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東京、伊豆諸島の島 ウィキペディアから
八丈島(はちじょうじま)は、伊豆諸島に属する有人島である。隣の八丈小島と区別するため、八丈本島もしくは八丈大島と呼ばれることもある。
東京都の本州島側地域の南方287キロメートル、御蔵島の南南東約75キロメートルの海上にあり、東山[注釈 1]と西山[注釈 2]のふたつの火山が接合した北西-南東14キロメートル、北東-南西7.5キロメートルのひょうたん型をした島。面積は山手線の内側とほぼ同じ[注釈 3]。羽田空港から飛行機で片道55分で行けることと、沖縄と比べても安価な旅費で済むため、手軽なリゾート地として親しまれている。
海底地形では、八丈島を含む地塊は島の北側では北方約25kmにある黒瀬(黒瀬堆)が地塊の北縁になっており、島の南側では南八丈堆が島棚の南端になっている[1]。
東京都心から遥か南に位置し、八丈島の緯度は大分県大分市と殆ど同じ(北緯33度6分)であるため、ハワイ[注釈 4]や沖縄[注釈 5]よりも遥かに高緯度になり、常夏とは言い難い環境となっている。それでも日本で海外渡航が自由化された1964年においては、ハワイ旅行が当時の国家国務員大卒初任給(1万9100円)の19倍となる36万4000円と非常に壁が高かった[2]ことに加え、当時は沖縄もアメリカ軍統治下にあったため、ハワイの代替として[要出典]新婚旅行などの旅行先に選ばれることが多かった。
1964年(昭和39年)には富士箱根伊豆国立公園に指定された。
富士火山帯に属する火山島であり、日本の気象庁によると火山活動度ランクCの活火山である。東山は約10万年前から約3700年前まで活動し、約4万年前にカメソウノ鼻火砕流、鴨川火砕流を噴出した噴火で、山頂部に6×4.5kmの東山カルデラ湖を形成したと考えられている。完新世内では約4千年前と約6.6千年前に規模の大きな噴火が発生している。最終噴火は有史以前であり、歴史記録上の噴火はない。西山は数千年前から活動を始めた新しい火山で、山頂に直径約500メートルの火口がある。1487年(文明19年/長享元年)12月、1518年(永正15年)2月、1522年(大永2年) - 1523年(大永3年)、1605年(慶長10年)10月、1606年(慶長11年)1月に噴火が記録されており、特に1606年の記録には、海底噴火によって火山島ができたとされる。なお、最後の噴火の記録については1605年といわれたり1606年といわれたり、多くの資料において統一がされておらず、また八丈島誌などには最後の噴火を富士山宝永噴火の1707年(宝永4年)とする説もある。ただしこれについては伝聞などによる記録の為、信憑性に疑問が残されている。
東山と西山の間にある低地には、20以上の側火山(寄生火山)があり、海岸近くには神止山などのマグマ水蒸気爆発による火砕丘がある。17世紀までに数回活動した記録があるが、規模は大きくなかったと考えられている[要出典]。
八丈島 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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気候は暖流である黒潮の影響を受け、ケッペンの気候区分で言う所の温暖湿潤気候(Cfa)[3]となっている。1991年〜2020年の平年値では年平均気温は18.0℃となっており、高温多湿。年間を通して風が強く、雨が多いのが特徴である。そのため、「常春の島」とも言われている[誰によって?]。なお、雪は全く降らないというわけではなく、数年に一度の頻度で降る[4]。
伊豆・小笠原諸島の他の島々と同様に、土着の陸棲・半陸棲の哺乳類は限定されており、絶滅したとされるニホンアシカ[5][6]をのぞけばコウモリ類のみであり、ニホンイタチ、クマネズミ、キョンが代表的な外来生物である[7]。
一方で、南方の島嶼である事もあって鳥類[8]や昆虫や海洋生物などの多様性に優れており、多数の魚類[9]や甲殻類[10]、アオウミガメやアカウミガメ[11]などが見られる他にも、御蔵島等からミナミハンドウイルカが八丈島にも来遊する事が度々ある[7]。
