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和歌の形式の一つ ウィキペディアから
長歌(ちょうか)は、和歌の形式の一つ。
五七、五七、…、五七、七の形式で、すなわち五七を三回以上繰り返し、最後を七音を加える。『万葉集』に多く見えるが、『古今和歌集』の時点ではすでに作られなくなっている。主に公の場でうたわれるもので、反歌を伴う。
長歌の始まりは古代の歌謡にあると見られ、『日本書紀』や『古事記』の中に多くみられる。五音と七音の句を3回以上繰り返した形式のものが多く、それが次第に五・七音の最後に七音を加えて結ぶ形式に定型化していった。
『万葉集』の時代になると、長歌の後にそれを要約する形で、短歌形式(五七五七七)の(まれに旋頭歌形式の)反歌を付け加えることが多くなった。
平安時代に入り、『古今和歌集』が編纂される頃になると、「和歌」といえば短歌のことをさすようになり、長歌は次第に衰退していった。その制作は試作的であった。
二十一代集における長歌は、『古今和歌集』に5首(詠み人知らず、貫之、忠岑、躬恒および伊勢)、『拾遺和歌集』に5首(人麻呂、順、能宣、詠み人知らずおよび兼家)、『千載和歌集』に3首(俊頼、崇徳院および待賢門院堀川)、『新千載和歌集』に2首(公能および雅経)、『新拾遺和歌集』に5首(赤人、詠み人知らず、経信、花山院および顕輔)、『新続古今和歌集』に4首(経信、後小松院、雅縁および頓阿)の24首であるが、人麻呂や赤人はいうまでもなく、『新拾遺和歌集』の詠み人知らずは『万葉集』巻三にある鴨君足人香具山歌であるから、この3首を除けば、21首となる。また歌調はこの時代は七五調になり、文学的な価値も高くない。また「長歌」と称されたのは『拾遺和歌集』においてのみであり、他の3つの和歌集では『古今和歌集』におけるのと同様に、そのいずれにおいても「短歌」と称された。
江戸時代になると、国学において『万葉集』の研究が重きをなしたことにともない、再び詠まれるようになったが、その制作は擬古的、摸倣的であった。その作者は賀茂真淵その他である。
明治時代以降は再びの衰退をみたが、1888年9月に佐々木弘綱が「長歌改良論」を『筆の花』に発表。以後、山田美妙「長歌改良論を読んで」(『読売新聞』11月7日)、佐々木「長歌改良余論」(11月18日)、海上胤平「長歌改良論弁駁」(『筆の花』1889年3月 - 7月)と、1888年から89年にかけて論争がおこなわれた。 窪田空穂は例外的によく作った。太平洋戦争の終戦後にシベリア抑留で命を落とした次男を悼んで詠んだ、史上最長の長歌「捕虜の死」(歌集『冬木原』所収)は名高い。
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