ばれる独特の表記法を用いた。つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による日本人のための最初の文字であったと言えよう。
(万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾
(訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ
(万葉仮名文)去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
(訓)いざ子ども 早く日本へ 大伴の
特に上記の山上憶良の歌には「日本」という語句が登場する。倭がどのような経緯で日本と改められたのかは明確には解明されていないが、山上憶良が参加した702年の第8回遣唐使で、日本側は初めて対外的に倭ではなく日本の国号を使用しており、上記の歌もその遣唐使の時期に詠まれたものなので、「日本」という語句の使用として古いものである。万葉仮名は、奈良時代の終末には、字形を少し崩して、画数も少ない文字が多用されるようになり、平安時代に至るとますますその傾向が強まり、少しでも速く、また効率よく文字が書けるようにと、字形を極端に簡略化(草略)したり字画を省略(省画)したりするようになった。そうして「平仮名」と「片仮名」が創造されたのである。
現在でも万葉仮名はいたるところで使用されており、難読地名とされるものには万葉仮名に由来するものが多い。
『万葉集』には「東風 越俗語、東風謂之安由乃可是也」(巻17・4017番)のように、当時の方言についてそれと明示した記述があるが、いちいち方言と銘打ってはいなくても、実は大量の方言が記録されている。すなわち、巻14の東歌と巻20の防人歌である。
東歌は東国地方[注 4]の歌の意で、東国に伝わる歌を収集し、どの国の歌か判明している歌(勘国歌。90首+5首)と不明の歌(未勘国歌。140首+3首)に二分して収録している。多くの歌で上代の東国方言が多用されており、歌の成立年代や作者の出自、記録の経緯が一切不明という問題点はあるにしても、古代の方言の具体的な記録として重要な位置を占める。また、分量の豊富さも魅力である。
詠まれてから時が経ち過ぎている、知識がなかった昭和時代の文献が幅を利かせすぎているため、間違った解釈もあり、その後の日本語、歴史に影響している。
防人歌は東国から徴集された防人の詠んだ歌の意で、巻13や巻14にも少量見えるが、もっとも著名なのは巻20に「天平勝宝七歳乙未二月、相替遣筑紫諸国防人等歌」として84首収録されているものである。これは天平勝宝7歳(755年)に徴集された防人の詠んだ歌を、防人を率いてきた各国の
以下に東歌と防人歌から1首ずつ挙げる。
上記の歌を見てもわかるように、『万葉集』に記録された東国方言には、現代の東日本方言と相通じるものが少なくない。中でも否定の助動詞「~なふ」や命令形語尾「~ろ」は、現代東日本方言の「~ない」「~ろ」に連なる可能性が指摘されている。また、東国方言の四段動詞と形容詞の連体形は、「立と月」「
万葉集は『竹取物語』や『浦島太郎』などの古典文学へ影響を及ぼしているとする説があり、巻16「由縁ある雑歌」には竹取翁と天女が登場する長歌があり、内容は竹取翁の「別伝」的なもので異なる内容ではあるが、『竹取物語』(かぐや姫物語)の源流のひとつととらえられるものとして関連が指摘されている[23]。巻9の高橋虫麻呂作の長歌に『浦島太郎』の原型とも解釈できる内容の「浦島伝説」が歌われている[1]。ただ、「浦島伝説」は日本書紀の雄略記でも、捕らえた大亀が女に変り、妻にして蓬萊山に行く内容のものがある[1]。
万葉集の「菟原処女の伝説」は、『大和物語』の「生田川伝説」や、謡曲『求塚』、森鷗外の『生田川』に翻案されている[1]。また、『源氏物語』でも、宇治川に身投げする浮舟(薫と匂宮の2人の男性に愛される女性)が登場している[1]。
明仁天皇譲位による改元で2019年4月1日午前11時41分に内閣官房長官・菅義偉が記者会見を執り行って発表され、皇太子徳仁親王の践祚にともなって同年5月1日から施行される元号「令和」の典拠となった。「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」から引用した[7]。これまで日本の元号の出典は漢籍であったが、初めて日本の古典からの出典となった。内閣総理大臣・安倍晋三は元号発表にともなって開いた記者会見にて、新元号について「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる」という思いを込めたものであることを語った[24]。
