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遠国に属する日本の令制国のひとつ ウィキペディアから
武蔵国(むさしのくに、旧字体:武藏國)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属し、現在の東京都と埼玉県及び神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。
「武蔵」の名の起源は諸説唱えられているものの、いずれの説も根拠となる資料に欠き定説となるには至っていない。
武蔵国造(无邪志国造)の祖先には身狭耳命(むさみみのみこと)がおり、武蔵国東部を支配したと考えられている。
本居宣長は『古事記伝』の中で「武蔵国は駿河・相模と共に佐斯国(さし-)と呼ばれ、後に佐斯上(さしがみ)下佐斯(しもざし)に分かれ、これが転訛し相模・武蔵となった」とし、賀茂真淵は『倭訓栞』に「身狭(むさ)国があり、のち身狭上(むさがみ)・身狭下(むさしも)に分かれて相模、武蔵となった」と唱えている。さらに近藤芳樹『陸路廼記』など「総国(ふさ-)の一部が分割され総上(ふさがみ)・総下(ふさしも)となり、それぞれ相模・武蔵となった」とする説もある。これらの説は武蔵国とのちの東海道の諸国の関わりを説く。
表記については、飛鳥京・藤原宮木簡に「无耶志国(むざし-)」と見え、7世紀頃までは「无射志」(むざし)や「牟射志」(むざし)と表記されていた記録も見つかっている[1]。他にも「牟佐志[2](むさし)」、「無邪志[3](むざし)」、「无邪志」、「胸刺」といった表記があるが、いずれも訓に字を当てたものと考えられている。
「武蔵」の表記は、その後、无邪志国(武蔵国東部)と知々夫国(武蔵国西部:秩父地方)とが合併し令制国としての武蔵国発足の頃に作られた。
もとは无邪志国造(胸刺国造を別個に考える説もある)と知々夫国造という2つあるいは3つの国造が存在した。6世紀には埼玉県行田市を本拠地とする笠原直が武蔵国造の乱に勝利し、その後に笠原直が国造を世襲することとなった。これらの国造の領域を合し7世紀に武蔵国が成立したとされる。大化元年(645年)に難波宮で大化の改新が行われ穂積咋などが東国国司に任じられ(武蔵国司も参照)、また持統天皇4年(690年)、朝廷は新羅からの亡命者で帰化した韓奈末許満ら12名を武蔵国に移した。大宝3年(703年)には、引田祖父が武蔵国守に任じられた。慶雲5年(708年)には、秩父郡で和銅(精錬の必要の無い自然銅)が発見されたため、朝廷は慶事としてこの年を「和銅」と改元した。
和銅3年(710年)頃に、武蔵国造の乱で献上された多氷屯倉内の現在の東京都府中市に国府が置かれた。これは、比較的早くから屯倉が設置され[8]、また交通・産業上の重要度を次第に増し始めた武蔵国南部の玉川中流域に面する[9]点でも選ばれたと考えられる。重要な港は東京湾に面する品川湊(目黒川河口)、浅草湊(隅田川河口)だった[注 4]。
武蔵国は北部が国造の本拠地(旧埼玉村付近)だったなど、歴史的に毛野国とも関係が深く、当初は同じく東山道に属した。東山道は畿内から毛野国を経て陸奥国へ至る幹線だった。しかし国府の府中はこの幹線から離れていたために、新田・足利から伸び武蔵国をほぼ縦断する支線である東山道武蔵路が設けられた。その後、武蔵国はその南部において相模国及び東京湾を経由する往来が次第に活発となり、宝亀2年(771年)10月27日に東海道に移管され、相模国・武蔵国・下総国を結ぶ陸路も整備された。神護景雲2年に全国から善行の者が選ばれ終身の税を免ぜられたが同様に宝亀3年に入間郡の人で矢田部黒麻呂が孝養を理由に終身の田租を免ぜられている。
