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戯作 ウィキペディアから
『椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)は、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本。文化4年(1807年)から同8年(1811年)にかけて刊行。全5編29冊[1]。版元は平林庄五郎と文刻堂西村源六[2]。
『保元物語』に登場する強弓の武将鎮西八郎為朝(ちんぜい はちろう ためとも)と琉球王朝開闢の秘史を描く、勧善懲悪の伝奇物語であり、『南総里見八犬伝』とならぶ馬琴の代表作である。
馬琴の史伝物読本の初作[2]。物語は日本の物語と琉球の物語に区分でき[3]、鎮西八郎を称した源為朝の活躍を『保元物語』にほぼ忠実に描いた前篇・後篇と、琉球に渡った為朝が琉球王国を再建(為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという伝説がある[4])するくだりを創作した続篇・拾遺・残篇からなる。
そのあらすじは、九州に下った弓の名人源為朝は八町礫紀平治を家来とし、阿曾忠国の娘白縫の婿となるが、保元の乱に破れて大島に流される[2]。大島を抜け出した為朝は兵を挙げるが、海上で暴風雨に遭い、琉球に漂着する[2]。琉球では尚寧王の姫忠婦君が利勇や曚雲と図って、王女寧王女を陥れようとしていた[2]。為朝は寧王女を助け、琉球を平定するというものである[2]。
日本史のなかでも悲劇の英雄の一人に数えられる源為朝に脚光をあて、その英雄流転譚を琉球王国建国にまつわる伝承にからめた後編は、そのスケールの大きさと展開力で好評を博した。
文化4年(1807年)にまず『前篇』が出版され、以後足掛け4年をかけて『後篇』、『続篇』、『拾遺』、『残篇』が出版されて、全5篇・29冊で完結。当初は前篇と後篇の全12巻で完結予定だったが[5][1]、反響が予想以上に大きかったことで馬琴の筆が伸び、完結も延期を繰り返した。
正式には「鎮西八郎為朝外伝」の角書きが付いて『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』。
『椿説弓張月』の「椿説」は「ちんせつ」と読む。意味としては「珍説」と同じで、珍しい説の意味であり[3]、九州の鎮西にも通じる[6]。「弓張月」は主人公が弓の名手であるから名付けられた[3]。「為朝外伝」は正史以外の伝記を意味し、本作の内容が史実離れしていることを標榜している[3]。
「説」という字は、「遊説」を「ゆうぜい」と読むように、「ぜい」と読むこともできる。したがって「椿説」は、「ちんぜい」という読みが可能で、この「ちんぜい」が、読みが同じ「ちんぜい」の「鎮西」こと鎮西八郎為朝に掛かっている。これは歌舞伎の外題で多用される、題名の中に主人公の名を暗示する文字や音を掛詞として織り込む手法と同じで、このため古くから『椿説弓張月』は歌舞伎の外題風に「ちんぜい ゆみはりづき」と読まれることも多かった[要出典]。
『弓張月』の典拠は多岐多様にわたるが、ここでは代表的なものをいくつか挙げるにとどめる。
本作は庶民から絶大な支持を得て、商業的に大成功を収め、馬琴の読本作者としての地位を確たるものとした[5]。『為朝一代記』『源氏雲弦月』『弓張月春宵栄』といった合巻をはじめ[3]、錦絵や双六の題材となるなど、幅広い人気を集めた[2]。本作の次に書いたのが『南総里見八犬伝』で、今日ではこちらの方が有名になっているが、当時は逆だった。[要出典]
馬琴の『椿説弓張月』刊行中の文化5年10月に、まず浄瑠璃『鎮西八郎誉弓勢』として、同年11月には近松徳三作の歌舞伎『島巡弓張月』として演じられたほか[9]、1853年(嘉永6年)、三代目瀬川如皐作『与話情浮名横櫛』劇中、主人公与三郎の夢という演出による常磐津の所作事『嶋廻色為朝』、さらに明治14年に河竹新七 (3代目)により『弓張月源家鏑箭』が初演されるなどしたが[10]、一篇のまとまったストーリーとして劇化されたのは戦後昭和の1969年(昭和44年)11月5日に東京国立劇場で初演の三島由紀夫作『椿説弓張月』全3幕8場である[11]。
三島台本の活字発表は雑誌『海』同年11月号でなされ、11月25日には中央公論社より限定版で、歌舞伎戯曲『椿説弓張月』が出版された。この作品は三島の書いた最後の歌舞伎であり、最後の舞台作品となった[12]。脚本のほか、演技、美術、音楽などの演出も自ら手掛けた[13][14]。
似非近代化した当時の歌舞伎に失望していた三島が、古典的・伝統的な義太夫狂言の様式に構成したルネサンス的な創作歌舞伎である[11]。初演時・配役も、源為朝に八代目松本幸四郎、阿公・崇徳院に二代目中村雁治郎、紀平治に八代目市川中車、高間太郎に三代目市川猿之助と一流の役者を配し、白縫姫には三島の肝煎で当時まだ無名に近かった19歳の五代目坂東玉三郎が抜擢された。玉三郎はこの舞台が絶賛され、以後の盛名に至る出世作となった。なお、為朝の役について三島は、市川染五郎(6代目)を強く希望していたが、染五郎のスケジュールが空かなかったため、父・松本幸四郎になった[15]
のち文楽で上演する話が進められたが、三島の死で脚本が未完成となったのを、演出を担当していた山田庄一らにより補筆され1971年(昭和46年)11月に初演された[16]。
当時演出助手を務めた織田紘二が三島の言葉をメモした制作ノートによると、テーマは「太い男の流れる姿」であるとし、挫折と行動を繰り返し続けた「未完の英雄」為朝を自らの理想の英雄像として仮託し、「為朝の孤忠」を主題とした[11][14][17]。三島は、「日本のオデッセイを作りたい。日本のオデッセイは為朝だ」と腹案を織田に伝えたとされる[15]。為朝の騎乗する白馬が海の中から出現して飛翔する演出に、三島は最後までこだわり続けたという[11]。
歌舞伎は過去に遡るほどよいとする三島は古典様式を重んじ、擬古文で書いた擬古典歌舞伎にこだわり、(河竹黙阿弥が活躍し歌舞伎の様式を確立した)「明治初年の作者に戻り、歌舞伎の様式の中で新しい形式を作りたい」とスタッフ会議で並々ならぬ意欲を述べたという[14]。音楽には、当時としては異例だった文楽の義太夫を入れることにし、鶴澤燕三に作曲を依頼、文楽座を初めて歌舞伎に出演させた[14][13]。また、狂言作者は本読みを自分で行ない皆に聞かせるという習慣に倣って、三島も本読みを行なったところ、すべての役を巧みに演じ分ける三島のうまさに驚いたスタッフの勧めで録音することになり、杉並公会堂で8月26日と27日の2日間かけて録音しレコードを制作、役者顔寄せの日にそれを聞かせた[14][18]。ポスターを手掛けた横尾忠則のジャケット装で日本コロムビアから『椿説弓張月』(上の巻)として発売もされた[14][19]。
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