2015年(平成27年)ごろからは11月~4月の期間は周辺海域にザトウクジラが出現するようになり、小笠原諸島よりも気軽に行けて陸上からも容易に観察できるホエールウオッチングの場として注目されており[注釈 6]、2023年に公開された『名探偵コナン 黒鉄の魚影』でも題材として取り扱われている。また、東京海洋大学などの研究チームもシーズンになると島に訪れ、漁船などを用いて分布調査を行っている[14]。一方、三宅島でも2018年(平成30年)ごろからザトウクジラが安定して観察できる様になっている[15]。
2020年(令和2年)、例年になく夏季の海水温が高い状態が続き、底土海水浴場を代表とするサンゴ礁が白化する事態が起きた。それから約半年の2021年(令和3年)5月現在、徐々に回復に向かっている様子が現地ダイバーによって確認されている。
考古学的には、縄文時代に人が住んでいたことが、湯浜遺跡や倉輪遺跡から確認されている[16]。
平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害した伝説が残っている[注釈 7]。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに西軍石田三成方に属した宇喜多秀家がこの島に流される。
最後の流人(最後まで流刑状態にあった人物)は北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男、近藤富蔵である。1826年(文政9年)に殺人を犯して八丈島に遠島となり50年以上もの間、島で流人としての日々を送った末、1880年(明治13年)にようやく明治政府により赦免された[要出典]。近藤が流人生活の間に記した『八丈実記』(原字:八丈實記)は、島の研究の資料として東京都文化財に指定されている。しかしこの八丈実記には、検証してみると島に残されている他の資料との相違点がいくつもあり、島の歴史を語る資料としては不適切であると唱える者もいる[17]。
また、吉村昭の『漂流』は、野村長平ら鳥島への漂着者を題材にした小説だが、彼らが青ヶ島を経由して生還した地が八丈島であり、5か村4000戸が地役人を中心に統治され、本土との連絡も緊密な様子が終盤に描写されている。
江戸時代には、たびたび飢饉にさらされ、特に明和年間の大飢饉では島全体で多くの餓死者が出たが、その中でも中之郷村内では実に733人の餓死者が発生、生き残ったのは400人足らずであった[要出典]。この悲劇を伝える「明和飢饉餓死者冥福之碑」が中之郷地区に存在する。
1947年(昭和22年)7月、当時の都知事であった安井誠一郎が島内を視察。山羊の導入や開墾を伴う入植計画、サメ漁などの産業振興を提案。島は今に東京の宝島になるとして持ち上げた[18]。
集落間で水争いや集落の境界の揉め事を竹槍で争う事件も起きた。この対立は明治時代以降も三根村と大賀郷村との間に遺恨として残り、太平洋戦争の後も高校[注釈 8]の誘致や中学校の建設などで競合が起こった。1954年(昭和29年)、昭和の大合併の中、先行して三根村が八丈村へ合流すると、大賀郷村は最後まで合流に抵抗を示した[19]。
戦後の八丈島は観光産業が発達し、1960年代には海外旅行[注釈 9]と比較して安価であることと温和な気候から、首都圏からの新婚旅行先としても人気が高かった。当時の八丈島は庶民の間で「日本のハワイ」と呼ばれていた。海外旅行の制限が廃止され、海外旅行が安価になり、本物のハワイが身近になり、沖縄も日本に返還された1970年代以降、観光客の入込数は減少傾向にある。ただし現在でも、観光が島にとって重要産業であることに変わりはない。島には廃墟化した当時の巨大ホテルが取り壊されずに残っており、当時の繁栄がうかがえる。
現在営業している主要なホテルとしては「リードパークリゾート八丈島」「八丈ビューホテル」「リゾート・シーピロス」、民宿として「船見荘」「ガーデン荘」などがある。釣り人用の宿として「アサギク」などもある。
1971年(昭和46年)、八丈富士を周回する都道[注釈 10]の拡幅が、用地を地元が無償提供する条件で計画された。用地交渉にあたって地権者を調査すると1960年代のうちに土地の多くが売り払われており、400人の地権者の7割近くが島外者であったとの記録が残る[20]。