平安時代の延長5年(927年)に完成した延喜式によると、官営による4つの勅旨牧が置かれた。これらは朝廷に毎年50頭の良馬を納めていた。その後も勅旨牧は増設された。中央から軍事貴族が派遣され、在庁官人が実務を担った。坂東平氏が関東一円に広がっていった。
抗争も少なくなく、天慶2年(939年)の源経基と武蔵武芝の争いは承平天慶の乱の遠因となったともいわれる。
また朝廷の政策により、朝鮮半島から多数の渡来人・難民が武蔵国に移住・入植、朝鮮人海賊の捕虜が左遷された記録が、少なくとも六国史が編纂された飛鳥時代から平安時代にかけては残っている。
その後、牧の管理者の中から秩父氏が起こり、小野姓横山党横山氏など武蔵七党と言われる同族的な武士団も生まれ割拠した。彼らは鎌倉幕府成立に貢献し、幕府を支えた。武蔵国府(東京都府中市)は重要な拠点として存在し、鎌倉街道が敷設された。東京都内は現在も主要道として存在し、神奈川側は旧道として存在。反面、鎌倉に政権が置かれると、地元の有力勢力は排除され、南関東(現神奈川県・千葉県中南部・東京都)は政権のお膝元(関東御分国)として再編されていった。周辺の国々では上総氏や三浦氏(和田氏)など有力在庁官人が滅亡した。武蔵国でも比企氏、畠山氏が滅ぼされた。秩父氏の力は衰え、北条氏得宗が実権を握った。
この情況は、室町、戦国期になっても変わらなかった。室町時代、鎌倉には鎌倉府が置かれた。河越氏は武蔵平一揆の乱で力を失い、武蔵国の実権は関東管領上杉氏が握った。武蔵国の中小武士団は武州南一揆や北一揆を結成した。武蔵国の守護職は関東管領の兼帯とされている[20]が、実態においては鎌倉公方を守護とする鎌倉府の御料所で関東管領は守護代に相当するあったとする評価[21]もある(古河公方の成立後は鎌倉府の御料所としての実態を喪失して名実ともに関東管領が守護職となるが)。
その後関東では室町幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府と関東管領の対立、扇谷上杉家と山内上杉家の対立、両上杉家と家宰(太田道灌や長尾景春)の対立が続いた。上杉禅秀の乱、永享の乱、享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱などの戦乱が起きた。伝統的な豪族層が支配する北関東から武蔵国の国府である東京都府中市を通って鎌倉に抜ける鎌倉街道はしばしば戦場になった。府中市の分倍河原の合戦等多くの歴史碑と文献が残っている。武蔵国は六浦や品川湊などの湊を抱え、西国や内陸部に広がる「内海」での交易を活発に行っていた。
戦国時代後期から後北条氏が大きな勢力を振るうようになった。1546年(天文15年)、河越城の戦いに勝利し覇権を確立した。その後拠点城として山城を、江戸城や河越城、岩付城、鉢形城、滝山城(後の八王子城)、小机城などに軍事拠点が置かれた。1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡。以後徳川家康が関東に移り、山城では無く天守閣付きの居城を築城した。
江戸幕府開府以後は徳川政権のお膝元となり、日本政治の中心地となった。また「武蔵三藩」と呼ばれる川越藩、忍藩、岩槻藩が置かれ江戸の防衛として重臣が配された。1594年(文禄3年)に利根川東遷事業が始まった。近世初期(1683年(天和3年)また一説によれば寛永年間(1624年-1645年))に、下総国葛飾郡からその一部、すなわち大落古利根川・隅田川から利根川(現在の権現堂川(行幸湖)・江戸川)までの地域をあわせ、武蔵国の葛飾郡とした。中川低地[22]・東京低地の開発が始まった。1653年(承応2年)には玉川上水が完成し、武蔵野台地の開拓が進んだ。
