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日本の東京都にある、伊豆諸島に属する無人島 ウィキペディアから
鳥島(とりしま)は、伊豆諸島の島(無人島)。全島が国の天然記念物(天然保護区域)に指定されている(後述を参照)。特別天然記念物アホウドリの生息地としても有名である。他の「鳥島」と区別して、特に伊豆鳥島とも呼ばれる[1]。
2020年10月1日時点で東京都に属し、都の出先機関である東京都八丈支庁の所管であるが、所属市町村が未定であり[2]、本籍を置くことはできない。
東京の南[3]、都庁から582km[4]、須美寿島の南南東約110km、孀婦岩の北約76kmに位置する。ほぼ円形に近い二重式成層火山島であり、日本の気象庁においては火山活動度ランクAの活火山に指定されている。島の北方には、鳥島カルデラとよばれる海底火山が存在し、鳥島はその海底カルデラの南縁に位置している。
最高点は硫黄山(394m)。現在は無人島であるが、明治時代から戦前にかけては人が住んでいた時期もあった[5]。現在でも島の西側には、1965年の火山活動による群発地震で閉鎖された気象庁鳥島気象観測所の建物跡が残っており、山階鳥類研究所が島に滞在する調査員の宿泊所として、地震計記録室だった建物を利用している[6][7]。
鳥島は、東京府が1897年8月に小笠原島の付属と定め、1901年4月に八丈島の付属と定めた。1980年代に八丈町が先住権・登記簿を口実に島の同町への編入を東京都に申し立てると、青ヶ島村も島からの距離の近さを訴えこれに反発した[5]。当時の自治省(現・総務省)に裁定が委ねられるも決着が付かず、2020年時点で所属町村は未定の状態である。このため、鳥島には本籍を置くことができない[8]。現在は東京都が直轄し、都の出先機関である東京都八丈支庁が管理している[9]。
鳥島は噴火の影響により植生遷移の初期段階にあり、植物相は貧弱で、内陸では北西部の斜面にイソギクやラセイタソウなどの草本類が、海岸にはハマゴウやガクアジサイが生育するだけである。一部人間が持ち込んだクロマツ[10]やリュウゼツラン、アズマザサが自生している。
鳥島はアホウドリ(特別天然記念物)などの海鳥の繁殖地として有名で、かつては鳥が一斉に飛び立つと島全体が浮き上がるように見えたと比喩されるほど多くの海鳥がいた。そのため、1930年(昭和5年)の山階鳥類研究所の創設者山階芳麿の調査を初めとして、さまざまな学術調査が行われてきた。しかし、アホウドリは羽毛採取・食肉の目的で、八丈島出身の実業家玉置半右衛門の手によって1887年(明治20年)から捕獲が始まり、捕獲が禁止される1933年(昭和8年)まで推定約1,000万羽が乱獲され、禁止された当時は50羽ほどしか生息していなかった[10]。
1949年(昭和24年)のアメリカ人研究者オースチンの調査では絶滅の可能性も指摘されたが、1952年(昭和27年)に気象庁鳥島気象観測所所長の山本正司が再発見した。以後観測所職員らにより保護プロジェクトが行われ、1965年(昭和40年)の群発地震による観測所の閉鎖まで続いた[11]。
1981年(昭和56年)より環境庁(現環境省)によるアホウドリの生息状況調査および繁殖地の維持・保全事業がおこなわれており、現在でも年数回の上陸調査が実施されている。1994年(平成6年)の調査で約159つがいが確認されている[10]。
またオーストンウミツバメも数万から十数万羽規模で繁殖していたが、人間とともに移入されたネコ(現在は死滅)とクマネズミによる捕食で激減し、特に1965年に無人島化してからは、残ったクマネズミがコロニーを消滅させてしまった。現在も多数生息するクマネズミを排除することは、鳥島の自然回復のポイントとなっている。
その他にはカンムリウミスズメやクロアシアホウドリなどの海鳥、猛禽類のチョウゲンボウ、イソヒヨドリやウグイスなどの鳥類が確認されているが、両生類や爬虫類は確認されていない[10]。
沿岸にはザトウクジラやイルカなどの海洋生物が回遊する[12]。
これらの生物相の特徴に加え、比較的最近の火山現象が観察できることから植物・動物・地質鉱物の全ての点において貴重であると判断されたため、1965年(昭和40年)5月10日に国の天然記念物[13]の「天然保護区域」として地域指定された。また、希少な海鳥類の生息地として保護する目的で、1954年(昭和29年)11月1日に国指定鳥島鳥獣保護区[14](希少鳥獣生息地)に指定されている(面積453ha)。
1902年の噴火 | |
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火山 | 鳥島 |
年月日 | 1902年8月 |
場所 | 日本 東京府 |
影響 | 死者125人[15] |
プロジェクト:地球科学、プロジェクト:災害 |
鳥島は第四紀に活発な活動をしている活火山であり、記録に残っているものだけでも1871年、1902年、1939年、1998年、2002年に噴火が確認されている。1902年8月7日から9日の大噴火では、島民125人が死亡した[15]。
江戸時代には多くの船が鳥島に漂着している。吉村昭によると、この島に漂着し脱出できた者の記録は15例以上ある。たとえば土佐国の船乗り長平(野村長平)はアホウドリで食いつないで12年間生活し、後から漂着した者達と一緒に船を造って青ヶ島に脱出した。また、ジョン万次郎ら5人が漂着したのも鳥島であるが、彼らは約5ヶ月でアメリカの捕鯨船に救助されている[16]。後の文久3年に万次郎らが「一番丸」で父島から捕鯨に出漁した際、鳥島に上陸して領有を示す高札を建てた[17]。
1887年、玉置半右衛門が「鳥島拝借並ニ定期船御寄島願」を東京府に提出[18]。島の位置未確定のため借地許可は下りなかったが、船の寄港は認められた[18]。同年、玉置は南洋探検に向かう「明治丸」に乗り、鳥島に上陸[18]。島でのアホウドリ捕獲を開始した[19]。1888年、玉置は「鳥島拝借御願書」を東京府に提出[20]。同年、無償での10年間の借地が許可された[21]。その後の15年間で600万羽のアホウドリが捕獲された[21]。1898年には借地は10年間延長され、1902年には島の土地3万9325坪が196円63銭で玉置に払い下げられた[22]。
1902年8月、鳥島が噴火し、島にいた出稼ぎ労働者125人全員が死亡した[23]。この噴火の後もアホウドリ捕獲は続けられたが、大正になると無人島に戻った[24]。
定期便はなく、交通手段は八丈島から船のチャーターもしくは、ヘリコプターのみである。島全域が天然記念物に指定されているため、東京都より許可を得た者のみが上陸できる。
1902年の噴火で、島北部に兵庫湾と呼ばれるマールができ、大正から昭和初期にかけて港湾として使用されていたが、1939年の噴火で埋まってしまった。島の西岸の初寝崎には、かつて気象庁が整備したA港とB港があるが、波の浸食により、僅かに一部が残るのみであり、接岸はゴムボートのみ可能である。島の周囲は暗礁が多く、近づきすぎて座礁する船も少なくない[25][26]。
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