Loading AI tools
ウィキペディアから
春原 五百枝(はるはら の いおえ)は、平安時代初期の公卿。当初五百枝王を名乗るが、春原朝臣姓を賜与され臣籍降下。志貴皇子の玄孫[注釈 1]。摂津大夫・市原王の子。官位は正三位・参議。
母が光仁天皇の皇女・能登内親王であったことから、桓武朝初頭の天応元年(781年)に皇孫(二世王)としての蔭位を受け、同母姉妹の五百井女王と共に无位から従四位下に直叙され、侍従に任官する。翌天応2年(782年)右兵衛督に任ぜられ、延暦3年(784年)には従四位上に昇叙された。しかし、延暦4年(785年)に藤原種継暗殺事件に巻き込まれて伊予国への流罪に処されている。
延暦21年(802年)伊予国の国府周辺に居住することを許され、延暦24年(805年)20年ぶりに赦免され帰京した。延暦25年(806年)3月の桓武天皇の崩御の直前、天皇の病床に召されて本位(従四位上)に復され、天皇の大葬では御装束司を務めるとともに誄も述べている[1]。同年4月には二世王に復すが、まもなく臣籍降下を上表して許され、春原朝臣姓を賜与された。平城朝では武蔵守を務めた。
嵯峨朝に入り、大同5年(810年)薬子の変終結後に讃岐守に任ぜられると、翌弘仁2年(811年)正四位下・宮内卿に叙任され、弘仁3年(812年)には従三位へと叙せられ公卿に列した。のち、弘仁5年(814年)右兵衛督、弘仁8年(817年)右衛門督と武官を歴任し、弘仁10年(819年)参議に昇進した。弘仁11年(820年)治部卿を兼ねた。
淳和朝では議政官として刑部卿・右京大夫・民部卿・中務卿を兼任し、天長5年(828年)正三位に至った。天長6年12月(830年1月)19日薨去。享年71。最終官位は参議中務卿正三位兼美濃守。
延暦4年(785年)五百枝王は藤原種継暗殺事件に巻き込まれて流罪に処されたが、この背景について以下の議論がある。
事件関係者の赦免時期について、大伴家持らが桓武天皇の崩御後だったの対して、五百枝王のみ崩御前だったが、これは天皇が直接王に対面してこれまでの経緯を謝罪をするためとの推測がある(木本好信)[2][7]。
注記のないものは『六国史』による。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.