1853年(嘉永6年)、黒船来航によって江戸をはじめ、武蔵国沿岸は脅威に晒された。幕府や韮山代官所は危機感を強め、品川沖にお台場を建設し、多摩郡などで農兵隊を編成した。八王子千人同心に剣術・学問を教えるものがおり、近藤勇などが新撰組の中核を担った。1854年(嘉永7年)、武蔵国神奈川の横浜村で日米和親条約が締結された。
明治維新とそれに続く東京奠都によって首都機能が山城国の平安京(京都)から、武蔵国の東京(旧江戸)に遷された。
徳川家の重要地で在った事から、明治維新時の廃藩置県では行政区域が細分化され、首都であった国府の東京都府中市は何度か配置県替え、分割に遭ったが、最終的には江戸と共に東京都を構成し、武蔵国は大きく分けて東京都、埼玉県及び神奈川県(川崎市と横浜市の大部分)に分割された。
細かい管轄区域の変更は各郡の項目を参照。
全国で最も国府域の実態が明らかになっている[34]。 本格的に考古学の発掘手法を導入したうえ、恒久的な発掘調査体制をそなえ、今日の市街地と重複する遺跡を絶え間なく建築物開発前発掘調査を蓄えている。これら網羅的な調査は全国にも例がなく、武蔵国府の情報は、古代国府研究で大切な位置を占めている[35]。[注 5]。1750カ所を超える発掘調査により[36]4000棟を超える竪穴建物が発見されている[37]。国府城は下総国府や上野国府と異なり国分寺を取り囲んでいなかった[38]。国府関連遺跡は、東西約6.5㎞、南北約1.8㎞の範囲に及んでいる[39]。
一宮・三宮に関する議論
一宮以下については諸説ある。『神道集』以外の文献は以下の通り。
これらを基に、室町時代以降に氷川神社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかとする説や[51]、『延喜式神名帳』に「氷川神社:名神大社、小野神社:小社」とあることから、平安中期から氷川神社が上位にあるとする説がある。しかし現在のところ、氷川神社を一宮とする史料は中世までの間では見つかっていない。
総社の大國魂神社(六所宮)では、『神道集』(南北朝時代)に記載される「武州六大明神」を基にして、
を公式としている。
飛鳥時代
平安時代
武蔵国には22郡が置かれた。陸奥国の40郡に次いで多い。
江戸時代後期の文化・文政期に幕府湯島聖堂地理局による事業として編纂された地誌である『新編武蔵風土記稿』(1830年〈文政13年〉完成)では、当国内の各村を郡ごとに、さらに領という区画に分けて記載している。それらの領のうちの多くは複数の郡にまたがった広がりを持ち、郡とは別個に設けられた区画であると考えられる。
「領」という区画の成立過程や役割について新編武蔵風土記稿は特に記述しておらず、また、江戸時代を通じて実際の支配や行政の単位として用いられたこともないが、当国内の地域区分単位としては用いられていたようであり、川崎市の二ヶ領用水(稲毛領と川崎領にまたがる)のような用例がある。また、埼玉県の旧北足立郡域では、「指扇領辻」(さいたま市西区)・「南部領辻」(さいたま市緑区)、「指扇領別所」(さいたま市西区)、「平方領領家」(さいたま市西区、上尾市)、「安行領在家」(川口市)、「安行領根岸」(川口市)などのように同一郡内の村の同名回避のために領名を冠称したことに由来すると見られる町名が現在も用いられている。
以下、新編武蔵風土記稿に見られる領名を列挙し、各領に所属する町村数を郡ごとに記載する(町村数は新編武蔵風土記稿中、各郡の「郡図総説」による。また、領名・郡名の表記も新編武蔵風土記稿による)。
新編武蔵風土記稿では当国内のほとんどの町村が上記各領のいずれかにカテゴライズして記載されているが、「武蔵野新田」として領とは別個のグループにまとめられたり(多磨郡 40、新座郡 4、入間郡 19、高麗郡 19)、「領名未勘(不明)」として記載されているものも多数ある。
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