「令和」の典拠となった「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」は、天平2年(730年)の正月13日に、大宰帥の大伴旅人邸の梅園に山上憶良や下僚ら約30人が集まり催された「梅花の宴」の宴席で詠まれた32首(また後日6首が唱和された)の序文である[1]。現代訳では、「…時は良き新春正月、外気は快く風は和らいで、梅は佳人の鏡台の白粉のように白く咲き、蘭は香袋のように香っている。…」という意味である[1]。花を愛で、桜や桃、菊などの花びらを杯に浮べ飲むことは、長寿祈願の習わしであったが、万葉当時の花見は、桃や梅などの中国伝来の花を見るのが一般的であったという[1]。
『万葉集』は全巻で20巻であるが、その巻頭の歌が雄略天皇の歌で始まり、大伴家持の歌で締めくくられている。奈良時代の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示す。
万葉集には「いさな(鯨魚)」を詠んだ歌が詠われているが、いさなとは鯨魚、鯨名、勇魚、不知魚、伊佐魚とも表記していて、おもに鯨類を指す。そして「いさなとり」は、捕鯨を意味し主に海、浦、浜、灘などを表す枕詞として使われていた。
1950年代には安田徳太郎が『万葉集の謎』において日本語の祖語はインド北部レプチャ語であるとし、万葉集はレプチャ語で読めると主張していた[25]。
また、1980年代には「『万葉集』の言葉は古代朝鮮語と関係があり、それによって解釈できる」という意見が出され、一連の著作がベストセラーになったことがある。背景としては、日本の古代文化を朝鮮半島由来とする韓国特有の民族主義(朴炳植、李寧煕[注 6]など)があり、それに同調する日本人(藤村由加など)の言説が存在している。しかし、当時から一部の日本語学の研究者の手によって反論と批判[26][27]がなされており、一連の著作は「トンデモ本」と認定された[28]。
近世には学芸文化の興隆から万葉集研究を行う国学者が現れ、契沖、荷田春満、賀茂真淵、加藤千蔭、田安宗武、鹿持雅澄、長瀬真幸、本居宣長らが万葉集研究を展開した。
近現代には国語や国文学の観点から万葉研究が行われ、斎藤茂吉、折口信夫[注 7]、佐佐木信綱、土屋文明(以上4名は自身も歌人であり、歌人の立場から万葉論を展開した)、澤瀉久孝、武田祐吉、五味智英、犬養孝、伊藤博、稲岡耕二、青木生子、阿蘇瑞枝、橋本達雄、中西進、多田一臣、森朝男、古橋信孝、身崎壽、坂本信幸、神野志隆光、佐竹昭広、曾倉岑、内藤明、梶川信行、上野誠、小川靖彦、鴻巣隼雄、鉄野昌弘、藤井貞和、品田悦一、三浦佑之らにより万葉集について研究されている。外国語への翻訳としてはケネス・ヤスダによる英語訳がある。
仙覚は1203年(建仁3年)、常陸国の生まれで、7歳ごろに万葉集の研究を志したという。40歳のころには鎌倉に住み、鎌倉将軍九条頼経の知遇を得ていた。1243年(寛元元年)、頼経が歌人で源氏物語学者の源親行に万葉集の校訂を下命した。仙覚は1245年(寛元3年)か1246年(寛元4年)にこの校訂作業に加わり、親行が書写した写本を底本としてほかの6種類の写本と校合を行って、1247年(寛元5年)2月に完成させた。これが「仙覚寛元本萬葉集」ないし「寛元本」と呼ばれているものである。ただし、後述の文永本とも仙覚の校訂本の原本は散佚している。
寛元本は「傍訓形式」をとっている。すなわち、歌の漢字本文の傍らにカタカナで訓、つまり読み下し文を書き入れた。同時に仙覚は万葉集の歌のすべてに訓を施し、1253年(建長5年)に新たに訓を施した152首を記した書と、万葉集の用字について論じた「奏覧状」の二書を後嵯峨院に献上している。
この縁で仙覚は、後嵯峨院とその子息の鎌倉将軍宗尊親王らの支援を受けることになり、さらに5種類の写本の閲覧が可能になった。そこで、1261年(弘長元年)に今回は仙覚単独で万葉集の校訂作業を再開した。
この校訂で1265年(文永2年)9月に完成したのが「仙覚文永二年本萬葉集」で、ただちに宗尊親王に献上された。また、翌年8月に新たな写本を完成させた、これが西本願寺本の祖本である「文永三年本」である。その後も校訂を続け、文永十年本の系統の写本が残っている。
万葉集研究者は文永三年本とその後の校訂本をあわせて「文永本」と呼んでいる。文永本の大きな特徴は傍訓の色分けである。従来の訓は黒、仙覚が改めた訓は紺青、新たに施した訓は朱で記されている[21]。
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