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『拾遺和歌集』(しゅういわかしゅう)は、『古今和歌集』『後撰和歌集』に次ぐ第三番目の勅撰和歌集で[1]、いわゆる「三代集」の最後にあたる。一条天皇の代、寛弘2年(1005年)から寬弘4年の間の成立か[1]。
古来、花山院の親撰もしくは花山院が藤原長能・源道済に撰進させたといわれてきたが、確証はない[1]。花山天皇が退位した後、和歌趣味によって編まれた歌集であり[1]、勅撰集としての手続きなどは疎かにされた[1]。そのため、藤原公任撰と言われる私撰集『拾遺抄』がむしろ勅撰集として扱われた[1]。『拾遺和歌集』が勅撰集として認知されるのは、藤原定家『三代集之間事』以降である[1]。
成立事情が曖昧であり、古くは『拾遺和歌集』を精選したものが『拾遺抄』と位置づけられていたが[1]、この説が塙保己一によって否定され[1]、両作の比較検討から『拾遺抄』を増補して『拾遺和歌集』が成立したことが確実となった[1]。諸本としては、『拾遺抄』から異本『拾遺和歌集』が生まれ、さらに流布本『拾遺和歌集』が生まれたと推定される[1]。
流布本によれば、歌数は1351首、部立は春・夏・秋・冬・賀・別・物名・雑(上・下)・神楽歌・恋(5巻)・雑春・雑秋・雑賀・雑恋・哀傷の計20巻から成る[1]。雑春・雑秋・雑恋・哀傷といった特異な部立ては、『拾遺抄』の雑の部立てを細分化したためである[1]。
「拾遺」の名は前代の勅撰集に漏れた秀歌を拾い集める意である。収められた歌人は、紀貫之(113首)・柿本人麻呂(104首)・大中臣能宣(59首)・清原元輔(46首)・平兼盛(38首)などで、『万葉集』や『後撰和歌集』の時代の歌人が高く評価されている[1]。また、藤原輔相・藤原順・藤原好忠など独特な歌風を持つ人物や、和泉式部・斎宮女御・藤原道綱母・藤原公任などの当代歌人も登場する[1]。
『拾遺集』は当時の歌壇の流れに乗った平明優美な歌風で、賀歌・屏風歌・歌合など晴れの歌が多い[1]。特に恋歌が優れており、小倉百人一首に8首採られている。
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