1972年(昭和47年)、島外の業者の手によりストリップ劇場が建設され始めたことが発覚し[注釈 11]、島内では市民団体「八丈島の明るい環境を守る会」が、島外では「東京都地域婦人団体連盟」などが強い反対運動を展開した。八丈町役場側も水道水の給水を拒否する条例案を準備して対抗した[21][22]。翌年八丈町が劇場敷地(2,097㎡)・寺山山林(501㎡)・建物(325㎡)を5,300万円で買収し、建物は一部改造し三根老人福祉館として開館した[23]。
かつては映画館やゲームセンターなど多数の娯楽施設も存在した。現在もパチンコ店、ボウリング場[注釈 12]、カラオケ店、ゴルフ場などが細々と営業を続けているが、何れも本州と比較して古びており、スケールも小さいものばかりである。また、現代に至るまで全日食チェーンやヤマト運輸を除いて、本州にあるような大手企業による店舗やサービスが一切無く、コンビニもファストフードもない。そのため、夜間営業を行わない個人営業の店で買い物をするしかなく、深夜には買い物自体が出来ない状況となっている[注釈 13]。大手企業によるサービスが無いため生活面で不便な反面、多くの店舗が島民による自営業として運営されている。
太平洋戦争の際には、連合軍の南方からの侵攻に備えるべく、小笠原諸島が陥落した際の次なる防衛拠点とされていた。1945年(昭和20年)春時点では民間人口を大きく上回る大日本帝国陸軍・海軍の守備隊が配置されていた[24]。以下はその一覧である[25]。
東日本では唯一の回天基地も造られた。島の主要港である底土港の近くにはその回天の格納壕が残されており、内部には戦後の爆破処理による回天本体の破片が今も壁に突き刺さっている。
1944年(昭和19年)7月以降、島民の本土疎開が進められて、人口の7割にあたる5,853人が、外国人疎開地に指定されていた長野県軽井沢町などに疎開したが、その途中で疎開船「東光丸」がアメリカ海軍の潜水艦「シードッグ」に撃沈されて、島民約60人を含む149人が死亡する事件も起きた。この事件をきっかけに「どうせ死ぬのなら故郷の島で」と、内地への疎開を拒む島民が数多くいたといわれている。島は空襲にもしばしばさらされ、滑走路や周辺施設への機銃掃射や爆弾投下により、守備隊側の戦死は数十名生じ、長楽寺への直撃弾など民間人の犠牲者として、11人が死傷した[26]。
終戦後の1945年(昭和20年)8月24日、野戦重砲兵部隊の藤井大隊長の総指揮のもと、島のあらゆる箇所の砲台で実弾を用いて「砲兵隊集中射撃」として大規模な射撃演習を行った。三原山腹から八丈富士山麓に向かって行われ、轟々たる砲弾の発射音・飛行音・炸裂音は真昼の夏空にこだまして、敗戦のうっぷんを晴らさんとするかのようであったという。人的損害があっては困るので、射撃方向には相当な気を使ったという。尚、島のめならべ(女性)たちは「せめてこの砲撃を、一度でも敵に向かって撃たせてやりたかった」と嘆いたという[要出典]。
結局八丈島での地上戦闘は起こらなかったものの、「防衛道路」や「鉄壁山」などに防衛拠点化の跡が残っている。また、硫黄島の戦いの教訓を生かし、より強固で複雑に作られた洞窟陣地や、司令部壕が三原山や神止山など島の至るところに現在も残されており、島の小学校や中学校では平和学習の一環として、壕の入り口を見学することがある。過去には洞窟陣地内で転落による死亡事故も発生していることや、大半が私有地であるため、無断の立ち入りは禁止されている[要出典]。
上代東国方言の名残を残している独自の八丈方言を使用している。八丈島の方言は流人によって伝えられたものも多くあるが、くに(内地)から来た殿上人、宇喜多秀家ら主従の影響も強く残る。その多くは公家言葉を偲ばせるが、旧所領であった岡山の方言に通ずるものも少なくない。2009年(平成21年)、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)から危機に瀕する言語と指定された。
行政区分は東京都八丈町である。自動車の登録は品川ナンバーである。
現在、本土との往来の手段として羽田空港からの航空路、もしくは竹芝桟橋からの海路となっている。いずれも毎日運航しているが、台風などの荒天により連続して欠航することもある。
