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日本の舞台照明家、照明技術者 ウィキペディアから
吉井 澄雄(よしい すみお、1933年(昭和8年)1月24日[1] - )は、日本の舞台照明家。照明技術者。劇場コンサルタント。
東京出身。東京都立石神井高等学校在学中から演劇部で活動していた[2]。その後、劇団方舟に参加し、初めて仕事として照明を手がけた[3]。1950年(昭和25年)遠山照明研究所に入り、遠山静雄に師事する[4]。東京学芸大学在学中の1953年(昭和28年)慶應義塾高等学校演劇部の浅利慶太、日下武史ら[5]と出会い、劇団四季を結成、照明を担当(大学は中退)[1]。1954年(昭和29年)東京芝・中労委会館での劇団四季旗揚げ公演、ジャン・アヌイ作『アルデール又はせむしの聖女』ではじめて照明を担当[1][5]。以来、演劇、オペラ、ミュージカル、舞踊の照明プランナーとして、日本の第一人者として活躍。1955年(昭和30年)株式会社ラジオ東京(現:東京放送)に入社。テレビジョン技術部勤務。以後6年勤務する(……テレビの照明をしていていちばん学んだことは、人間の顔の表情に与える光の効果ということだという)[5]。1961年(昭和36年)浅利の日生劇場取締役就任とともに日生劇場に入社、技術部長となる[1][5]。1963年(昭和38年)日生劇場のこけら落としとして招かれたベルリン・ドイツ・オペラの照明を経験。1964年(昭和39年)から日生劇場と二期会を中心に、モーツァルトとワーグナーのほとんど全作品を手掛け、日本におけるオペラ照明の技法を確立した[5]。日生劇場においては、その後制作部長、ビデオ事業部長を歴任[6]。科学技術振興財団(現:テレビ東京)演出部長[6]。
1970年(昭和45年)金森馨、小谷喬之助、鈴木敬介、三谷礼二、若杉弘等とともに第二国立劇場についての私的な研究会「劇場会議」を結成[5]。
1973年(昭和48年)文化庁派遣在外研修員として西ドイツ、英国へ留学[6]。1974年(昭和49年)に帰国後フリーとなる。1997年(平成9年)の新国立劇場他多くの劇場の建設にかかわり、劇場設備全般の計画、設計に関与する。浅利慶太、市川猿之助、蜷川幸雄、鈴木敬介、石井ふく子他、日本を代表する多くの演出家による作品がある[5]。昭和音楽大学オペラ情報センターのオペラ公演に限定しても、200余本以上の作品の記録がある[7]。
1985年(昭和60年)ミラノ・スカラ座でプッチーニ『蝶々夫人』[1]、パリ・オペラ座でマスネ『サンドリョン』[5]、ミュンヘン・バイエルン国立歌劇場リヒャルト・シュトラウス『影のない女』[5]で照明デザインをしたのをはじめとして、国際的にも活躍している[1]。
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