全日本空輸 (ANA)が羽田空港との直行便を1日3便運航している。空港は山と山に挟まれた地形にあるため、風の影響を受けやすく霧も発生しやすいため、欠航や条件付出航しても引き返すということが発生する。
大島空港経由便は利用低迷を理由に2009年(平成21年)9月末で廃止され、羽田との便は1便減便された形となった。 2020年(令和2年)現在の使用機材はボーイング737-700,800型やエアバスA320といった単通路機である。かつては、エアーニッポンがYS-11・ボーイング737-200, 400, 500型機を運航していた。なお、ボーイング737-400型機の愛称はアイランドドルフィンで、八丈島路線のためにリース導入された機体であった。機体側面にイルカが描かれているのが特徴だった。
また、2005年(平成17年)10月より「東京国際空港線の運賃1割値下げ」を公約した八丈町長の浅沼道徳の念願が叶い、同年上期には片道あたり12,250~13,050円[27]だった運賃が条件付きで片道あたり10,200円[28]まで引き下げられた。条件は、半年間で1万人以上の利用者増というものであったが、これを達成し2006年(平成18年)4月以降も値下げ継続となった。その後は運賃の改定を繰り返して、2017年(平成25年)春ダイヤの時点では、往復運賃の片道あたりの運賃は14,900~15,000円[29]となっている。
2017年(平成25年)9月1日からは、有人国境離島法による航空運賃の軽減措置が実施されることとなり、2017年春ダイヤからは往復運賃の片道あたりの運賃は14,900~15,000円であるところが、八丈町に住民登録をしている場合は片道13,790円[30]まで軽減されることとなった。通称「アイきっぷ」である。
2020年の新型コロナウイルス感染拡大に伴う減便の影響も受けており、一時期は3便あるうちの2つの便が欠航という時期もあった。これにより、郵便や宅配便の配送日数にも影響が出た。
伊豆諸島を結ぶヘリコミューターである東京愛らんどシャトルの拠点となっており、青ヶ島および御蔵島への路線が運航されている。
東海汽船が貨客船橘丸やさるびあ丸を、伊豆七島海運が貨物船を定期運航している。主に島北東部の底土港へ着岸するが、時化で使用できない時は南西部の八重根港へ着岸する事もある[31][32]。
竹芝桟橋と小笠原諸島の父島間にテクノスーパーライナーが就航した際に、竹芝 - 八丈島航路に就いていたかめりあ丸に代わりおがさわら丸を転用する計画があった。しかし折からの原油価格高騰を受け小笠原航路へのテクノスーパーライナー導入計画そのものが2005年(平成17年)に廃止され、更に東京都が代替策として父島での空港建設の検討を進める事となり、おがさわら丸の八丈島航路転用計画は実質頓挫。2014年にかめりあ丸に代わり橘丸が就航し、おがさわら丸も2016年に3代目に置き換えられた。
温泉施設も多く入浴料も安いため、温泉目的で訪れる旅行客も多い。
火山島のため、溶岩を主体とした荒々しい岩場の海岸が多く、砂浜の海岸は少ない。唯一砂浜がある底土海水浴場が最も人気であり、他は監視員すら居らず閑散としている。
離島が舞台になっている映画やドラマのロケ地として使われることがたびたびあり、主な作品に、映画『処刑の島』、『サイレン 〜FORBIDDEN SIREN〜』、『バトル・ロワイアル』、『トリック劇場版2』、『るにん』、『今日も嫌がらせ弁当』、CMに『ペプシコーラ』桃太郎篇、『乳酸菌ショコラ』などがある。
作曲家の團伊玖磨は、この島の風土を気に入り、1963年(昭和38年)に別荘(一度倒壊して、現存するものは2度目に建てられたものである)を建設し、毎年長期間に渡り滞在していた。八丈島での出来事は、連載随筆『パイプのけむり』などで記され、広く知られている。没後も團の名を被せたコンサートが開かれるなど、八丈島との縁は深い。
盆踊りの「高速マイム・マイム」が観光客を呼び込んでいる[33]。これは末吉地区における盆踊りの曲目で、フォークダンスの「マイム・マイム」を段々テンポが速くなるバンド演奏の電子音楽で踊るものである[34]。
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